呪法兵再臨

 二月十三日午後二時、開原。

 偵察陣地より、死霊列車来襲の一報が届いた。直ちに守備隊は防衛体制に入る。本来の守備大隊と四平街隊、そして奉天駐留の師団から増援を得て、連隊規模の軍団が迎撃準備を整えていた。指揮官は牧原大佐が務める。


「死霊列車、開原駅に到着のもよう!」

「よし、装甲車隊は前進。落ちついて、作戦通り殲滅地点まで敵を誘導しろ」


 敵の情報がなかった時とはわけが違う。死体兵は脅威だが、物理的に破壊できない相手ではない。装甲車をオトリ役に敵を誘導し、重機関銃と榴弾砲で粉砕する。その計画だった。しかし……


「偵察部隊より、緊急! 列車中央部に車両輸送用貨車あり! 九五式軽戦車らしい車両がおろされているとの事です!」

「なんだと! しまった、奴ら、そんなものを……!」


 完全に虚を突かれた。まさか死体兵に戦車を操縦する知能が残っているとは。通信兵の背に飛びついて、牧原は必死に陣容を建てなおす。


「装甲車部隊は後退! 野砲の砲弾を徹甲弾に換装しろ! 速射砲を……使える部隊は……」


 爆発音と黒煙があがった。駅から延びる通りの方角。


「装甲車部隊、三両が擱座かくざ! 敵は戦車を前面に出して進攻して来ます!」

「いかん!」


 冷静な切れ者で通っている牧原大佐だが、突発的事態への対応に難があった。学者肌の人物とは相容れない性質なのかもしれない。まず戦車を止めなければならない。が、その方法は? 考えるうちに前線で爆発音が続く。


「重機関銃陣地に着弾! 被害多数!」

「くっ! 後方封鎖に向かっている戦車隊を呼びもどせ! 第一層陣地を放棄して後退! 第二層陣地前で立てなおせ!」

「陣地に敵が浸透したもよう!」


 最も避けたい乱戦に持ちこまれ、前線は混乱・崩壊し始めた。


   ◇


「うあぁぁ! ちくしょう! ちくしょぉぉ!」


 やみくもに突き出す銃剣は、死体兵に何の痛痒も与えない。恐怖に負けて背を向けて走ろうとした者から、次々と敵に突き伏せられた。必死に敵の突きを逸らしながら後ずさる軍曹が一人。が、踵を段差にぶつけて尻餅をついた。死を覚悟した瞬間、背後から白刃が走った。眼前の死体兵の、胸元を軍刀が貫く。


「泰山府君勅下せり、木火土金水の理をもちて、死人を在るべき姿に還さん! 五行相生、屍解腐土! 急々如律令!」


 刀身から青い光がほとばしった、その瞬間、死体兵の両手が落ちた。ぐらりと傾いた頭部ももげ落ち、腐肉と化してその場にくずおれる。

 茫然自失の軍曹の前に、小柄な男が立っていた。短めで鍔のない軍刀を手にした友軍兵士。頭にはかなり白いものが混じり、歳のころは六十前後か。


「恐れるな! 背中を向ける方が命とりだぞ! 落ちついて敵の剣を見ろ! かわせない速さではない!」


 小男は、体に似合わない大声で味方を激励した。軍刀を持ち替え、紙きれ状の物をとり出し宙に放つ。と、紙きれは見る間に十数羽のカラスに変貌し、舞い上がった。訓練された狩猟鷹のように死体兵に襲いかかる。小銃弾程度ではダメージにならないはずの連中が、なぜかこれを嫌がった。頭上のカラス相手に銃剣をふり回し、完全に注意が向いている。


「チェストォ!」


 気合いとともに男が踏みこむ。一閃、二閃、青白い刃筋が走った。まるで傀儡の糸を切られたように、死体兵が崩れおちる。

 恐慌に陥りかけたまわりの兵士が正気をとり戻しだした。死体兵は決して無敵の存在ではない。物理的に傷つけることも破壊することも可能だ。それを思い出した兵たちは、思いつく限りの手を尽くして抵抗を続けた。殺せない相手でも攻撃手段を奪ってしまえばいい。その上移動のできない状態にすれば、実質無害化できる。


