新京(長春)の僭主

 翌朝、村人に見送られ、石光一行は再び北上を再開した。水・食糧はもとより、馬を交換できたのはありがたかった。開拓村の住民は、すぐ奉天方面に引き揚げる手はずである。


(しかし……街道を死体兵が往来しているのでは……)


 ここから先は、日本人・満人含め、村が残っている可能性は低いとみるべきだろう。一行は街道で敵と遭遇するのを避けるため、なるべく川島の知っている間道をたどって進むことにした。多少時間がかかっても、敵とぶつかった場合のロスに比べれば大した事はない。


   ◇


 数日後、間道を抜け丘の稜線に出たとき、


「ああ……」


川島が落胆の声を上げた。地滑りで灌木の茂みが崩れ、隠し小屋が露わになっていた。隠すという行為は偽装がなくなると、あからさまに「ここに何かありますよ」というサインに変わってしまう。小屋に入ると、案の定、何ものかが物資を持ち出した痕跡があった。全て奪われてはいなかったのが、不幸中の幸いである。


「やれやれ、残してくれてありがとう、と言うべきかな」


 おどけた洪のセリフには、しかし、それなりの実感がこもっていた。こんな状況では当然といえよう。と──川村が物資置き場の一角を見据え、動かない。


「どうしました?」

「銃が……残っています」


 川島の答えに、思わず石光もその場を確認する。ここを漁ったのが馬賊・匪賊の類いなら、武器を残していくのは、ちょっと考えにくい。川島は奪われた物を具体的に調べてみた。水と食糧が、石光一行の旅程として、ほぼ三日分。そして小銃一丁と弾薬が少し。


「これは……数名の一般避難民がここを見つけたと……」

「シロウトの少人数が漁ったか……」


 川島と洪のセリフがかぶったが、言っている事は同じである。一般人の、おそらくは長春方面からの避難民が、逃げてくる途中でここを漁ったと思われる。となると彼らはまだこの付近にいるかもしれない。


「おそらく避難民が通るのは街道側です」

「む、探してみよう」


 三人は街道側に向かう。一休みの気配を感じていた馬が、鼻を鳴らしてぐずった。


「長春側からやってきたのが、避難民とは限らないぜ」

「うむ。しかし、軍人・軍属だったら、やはり銃は見逃さないと思うのだが……」


 言葉を交わしながら、三人は街道に出た。そろそろ長春に近いあたりで、道はそれなりに整備されている。南下する方向に進むと、ほどなく立ち往生している車が見えてきた。


「何だ、ありゃあ?」


 素っ頓狂な洪のセリフは、車の姿を指している。ロールスロイス・シルバーゴーストのリムジン。しかもかなり派手な装飾がされた代物だった。荒涼とした田舎道で、きわめて場違いな光景に見える。


「何であんなものが……」

「これは、ひょっとして……!」


 川島が馬の歩を早めようとしたとき、


「待てっ!」


洪が大声で制止した。険しい顔を後方に向けている。


「これは……!」

「気をつけろ、特佐! 川島!」


 後方から異様な気配が迫っていた。呪法兵なら気づかずにはおれない魔力の塊。洪と石光の緊張に、川島も状況を察した。強敵が迫っている。おそらくはロールスロイスへの追っ手。


「川島くん、これを!」


 石光は十四年式拳銃を抜き、放り渡した。


「弾丸に浄化呪法が込めてある!」

「助かります!」


 川島は馬から下り、後方に走らせて逃がした。自分は道脇の草むらに身を隠す。洪は騎乗のまま双手帯を抜き、石光は図嚢から符をとり出した。

 後方から六騎が、ゆっくりと近づいて来た。前をゆく五人は拳銃を捧げ、後方の一人は、時代がかった事に弓を構えている。全員生者の顔ではない。幾人かは、眼窩からしみ出した腐汁が、まるで涙の筋のようだった。

 石光が符を放った。見る間に数羽のカラスに変化し、敵の前衛に襲いかかる。屍騎兵たちは、追い散らすように拳銃を連射した。と、その時、後方の弓兵が矢を放った。大気の中を闇の筋が貫き、魔力の衝撃波が走る。カラスの式神ははじけ飛び、符に戻ってチリチリと燻った。

