明と暗

 石光と洪は、川島が残してくれた地図を頼りに街道を北上した。できれば間道を使いたい所だが、彼女が抜けた後でそれは望めない。代わりにできるだけペースを上げて、時間の短縮でリスクを減らすことにした。

 長春に近づくに従って、低い耳鳴りを感じる石光。ふと見ると、洪もまたしきりに耳をほじっているので声をかける。


「どうも耳鳴りを感じるんだが、君はどうだね?」

「あんたもか? こいつが〝場〟の魔力ってやつかね」

「場の魔力?」


 聞いたことのない言い方に問い返す。


「俺の身内で、呪法研究担当の女が言っていた。何でも、物理学では〝場〟の理論とかいうのがあって、それを借りたんだと」

「はあ……」


 かえって分からなくなってしまった。


「磁場とか電場とか、そんな言い方があるだろう。電波もその一種だと。それを魔力に置き換えた概念、だとさ」

「ふぅん……」


(要するに魔力の電波、か。それが通信障害を起こしているのなら、発信アンテナのような施設があるんだろうか?)


 想像外の魔術概念を説かれて、自分が時勢に遅れた人間だと改めて思い知らされる石光三郎。ふと、洪も伝聞形で解説したのに気づき、彼もどうやらご同輩と心中笑みを漏らした。

 敵との遭遇を警戒しつつ、なかば覚悟していた二人だったが、意外にも更なる追っ手はなかった。考えてみれば、溥儀に〝黒い竜の王〟を再封印する術がないのなら、〝王〟にとって危険はない存在といえる。さし向けた追っ手は、あくまで己の思いどおりに行動しない者への制裁だったのだろう。または、人の苦悩自体を喜びとするねじ曲がった感覚のためか。どちらにせよ、〝王〟にとって再度追っ手を送るほどの理由はなかったのだろう。

 行程を早めて二日目の夕刻、二人はついに長春市街を見おろす丘の上に立った。


「なんだ、あれは……!」


 石光の記憶にある長春の姿は、すでに三十年近く昔のものだが、人為的な建設・発展外の異物が市街中央にそびえ立っていた。異様な樹高の巨木。目視の限りでは百メートル近いと思われる。


「……初めて見たよ。満州国建国記念の植樹かね?」


 軽口をたたく洪だったが、樹を見据える目は笑っていない。呪法兵としての訓練を受けた二人の目には、葉の落ちきった巨木の枝に燐光がゆらめいて見える。巨木全体が魔力を帯びている証だった。石光の脳裏に直感が閃いた。


「あれが……魔力のアンテナか⁉」


   ◇─────◇


 奉天師団司令室。

 扉が開き、両腕を衛兵に捕まれて川島芳子が連れられてきた。左頬が腫れあがっているのが痛々しい。志羅山中将は席を立ち、ゆっくりと歩み寄って、川島の顔をのぞきこんだ。


「……ふん、女狐が生きておったとはな」


 川島一行は奉天師団の偵察部隊に捕らえられたのだった。市街地近くまで車で移動し、乗り捨てて避難民になりすまし潜りこむ計画だったが目算がはずれた。奉天師団は彼らの接近を事前に知っていたかのように、偵察部隊をあちこちに派遣していたのだ。


「日本軍に逆らおうとしなければ、長生きできたものを……」


 嘲笑まじりの志羅山に、無言を返す川島。志羅山は、思わせぶりに重々しい足取りで彼女の前を左右に歩き、顔も見ずに告げた。


「お前はすでに死んだことになっている……」


 志羅山の言葉はつまり、彼女のなり行きを決めるのは自分の胸先三寸という宣告。


「……ワシの物になると誓えば、別な名前と身分を与えて生かしてやっても構わんぞ?」

「ふん……」


 横目で視線を向ける志羅山に、彼女はあからさまに侮蔑を込めた嘲笑を返した。志羅山の顔に朱が走る。


「連れていき、独房に放りこめ!」


 川島が連行されていった後、志羅山は副官の矢島大佐を呼び出した。


「溥儀たちはどうなっている?」

「ヤマトホテルに押しこめてあります」


 婉曲な言い方をしようともしない矢島。奉天師団の満州国皇帝に対する認識が知れた。


「尋問の進捗はどうか?」

「溥儀の方は要領を得ないようですが、溥傑は素直にとり調べに応じています。夕刻には報告書にまとめられるかと」

「よろしい、午後五時に司令部会議を開く。議題は新京進攻作戦だ」


 志羅山の宣告に、驚愕の表情を浮かべる矢島。


「は……進攻作戦……ですか?」


 言葉に否定的なニュアンスを嗅ぎとった志羅山。司令席に腰かけ、傲然とまくし立てた。


「すでに死体兵への対抗策はできている。焼夷砲弾の数もそろった。ここで敵の内情が明らかになれば進攻を遅らせる理由はない。時間をかければ敵の準備に利するだけだ」

「しかし……閣下、現状のわが兵力では……」


 なおもしぶる矢島。無理もない。客観的に見れば矢島の意見の方が正しい。志羅山は立ちあがり、窓辺に歩み寄る。矢島に背を向けたまま、忍び事を語る口調で続けた。


「矢島くん……満州国の反乱は、もう終わっていると思わんかね? 溥儀が〝あちら側〟にいるからこそ、〝満州国反乱〟などと言われていたのだ。溥儀がこちらの手もとにある以上、ワシたちが〝満州国〟だ。ここに満州国の形を整えればいい。〝あちら〟は……消し去って、な」


