長春潜入

 長春城内からの進軍は、日が落ちてからもしばらく続いた。最後の隊列が城門を出て、門は閉じられた。最後尾の部隊が遠ざかり夜も更けた頃、城壁の土塁に近づく影が二つ。ゆらゆらと輪郭がゆらめき、その姿ははっきりと見定め難い。大きな影が塀を背に立ち、それに向かって小さな影が走り、組んだ手を足場に跳躍して壁を超えた。続いて塀の向こうに通ったロープを伝い、大きな影も城内に消えた。

 内部にたむろしていた兵士は、めっきり少なくなっていた。まるで無人の街のようである。石光と洪は、建物の影を伝うように進み、大まかなあたりをつけておいた倉庫街に向かった。時々洪は足を止め、闇の中の一点を見つめる。


「おいっ……急げ」


 倉庫の鍵を開けた石光のささやきに従い、洪も一緒に中に潜りこんだ。入った倉庫は空き倉庫だった。幸運といえる。


「ふう……ここまでは何とかなったな」


 隠身符の作動を止め、石光が吐息を漏らす。洪は腕組みしたまま仁王立ちで、何か考えにふけっていた。


「どうした? 飲まんのか?」


 ここまでほとんど駆けどおしだった。石光は一口飲んだ水筒を洪にすすめる。


「特佐……気になる事があるんだが」

「む? 気になる事?」

「街のあちこちに、洪門(秘密結社)共通の目印がつけられている」

「なんだと!」


 どっかとあぐらをかいて腰をおろし、洪は水筒に口をつけた。


「プフゥ……場所を示しているようだった。まあ、目印がわかるやつに会いたいって意思表示だな」

「む……先に長春に潜りこんでいる組織というと……あの弓兵の一派だろうか?」

「可能性はある」


 さらに腕組みし、しばらく考えてから洪は語り出した。


「……あいつが属する組織は通称〝黄〟組織という。正式名称は、まあこの際意味がない。あいつは黄三と呼ばれる、組織のナンバー3だった。実働部隊のトップと言っていい。長春に黄組織が潜りこんでいたのは確かだろうが、指揮官役だったろう、あの男が捕らえられたという事は……果たして他のメンバーが無事かどうか?」

「その目印が罠である可能性も大きい、と……」

「まあな。仮に罠じゃないとしても、黄組織は清朝再興に肯定的な者たちだ。〝俺たち〟と方針が同じわけではない」


 再び二人の間に沈黙が落ちた。このサインに乗る事の利益と危険度、損失と安全度を心の中で天秤にかける。だがしかし……全てを見とおす事はできない人の身であれば、結局は賭けるか賭けないかという二択に行きつくしかない。


「……俺は賭けてみたい」


 洪は低く切りだした。


「やって……みるか。わしたちはすでに、かなりの時間を費やしてしまった。もし黄組織の協力が得られれば、挽回できるかもしれん」


 二人は賭けに出る事にした。屍兵にされた自分を想像しなかったといえば、嘘になるが。


   ◇


 洪が目印を読み解くところに従って、二人は市街地のはずれの住宅地に移動した。意外なことに、石組みの住宅が建ちならぶ高級住宅地だった。


「目印からいけば、あそこなんだが……」


 洪の指し示す先に瀟洒なつくりの民家があった。念のため、あたりを一通り調べてみる。監視や呪法的な仕掛けは見当たらなかった。


「まず俺が行く。安全だとわかったら合図を送る」

「わかった」


 先行する洪に何かあったら、石光が助けに入る手はず。いわば命綱役である。素早くドアに忍び寄り、決められた回数ノックする洪。しばらくしてドアの内側から声がかけられ、洪がそれに短く答えた後、扉は開かれた。吸いこまれるように中に消える。