 敵の指揮官役は後方の弓兵だ。それも、今まで会った連中を遙かに超える魔力を帯びている。相手を見やる洪の顔に、驚愕の表情が浮かんだ。


「黄三……⁉ ぬうぅ!」


 洪が符をとり出して放った。呪言と共にはじけ飛び、赤い光の筋となって洪と馬をとり巻く。秘密結社紅槍会お得意の防弾呪法だ。拳銃弾程度なら高確率で防ぎ、逸らしてしまう。しかし符の所持に数の制約があり、再制作に多大の時間がかかる。〝重い〟事でも有名な符法術だった。


「おおおおお!」


 雄叫びをあげて突っ込む洪。屍兵の前衛が隊列を乱した。その間隙を、彼らに目もくれず素通りする。指揮官役を一気に討ち取る腹づもりか。

 弓兵が放った矢が、その軌跡を暗紫色に染める。鮮紅色の闘気をまとった双手帯が呪矢を弾いた。一気に弓兵に肉薄する洪。弓兵がさらに放った。弓弦の音は二回。一の矢を弾いた洪だったが、二の矢が馬の眉間を貫いた。もんどり打って崩れおちる。肉食獣のような身ごなしで跳躍し、着地して洪は身構えた。

 前衛の屍兵たちは、素通りした洪に注意が逸れた。その時を逃さず川島は路上に飛び出し、しゃがんで立てた膝に肘を乗せ狙いをつける。放った銃弾は、ものの見事に屍兵を射落とした。拳銃で通常狙える距離を超えている。彼女の腕に改めて舌を巻く石光。自分が敵をひきつけ、彼女が後方から仕留める。その戦術を即座に決意した。符を放ち呪言を唱えると、石光の騎乗姿が歪んで見えだした。そのまま横っ飛びに街道の脇にそれ、敵の注意を引きつける。川島も無言で石光の意図を察した。彼を前面に立てながら、射線に重ならないよう注意して距離を詰める。ばらばらな銃声と、時を刻むような一定間隔の銃声が入り交じって轟いた。

 騎乗の弓兵に、猛然と踏み込む洪。斜めに構えた双手帯で、さらに一弾をはじき逸らし、馬ごと相手をなぎ払った。短いいななきと共に馬の首が飛ぶ。馬上の男は後方にバック転して斬撃をかわした。着地と共に弓を捨て、剣を構える。

 血の気と表情を失った男の顔は、それでも生前の面影を残していた。それはまだ死体兵になったばかりで、生前の知識・技量を残している事を意味する。

 向かい合う洪は、双手帯の間合いの優位にも関わらず慎重だった。弧を描くように歩を進め、距離を縮める。男の構える剣はゆらゆらと、捕らえどころがない。螺旋の軌跡を描き近づく二人が、二つ巴の形に交錯した。響くのは空を裂く音と小さな金属音。男の剣は洪の双手帯と正面からかみ合わず、逸らし、いなし、翻弄する。洪の刀術も達人級と言っていい。しかし相手の技の精度はそれをも上回っており、次第に洪に負わせる手傷が増えていく。恐るべき剣技の冴えだった。


「洪!」


 前衛を片付けた石光が駆けてくる。


「手を出すな!」


 相手を見据えたまま叫んだ洪だったが、男の注意が一瞬石光に逸れた。


「ハァッ!」


 気合いと共に切りつけた双手帯の、刀の部分が外れ飛んだ。思わず両手を添えて防ぐ男。初めて明確な金属音が響いた。それに重なる打撃音と骨の砕ける音。双手帯の柄が男の利き手を打ち砕いていた。剣が地面に落ちる。

