第2話 約束ー由紀sideー
「ない……」
朝早く学校に行き、音楽室を隅から隅まで探した。もうかれこれ30分は経つが、一向に見つかる気配がない。職員室で落とし物入れを覗いてみても、楽譜は見当たらない。
「はぁ…」
無意識にため息が漏れる。最後の望みを賭け、教室で自分の机を漁ってみても、やはり何も入っていなかった。どうしよう…。あの楽譜は俺の一番大切なものだったのに……。机に突っ伏して考えを巡らせる。あまり考えないようにしていたが、やっぱり、こうなるともう………
「あーっ!いたいた!よかったー!早めに来てると思ったんだよ!」
静まりかえった朝の教室に、突然大きな声が響いた。思わずビクッと肩が震える。声のした方を見ると…。
「あ……」
昨日の男だ!なんでこんな朝早くに…。頭でいろいろ考えて、口では何も喋れずにいると、男はズカズカと教室に入って俺に近づいてきた。
「えーっと……ゆき、くん?同い年だったんだな~」
「なっ…!?」
ゆ、ゆきくんだと!?こいつ…楽譜の裏を読んだんだな!俺の名前を勘違いしているんだ!
「いって!」
頭の中で理解するが早いか、俺は気づいたら男をグーで殴っていた。
「よ・し・の・り・だ!!二度とゆきなんて呼ぶな!次呼んだらこんなんじゃ済まさねぇぞ!!」
頭に血が上り、カッと熱くなって勝手に口が動く。床に転がった男が、俺に殴られた左頬を摩りながら、きょとんとした顔で俺を見ている。数秒の沈黙が流れ、男の肩がぷるぷる震えだした。かと思うと…
「ふっ…」
「…?」
「あははは!!」
突然笑いだした男に、奇妙なものを見る目を向ける他ない。男はしばらく笑ったあと、立ち上がってまた俺に近づいてきた。
「ごめんごめん!よしのりくんだったか~……あ、はいこれ」
ヘラヘラした顔で俺の肩をポンポン叩いてくる。
「気安く呼ぶな触るな。瀬乃だ」
「ん、せの…?あっ!じゃあこの瀬乃晴子さんはお母さんとか?」
思い出したように持っていた紙を渡してきた。
「あ……」
やっぱりこいつが持ってやがったのか…。
「…関係ないだろ」
楽譜が破れそうな勢いで奪いながら睨んだが、全く効かないみたいだ。
「俺が持ってたんだぞ!感謝しろよー!」
男は俺の顔を覗き込むと、ドヤ顔を見せつけてきた。なんで感謝しなきゃなんねぇんだ!放って置いてくれればいいものを!
「…なんて、うそうそ!俺が話したかっただけ」
「……は?なに言ってんだ、おまえ?」
男は眉を下げ、悲しげに微笑んだ。なぜこんな表情をするのか理解できない。俺は先ほどの名前を間違えられたことに対する怒りが引かず、思わず苛立った声を出す。が、男は何も答えずに、今度は普通に笑った。
「おまえじゃなくて、高草木!高草木桜な!よろしく!」
それだけ言うと走って教室を出て行った。嵐みたいなやつだったな…。
「たかくさき…」
そういえばあいつ、制服じゃなかったな。もしかして部活中にわざわざ抜けてきた?俺がいるかもわからないのに?……確かあいつ、俺を見つけて「よかった」って言っていたよな…。
「あ……」
手元の楽譜を見ながらボーッと考えていたが、答えが出るはずもない。そこでふと、礼を言い忘れたことに気づく。わざわざ礼を言いに行くのもなぁ…。そこまで考えて、ふと怒りが舞い戻ってきた。いやいや、音楽室に置きっぱなしにしておいてくれればよかったんだ!礼なんかいらねぇよ!