 中世の修道院のように、フードをかぶった女が洪の前を導く。奥の部屋に入ると明かりをつけ、フードを下ろした。顔を見合わせる二人。


「……まさかあなたが来ているとはね、白二……」

「黄の者だな。確か……」

「黄八。あなたが知っている頃より序列が上がったわ。今では私程度の者が一桁よ、お笑いね」


 シニカルな笑みを浮かべる女。整っているが、憔悴した危うさを感じさせる面立ちだった。年のころは二十代半ばか。洪は窓から合図を送って石光を招き入れる。

 目の前に立った老人に、女は眉をひそめた。


「……白二、まさかあなたが日本兵とつるんでいるとはね、驚いたわ」


 抑えた調子の言葉だったが、トゲがあるのは隠せない。


「あー、こいつはだな」


 思わず洪が弁護の声をあげたが、


「ご不快は当然と思うが、今は忍んでご助力願いたい……」


それをさえぎり、石光は女に深く頭を下げた。


「……いいでしょう。些事のうちです」


 言葉とともに二人に席を勧める黃八。卓上に城内見取り図を広げ、情報を交換する。彼女は長春での潜伏生活が長いようで、さすがに城内の情報に通じていた。


「民間人は無事なのですか?」

「ほとんどは無事よ。ただ、自宅ではなく清真寺などの場所に集められ監視されているわ。そして工事や軍の下働きを強制されている」

「無事……というのは、〝卵〟を飲まされてはいない、と?」


 洪に視線を向ける黄八。それを知っているのか、という顔。


「民間人で〝あれ〟をやられた人はほとんどいない……。あの、化物のような老人の魔力は底知れないけど、無制限に符を作れるわけではないみたい。恐怖で支配できる相手には、符は節約する。……考えてみれば当然かもね」


 彼女の言葉に、ほんの少し胸が軽くなる二人。なんとか、民間人だけでも助けられないものか……


「軍事や行政の責任者クラスは、どこにいるのでしょう?」

「軍事のトップは本郷正武大将。行政のトップは沢伸也。どちらも〝卵〟を飲まされたという話だけれど、本郷大将は呪縛を逃れられたという話よ。沢は今では忠実な老人の手先。本郷は、おそらく首都警察庁舎の牢屋に監禁されていると思う。中国側の要人は……鄭孝胥ていこうしよが老人に刃を向けて卵を飲まされた。現在、沢と一緒に働かされているわ。他の高官は自宅に軟禁状態よ。実質的な権限を持たない連中だったから」

「〝黒い竜の王〟は大同宮に収まっているわけだな?」


 洪の言葉に顔を上げ、眉根を寄せて見つめる黄八。


「徳江も同じ名前を口にしていたわ……本当なの? おとぎ話ではなくて?」

「む? 徳江……」

「黄三の本名よ、孫徳江……もう隠しても意味がない」


 目を伏せて語る痛みのこもった表情に、石光も洪も、彼女が〝黄三〟に思いを寄せていたことを察した。


「私たちは、長春を脱出してきた溥儀皇帝一行を手助けいたしました。その際に色々とお話をうかがいまして、皇帝家の言い伝えに、黒い竜の王の昔話があったと聞きました」


 石光の言葉に、彼女は目を見開いて顔を上げた。


「陛下たちは逃げおおせたのね⁉ ああ……」


 安堵した表情が、突然硬くなる。何かに思いついたという顔。


「では、あなたたちは……徳江たちと会ったの……?」


 その言葉は彼女が、恋人が屍兵に変えられ追っ手にされたのを知っているという事だった。洪が重々しく口を開く。


「俺が奴を解き放ったよ。強かった……掛け値なしに、な」

「……そう……ありがとう。彼も……本望だったと思う……」


 抑えきれない嗚咽が漏れ出した。彼女の涙がおさまるまで、しばし座は中断された。


   ◇


 立ち上がり、厨房に入る黄八。おかまいなくという石光を無視して、お茶の用意をした。……何かをした方が、気が紛れるという事か。

 お茶のぬくもりに一息ついた後、彼女は二人に尋ねた。


「立ち入った事を聞くけど、あなたたちの目的は何?」

「一言でいって情報収集ですな。長春内部の様子は、つい先日まで全くわかりませんでしたから。それと……可能ならば、現在満州奥地を覆っている通信障害を解消できたら、と思っています。これは、〝黒い竜の王〟の魔術による現象と予想してますので」