 屍兵の顔が、一瞬笑ったように見えた。


「……シッ!」


 男ののど元を貫いた柄から鮮紅色の闘気が流れ、屍兵の中心を貫いた……

 双手帯から刀部を外し飛ばすのは、一か八かの隠し技だった。男の遺体の横に膝をつき、瞑目して手を合わせる洪復龍。

 勝負がついた瞬間に、男は抵抗するのを止めた。その気になれば、もう数合は洪の攻撃を流せただろうに。こわいヒゲの間から、ため息と共につぶやきが漏れる。


「……お前をこんな風に変えた奴も、武術者の誇りは奪えなかったな……」

「……知り合いなのか?」


 彼の様子から何かを察した石光。


「……味方になった時も、敵になった時もあった。そういう相手だ」

「そうか……」


 残念ながら、彼らを丁寧に葬る時間はなかった。最低限の清めの修法を施し、二人はその場から離れた。


「やれやれ、手こずったもんだ……傷は大丈夫か?」

「浅手だ、大した事はない」

「馬をやられたのは痛かったですね。逃がした子が戻ってくれればいいんですが……」


 語り合いながら道をもどる三人。実際、馬一頭失ったのは大きかった。敵の馬は、それも〝死体〟で、奪って使えるものではなかった。先行きを思いやりながら、ロールスロイスに歩み寄る。


「そこで止まれ!」


 声があがった。丸メガネの男が、車のドアを盾に小銃を構えている。


「あなた……待って、あの人たちは敵ではありません。追っ手を退治してくれたじゃないですか」

「しかし味方とは限らない。ここは私に任せなさい!」


 車内から女の声が聞こえた。どうやら夫婦づれらしい。川島が声をかける。


溥傑ふけつ殿下……ですね? おわかりになりませんか? 顕㺭けんしです(愛新覚羅顕㺭、川島芳子の本名)」

「な、なに……⁉」


 声の調子が、驚愕のそれに変わる。男は銃を下ろして立ちあがり、川島の顔を凝視した。


「顕㺭……無事だったのか⁉ 君は亡くなったと……」


 微笑んでうなずく川島。男はふり返って、車内に叫んだ。


「陛下! ひろ! 顕㺭だよ、分かりますか!」

「何……!」

「ええ⁉」


 声と共にドアが開き、中肉中背の男が恐るおそる顔をのぞかせた。目の下にクマが濃くやつれた顔だが、満州国皇帝、愛新覚羅溥儀ふぎその人だった。


   ◇


 数度、川島が口笛を吹いて呼ぶと、逃がした馬が戻ってきた。


「よーしよし、良い子だ、いい子だ」


 声をかけながらたてがみを掻いてやると、気持ちよさそうにブルブルと胴震いする。石光は彼女の馬扱いにも舌を巻かざるをえなかった。増延村の馬ならともかく、途中で交代させたものだというのに。あるいは騎馬軍団として名を馳せた満州人の血統は、彼女に一番色濃く受け継がれているのかも知れない。そんな事を思った。

 派手なロールスロイスは満州皇帝の御料車だという。逃亡者は三人。溥儀と弟の溥傑、そして溥傑の妻、浩。川島は、溥儀の妃、婉容えんようの行方を問いたかったが、まず三人を隠れ家に移すのが先決と、あえて胸に押しこんだ。車を草むらに隠し、溥儀と浩夫人を馬に乗せ、隠し小屋まで戻って再偽装する。大わらわだった。

 ようやく小屋に落ちついて温かい物を口にできる頃には、日はとっぷりと暮れていた。


「さて……いくつかうかがいたいのですが、よろしいですかな?」


 石光は三人に簡単な挨拶のあと、やんわりと切りだした。無論、内心は相当にはやっている。長春内部の情報を得るのは事件後初めてと言っていい。


「何なりと」


 返事をしたのは溥儀の弟、溥傑だった。皇帝の溥儀に直接受け答えをさせるのは無礼という判断か。しかし、かなり憔悴した様子の溥儀に比べて、軍人らしい直截さがうかがえて、彼の方が話が早いと思われた。


「単刀直入にうかがいますが……長春で何が起こったのでしょう?」


 溥傑はしばらく無言で考えた。質問の枠が広すぎたかと石光が言いなおそうとした時、


「……一人の老人が、新京を乗っ取ってしまったのです」

彼は静かに言い切った。石光に対しての敬語は、軍人としての自身の階級(満州国軍上尉〔大尉〕)を意識してのものか。


「事の始まりは、私にはわかりません。私たちは、新京の行政その他から一切隔離されておりました。本郷大将はじめ関東軍の幹部たちは、『出てこないならその方がいい』という扱いだったもので、しばらく庁舎に登庁していなかったためです。私が……」

