2:ポーションとズボンと妖精の心

 とうに日も落ちて夜の帳が浮遊都市の街並みを包み込んだ頃。慧介は簡素な食事を摂ってそのまましばらく暖炉室で休憩をとっていた。


 少なくとも今夜はここに泊まっていっていいとのお墨付きをもらっている。空き部屋もあるから遠慮は要らないという。


 特に何をするでもなくぼーっとしていると、食後にふらりとどこかに出かけていたキアが帰ってきた。


「……ただいま」

「あ、おかえりなさい」

「やぁ。早かったね、キア」


 キアはそのまま慧介の元へと歩み寄って来た。


「……ケイ、足を見せて」

「え? 足?」


 唐突な言葉にキアをまじまじ見ると、その手に鮮やかな緑色の液体が入った小瓶を持っている。

 ダンジョンの中で、ティティスが慧介の傷を癒やすのに使ったポーションと同じ物に見えた。


「それ、回復ポーションってやつ?」

「うん。これを使えば足の痛みはとれる。疲労はなくならないから休息は必要だけど」

「へぇ……そうなんだ。……わざわざ買ってきてくれたんだ? ありがとう」

「……別にいい。それより、ズボンを脱いでくれる?」

「――えっ!?」

「……ズボン。脱がないと治療しにくい。布越しだと、効果が落ちるから」

「あ、あぁ! はいはい! なるほどね! え、えっと……それじゃぁ自分でやるから、悪いんだけどそれ貸してもらえるかな?」


 慌てた慧介がポーションの小瓶に手を伸ばすと、キアがひょいと背中に隠した。


「……ズボン、脱いで」

「い、いやそれは、じ、自分でできるから……」

「……遠慮しなくていい」

「いや、いいってわざわざそんな! お手を煩わせるようなことじゃないですから!」

「…………?」



 キアは不思議そうに慧介の顔を見つめた。


 何故こんなにも嫌がるのか、理解できなかった。

 そこでふと、思いつくことがあった。


 もしかして自分が考えているよりも慧介の足の状態は悪いのではないだろうか?


 これまでの慧介の態度から、彼が遠慮深い、奥ゆかしい性格であるとキアは考えていた。しかし奥ゆかしいと言えば聞こえはいいが、それは裏を返せば自分から人との間に壁を作っているともとれなくない。もしかしたら慧介は自分達に面倒を掛けないように、気を遣わせないように、今までずっと無理をしていたのかもしれない。


 キアからすれば、ちょっと数時間ばかりを歩いたり走り回ったりした程度でへばって歩けなくなってしまうなど考えられないことだった。そんな人間はこの世界では例え子供であっても見たことがない。


 魔物に追われて逃げる途中に、崖から落ちた時に、もしかしたら今も治療し切れていない大怪我を負っていたのではないか?


 だから慧介は途中で歩けなくなってしまったのではないのか?


 考えれば考えるほどキアにはそれが正しいことだと思えて仕方なかった。


 慧介の体力のなさは、残念ながら、それぐらい彼女にとってあり得ないことだったのだ。

 冷静に考えてみれば怪我を申告しないで放置することのほうが余程迷惑になるように思われるが、元々多少の怪我をおしてでも行動するタイプのキアにはそんな発想自体がなかったようだ。


 一度そのように考えてしまうと最早引くことなど考えられない。

 キアは強硬手段に訴えてでも慧介の足の状態を確認する必要があると判断してしまった。


 キアの大きな赤い瞳が、決意に燃える。


「……ティティス、お願い」

「――ん? 何もそこまでこだわることはないだろうに……」


 一人素知らぬ顔で干し肉をかじっていたティティスは、そのやる気のない発言とは裏腹に、早速慧介を背後から羽交い締めにした。


「えっ!? ちょっとぉっ――!?」


 慧介の非難の声は尻すぼみに小さくなって、最後はほとんど聞こえないくらいだった。

 背中からがっしりと上半身を捕まえられた都合上、今現在慧介の後頭部はこれまで感じたことのないような柔らかな感触に包み込まれていた。


 ――こ、これはもしかしてアレか!? アレなんですかっ――!?


