青銅の門
黄八の家を出て、夜の市街を行く二人連れ。
「では、神社工事現場だな」
「その前に、警察庁の牢屋をのぞいてみないかね? ひょっとして味方を増やせるかもしれん」
つまり石光の言は、他の秘密結社のメンバーが捕らえられていないか、という事。
「……期待はできないと思うぞ?」
眉根を寄せる洪だったが、しかし万一という事もある。人手が欲しいのは変わらない。
◇
警察庁庁舎の一室。夜勤の男が机に向かい書類仕事をしていた。満人という言い方で呼ばれている現地人の官吏である。新京内の秩序は、あり得ないほど変わってしまったが、変わらない事もあった。即ち、『自分で考えるな。指示に従って手だけ動かせ』。日本人官吏は、突然現れた異様な老人に絶対服従を押しつけられ、内心憤っているようだったが、従うことしか求められてこなかった満人官吏にとっては、それまでと何も変わらなかった。今夜も、いつも通りのルーチンワークをこなし、帰って布団に入れば一日が終わる。それだけだ。……突然彼は強い睡魔に襲われた。眠るまいと頬をつねってみたが効果がない。そのまま意識が闇の中に落ちていく──
夢の中で彼は、溥儀皇帝に表彰されていた。よくぞ勤めた。汝こそ臣民の鑑。あたりの群衆が割れんばかりの拍手で彼を祝福する。晴れがましさにはちきれんばかりの彼に、皇帝が頼み事を持ちかけて来た。君が今まで勤めてきた証を見せてくれんかね? おやすい御用ですと彼は答え、求められるままに金庫の鍵を開け、中の書類綴りを皇帝に手渡した──
◇
鍵の開いた書棚にもたれかかり、いびきをかいて眠る満人官吏を背に、石光と洪は監獄の名簿をあたっていた。
「少ないな……」
石光のつぶやきどおり、監獄に入れられている者は意外なほど少なかった。
「本郷大将……二月十一日出所。日下大佐……二月十八日出所」
溥傑の証言どおり、日本軍の将校が相当数監獄に入れられていたが、ほとんどすでに出所している。
「満人の方も、それっぽい奴はいないな……」
事件が起こる前から収監されていて、そのまま裁判も行われず、放置されている者がほとんどだった。
「む!」
石光の目が一人の名前にとまった。甘粕正彦。元憲兵隊大尉で、関東大震災時の殺人事件で軍籍を追われ、満州国で暗躍していると噂されていた人物である。『収監中』とあった。
◇
監獄舎の廊下に低い足音が響く。一室の前でとまり、鍵の音が小さく鳴った。部屋の寝台に身を横たえていた男が、半分身を起こして声を漏らした。
「僕の番かね……?」
部屋に入った男二人は、扉を閉め、カンテラをつけた。小柄な老日本兵と中国旅装のヒゲ面の巨漢。客観的に見れば、かなり珍妙な取り合わせだ。収監されていた男が、戸惑った声をあげる。
「……なんだ君たち。〝老人〟の手先とも思えんが……」
寝台に身を起こしたのは甘粕元大尉。長い収監生活で、さすがにやつれた様子だった。カンテラで一度顔を照らして、来訪者二人は名のる。
「石光三郎と申します。参謀本部次長田村大将より、特佐に任ぜられておる者です」
「俺の方は雇われ人だ。気にせんでくれ」
「……で、その石光特佐が、僕にどういう御用かな?」
本当に洪を無視するあたり、中々食えない人物と見えた。石光に求められるまま、彼は特に躊躇することなく自分の知る事件の経緯を語り出した。
「昨年の、十一月半ばだったと思うが、軍の連中が勧請した神社が起工されて、工事中に古い遺跡にぶつかった。一応記録を当たって、建物の記録がない場所を選んだというんだが、このザマさ。しかしまあ、予備調査をしてみると、ちょっと意外なほど古いものだと判明した。あるいは殷周の時代に遡るか、と。当然僕としては調査をすべきだと主張したんだが、軍の連中がガンコでね。工事は予定通り行う、とさ。あれこれ裏から手を回して工事を遅らせたんだけど、結局は軍の意向どおり開始された。……失敗だったのかなぁ。先の事は分からないとはいえ、あの時何かできなかったのかなぁ。……あの穴から〝老人〟は現れたんだ」
後悔しきりの甘粕に、石光はタバコをすすめた。