「だましたのだ……謀ったのだ。余を、余を皇帝にすると約束しておいて、それを……」


 溥儀がつぶやき、割りこんだ。手に持つカップが小刻みに震えている。


「……陛下、落ちついて、心安らかに……」


 溥儀をなだめる浩。溥傑の妻であり、つまり溥儀の義妹にあたる。元は日本の華族出身で、先年溥傑と見合い結婚したばかりである。溥儀の腕をとり、ゆっくりとさする。皇帝に対してどうかと思われる所作だったが、考えてみれば彼が清朝皇帝で、また、その地位を追われたのは、たった六歳の頃である。普通に言う親の愛など、与えられた事のない男だった。


「……話を戻しますと、私が気づいた時には、満州国の中枢は、一人の老人に掌握されていました。国軍のトップも行政組織のトップも、まるで操り人形のように老人に支配されていたのです。まるで、と申しましたが、文字通り〝操り人形〟にされたと言っていい。……何を言っているのか、あなたがたもおわかりでしょう」


 無言でうなずく石光。茶を一口飲み溥傑は続けた。


「一体、あの老人がどこからどうやって現れたか、私にはわかりません。しかし……」

「うあぁ……おおぁぁぁ! 仕方がなかった! それしかなかったのだ! 余は……余はぁぁ……!」


 再び溥儀が割りこんだ。それも、嗚咽を漏らしながら。態度の変化に何かあると察した川島は、石光と溥傑に目配せした。双方うなずき返す。尋問役は、自然に彼女にバトンが渡された。おそらく溥儀は……〝老人〟が現れた、その事情を……


「陛下……お聞かせ願えますか? 老人が、満州国に現れた、その理由を」


 びくりと身をすくめ、川島から視線を逸らす溥儀。そのまま固まってしまう。


「……陛下、その老人とは、私たちが幼い頃聞かされた〝黒い竜の王〟。違いますか?」


 その言葉は核心を突いていたらしい。わなわなと身を震わせて、そして溥儀はようやくかすれた声を絞り出した。


「余は……余は、力が欲しかった。愛新覚羅の子として……皇家を再び……」


 そして延々と、関東軍の破約と専横をなじりはじめた。上海時代から始まって、大連、奉天と、関東軍が彼にふき込んだ〝未来図〟を数えあげ、それら全てが踏みにじられた過程を。まわりの一同は先をせかしたい気持ちを抑え、彼の繰りごとにつきあった。


「……摂政から皇帝へと名が変わっても……余に対する扱いは何も変わらなかった。むしろ日本軍の犬どもは、余をあからさまに侮蔑するようになりおった。余は……余は、力が欲しかった。全てを変えられる力が欲しかった。得られるものなら、悪魔に魂を売ってもかまわぬ。……幾夜、闇を見つめながら眠れぬ日を過ごしたか。

 ……声が、聞こえた。余に語りかける声だ。望むなら、力を与えよう。世界の全てを手に入れられる力を与えよう、と。……余は、疑ったのだ。何度も疑った。しかし……しかし、他になかった。何もなかった。犬どもに永遠に侮辱され続けるか、その声に応えるか、他にどうしようも、なかったのだ!」


 吐き捨てて、息を整える溥儀。そばにつく浩が白湯をそそいで差し出したカップを、奪うように受け取ってむさぼり飲んだ。


「陛下……声は、何を御身に求めたのでしょう? 力を与える……代償として」


 静かに川島が問いかける。何の代償もなしに何かを与える者などいない。当然の話である。西欧で言うところの悪魔は人間の魂を求めるそうだが。……すでにおおよその予想はつくが、溥儀自身の〝懺悔〟をうながすための問いだった。


「……神宮建設の、穴の前で……修法を行えと命じられた……。封魔縛妖の法鎖を、断ち切る術……。余は……余は、日本人が押しつけた社の前で、完成が待ちきれぬなどと追従を吐いて、穴の前に額ずき、それを……」


