第5話 弱った君にー桜sideー
『……おまえだけに弾きたくなっちゃったんだよ』
あの時そう言った由紀は、優しい声とは裏腹に、すぐにでも泣き出しそうな顔をしていた。
「………」
俺はあの顔がずっと頭から離れない。もちろん、あの時の由紀の感情がわからなかったこともあるが、忘れられない理由は他にもある。
「放課後の王子、風邪でもひいたんかね」
昼休み。俺の机を半分ずつ使い向かい合って昼飯を食べていると、自分で作ったという女子力の高い弁当を食べながら納地がぽつりと言った。そう、最後に会ったあのコンクールから3日。由紀はずっと学校を休んでいて一度も会っていない。クラスも部活も違うので、先生にどうして休んでるのか聞くのもなんとなく気が引けて、結局何もできずにいる。
「…そうだな」
「担任にも聞いてないのか?おまえならすぐ行動しそうなのに」
「できたら悩んでねー、よ!」
購買で買った大好物のメンチカツパンを片手に、納地の弁当から綺麗な黄色の玉子焼きを奪って口に放り込んだ。
「あ!何すんだよ!」
「やっぱ担任の先生に聞いてみよっかなぁ」
怒る納地を無視して、つぶやく。
「俺の玉子焼きを食ったんだから、家にお見舞いに行くぐらいしてもらわねーとなあ…」
納地は弁当箱の玉子焼きがあった場所を恨めしそうに見つめながらつぶやく。
「いっ家!?とか、まだ早くない!?」
「なに想像してんだばーーか!普通に親いるだろ」
納地の紛らわしい言い方に男子高校生の健全な脳みそを持つ俺は、心臓の高鳴りを抑えるのに数分かかった。
「そういやさ、もうすぐ合唱祭じゃん」
「うん、それがどうかした?」
「王子は伴奏とかやんないの?」
「ああ!」
納地に言われてはじめて気づくなんてシャクだが、言われてみれば確かにそうだ。2才からやってると言っていたのに1年の時の合唱祭でも伴奏はしていなかった気がする。してたら、たぶん気づく。
「聞いてみよっかな…」
俺は少し考えたあと、決意を固め席を立った。
「納地~」
放課後。部活に行く途中の納地を呼び止め、今日は休むと伝えた。
「行くのか?」
「ああ!やっぱ風邪らしいぜ。先生にも頼まれちゃったし」
俺はついさっき由紀の担任からもらったいろいろなプリントをファイルから取り出して見せた。
「ふうん…ま、いってらっしゃい」
納地はあまり興味なさそうにチラッとだけプリントを見て、体育館へと歩き始めた。
「いってきまーす!」
俺は元気よく返事をしてプリントをカバンにしまい、納地を見送ろうと後ろ姿を見つめていると、いきなり振り返ってこっちを見てきた。
「な、なんだよ…?」
じっとこっちを見たまま何も言わない納地に痺れを切らして、俺から口を開く。すると、少し開いていた距離をゆっくり詰めてきて、もうこれ以上は近づけないくらい近い距離から納地が低い声でつぶやいた。
「襲うなよ」
すぐには納地の言うことが理解できず、頭の中で今聞こえた言葉を繰り返す。おそうなよ………襲うなよ!?
「はあ!!?」
理解した途端、怒りと恥ずかしさが込み上げてきて顔がカッと熱くなる。
「そんなことするはずないだろ!!」
「………」
納地は何も言わず疑うような目で数秒俺を睨むと、満足したのか体育館に向かって行った。俺はしばらく呆然と立ち尽くしたあと、顔の熱さをごまかすように走って由紀の家に向かった。
「…ここか?」
先生からもらった地図を頼りに一つの大きめの家にたどり着いた。表札には確かに『瀬乃』と書かれている。
ピンポーン
表札の隣のボタンを押すと、高いチャイムの音が鳴った。
「………」
しばらく待ってみるが全く反応がない。いない…わけないよな?