「これはどうも。……まさか末期の一服というやつじゃないでしょうね?」
「我々は敵ではありません。それは誓いましょう」
「誓う、ですか。それはどうも」
久しぶりであろう紫煙を、胸一杯吸い込む甘粕。
「……老人が現れたのは、旧正月だったと思う。溥儀陛下が建設中の神社にお参りしたいと言い出してね。……あの人も、何もそんなマネをしなくていいだろうに。一応僕も警務司長って立場だから、陛下の動くところには警備を置かなくちゃならない。その警務隊の連中が血相変えて庁舎に戻ってきて、『穴から怪物が現れて、大同宮に向かっている』と。何の話だと思ったけど、とにかく僕も大同宮に向かった。まあ、後から考えれば正確きわまりない報告だったんだけどね。宮殿に着くと、妙なありさまだった。静かな大騒動と言ったらいいか……お付きの侍女や廷臣が、話しかけても返事もしない。まるで操り人形みたいに、自分の職分だけこなそうと動いている。玉座の間に入ると、一人の老人がふんぞり返っていた。溥儀陛下のものらしい礼装を身につけて、ね。サイズも合っていないし正直滑稽に見えた。何だこいつと思って近づこうとした時、視線があった」
言葉を切ってタバコを吸い込む甘粕。指先がかすかに震えているのが見て取れた。
「……目の前にいるのが、人間じゃないと直感したよ。目から入って脳に通り、僕を跪かせるような、そんな眼光だった。僕に名前を問うた。思わず答えちまったね。そして、確か『余が皇帝なり。おぬしの身命を賭けて仕えるがよい』とか誇大妄想的なセリフを吐いた。僕もへそ曲がりだからねぇ、何か口答えをした。たぶんその、眼前のふざけた現実を、認めたくない気持ちになったんだな。そしたら〝あれ〟は大笑いしだして、周りの衛士に僕を取りおさえさせた。顔見知りの軍人もいたんで、何のつもりだと声をかけたんだが……まるで反応しない。無表情なまま僕を押さえ続けた」
甘粕の手の震えが大きくなってきた……
「……そして、老人が、僕の口に何かを押しこんだ。光栄に思えとか恩着せがましいことを言いながら。塊が……胃のあたりに落ちて……そこでいきなり動きだしやがった。……だらしないが、正直悲鳴をあげたよ。気が遠くなったんだが……それが突然逆流してきやがった。口から虫みたいのが飛び出して、のたのたうごめいた。ゲロ吐きながら、そいつから目が逸らせなかったよ。そしたら急に動くのを止めて干からびていき……紙をよじったような代物に変わっちまった」
言葉を切って、震える手を自分で握りしめる。
「……老人は、げらげら笑っていたよ。何か、呪いがどうしたとか言っていた。で、衛士に僕を閉じこめておけと命じて……自動的に、ここに放りこまれたってわけさ。それ以来、表で何が起こっているのかは、よく分からない」
甘粕は、ぎりぎりまで吸ったタバコを床に落として踏み消した。
「呪い……? 老人が言っていた事を、もう少しはっきり思い出せませんかな?」
首をかしげながらの石光の問いに、甘粕はしばらく瞑目して記憶を探った。
「確か『こんな小者が呪われているとは、罪深い時代よのう』そんなセリフだったな。そして衛士に『呪いに呪いを重ねる事はできぬ。用が見つかるまで閉じ込めておけ』だったと思う……。呪われているってのは何の話なんだろうねぇ。……ま、分かるような気もするけど」
かすかに目を伏せ、薄い笑みを浮かべる甘粕。
石光と洪はにわかに返す言葉が無かった。まさか〝寄生不能者〟の証言が聞けるとは。溥傑の証言では、関東軍将校に相当数いたらしい。
(呪いを重ねる事ができない……呪われた者、か……)
「……俺たちが聞いた話では、そういう連中がかなりいて監禁されているということだったんだが、ここにいたんだろうか?」
洪の問いに、ちらりと視線を走らせ、
「だめだよ君、黒子でいると言ったらそれを通さないと」
おどけた調子でそんな言葉を返した。思わずしかめ面になる洪。
「フン……」
「ああ、では私から同じ質問を」
「ははは、律儀だねえ、特佐どの。まあいいさ」