「腕を狙え! 銃さえ使えなくすればいい!」

「脚だ、脚をつぶせ! 銃床で殴るんだ! 剣先で突くのは意味ないぞ!」


 互いにかけ合う声が響く。数では圧倒的に勝る日本軍側が、次第に陣容を盛り返しだした。通りの方角で爆煙と歓声があがった。敵軽戦車が破壊されたのだ。九五式の装甲は、決して強固とは言えない。

 敵の中にとり残された、メガネの兵士が一人。小銃弾を撃ちつくし、後方に走ろうとして脚をもつれさせた。それを視界のはじに捕らえた小男が、風を巻いて馳せつける。


「敵から目を離すな! 攻撃をかわせ! 今行くぞ!」


 死体兵の銃剣を必死に逸らす兵士の前に、小男は飛び込んで剣をふるった。屍兵がくずおれる。飛び込んだ場所は敵のまっただ中だった。軍刀を逆手に地面に突きたて、男は両腕を幾何学的な動きで振るった。地面に光の筋が走り、方陣が形づくられ二人を囲った。二人に迫ろうとする死体兵たちは、なぜかその中に踏みこめない。心得のある者が見たなら〝結界〟と直感できたろう。

 結界内に入れない死体兵だったが、わらわらとそのまわりに押し寄せ始めた。まるで中にいる者が、自分たちにとって危険である事がわかっているように。相手の数に、小男の顔にも焦りの色が見えた時、


「伏せろー‼ そこの日本人‼」


背後から中国語の大音声があがった。とっさにメガネ兵の頭をおさえてその場に伏せる。


「疾‼」


 裂帛の気合いとともに、轟音が鳴り響いた。二人の頭上を光弾の雨がなぎ払う。小男が顔を上げると、まわりの屍兵たちが一掃されていた。地面にくずおれ、ぴくりとも動かない。


「……広域殲滅呪法か! これはまた……」


 感嘆のつぶやきとともに男は背後をふり返った。

 唖然と見あげる日本兵たちの中に、頭一つ高い威丈夫が立っていた。中国風の旅装に身を包み、眼光鋭いひげ面と右手にひっさげた大ぶりな双手帯そうしゆたい(刀に長柄をつけた武器)。まるで武侠小説から抜けだしたかのような姿。

 突如、大男は屍兵の群れに突進した。まわりの兵が誰何すいかする暇もない。


「シャッ!」


 つむじ風のように双手帯をふるう。屍兵を貫く刃筋に鮮紅色の光が走り、彼らは泥土のように崩れおちていく。まるで演義の無双を思わせるような戦いっぷりだった。


「……後方に走り、合流しなさい」

「は、はっ! ありがとうございます!」


 メガネの兵に声をかけ、小男もまた屍兵の中につっ込んだ。図嚢から細長い紙きれをとり出し、呪言とともに投擲した。光の筋がいくつも分かれ、屍兵に触れる。と、急に彼らの動きが重くなった。ただでさえ動きのぎこちない死体兵が、こうなるとただの的である。双手帯の赤い閃光と、軍刀の青い閃光と、閃くたびに次々と屍兵が土に還っていく。大男がちらりと一瞥を投げ、小男はそれに小さく笑み返した。

 その時、あたりに異様なうなり声が響きわたった。獣の声にも例えがたい音色。その先に一体の死体兵が立っていた。長身と特徴的なヒゲ、手に提げた業物らしき軍刀。公主嶺守備隊長、春日少佐のなれの果てだった。屍兵の群れの動きが変わった。ばらばらだったものが数カ所にまとまり始める。光景を目にした者の脳裏に共通の直感が走った。うなり声は屍兵の間の〝指令〟だと。