 固く目を閉じ、頭をふる。涙が頬を濡らしていた。


「……〝あれ〟は……唐突に現れた……。穴の中から、金縷玉衣きんるぎよくいをまとったままの姿で。女官を見て命じた、『代わりの衣をもて』と。武官を見て命じた、『余の玉座に案内せよ』と。見られた者が、そのまま従った。そして……そして、余を、あの目で見て、『貴様の功に免じて、しばらく生かしてやろう』とだけ……。うぐっ……うぐぅあぁぁ! だましたのだ! きゃつも余を欺いたのだ! 何の、何の力も余に与えなかった! そして〝あれ〟は、仮初めの玉座さえ余から奪い取りおった‼」

「陛下……、陛下、お心安らかに……」


 すでに号泣していると言っていい溥儀だった。浩が気遣わしげに声をかける。実際、これ以上感情に負担をかけるのは危険と思われたが……聞いておかなければならない事が残っていた。最後に、それだけは。


「陛下……お心安らかに。陛下が一番助力を必要としていた時に、おそばにいられなかった事を申しわけなく思います……。ですが、これだけはお答えください。陛下は、言わば扉を開けてしまわれた。それを再び閉める方法はご存じありませんか? 皇家嫡流に伝えられる、儀礼伝承の中で……」


 川島の問いは、一種悲しみが籠もっていた。それが一時、溥儀の感情を冷ましたのだろうか。彼は嗚咽を切り、あえぎながらも答えた。


「……ない……知らぬ。余は、鍵を壊したのだ……。なおす方法は、知らぬ……」

「……ほぅ……」


 がまん強く溥儀を導いてきた川島も、思わず吐息を漏らしてしまった。


   ◇


 別室に、石光の符法術で溥儀を寝かしつけて、改めて三人は溥傑と浩に向かいあった。


「……どうか、兄を責めないでやっていただきたい。一人きりで……追いつめられていたのです」


 沈痛な面持ちの溥傑。彼にとっても、初めて聞いた話だった。


「責めても始まらん。俺らが考えるべきは、これからどうするか、だ」


 皇帝家に対する礼儀には無頓着な洪だったが、かけた言葉にどこか温かみがあった。


「浩、お前はもう休みなさい」

「でも……」

「休める時に休んでおくんだ。明日は明日で大変だから」


 溥傑が妻を気遣った。二人の結婚は軍部主導の政略結婚だったと聞くが、意外に夫婦仲は悪くないらしい。

 若妻が別室に退いてから、溥傑に対する質問が再開された。すでにある意味、溥儀の告白の補完ではあったが。


「……老人が誰かを従わせようとする時、まず目を合わせます。それで意志の弱い者は、老人に逆らえなくなる。魔術によるというか、恐怖によるというか、その区別は難しいですね。一瞥で支配できない者に対しては、卵のような物を飲ませます……。飲まされた者は苦しみ出し、のたうち、そして収まると完全な操り人形と化しています。そうなると〝生者〟と呼べるかも難しい。実際、銃弾などで致命傷を負った後も頓着なしに動き回り……そして次第に腐っていきます。さっきの言い方をくり返すなら、生きているか死んでいるか、区別が難しい状態と言えるかもしれません」


 暗い笑みを浮かべる溥傑。石光は死体兵の解剖結果をかいつまんで説明した。双方の知識の欠損が補完されていく。


「……符で作った虫に神経をのっ取られる……か。そいつぁ、ひとたまりもねえや」


 洪の笑みも暗い。おそらく、昼間の弓兵を思い出しているのだろう。


「しかし……そうなると……なぜでしょう、人によっては、その呪法が通じない者がいました。おもに軍の将校たちだったのですが」

「ほう?」


 溥傑の見た限りでは、数名の〝寄生不能者〟がいたという。彼らはどこかに連れて行かれ、おそらく監禁されていると思われる、と。


「監禁ねえ……。バッサリやられてるんじゃないか?」


 洪が眉をしかめてつぶやく。


「それもありうるとは思うのですが……私の知る限りでは、かの暴君が死刑を執行した例を知りません。卵を飲ませる。それだけです」

「それがある意味、死刑そのものですわね」

「まったく。しかし、だからこそ、符の寄生ができなかった人たちも、何らかの形で活用しようとするのではないでしょうか? 活用と言ってよければですが……」


 溥傑の予想が正しければ〝寄生不能者〟たちも、命までは奪われていない。となると長春の中でも、符を飲まされていない者、飲まされても効かなかった者がいて、彼らはひょっとして救い出せるかもしれない。石光一行の胸に、かすかな希望が生まれた。