 矢島は戦慄した。志羅山は、つまり、新京を全て焼き払うつもりでいる⁉


「会議を招集したまえ」


 肩越しにかけられた志羅山の冷たい一言に、矢島は無言で敬礼を返し司令室から駆けだした。


   ◇─────◇


 石光と洪は、川島が地図に記した最後の補給小屋に身を隠し、長春市街地の様子を探っていた。馬賊組織が用意したものだけあって、市街地を見おろす丘の上に作られており、隠れて監視できるようになっていた。小屋と書いたが、斜面を利用して掘られた石室いしむろと言った方が正確だ。

 防塁に囲まれた城内は、おびただしい日本兵がたむろしている。明らかに新京警備隊の規模を超えていた。北方の都市から流入した部隊だろう。あの中でどれだけの人間が本当に生きているのか。遠くから双眼鏡で眺めるだけでは、はっきりとわからない。潜入しようにも、監視の数が多すぎて踏み込めない。そんな状態で三日が過ぎていた。


「ラチが開かんな……」


 気の短い洪は、すでに焦れていた。


「夜を待って突っこむか? 人間二人が隠れる場所くらい、探せばあるだろう」

「うむ……」


 石光としては慎重を期したい。城内の警備に、呪法に反応する人・設備がどれだけあるのか。民間人はどこにいるのか。彼らはどういう手段で監視されているのか。知っておきたい事は山ほどある。しかし、現状では待ち続けて事態が好転する見込みもない。


「思い切って、隠身の符を使って潜りこむか……」

「そんなもんがあるのか? さっさと言ってくれよ」


 洪の気楽なセリフに、石光は渋い顔を向ける。


「それほど便利なものじゃないぞ? 夜間の森林地帯なら効果が見込める程度のものだ。わしの現役時代は、〝迷彩符〟などと言われていたよ」

「なんだよ、頼りねえな……。まあ、ないよりマシだ」


 石光は双眼鏡をしまって小屋の中に入り、卓に向かった。図嚢から白紙の呪符と筆記用具を取り出す。


「呪言を組み立て、呪符に起こす。三十分といった所だな。言っておくが、一人一枚しか持てないぞ」

「ああ、あんたは自分で呪符が作れるんだな。年の功ってやつか」


 思わず洪の顔を見あげる石光。


「君は自分で……」

「俺は本来、武術が専門なんだよ。結社の流儀で呪法修行もしたが、自分で符を組みあげるところまでは行っていない」

「では、あの防弾符は……」

「仲間が作ってくれたもんだ。前に話したと思うが、呪法研究専門の奴がいてな」


 そんな事情だったのか。まあ、この男らしいかな。妙に納得する石光。


「……しかしそれでよく、死霊列車相手の解呪方陣が組めたものだな」

「方陣呪法の要約本で何とかなったさ。実際、効果はあったんだから文句なかろう?」

「はいはい、無いよないよ。……良ければ、その要約本、後で見せてくれんかね?」


 さすがにこれには洪も渋面になったが、


「……ちょっとだけだぞ」


意外にも承諾した。石光に符を作ってもらう礼の意味もあったのだろう。

 符を用意した後は、暗くなるのを待つだけだ。洪が城内の見張りをしている間、石光は洪の呪法要約本に見いっていた。よくできている。取りあげる神仙術・陰陽術を厳選し、凝縮してある。しかし……


「〝新式五行〟一点ばりなんだなあ……」


 思わずぼやく石光三郎。新式五行とは西欧錬金術の影響から生まれた「地水風火霊」。対する古式五行は「木火土金水」の伝統的なもの。現代陰陽術においては、その二つが併存していた。〝もの〟を〝元素〟的に捉えた新式五行は物質破壊の呪法に効果的であり、移り変わる〝相〟として捉えた古式五行は治癒や浄化の呪法に効果的だった。要約とは切りすてる事の別名だから、片方だけ取りあげているのは仕方ないのかも知れない。しかし古式五行がきっぱりと無視されているのは、自分の使っている陰陽術が時代遅れと言われているようで少々寂しい。とは言え、近代兵器の威力の前では、新式も古式も五十歩百歩でくくられてしまうのだが……


(しかし……何か引っかかるな……)