 大男は指令の主に、放たれた矢のようにつっ込んだ。春日少佐だった死体兵が、それを認めて軍刀を構える。


「シィ、ヤッ!」


 気合いとともに金属音が響いた。二合、三合。大男が体に似合わぬバネで飛びすさった。剣を上げて構えなおすかに見えた死体兵だったが、ぐらりと傾いで膝をついた。軍刀を杖にたち上がろうとしたが、ついにその場につっ伏し動かなくなる。


「……生前はよほどの使い手だったろうにな……」


 誰にともなくつぶやく大男。春日少佐の遺体を見おろす目に、悼みの色があった。

 死体兵の群れが、一斉に背を向けて退きはじめる。おそらく指揮官役が倒されたためだろう。歓声をあげて追撃しようとする兵たちを、小男が制した。


「追うな! 今はやつらを殲滅できる手段がない! 味方の遺体を持ち去られないようにだけ気をつけろ! それを許せば、後で戦友だったものと戦うはめになるぞ!」


 小男の背に、ちらりと一瞥を投げて、大男はその場から身を翻した。小男の側がふり返った時には、もう姿が見えない。


「……まだ、あんな呪法師が残っていたとはな……」


 小男のつぶやきは偶然にも、大男の胸中に湧いた思いと同じだった。

 残存の死体兵は、死霊列車に搭乗して四平街方面に去った。急ごしらえの妨害用バリケードを、ものともせずはじき飛ばして。

 損害は大きかったが、日本軍は辛くも開原を守り切った。


   ◇


 指揮車で前線に出て、こまごまとした指示をくだす牧原大佐。その脇に、白髪まじりの小男が歩み寄って敬礼した。


「連隊指揮官の方でしょうか? 石光三郎いしみつさぶろう、特佐であります」

「おお! あなたは! 先ほどの呪法兵ですな? 正直助かりました。あなたが来てくれなかったらどうなっていたか」


 直属の部下以外には、基本、敬語を使う牧原だった。屈託のない笑顔を向ける石光に、牧原の表情にふと疑問の色がうかぶ。この男、前線に出るには年をとり過ぎていないか? ついで、先ほど、耳の間違いでなければ……


「特佐、と言われましたか?」


 聞き返さずにはいられない牧原。そんな階級は聞いたことがない。


「はっ、再招集にあたり、参謀本部の田村大将が特例として命じられた佐官です。私ももういい歳なもので、大佐職でも定限にかかりますもので」


 高笑いする老兵と、目を丸くする牧原大佐。あたりの兵は、その奇妙な構図に一時目を奪われた。


   ◇


「なんだこれは! こんな馬鹿げた指令は見たことがない!」


 志羅山中将は、罵り声とともに文書を卓上に投げ出した。

 石光は奉天司令部開原出張所に出頭し、参謀本部付けの指令書を中将に手渡した。それを一読した結果である。


「〝特佐〟だと? そんなふざけた階級は聞いたことがないわ! おまけに死体兵相手の戦闘は、全て指揮をとるなど、これは現地軍への不当な介入だ! 統帥権の干犯に等しい!」


 参謀本部の指令に噛みつくのはどうかと思うが、一つ一つの師団は天皇の直隷だという理屈からすれば筋の通らぬものでもない。……志羅山の逆上っぷりは、理屈というより感情的な縄張り意識だが。


「まあ落ちついてください中将閣下。私が直接指揮をとるわけではありません。そもそもそんな能力はありませんとも。できるのは精々、戦術上の提案です。それをまあ、尊重というか参考にする事を、少しばかり大げさな表現で書かれたのでしょう」


 まあまあ、と、両手をあげて志羅山をなだめる石光。その姿が妙に似合っていた。神秘の技をふるう陰陽師というより、どこかの小学校の老教師といった風情だ。


「部外者がわが師団に口を挟むのに変わりないではないか! 大体なんだ? 特佐とかいう珍妙な役職を作って指揮系統の外にいるつもりか? 佐官である以上、将官の下にあるのが当然だろうが!」