 昼間ダンジョンの中で目の当たりにしたティティスの凶悪なまでに大きな胸の膨らみが頭の中にまざまざと思い出される。


 そんな慧介の頭上からは、ティティスが変わらずモグモグと干し肉を咀嚼する音が降ってきているのだが、慧介の耳には今そんな音は聞こえていなかった。自分のやかましい鼓動の音しか聞こえない。

 ついでにティティスが口を動かすにつれて干し肉の先がぺしぺしと慧介の頭に軽く当たっているのだがそれも心底どうでもよかった。


 テーブルの上にポーションの小瓶を置いたキアが慧介のズボンに手を掛ける。


 慧介は我に返った。


「あっ、ちょっ、ダメだって――!?」


 しかしキアはそんな慧介の言葉を無視する。


 革のベルトに目をつけると手際よくそれを外す。さらにボタンを外し、そこにファスナーがついているのに目をとめて、ピタリと静止する。股間を、いや違う、ファスナーをまじまじと見つめだした。


「……これ、何……?」

「えっ!? あっ、それはあの……」


 キアはファスナーという物を知らなかった。この世界ではそもそもファスナーが発明されていないのだ。初めてみる得体の知れない飾りに若干興味を引かれると同時に、どう扱えばいいのかわからなかったのだった。


 慧介の頭越しにその様子を見ていたティティスが乗り出すようにして慧介のズボンについたファスナーを覗き込んだ。必然的に慧介の頭は余計にティティスの双丘にめり込んだ。


「……あぁ、なるほど。そこの小さな金具を引っ張ればいいのではないかな? どうも留め具の一種のようだね」

「……こう?」

「――!?」


 ティティスの助言に従ってキアが躊躇なくファスナーを降ろした。ジィーーッと音を立てて綺麗に全てを降ろしきると、ちょっと嬉しそうに目を瞠った。初めてのファスナー体験にちょっぴり感動したらしい。


 しかし慧介はそれどころではなかった。


 後ろからは得も言われぬ柔らかな感触にさいなまれ、前を見れば一見すると幼い少女にしか見えない――でも実年齢は十八歳の女の子――が自分のズボンのファスナーを降ろしている。背徳的に過ぎる状況にパニックに陥っていた。


 そんな慧介のことなどお構いなしに、キアが改めてズボンに手を掛けた。


「わあぁぁっ!? やめてぇぇっ!!」


 懇願虚しく、慧介のズボンはあっさりと引きずり下ろされた。

 靴が二足とも、ボテボテと床を転がっていく。

 勢いよく剥ぎとられたズボンに巻き込まれてパンツが脱げなかったのが唯一の救いである。


 ズボンを後ろに放り捨てたキアは慧介の足をそっと持ち上げては隅々までチェックし始めた。

 しかし、そこに彼女が予想したような大きな傷痕など微塵も見当たらなかった。


 しばらくしげしげと眺めた後、腕を組んで一言、


「……おかしい」


 と言ったきり、悩ましげな表情のまま、固まったように立ちすくんでしまった。


 慧介はそんなキアの考えなど知る由もない。涙目のまま呆然と放心していた。何か大切な物を失ったような喪失感と、受け入れがたい恍惚とした感情が心の内でせめぎ合っていた。


