第4話 心にあるものー由紀sideー
「すー…………はー……………」
今ので何度目の深呼吸だろうか。何度も練習した課題曲の楽譜に目を通す。これも何度目だろう?でも他にすることがないのだから仕方ない。じっとしていられず、テーブルをピアノ代りに練習しようとして初めて、手が震えていることに気づく。もう何度も大勢の前でピアノを弾いている。それなのに、始まる前のこの緊張感にだけは、どうしたって勝てない。
「…………」
コンクールに出場する人々が着替えたりメイクをしたりしていて騒がしい。付き添いの親と楽しそうに会話なぞして余裕そうな奴もいる。ほとんどの人が付き添いの親がいる。俺にはもちろんいないけど…。
「…すー……はー…………」
心を落ち着かせるために深呼吸をしているのに、鼓動はどんどん速くなる。手の震えは止まるどころか、激しくなっていく気がする。不安だけが心を占めていて押しつぶされそうになる。目を閉じても、浮かんでくるのは舞台の上から見るたくさんの観客の姿…。どこにも逃げ場がない。
……ダメだ。ここにいるとどんどん気が滅入る。外に出よう。
「ねぇ!あなたが期待の高校生、瀬乃由紀でしょ?」
楽屋を出た途端、真っ赤なドレスに身を包んだ女が俺に話しかけてきた。背負った覚えのない肩書きを言われてすぐに反応できない。その間も女は話し続けてくる。
「へぇ~顔もいいのね。まあ私には敵わないけどね!あなたがどうしてもって言うなら弟子にしてあげてもいいわよ?」
「はぁ…じゃあ」
いくら楽屋に居たくないからって、こんな女と居るのもごめんだ。早々に切り上げて歩き出す。ぎゃあぎゃあ後ろで何か言っているが気にせず歩き続けた。
「由紀!」
急に名前を呼ばれ、びくっと肩を震わす。ゆっくり振り返るとそこには、笑顔で立っている…桜がいた。
「おどかしちゃったか?」
「桜…」
俺はいつの間にか外に出ていたようだ。新鮮な私服姿の桜を見て、ついホッとして顔が綻びる。
「なーんだよそんなに嬉しかったのか?」
やっぱり見逃さなかった桜がニヤニヤしながらからかってくる。
「うっせーな!そんなんじゃねぇよ」
「おっ言葉遣い悪くなってる悪くなってる」
「………」
「うそうそごめーんて!怒った?」
怒った振りをしても、やっぱり笑ってしまう。ついこの間までやっていたやりとりが、とても懐かしくて愛おしい。
「なんだ笑ってんじゃん。つーかいいの?こんなとこいて」
桜が不意に心配そうな声を出したので、俺は左手首の腕時計を確認した。
「あーもう行かなきゃだな」
慌てて楽屋に戻ろうと桜に背を向ける。そのとき、いきなり右腕を強く掴まれた。
「!?」
「震えてる」
桜の目線は俺の、小さく震える右手に注がれている。緊張しているのがバレたか!?即座に手を引っ込め振り払おうとしたが、びくともしない。バカにされる。そう思っていたのに…。
「大丈夫」
桜は優しく、それでいて力強くそう言った。一瞬、頭が真っ白になる。そして…
「俺…怖いんだ」
やっとわかった自分の思いがポロッと滑り落ちてしまった。それと同時に涙が流れそうになるのを必死で堪える。しまった…。弱音を吐くなんて俺らしくない。聞かれた…よな?少しの間沈黙が流れ、次の瞬間、俺は力強い桜の腕の中にいた。
「え…桜?なにす」
「大丈夫」
同じ言葉なのに、耳元で聞こえるだけで一回目よりも胸に響く。俺のなのか桜のなのかわからない速い鼓動も耳に流れ込んでくる。
「由紀はめちゃくちゃ頑張ってたじゃん!いつも通りやれば大丈夫!大丈夫だよ」
頭をポンポンと撫でられる。子ども扱いするなと言いたいのに。桜の腕の中があまりにも温かくて、温かい桜の身体から温かい何かが自分の中にも流れ込んでくる気がして、何もせずこのまま眠りにつきたいと考えてしまう。
「はい、いってらっしゃい!」
急に身体を引き離される。
「あ、もうちょ…」
俺の口が勝手にとんでもないことを言いそうになったので、慌てて手で押さえる。え?何?俺、今何て言おうとした?『名残惜しい』と。そう思ってしまった?