ピンポーン
もう一度チャイムを鳴らしてみても誰もドアを開けない。もしかして、親御さんが薬か食べ物なんかを買いに行ってて、由紀は寝てるからチャイムに気づいてないとか…?一旦帰ろうかと由紀の家に背を向けるが、プリントだけでもポストに入れた方がいいんじゃないかとも思えてくる。どうしようか考えていると、カチャッと鍵を開ける音がした。
「……おう?」
声のした方を見ると、顔を真っ赤にして少し呼吸が乱れ苦しそうな由紀が、ドアから顔を覗かせていた。
「由紀!大丈夫か!?」
急いで由紀に近寄り身体を支えようと触れると、とても熱い。ほぼ反射的に由紀のでこを触ってみる。詳しくはもちろんわからないが、37度以上は余裕でありそうだ。急いで由紀を抱きかかえて家に入る。
「由紀…親御さんは?」
「……しごと」
「薬は?飲んだ?」
「…のんでない」
「熱は測ったか!?」
「………んーん……寝てただけ…」
…………。俺の腕の中でぐったりしている由紀はもうほとんど目も開いていない。
「おまえ…なんか熱いね……」
「えっ!あ、ごめん、走ってきたから…」
「ぷっ…あはは!なんでだよ!」
由紀はいつになくゲラゲラ笑って涙まで流している。…いや、違う。泣いてるんだ。
「由紀………ごめん…一人にして、ごめん……」
「ふふっ…なんでおまえが謝るんだよ」
由紀は泣いていることを認めたくないのか、顔は笑ったままボロボロ涙をこぼしている。そんな由紀を見ていられず、気づいたときには由紀を強く抱きしめていた。
「な……」
由紀は驚いたようで、声が出ていない。ただ俺の肩には生温かい涙が流れ続けている。
「由紀…ごめん…」
「…うっ…だからぁ!なんでおまえが謝るんだって!…謝るなバカ!」
由紀は泣きながら叫ぶ。もう涙をごまかすこともできないほど泣きじゃくっている。俺はそんな由紀を抱きしめることしかできなかった。
「……………すー…すー…」
泣き疲れて静かな寝息を漏らしながら気持ちよさそうに眠っている由紀につられて、いつの間にか横になって抱き合いながら自分も寝てしまっていた。辺りはもう真っ暗だ。ふと時計を見ると、もう夜の9時を回っている。息子がこんな状態だってのに、親御さんはまだ帰ってこないのかよ…。
「よっと…」
俺は由紀の身体を、起こさないようにゆっくり持ち上げる。それにしても…俺の家と比べるとでかい家だ。
「あんま動くと由紀大変かな…」
2階に上がれる階段が目の前にあり、由紀の部屋はなんとなーく2階な気がするが、とりあえずすぐ隣のリビングに入りソファーに寝かせる。ソファーは寝づらいかな…でもこのソファーめちゃくちゃ触り心地いいしでかいから平気か…?
グー
「えっ!?」
何か音が聞こえて思わず身構えるが、その音は由紀の腹から聞こえてきていた。
グー
「…………」
こいつ、寝てただけって言ってたが、まさか朝から何も食ってないんじゃ……。勝手に悪いとは思いつつ緊急事態なので冷蔵庫を開けて…ドン引きした。
「なんもねぇ…」
思ったことがつい口をつく。近くの棚に皿や調味料がちらほら見えるだけで、冷蔵庫の中に食材らしいものはほとんどない。でも…由紀を置いてスーパーに行くのは気が引ける。とりあえず手当り次第探してみようとシンクの下の扉を開けてみる。
「お!米発見!」
俺は米を手に入れた!これでシンプルなお粥は作れるな。
「……ん」
完成したお粥をテーブルに置くと、ソファーで寝ていた由紀が目を開けた。
「おっ、起きたか?お粥作ったけど食えそう?」
目をこすりながら起き上がる由紀の背中に手を添えて助けつつ声をかける。思いっきりあくびをしている眠そうな由紀はふとテーブルの上を見ると、目をキラキラ輝かせた。
「いいにおい…」
「食う?」
「食う」
由紀は俺の質問に食い気味に答えると、レンゲを手に取ってお粥を食い始めた。
「!…なにこれ……」
「え…ま、まずい!?」
由紀が急に手を止めて静かにつぶやき、俺の心臓はバクバク言い始める。料理の腕には自信があったんだけど…。ていうほどの料理でもないがな!