「……ふむ。よくわからないのだが、とりあえず治療を始めようか?」


 既に事はなり、ズボンはその持ち主の元を離れた。

 これ以上拘束しておく必要もあるまいと、ティティスは慧介を解放した。


「……そうだった。治療」


 ティティスの言葉に自分を取り戻したキアはテーブルに置いておいたポーションを手に取って慧介の足にまんべんなく振りかける。


 小さな温かい手が自分の足をなで回す感触に、彼方へと昇天していた慧介の自我が再び目覚めた。


「だぁぁっ!? いいっ! いいってば! それくらい自分でできるからっ!」


 慌てて慧介は自分でポーションを足に塗る作業に入る。

 既にパンツ丸出し状態である。今さら何恥じることもない。堂々とその場で塗り込む。


 それを見てキアも納得したのか、「ちゃんと隅々まで塗って」と言い置いて、小瓶を持って暖炉室の外へと去っていった。


「はぁぅぅ……」


 半泣き状態のまま慧介がポーションを塗っていると、椅子に座り直したティティスが声を掛けてきた。


「すまなかったね、ケイ。彼女は人間の恥じらいとかそういったものがよくわからないんだよ」

「……え? どういうことですか?」

「彼女が血を受け継いでいるフェイタンという種族はね、妖精族の中でもとても、原種である本物の妖精に近い存在なんだ。妖精というものは服など着なくても平気でそこらを飛び回るような生き物だから、恥じらいとかそういう感情には乏しい。というか、最初から持ち合わせていないんだろうね。中には服を着るものもいるが、それは裸が恥ずかしいからではなく、ただ単に着飾りたいだけだ。つまり、彼女からすると、『女性の前で下着姿になるのは恥ずかしい』というケイの感情はよく理解できないのさ」

「はぁ……。なるほど」

「悪気は全くないんだ。多分、さっきのも君のことを心配してのことだったんだろう。彼女がいったい何を考えていたのかは、正直私にもよくわからないがね」

「う~~ん。でも、キアは、半分は普通の人間なんですよね?」

「ん。確かにね。でも彼女は見ての通りフェイタンの血の方がだいぶ濃いようだ。フェイタンとして見ればかなり成長しているとも思えるが、人間としては全く子供にしか見えないだろう?」

「えぇ、確かに。それは……」

「まぁ、それにしても彼女の場合は少し度が過ぎているとも思うよ。本来人里で暮らしていればもう少し人間らしい感情の機微に聡くなるものなのだがね。私もときどき、彼女のことがまるで子供みたいに思えることがある。――あ! 悪いがこの話はキアには内緒にしてくれるかな? 彼女は子供扱いされるととても機嫌が悪くなるのでね」

「あ、はい。わかりました」

「うん。そうしてくれると、とても助かるよ」


 ティティスはその端正な顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。


 慧介はふと気づいて真顔でティティスの目を覗き込んだ。


「あの、ティティスさんは最初っから、俺が恥ずかしいから嫌がってるってわかってたんですよね?」

「ん? あぁ、そうだよ。私もね、お世辞にもそういった感情に敏感だとは言えないほうではあるのだが、一応長く生きてきた分それなりの分別は身につけてきたからね」

「なっ…………わかってたんならどうして止めてくれなかったんですか? これくらいのこと、部屋で一人でやらせてくれたっていいじゃないですか?」


 再び泣きそうな顔で慧介がそう言うと、ティティスはさもおかしそうに笑った。


「はっはっはっはっは。……いや、すまない。確かにその通りなんだが、キアはあれでなかなかに頑固なところがあってね。一度こうと決めると絶対に引かないなんてことはよくあるんだよ。説得するのも面倒だし、ここは一つ君に泥を被ってもらったというわけだ。まぁ、悪く思わないで欲しい。結局これは避けられない運命だったんだよ」

「そんなぁ……」


 がっくりとうなだれる慧介。


 しかし、随分長いこと、あの柔らかな感触を後頭部に堪能していた慧介である。これ以上ティティスを責めることもできず、結局この話はお開きとなった。


 慧介がポーションを足全体に染み渡らせるにつれて、痛みが段々と消えていった。しかし、足全体に重くのしかかる虚脱感は変わらない。キアが言っていた通り、疲労を回復できるわけではないのだ。

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