放課後。今朝のことを悶々と考えながら、教室を出て下駄箱に向かって廊下を歩いていると、隣の教室から見覚えのある人物が出てきた。
「今日はゲームだっけ?」
「ああ、1年と2年vs3年」
高草木だ!それに1年の時同じクラスだった納地!この2人は友達だったのか…。つい足が止まる。が、歩いている人の邪魔になるので、不覚にも高草木たちに着いて行く形になってしまう。隣のクラスだったのか…知らなかった。声をかければいいのに、お礼だけ言って去ればいいのに、なかなか言葉が紡げない。喉がカラカラになって、顔が熱くなる。そうこうしている間に、下駄箱に着いてしまった。高草木と納地は、下駄箱を通り過ぎて体育館へと向かって行った。そうだ!下駄箱を使えばいいんだ!俺は急いでバッグからノートを取り出し、真っ白いページを少し破いた。
いつものように音楽室でピアノを弾いていると、急に扉が開き、そいつが現れた。
「あ…」
壁掛け時計を見ると、いつの間に部活終了の時間を過ぎていた。
「よう!どうした?呼び出しなんて」
ひらりとノートの切れ端をこちらに向ける。『部活が終わったら第一音楽室に来い。忙しいなら無視しろ。』と我ながら偉そうな文字が並んでいる。でも仕方ない。最近じゃ親しい人間の一人もいないし…。いわゆる『友達同士の話し言葉』ってやつがわからない。
「この達筆は瀬乃の字だってすぐわかったけど………おまえ、友達いないだろ?」
「な…!?」
なんでわかった!?
明らかに動揺してしまった俺は、大きな音を立てて椅子から立ち上がってしまった。それを怒ったと思ったのか、高草木が話しだす。
「怒んなよ~!こういうちょっと上から目線の文書くやつとは友達になりにくいのかな~と思って…ま!俺はそんなの気にしないけど」
「そ…」
そっか…そうだよな…。俯いて、とすんと椅子に座る。でも仕方ないだろ。人と関わらなすぎて、人との関わり方を忘れたんだから…。
「ぷっ」
俺が俯いていると、高草木は突然吹き出した。
「あははっ!瀬乃、さっきから一文字ずつしか喋ってないぞ?」
「え…」
確かに…。思い返してみると、口に出してんのは「あ」とか「な」とかだな…。
「心ん中ではもっといろんなこと思ってんだろ?教えてよ。瀬乃の気持ち、もっと知りたい」
「………」
思わず顔をあげてしまうと、悲しげな微笑みを浮かべた高草木の瞳が俺を捉え、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。何も言えずに目線だけを絡ませる。…まただ。今朝と同じ悲しげな笑顔。口では友好的なことを言いつつ、心では一線を置いている…そんな感じだ。沈黙がむず痒く、またつい俯いてしまった。…今俺の顔、きっととんでもなく赤い。
「人と喋んの苦手?じゃあ、なんで俺を呼んだの?」
頭の上から声がかけられる。でも俯いてしまったらもうなかなか顔を上げられない。このままではいけないと思っていても、どうしようと思うだけで頭が働かない。やがて、自分の目線の先に、目の前に到着した高草木の足元が映る。
「それとも…朝みたいに怒らせたら、喋ってくれるか?」
いきなりしゃがんで、俺を覗き込んだ高草木と目が合う。
「え……えっと…」
今だ。今、言わなくちゃ…。そう思うのに、何故か目が逸らせないで固まりそうになる。こんなに長く人の目を見たのはいつぶりだろう?
「楽譜のこと…」
「楽譜?」
カラカラの喉からやっと絞り出た声は、思ったよりずっと掠れていた。その声に驚いたことと緊張で、俺の顔はますます赤くなった気がする。しかし、ぽかんとした顔で俺を見つめてくる高草木。そんな高草木を置いて、ピアノに向き直る。
「俺、2才からやってるし、一応賞とかいろいろ貰ってるし、下手ではないと思うから…」
口を開くたびに顔が熱くなっていく。もうちょっと、もうちょっとだ俺。がんばれ!
「礼の、代わり…と言っちゃなんだけど……一曲」
考えに考えて、何度も練習した言葉が全然違う感じになったが、なんとなく伝わったはずだ。怖くて高草木の方は見れないけれど…。目を瞑りすぅっと息を吸って気持ちを落ち着かせ、目を開いて一気に鍵盤を叩く。昨日聴かれてしまったあの曲を弾くわけにはいかないから、1ヶ月後に控えているピアノコンクールのために、家やピアノ教室では何度も弾いた曲を弾く。親戚が経営しているピアノ教室なのでいろいろ融通がきいて、先生に教わらず部屋だけ借りて練習している。そのおかげで、誰か一人の人前で弾くのは随分久しぶりだ。楽譜をめくるついでに、ちらりと横目で高草木を見るが、相変わらずぽかんとした顔のままだった。そうこうしているうちに曲が終わる。余韻を大切にしながらペダルから足を離し、高草木に向き直ると、慌てて拍手をし出した。
「す…すげぇ!…びっくりした…急にはじまるから……引き込まれたわ…」
高草木の褒め言葉は、不思議と素直に聞き入れることができる。こいつが気を使うなんて真似できないと思うからだろうか?