「めちゃくちゃうまい!!」
そんな不安をよそに、由紀は笑顔でそう言うとまたお粥を口に運んだ。
「よかった!まあシンプルなお粥だけど…俺、普段料理するから実はちょっと自信あったんだ。由紀にうまいって言ってもらえる!隠し味にはなんと…」
「うまいうまい!」
隠し味には全然興味を示さず笑顔で食い続ける由紀につられて、俺も笑顔になって言う。
「下に兄妹がいてさ、かっわいんだよ。なんか作ってって言われるとつい断れなくてな…そんなことを繰り返してたらいろいろ作れるようになってたんだ」
「あーおまえ兄ちゃんって感じする」
「お?兄ちゃんて呼んでいいぞ?」
「ばーか!」
由紀は少し顔を赤くして怒ると、食べることに集中しはじめた。
「あ、そうだこれ…プリント!」
カバンからプリントを出してテーブルの上に置く。
「ん、ありがとう」
由紀はちらりとだけプリントを見てすぐにお粥に視線を戻した。俺は一番上にあるプリントを見る。合唱祭のプリントだ。
「もうすぐさ…合唱祭だな…」
さりげなく言ったつもりだったが、由紀はものすごく不機嫌そうに眉を寄せた。
「……弾かないよ?」
「えーっ!なんで!?」
「なんでって……学校の行事では弾く気ないし、もうピアノやめるって決めたし…」
「…俺のため……でも?」
まずい……すごく、性格悪いこと言った…。この前由紀が俺だけに弾きたいって言ってくれた、その言葉に付け込むような真似をしてしまった。
「…………」
由紀はすっかり黙ってしまった。すぐに謝って、冗談だよと笑って話題を変えなきゃ…と思っていたのに。
「俺、指揮者に立候補する。そしたら課題曲一緒に練習できるだろ?」
頭で考える暇もなく、勝手に口が動いていた。由紀は険しい顔をして、考えさせて、と一言だけ言った。
由紀はお粥をすっかり完食してから『寝る』と言って、階段を上って行った。やっぱり由紀の部屋は2階だったかと思い、どんな部屋か想像しながら食器を洗い終えると同時に、ガチャッと玄関の扉を開ける音がする。親御さんか…!反射的に時計を見ると、もう日をまたごうとしていた。俺は慌てて玄関へ急ぐ。挨拶しないと…そんで、ちゃんと見ててやってくださいって言わないと…。
「あ、こ、こんばんは!」
「っ…!?」
靴を脱ぐために下を向いていた綺麗な女の人が、声に気づき俺を見て口を開けて驚いている。この人が由紀のお母さんか…確かに由紀と似てるな。
「あ、あの俺、由紀…くんの友だちの、高草木桜といいます。プリントを届けたついでに、勝手ながら自分が看病させてもらいました」
最初こそ緊張したが、だんだん調子を取り戻す。
「え…と、余計なお世話かもしれませんが…せめて熱がひくまでは、由紀くんの側にいてくれませんか?」
「……………」
何時間かと思うほど長い沈黙のあと、お母さんが深いため息をついた。
「失礼ですけど、貴方に何がわかるっていうのかしら?」
鋭い目つきで俺を見て、怒った声でそう告げられた。
「え…」
「うちの家庭事情も知らないで好き勝手言わないでくださる?」
何も言えず立ちすくむ俺の横を通り過ぎようとしたお母さんの腕を、気づいたら掴んでいた。
「ちょっと…何するのよ!」
「確かに知りません!家庭の事情なんて……でも…それでも!放っておけないんです。お母さんであっても、許せないです」
「…………」
「…………」
「……………はぁ」
長い沈黙を破ったのは、お母さんの深いため息だった。
「あの子にこんな友達ができるとはね……でもね、私が仕事を休むわけにはいかないの。貴方が学校を休むのとはわけが違うのよ」
そう言って俺の手を払いのけ、また俺の横を通り過ぎようとする。俺は慌てて声を出す。
「で、でも!」
「風邪なんて、薬飲んで寝ていれば治るわ。もう遅いし帰ってくださる?」
俺の言葉を断ち切るようにそう言うと、鋭い目で玄関と俺を交互に見てきた。その有無を言わせない様子に、俺は仕方なく諦めて由紀の家を出た。
「大丈夫かな…由紀に電話……」
スマホを取り出して電話帳のさ行を探す。しかし、俺はそこで重大なことに気づいてしまった。
「あれ………俺、由紀の番号…」
知らない!!!