「もう行かないとだろ?震え止まったし、大丈夫!」
いつもの爽やかスマイルの桜は何も気にしていない様子でそう言った。よかった、聞かれてない…。手を見ると確かにもう震えていなかった。
「いってきます」
俺も桜に負けないくらい力強くそう言い、少し笑ってみせた。桜は驚いた表情をしている。そのまま桜に背を向け、楽屋へと急いだ。
楽屋はさっきよりも熱気とピリピリした空気に包まれていた。それなのに、不思議と温かい気持ちが俺を守ってくれている。
「あ!ちょっと瀬乃由紀!さっきはよくも…」
清々しい気持ちのまま声がした方を向く。案の定、さっきの赤いドレスの女だったが、急に顔まで赤くしはじめた。
「そ、そそそそんな顔したって…!」
そんな顔?そこではじめて気づく。俺はあろうことか笑っていたのだ。すぐに顔を戻してトイレに行く。俺の出番は最後なのだから、顔でも洗って練習しよう。
「とってもよかったよ!」
「…どうも」
これで何人目だろう?道行く人のほとんどが俺に賞賛の声を浴びせてくる。中には知り合いもいるが多くは知らない人だ。顔が赤いことは鏡を見ないでもわかるので放って置いてほしい。俺は少し歩く速度を上げた。あいつに…あいつに会いたい。あいつに褒めてほしい。
「由紀ー!」
会場を出てキョロキョロと辺りを見回していると、探していたあいつの声がする。
「桜!」
桜の顔を見て、思わず抱きつきたい衝動に駆られる。一、二歩踏み出したところで、慌てて思い止まる。抱きつきたい!?俺はさっきから何を考えてんだ!そう思っていると、桜の方から抱きついてきた。
「うわっ!」
「お疲れ由紀!めちゃくちゃよかったよ!会場のみーんな悩殺してた!!」
よかったーー何度も言われた言葉なのに、桜に言われた時が一番嬉しく、くすぐったくて落ち着かない。何故か涙まで出て来そうになる。「悩殺ってなんだよバカ」と言ってやりたいのに、涙を堪えるのに精一杯で声が出ない。
「やっぱ俺…由紀のこと好きだなぁ…」
「は!?…あ」
予想だにしなかった言葉が聞こえ、涙が一瞬で引っ込んだ。慌てて身体を引き剥がして顔を見ると、最近はあまり見ていなかった“あの”笑顔だった。
「次は県大会なんだっけ?」
「え…ああ…でも俺、もうピアノはやめるよ」
「えっ!?なんで?絶対日本一のピアニストになれるのに!」
俺の肩を掴んで顔を覗き込んでくる。その桜の顔からはもう悲しげな雰囲気はなく、本気で俺を心配しているようだった。問い質したいけれど、もう触れてはいけないような…不思議な気分になる。
「別に…どうでもいいんだ。ピアニストになりたいわけじゃないから」
他の人の賞賛なんていらない。ただひとり…あの人に褒めてほしい。そのためだけに今までやってきた。でも今は、そんなことよりおまえの笑顔が気になるって言ったら…こいつはどんな顔をするのかな?
「意地になってたんだよ。でももういいんだ!桜がくれたから…」
「え…?」
「……おまえだけに弾きたくなっちゃったんだよ」
なんなんだろう……。この気持ちは…。
「あら、帰ってたの?」
リビングでソファーに座ってテレビを見ていると、仕事から帰ったスーツ姿の母親が興味を微塵も感じない声で呟いた。
「次の大会まで時間がないんでしょ?テレビなんて見ていていいの?」
冷たい目で俺を見下ろしながら、冷たい声でそう言った。
「次には…進めなかったよ」
急にピアノをやめると言っても聞き入れてもらえないかもしれない。が、今日の結果がダメだったと聞けばすんなりとはいかないまでもやめられるかもしれない。
「何言ってんの?たくさんの方からお祝いメール貰ったわよ。すごく良かったって」
「……チッ」
余計なことを…。
「あんたは俺には興味なくても、俺の評価は気にするもんな…」
「…何が言いたいの?それに、母親に向かって“あんた”はないんじゃない?」
「俺、ピアノやめるから」
渋っていても仕方がない。立ち上がって覚悟を決め力強くそう言った。つもりだったのに、少し声が掠れてしまう。母親は表情を崩さないが、瞳に動揺の色がありありと見える。
「ふざけてるの?冗談なら面白くないからやめなさい」
「本気だよ」
今度はしっかりした声でしっかり母親の目を見据えて言う。
パンッ
耳元で大きな音がしたかと思うと、右の頬に衝撃が走った。思わず右手をあてがえながら母親を見ると、興奮しているのか呼吸を乱し顔を真っ赤にして俺と自分の左手を交互に見ていた。そこではじめて、俺は平手打ちをされたのだと気づく。
「本選に出なさい、いいわね」
この話はもう終わりだと言わんばかりに短く言って踵を返す。静かだが、決して逆らうことができないような強さがある。しかしそれは今までは、の話。これからは怖気づいてなどいられない。
「出ないよ!何度も言ってるだろ!?俺はピアノをやめるんだ!」
「いい加減にしなさい!私を困らせてそんなに楽しい!?」
振り返った母は想像と大きく違い泣きそうな顔をしていたので、少し怯む。
「お、俺は…あんたの道具じゃない。あんたの言いなりにはもうならない!」
「本選に出なさい!!」
「…っ!あんた変わったよな!父さんが死んでから!!」
しまった、と反射的に思った。いくら母親の、全く俺の意見を無視した態度に腹が立ったからといって、言ってはいけないことを口走った。様子を窺っていると、母親はみるみる目を見開き涙をポロポロ零しはじめた。俺は母の予期せぬ行動に思わずぎょっとする。母の涙を見たのは父さんが死んだ時以来だった。
「………ど…して…私の…言うことが……聞けな…の」
震え、掠れる声でそう言う母。いつもの強気で冷ややかな母と正反対な、感情的な態度を取る母を見て戸惑いを隠せない。
「……………」
俺は気づくと家を飛び出していた。財布も携帯電話も持たずに体一つで、ただひたすらに走った。頭に浮かぶのは、たったひとつ。あいつのことだった。
会いたい。ただそれだけを思っていた。ただそれだけを望んでいた。そのせいか、自分が涙を流していることに気づいたのも、雨が降り出したことに気づいたのも、もっと後のことだった。
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