石光から二本目のタバコを受けとり、甘粕は話を続けた。
「ここに送られてきた関東軍将校は、本郷正武大将、片山志郎少将、日下茂大佐、澤喜四郎大佐、菊地誉少佐、僕が知っているのはそのくらいだね。隣の房に入った日下大佐から聞いた話では、参謀四課の多数がここに送られたらしい。で……一人ずつここを出て行った。釈放されたわけじゃなさそうなんだな。妙に等間隔で連れられて行くんだ。僕の見当だと五日間隔かな。場所のせいか、あまりいい想像が湧かないんだ。一昨日連れられて行った菊地少佐は、正直、半狂乱になっていた」
……どうやら、甘粕から引き出せる情報はここまでのようだった。
「我々は任務を続行しなければなりません。あなたはどうされる?」
甘粕に問う石光。ここから出ても無事でいられるとは限らない。留まって様子を見るのも選択のうちではある。
「ふーぅ……どうしたもんかねえ。漏れ聞いた話では、表もあまり愉快な状況じゃないらしいしねえ。……ま、しかしここに居続けるのは、たぶん生贄の順番を待つようなものだと思うんで、表まで連れていってもらえますか?」
シニカルな笑みを二人に向ける。芝居じみたしぐさが、妙に板についた男だった。
「できれば……民間人を避難させる手立てを考えてはくださらんか?」
石光の頼みに
「やれやれ……僕も活劇には過ぎた歳なんだけどねえ。しかし僕以上に歳を食った方が現役では、泣き言は許されないみたいですな」
嘆息しながら遠回しに承諾した。
無人のような警察庁舎を行く。守衛・当直は全て眠っていた。
「……職務怠慢だなあ。それとも、あなたも魔法を使う方なんですか?」
「時代遅れの術ですがね……」
甘粕の問いに苦笑いで答える石光。警察庁舎から出て、三人、闇の中に紛れこむ。
「人を大量に移動させるには乗り物が必要だ。僕は満鉄青年会の連中にあたってみます。こういう場合、重役連より若いのが頼りになりますからね」
それだけ言い残し、暗い市街の方角に別れていった。
甘粕の姿が闇に消えるのを見届けて、ぼそりと洪がもらす。
「……俺が知る限りでは、あまりいい評判を聞かん人物だが……」
「まあな。しかし、黒竜の王に操られていない者なら、あえて頼らざるを得んさ」
石光と洪は、今度は真っ直ぐ神社工事現場に向かった。
◇
神社候補地は小高い丘の上だった。闇の底に白々とした土台が見える。鳥居を乗せる予定だったものか。
「……いくら考えても意味がわからん。溥儀を担ぎ出して清朝の再興を装うのはまだわかる。しかしそれに、何で日本の神社を持ちこむんだ?」
「わしにも理解できんよ……」
洪のいら立たしげな問いに答えながら、実際、関東軍参謀連が考えただろう施策が、石光にもさっぱり理解できなかった。例え満州国が仮そめのものだとしても、好きこのんで現地人の神経を逆なでにすることはないだろうに。
土を掘り下げた場所に、井戸のようなものがあった。のぞいてみると、縦穴が、水平方向に伸びている一本の洞穴につながっている。はしごが設置され、底に降りられるようになっていた。下水道におりるマンホールのような構造だ。
勇んで降りようとする洪をさえぎり、石光は符をとり出した。
「まあ待て。一応、空気を調べておこう」
呪言と共に符を投じると、ふわふわと光を放つホタルに変化した。そのまま下に飛んでいく。と、ホタルの光がオレンジ色に染まり、地面に落ちた。
「む? まずいのか?」
「むむ……本当にまずいのなら、赤い光になるはずなんだが……」
帰還の呪言を唱えると、ホタルはふわふわと戻ってきて、一枚の符に変化した。符に記された記録を詳しく調べてみる。
「空気の成分は問題ないが、何か微量の重金属が含まれている……」
「重金属? 危険なのか?」
「いや、短期間なら問題ない程度だ」
「やれやれ、脅かしやがって」
洪は立ち上がり、地べたに着けていた尻を払った。
「行くぜ」
巨体に似合わぬ身軽さではしごを下りる。
「揮発性の重金属というと、水銀くらいしか思いつかんが……なんでそんなものが?」
首をひねりながら、石光も後に続いた。