次の日の朝。朝練終わり、教室に向かう途中の廊下で、納地に聞いてみる。
「は?瀬乃の番号?」
「そんなの知るわけねーじゃん」という答えがくることはもちろん予想済みだ。でも万が一、億が一納地が知ってるなんて奇跡が起こるかもしれない。
「知ってるけど……なに、おまえまさか知らないの?」
うんうん、やっぱな。そうだと思ったよ。知ってるよねそりゃ………ん?
「ん!?い、今何て!?」
「だから、知ってるってばさ」
ずいっと俺が顔を寄せると、納地は反対に顔を遠ざける。なんで、なんで納地が知ってるんだよ……俺でさえ知らないってのに…。
「俺、去年瀬乃と同じクラスだったからよ」
俺の疑問を見透かしたように納地が続けた。
「お………教えろ、ください……」
ごにょごにょ小さい声でつぶやく。
「んんん~?聞こえないなぁ~」
納地はドヤ顔で楽しそうに俺を見ている。く、屈辱すぎる!
「お、教えてください!」
「んん?『納地様』が抜けてるぞ?」
相変わらず楽しそうに納地は時代遅れのガラケーを見せつけてくる。
「教えてください納地様!」
これも由紀に連絡するための試練…。頑張れ俺!
「は?教えるわけねーじゃん。人の番号勝手に教えるやつとかクソだろ」
なにしれっと真面目なコメントしてんだおまえ。
「いやいや、俺の頑張りは…」
「知らね」
こいつ…!納地に怒りが向くと同時に、納地の右手に握られた携帯を奪った。
「あ!?」
「へっへー!おまえの携帯から連絡すりゃ問題ねーだろ!」
もう少し抵抗するかと思いきや、あっさり奪い返そうとするのをやめて面倒臭そうに頭を掻いた。俺は納地が見ている前で「瀬乃由紀」を見つけて電話をかける。
「…ったく……電話代かかんだから、とっとと終わらせろよな」
ガラケーを耳に当てると、納地はそれだけ言って立ち去っていった。ありがとう納地…こういうとこ好きだぜ。あとでメンチカツパン奢ってやっからな…。心の中でそう言いながら納地の後ろ姿を見つめていると、由紀が通話ボタンを押したようで、電話が繋がった。
「…もしもし?」
「もしもし!由紀!俺だよ!」
「え、桜?これ納地の番号じゃ…」
「俺由紀の番号知らないから携帯借りた」
「そんなの…いつでも教えるのに……」
「えっ!いいの?」
「…え…いい、よそりゃ……友達だし………」
由紀は言ってから恥ずかしがっているようで、押し黙ってしまった。なんとなく「友達」認定されてしまったが、由紀がかわいいので許す。
「えっと…具合どうだ?今日も休みみたいだけど」
話題を変えて由紀と会話を続けようとしてみるが、相変わらず由紀は黙っている。赤面した由紀の顔が、すぐに頭に浮かんだ。
「………だ、だいぶ平気になった…昨日、桜が来てくれたからだと思う」
「えっ…」
由紀が珍しく素直だ。と思っていると予告なく通話が切れた。俺はその日の放課後、部活でめちゃくちゃ張り切っていたのは言うまでもない。
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