 石光の質問は、長春の兵力・装備に移っていった。さすがに軍人の身分だけあって、溥傑は截然と証言する。


「二月の中旬、十七日だったと記憶しますが、北方から大量の兵士と兵器が流入しました。多数の戦車があったので、対ソ連のための機甲部隊だと予想します。おそらく……流入先を考えると、哈爾浜ハルビンはすでに陥落しているものと推察します」

「そうか……やはり」


 長春(新京)以北、ソ連国境までの街の状態を危惧していたのだが、恐れていた事態になってしまったようだ。どれほどの被害が出たのか想像もできない。せめてソ連側なりモンゴル側なりに、避難できた者がいたことを祈るばかりである。そして直接的な脅威としては……


「死体兵に、北方戦車隊か……」


 腕組みして、石光がうめいた。ソ連の脅威に対抗すべく、北方国境付近に組織されていた機甲部隊は、当時の日本軍最新鋭の機械化部隊だった。その戦力まで長春に組みこまれているとは……。これはちょっと奉天師団だけで太刀打ちできると思えない。いや、ひょっとして満州・中国に駐留している日本軍全てを挙げても危ういのではないか。なにしろ、それに不死者の軍団が加わるのだ。

 しばらくの沈黙の後、石光は溥傑に相対し、一礼してから語りかけた。


「溥傑殿下、お願いしたい議がございます」

「なんでしょう? 改まって」


 驚いた表情の溥傑。言葉を交わした時間はごく短いながらも、目の前の老兵に信頼と好感を覚えはじめていた。


「率直に申しまして……私は、この事件はすでに日本軍だけの力で処理できない段階になっていると考えます」

「へえ、それを認めるかい」


 洪が混ぜ返し、川島が膝をつついて制した。


「自分でも身勝手と思うのですが、これは……列強各国の力を借りなければ収束不可能なのでは、と思います。全ての国に情報を公開し協力を求めるべきだと」

「……」


 今度は洪も口を差し挟まなかった。「生けとし生けるもの、全てにとっての災厄」その言葉がよみがえる。


「……その判断は正しい、と思います。〝あれ〟は、地上に放置しておいていいものじゃない。今の時代に生きる人類全てにとって危険きわまりない存在です。……憚りながら、身近で目撃した者として」


 溥傑の声も重い。言葉の背後に焦燥が感じられた。


「はい。そこで先ほどのお願いなのですが……どこか国際的な場において、ご自身が目撃された事を証言していただけないでしょうか? 満州国の皇族としては、あるいは本意ではないかも知れませんが……」


 石光の、心苦しさをにじませた言に、溥傑は笑って即答した。


「やりましょう。むしろ望む所です。石光特佐は少々思い違いをされているようですが、私は〝満州国〟の体面に、それほど重きを置いておりません」


 真っ直ぐな返事に、思わず石光の顔にも笑みが浮かぶ。川島が思案顔で問いかけた。


「その方針、私も賛成します。しかし、どういう手順で進めましょう? まずは奉天まで逃れてから?」

「いや、それはまずい!」


 思わず声をあげる石光。


「身内の恥をさらすようだが、このまま殿下の一行を奉天に送っては、おそらく奉天師団の志羅山中将は、一行を監禁して情報統制を敷く、と思う。そして己だけでの解決に固執する……。哀しいかな、職業軍人にとってメンツは何より重いのです」