「別に…これくらいどってこと……」
顔が熱くなるのがわかるが、目を逸らせない。
「あ!じゃあさ!時々でいいからまた聴かせてよ。俺のためだけに、また弾いてよ」
「えっ!?」
突然のお願いに驚き、思わず声を荒らげてしまう。言葉は冗談めかしているのに、表情は優しく、悲しげに微笑んでいる。そんな高草木の表情を見ていると、なんだか断りづらい気持ちになってくる。
「別に…いいけど……」
「え…マジ!?やった!あ、じゃあさ!都合のいい時、また今日みたいに下駄箱に手紙入れてよ!」
いつの間にかいいと口走っていた俺に、本当に嬉しそうな笑顔で喜ぶ高草木が抱きついてくる。
「や、やめろよ!」
「そんな照れんなって~。ほい小指!」
「え…?」
高草木は戸惑う俺の腕を強引に引き寄せると、俺の小指と自分の小指を絡ませて軽く上下に振った。
「指切り。約束な」
まただ…。苦しげな笑顔。高草木はそう言うとすぐに俺から離れて出口へ歩く。
「んじゃまた明日」
「あ…た、高草木!」
思わず呼び止めてしまった。高草木はこっちを見て何?と言いたげな顔をしている。
その悲しげな笑顔はなんだ?
そんなこと…聞いていいのだろうか?
「え、えーっと…」
とりあえず、何か言わなきゃ!この沈黙をどうにかしなきゃ!
「桜」
「……へ?」
「高草木じゃ長いだろ?桜、でいいから。ていうか、桜って呼んでくれ」
呼び止めてから本当に言っていいのことなのか迷っていた俺に、高草木の方から話しはじめてきた。
「お、おう?」
「ん。俺の名前、桜って書いて『おう』なの。変わってるだろ?しかも9月生まれ!」
そう言って冗談まじりに笑い飛ばしているが、俺は特に違和感を抱かなかった。
「全然変じゃないと思うけど…桜。かっこいいじゃん、俺なんかより」
「え………えっ!そ!そう!?」
次は照れたように頬を赤らめて笑う。こいつは表情がよく変わるな…。そんな姿を見ていると、不思議とこっちまで楽しくなる。
「ずっと、自分の名前って好きになれなかったんだけど…瀬乃に呼ばれるとなんか………いいな!」
今度は本当の満面の笑みを浮かべて俺を見てくる。眩しい…これが体育会系の爽やかスマイル…?
「つーか!おまえの名前だってかっこいいじゃん!俺はすごい好きだし…“なんか”とか言うなよ!…つか、俺も名前で呼んでい?」
「………え」
一方的にガンガン喋られ、褒められていると気づくのに数秒かかる。自分の名前をそんな風に言ってもらえたことは今まで一度もなかった。母親でさえも、女の子が生まれてくると思って考えてた名前を無理矢理、男の名前風の読みにしたと言っていたくらいだし…。深い意味なんてないのだろう。それでもこの名前を好きだと言ってくれた。
「あ、ありがとう…」
嬉しい気持ちを言葉にしようとして、そんなありきたりな感謝の言葉が口をつく。すると自然と顔が綻びてしまって、慌てて元に戻した。が、奴はそんな俺の顔を見逃さなかったようで、キラキラと好奇心を帯びたような瞳で見つめられた。
「ちょ…何今の……由紀の笑った顔見たの初めてだわ!」
「は?見間違いじゃないの?てか、まだ名前で呼ぶのは許可してねぇんだけど」
恥ずかしさのあまり、つっけんどんな態度を取ってしまう。
「連れないこと言うなよ~」
それでも構わずにくっついてきた桜を引っぺがしながら、心の中では、少し嬉しい気持ちを抑えられずにいた。
俺はその日、生まれて初めて下の名前で人を呼んだ。
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