 白髪頭をかき上げ、首をひねる。何かを、思い出せそうなのに思い出せないような、そんな違和感が離れない。……何か、閃きそうになった時


「特佐! 動いたぞ!」


洪の緊張した声が飛びこんできた。あわてて表に出て、双眼鏡をのぞく。

 長春の城門が開き、部隊が出動を開始していた。おびただしい歩兵と車両、戦車の群れ。


「なんて事だ、間に合わなかったか……!」


 石光のつぶやきに苦悶が混じる。こんな事態を避けたいと思い、ここまで老躯を駆ってきたというのに。大部隊は南方に向けて進軍している。奉天を力尽くで占領する目的か。


「……ざっと見て、万は超えているな。どれだけの数が動くやら」

「く……」


 この大部隊が奉天師団とぶつかったら、どれだけの犠牲者が出るだろう。石光の脳裏に藤原少佐や佐藤中尉の顔が浮かんだ。佐藤などは石光にとって、ほとんど孫の歳である。


「……考えすぎるな、特佐。人間にできる事などたかが知れている。むしろ、これで長春に駐留する人数が減って動きやすくなると考えた方がいい」


 洪が老人の苦悩を見かねて声をかける。


「……そうだな。それしかないか……」


 〝戦争〟がひとたび動き出したら、一人の人間の手でその行方を変えられるものではない。石光も身にしみてわかっている事ではあった。城内に潜入し、一刻も早く無線封鎖を解除する。それが成功すれば、戦闘の犠牲者を少しでも減らす事ができるかも知れない。


   ◇─────◇


 奉天、ヤマトホテル。

 溥儀は最上階に、溥傑・浩夫妻は階下の一室に軟禁されていた。部屋の前には当然警備兵が張りついている。奉天師団出撃の影響で人員は減ったが、それでも警備に相当数の兵員が割かれていた。

 警備責任者の憲兵大尉のもとに、老婦人が面会許可を申しこんで来たという報告が上がってきた。


「浩夫人の学生時代の担任教師だそうです。現在、奉天の女学校勤務だそうで、浩夫人が奉天を訪問されていると聞いて懐かしくなり訪ねて来た、とか」

「ふーむ……」


 部下の報告に考えこむ憲兵大尉。溥儀、溥傑への面会申請なら問答無用で断るのだが、浩夫人は嵯峨侯爵家の出身である。恩師というのを無下に扱っては、後で面倒な事になるかも知れない。


「……許可する。短時間だけだと伝えろ」

「はっ」


 部屋に通された老婦人の顔を見て、浩の表情が一気に明るくなった。


「まあ、松田先生!」

「浩さん、お久しぶり。なんてまあ、お綺麗になられて!」


 二人手を取り合い、再開の挨拶を交わす。浩の目には涙が浮かんでいた。松田女史は、そばに立つ監視の兵に非難の視線を投げかける。


「あら、浩さんと二人にしていただけないかしら? 女は涙を見せる相手は選びたいものですのよ?」

「……」


 役目としては監視し続けるのが正しいのだが、上司が『嵯峨家を怒らせる事もないか』とつぶやいていたのを思いだす。兵は一礼して部屋の外に出た。


「先生……先生……ありがとうございます。私たち、兵隊さんに囲まれて……。外も自由に出られなくて……本当に、どうしていいのか……」

「浩さん、お気を確かに。心を強くもって。きっとこんな事は長続きしませんからね。ええ、続くはずがありませんとも」


 声を励まして浩を力づける松田。浩の嗚咽が収まってくると、別な用件を切り出した。


「浩さん。溥傑殿下は別室に? せっかくですから、殿下にご挨拶したいのですが……」

「え……でも、松田先生……」


 言いよどむ浩に、松田はポケットから出した紙片を示した。


『大事な用件です』


 思わず目を見張る浩。それは盗聴されている事を前提とした行為だ。新京でほとんど関東軍の監視下にあった浩は、すでにその辺の勘所ができていた。


「……ええ、わかりました。ぜひ会っていってください。私の口から申すのも何ですが、自慢の夫ですの」


 笑顔を作りながら浩は言った。……「聞かせた」というのが正しいかもしれない。

 溥傑の部屋に案内された松田女史。如才なく丁寧な挨拶をする。対する溥傑は、老婦人の訪問の目的を図りかねて困惑顔だったが、浩の目くばせに何かあると察し、向かい合って卓に座った。


「まあ浩さんは本当に立派な方に嫁がれて。教師というのは、教え子の良縁は何より自慢なものなのですよ、ほほほほ」


 にこやかに語りながら、松田のポケットから出された紙片を見て、溥傑の表情が変わった。


『石光特佐は、皆さんをどのように処遇しようと?』


 溥傑は一瞬、相手の素性を疑ったが、目の前の老婦人が冷や汗を浮かべながら社交辞令を並べているのを見て、即座に決意を固めた。


「いやいや、私も自分の幸運に驚いておりますよ。まさか日本の令嬢と、このような良縁に結ばれるとは。運命とは味なものですな」


 言いながら紙片に書きつける。


『各国大使に新京内部情報の公表。我々に証言を望む』


 紙片をポケットに入れ、松田女史は溥傑と怪しまれない程度の会話を重ねた……

 帰り際、松田は浩の耳元に口を寄せ、


「もう少しの辛抱です。がんばって……」


そうささやいて、立ち去っていった。

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