 淡々と石光は答えた。洪はしばらく考えてから口を開いた。


「……まあ、情報収集ってのは特佐と同じだな。内情がわからん事には何ともしようがない。それに通信障害解消ってのも同意する。現状では、得た情報を送るのも一苦労だからな」


 二人の答えに、目を伏せて彼女はつぶやいた。


「……敵の首領を一挙に葬るというのは、念頭にないと?」


 男二人の表情がこわばる。確かに、「頭をつぶせ」は喧嘩のセオリーだが……


「黄八、それは……」

「お嬢さん、心中察するに余りありますが、敵の魔力は強大で、どんな術を駆使するかわからない。その上、すでに軍団を麾下に従えています。芝居のような一騎打ちはあり得ませんぞ」


 石光の、筋の通った説得だったが……彼女は卓上に目を据えて、首を振るだけ。


「わかっている……わかっているわ。近づくこともできない相手に、仇討ちなど……。でも……でも」


 口元を押さえて伏せた顔に、白く涙の筋が光った。


「徳江の敵を討つ。それだけが今、私が生きている意味……。あの人が屍兵に変えられて、南門から出て行くのを見た時、私の心は死んだんだ。あの化物に一矢報いてやる事もできないのなら、生きている意味さえない……」


 顔を伏せたまま肩をふるわせる彼女に、かける言葉もなく沈黙が流れる。


「……ごめんなさい。話を聞いてくれてありがとう。あなたたちの任務が、うまくいくのを祈ります」


 彼女は話を打ち切り、卓上の地図をたたんで洪に手渡した。と、その手を石光が握った。


「どうするおつもりか」


 老人の目に、珍しく怒気が見える。


「……蜂の一刺しを見せてやるまで。あなたには関係ない事だわ」


 柳眉を逆立て、石光の目を見返す。


「一人で〝老人〟に斬りかかるつもりか? あなたは相手に触れる事もできずに捕らえられ、死体兵にされるだろう。老人にしてみれば笑いが止まらん。己の手駒が増えるだけだ。そんな事に使うほど、あなたの命は安いのか? 冗談じゃない!」

「な……」

「わしならそんな使い方はしない。敵を喜ばせるだけの命の捨て方など、まっぴらだ! 相手が強大な力の持ち主で、剣で抵抗できないというのなら、わしは嫌がらせのために生きてやるね! 敵の戦力を減らし、進軍を遅らせ、兵粮を腐らせるのに全力を尽くしてやるね! ああ、相手が嫌がる事なら何でもやってやる! 悪評をたて、キセルを詰まらせ、サイコロに穴を開け、風上で屁をこき、黒板をひっかき、寝所に水をまき、厨房の塩と砂糖を入れ替え、歩く先に鋲を置く! わしならそうしてやるとも!」


 顔面真っ赤でまくし立てる老人に、あっけに取られて見入る黄八。洪もやや、あきれ顔である。


「相手が怒り、嫌悪し、鬱陶しがるなら上等だ! 一刺しで終わる蜂ではなく、耳元で鳴る蚊の羽音のように、神経を逆なでし続けてやる! 心安らかに眠らせてなどやるものか! 伝説の怪物相手だろうが、わしの命は安売りせんぞ! 力及ばぬ相手だろうが、目の玉飛び出るほど高く、己の命を売りつけてやるわい!」


 ぜえぜえと息を切らす石光を前に、黄八は手で顔を覆い……クスクスと、そして肩をふるわせて笑いはじめた。


「あははははははは! くふっくっくっくっ……」


 押さえきれず、声をあげて笑ってしまった。どれほど久しぶりだったろう。


「くくく……そう……そうね……あんたの言うとおりだ。あの化物を喜ばせるだけの死に方なんかまっぴらだわ。生きて、生き抜いて、あいつの企て全てを妨害してやる! 私の命はそんなに安くない!」