 前半は川島に、後半は溥傑に顔を向け、石光は自分の予想を語った。軍人自らがそれを認めるのは、かなり思い切った発言である。


「……そうだろうな」

「……やるでしょうね」


 洪と川島の言葉が重なった。石光は、今度は川島に向かい直り、頭を下げた。


「この件、やはりあなたにお願いするほかないと思う……。殿下たち一行を連れて、奉天師団の網にかからぬように、列強各国の大使館・公使館がある場所にお連れする。無茶とは思うが……」


 石光の願いに、数秒目を閉じ考えこんで


「四平街まで来た道をたどり、そこから朝鮮方面に向かう路線で平壌まで。そして港に出て海路を使う。そのルートでしょうね」


彼女は即座にプランを立てた。


「やってもらえますか?」

「ええ、私の役目でしょう」


 微笑んでうなずく川島。問題は四平街の関東軍がどれだけ厳重に避難民をチェックしているかだが、再占領されたばかりの今ならば、成功の確率は高いと踏んだ。


   ◇


 翌朝、日の昇る頃。石光・洪組と、川島率いる溥儀一行は、街道で別れた。


「色々と失礼しました。田舎者の不調法と思ってお許しください」


 石光の挨拶に溥儀は軽くうなずき、溥傑は軍隊流の敬礼を返した。浩夫人が何か言いたそうにしている。


「あの、石光……特佐。新京に向かわれるのですね?」

「ええ、それが何か?」


 しばしためらった後


「実は新京で、私たちを手助けして逃がしてくれた方がいます。孫吉兆と名のられていました。もし……お会いできたら、私たちが感謝していたと、そう伝えていただけませんか?」


石光に託された言づてに、洪の眉がかすかに動いた。

 浩の言葉に、皇帝一行の新京脱出に得心がいった石光。彼らだけでは、ちょっとこんなアクロバットが成功するとは思えなかったのだ。そもそも、かの地を支配しているのが〝黒い竜の王〟ならば、彼にとって溥儀たちは、関東軍が必要とした〝満州国の看板〟としての価値はない。警備の方もそれなりだったのだろう。


「わかりました。会えましたなら必ず伝えます」


 石光の返事に微笑んで一礼する浩。よほど気にかかっていたのだろう。

 修理終わったロールスロイスに四人が乗りこんだ。運転役は川島が務める。


「ご無事で」


 短く声をかけ、発車した。乾いた街道を、砂煙を上げて遠ざかっていく──


「……さっきの名前に心当たりがありそうだな」


 石光の問いに、洪は一瞬目を伏せ、つぶやいた。


「……昨日の弓使い。あいつがよく使っていた偽名だ」

「……それは……!」


 洪は何かをふり切るように騎乗し、石光も後に続いた。


「恩人をわざわざ追っ手に仕立てる、か。胸くそ悪いマネをしやがる……!」

「……」


 無言の石光の胸にも、同じ思いが渦巻いていた。


   ◇─────◇


 石光が通信を回復させた開拓村の一行は、公主嶺まで到着していた。四平街に続いて奉天師団が再占領を果たし、急ピッチで復興と陣地化が進められていた。


「……とすると、石光特佐は副官の少尉と、案内役の満人を連れていたわけだな?」

「はい。お世話になりました。私たちも、できれば偵察行のお手伝いをしたかったのですが……」


 村のまとめ役の青年が、奉天師団の曹長に事情聴取を受けていた。運が悪かった事に、この曹長が〝特務隊〟に属する者だった。


(……はて、藤原少佐の報告では、石光特佐は一人で別行動を取ったはずだが……)


 首をかしげる曹長。満人は途中で雇ったとして、副官の少尉とは? 些細なこととはいえ、つじつまが合わない。


「少尉、とはどんな人物だった?」

「はい……川村……少尉といわれる方で……。すみません、下の名前はちょっと思い出せないんですが……」

「ふむ……」


(俺たちとは別の任務で動いている特務隊員か? ならば防諜のため、こちらに通知されていない事もありうるが……)


「背はそんなに高くはないんですが、非常に顔立ちの整った方で、まるで、ちょっと見には女性みたいな人でした」

「……!」


 曹長の脳裏に、ある名前が閃いた。一度死亡したと発表されながら、その行方を捜せという秘密指令が出されている女。


「……その件、もう少し詳しく聞かせてもらおうか」

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