底を通る洞穴は一直線で、目印らしきものはない。右と左に暗い穴が続いている。
「こっちだ」
「こっちと思う」
二人反対を指していた。顔を見合わせたが、
「うん。行ってみよう」
石光が洪に譲った。選んだ者の責任とばかり、大男は前に立つ。
懐中電灯をつけて足下を照らし、無造作に進む。直截というか大胆というか……自分なら落とし穴くらいは警戒しながら進むぞ。そんな事を考えながら後を行く石光。
(あるいはわしが歳を取っただけなのかな……)
顔に微かな風を感じる。と、洪が急に足を止めた。洞穴の先は切り落とされたような断崖になっていた。余程広い空間があるようで、懐中電灯の光が届かない。
「ちょっと間違ったようだな……」
照れ隠しか、つぶやいて洪は引き返そうとしたが、
「まあちょっと待て」
石光は断崖になっている穴の先をのぞき込んだ。下方に向けた電灯の光が、わずかに反射されている。小石を取って投げこむと、かすかに水音が響き、光の反射は波の形を描いた。
「地下水か……」
「気が済んだか? いくぞ」
洪から見れば、石光の細心さは歯がゆく思える。それにより幾度か危険を避けられたとは承知しているが。
反対側の洞穴を辿っていくと、今度は何かの構造物が見えてきた。
「これは……!」
それは青銅製の壮麗な門扉だった。巨大な目と神気を表す文様はいわゆる
「す、素晴らしい……この大きさで、まるで継ぎ目がないではないか。何という鋳造技術だ……」
「おい、門はなでまわすもんじゃなく、くぐるものだぞ」
興奮しきって門をまさぐる石光に、呆れて洪がうながす。
「わかっておるわい、まったく……これほどの遺物を見て心が動かんかね」
引き戸の形式になっているようだが、力を加える部分が見当たらない。調べてみると、呪的な封印が施されているのがわかった。石光が符法術で解除を試みる。
「我は土の精、金の母。相生の理をもって因果を導かん。府門解錠、縛鎖千断。急々如律令……」
門はかすかに振動したが、開かない。
「……固いのう。これではだめか……」
「なんだよ、だらしねえな。貸してみろ」
洪が例の要約本をとり出して門の前に立つ。
「……わしの見た限りでは、解錠の呪法は載っていなかったと思うぞ」
「……ああ、俺もそんな覚えがあるな」
言いつつページを繰っていたが、やはり見つからなかった。手帳サイズの本を放り出し、その場にあぐらをかく洪。
「まったく肝心なときに役にたたねえ……。少しは想像力を働かせろってんだ」
要約本を作ってくれた者に愚痴る。
「あ……!」
その時、石光は閃いた。思い出せそうで思い出せなかった事。全てがつながる感覚。
「そうか、それだ! 新式五行だよ!」
意味がわからず目を丸くしている洪をよそに、石光は解錠呪法を組みなおす。書きなおした符を門に貼り呪言を唱えると、何かが壊れるような音が響き、門は独りでに開きはじめた。
「おー……」
素直に感嘆の声をあげる洪に、石光はしわだらけの笑顔を向ける。
「覚えているか? 死霊列車を方陣で解呪した時だ。浄化呪法が予想外に効き過ぎた。列車の装甲のみならず乗っていた者にも効果が及ぶほどだった。黒竜の王は、伝統的な古式五行は知っていても、西欧錬金術から導入された新式五行は知らないんだ。だからそれで組まれた呪法に耐性がなかったんだよ!」
「そうか、そういう事か!」
わかってしまえば当然の理屈ではあった。
二人は口を開いた門の前に立った。暗黒の回廊が、地の奥底に続いている……
「今の世に生きている生物は、遠い昔に滅びた病原体に抵抗力を持ってないんだそうだ。わしは奴を、そんな病原体のような災厄と思っておった。しかし、それは奴にとっても同じ事。我らの技術も相手にとって未知の代物だ。一方的にこちらが不利なわけじゃない……!」
「フン、ま、カラ元気でも最初からびびっているよりはマシだわな。行こうぜ」
闇の回廊に二人、足を踏み入れる。
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