 彼女の双眸に再び光が戻っていた。見守っていた洪も、ゆるりと口元をほころばせた。ヒゲに隠れてわかりづらかったが。

 三人は再び地図を卓上に広げ、向き合った。


「無線封鎖を解除したいと言っていたけど、あなたたちの狙いは、やはりあの巨木?」

「気づいておられたか……」

「私たちは、あれを、老人の意志を死体兵に伝えるための設備と考えていたわ。無線障害は、言わば副次的なもの。で、破壊を試みたけど……」

「まだ突っ立ってるって事は、失敗したんだよな」


 洪にうなずき返す黄八。


「爆薬を仕掛けるのと同時に、浄化方陣を組んで起動させた。樹皮はかなり剥がれおちたけど、再生が速すぎて……。おそらく地上部を力尽くで破壊するのは、難しいと思う。徳江は、地下の根に呪法のポイントがあるはずだと予想していたわ。あれが呪法の産物である以上、魔力を供給するポイントがあるはず」

「なるほど……あの巨木の下にトンネルか何かが通じていると?」


 石光の質問に、彼女はしばし考え込んだ。


「これは未確認な話なんだけど……日本軍が工事を始めた『神社』だったかしら? あれの工事現場から、古代の遺跡が見つかったと聞いているわ」

「遺跡だと?」


 洪の声に、石光の脳裏に溥儀の告白がよみがえる。


『……神宮建設の、穴の前で……修法を行えと命じられた……。封魔縛妖の法鎖を、断ち切る業……。余は……余は、日本人が押しつけた社の前で、完成が待ちきれぬなどと追従を吐いて、穴の前に額ずき、それを……』


「調査すべきか、それとも工事を優先して無視するべきか、軍の連中でも意見が割れていたみたい。もし……その遺跡というのが相当な規模で、あの木の根元まで続いていたら……」


 彼女が指し示す地図上の二点は、確かにそれほど離れてはいない。


「くせ者を掘り返しちまったのは日本軍ってわけか……」

「そうらしいなあ、申し訳ない」

「言ってもしょうがねえ。俺らが考えるべきは、これからどうするか、だ」


 どうやら目指す場所は定まった。神社建設現場。そこにおそらく地下への入り口がある。溥儀の言葉によれば、老人もそこから現れたという。


「では……行きましょうか」


 立ち上がる黄八。三人一緒に向かうとすでに決めているようだった、が……


「黄八……正直なところを聞かせてくれ。長春内に潜伏している〝黄〟の者は、何人いる?」

「……」


 洪の質問に、しばしの沈黙。それは秘密のためというより、お互い何を考えているかが、おおよそわかるからだった。


「私一人よ……。他の結社の者が入りこんでいる可能性もゼロではないけど、目印をつけてから訪ねて来たのは、あなたたちが初めてだわ」

「……すまんが……残ってくれないか」


 予想通りの洪の言葉に、彼女はうつむいた。女だから? 力不足だから? いろんな言葉が胸中にうずまく。


「お嬢さん、あなたには、アンカーポイント役を勤めてもらいたい。後から来るかもしれない者たちのために……。我々は長春に潜入して、かなりな期間情報収集にあたらなけれなならないと思っていた。それが、今夜この場で知りたい情報がほとんどそろってしまったのだ。これが潜入工作員にとってどれほどありがたい事なのか、あなたならわかるはずだ」

「俺たちが向かうのは、正直、ほとんど決死隊の役割さ。三人そろって突入して全滅しちまったら、そこで話が終わっちまう。そいつは利口なやり方と言えねえや」


 何かに耐えるような沈黙のあと、彼女は顔をあげた。


「そう……ね。あなたたちが正しい。それがあなたが教えてくれた、『私の命を一番高く売りつける方法』ね」


 石光に向かい、黄八は吹っ切れたような微笑を返した。


「今、思い出したけど、神社の工事現場に日本軍の高官が連れて行かれるのを見たという情報がいくつかあったわ。奇妙なのは……行ったきりのようなのよ。不確定な情報ばかりでご免なさい。現状、私一人では、城内の限られた情報しか集められないの」

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