 司令部幕僚たちも、『問題視しているのはそこか?』と、あきれかけたその時


「何をくだらん事にこだわってるんだ? 序列を決めないとおさまらんとは、猿山の猿かよ?」


彼らの胸中を、あけすけに代弁する声があがった。思わず顔を見合わせる幕僚たち。

 司令部ドアに身をもたれ、先ほどの巨漢が立っていた。腕組みをし、奥に立つ志羅山に口の端だけの笑みを向けている。意外に達者な日本語だった。


「な……な……貴様、何ものか! どうやってここに入った!」


 部屋の入り口には番兵が立っていたはずだ。部外者が容易に入れるはずはないのだが。


「まず、あの列車をどうするか、考える方が先じゃないのか? 今のままでは傷一つつけることはできんだろうよ」


 自分の言葉を無視した物言いに、志羅山がさらなるかんしゃく玉を破裂させようとした時、


「待たれよ!」


石光の一喝が響いた。志羅山ふくめ、あたりの者すべてが動きを止める。事も無げに歩を進め、巨漢の前に立つ。背丈の差は大人と子どもほどもあったが、何か犯しがたい威厳が、小さな体にこもっていた。


「……君ならば、死霊列車にどう対抗するね?」


 淡々と、むしろ穏やかに問いかける石光。相手の技量を計るような目を向けていた大男だったが、おもむろに口を開いた。


「まずはあれを蔽っている呪法を無効化せねばならん。浄化・解呪の方陣に誘いこむ手だな。幸い、レールの上を走り、止まる地点もほぼ同じって代物だ。誘いこむ手間もかからんだろう」

「なるほど。君一人で列車全体を蔽う方陣を起動させられるかね?」

「……そうだな。後方を押さえる呪法師が、もう一人いればより確実だな」

「それは私がつとめよう。……協力してくれるかね?」


 かすかに間を置き、腕組みをといて男は続けた。


「断っておくが、俺は日本軍に協力するわけじゃない。あれを放置する事が、全ての民にとって災いとなるからこれをやる。忘れるな」

「かまわんとも。覚えておこう」


 破顔して答えた石光の背後から、遅延信管が爆発した。


「ふ、ふ、ふざけるな! 中国人風情が! 我が皇軍に対して、身のほど知らずも甚だしい! 何をしている貴様ら! こいつをひっ捕らえて独房にぶち込め!」


 半狂乱レベルに激怒する志羅山中将。顔はどす黒く見えるまで血がのぼり、おこりのように全身を震わせている。奉天司令部の全員が、なだめることを諦めたのだが、


「まあまあ、落ちついてください閣下。高官どうしのやりとりならともかく、一民間人の言に閣下ほどの方がこだわることはないではありませんか。些事ですとも些事」


 怖い物知らずというか、石光が再びなだめにかかる。身に帯びた威厳は一変して、小学校教師のそれになっていた。


「些事だと⁉ これが放置していられるか! だいたいキサマ、何様のつもりか! このワシを差し置いて、あの列車への策を決めようなど、認めん! 断じて認めんぞ‼」


 困り顔の石光が、ゆるりと図嚢に手を入れて何かをとり出した。目ざとい者数名がそれに気づき手もとを注視したが……何もない。と同時に、志羅山が黙りこんだ。今言おうとしていた事を忘れてしまったかのような戸惑いの表情。顔の血の気が平常に戻っていく。


「まあ、志羅山中将閣下。私は別に横車を押すつもりはありません。私たちが死霊列車を蔽っている呪法を解除できたとしても、あれを破壊できるわけではないのです。結局は火砲でとどめをさす必要があります。列車破壊の功績は、奉天師団のものですとも」


 にこやかに語りかける石光。もはやまるで、営業職の売りこみ口調である。志羅山は何度か首をかしげ、椅子に腰を落とした。


「……ふん……よかろう、好きにやるがいい……」


 考えながら、ようやくそれだけを言葉にできた、そんな調子だった。唖然とする幕僚たち。


「ありがとうございます。ついでですが、あの中国人、私が現地で雇った案内役という形にして、任せていただきたいのですが」

「……ふん……勝手にするがいい……。そんな些事で……ワシをわずらわせるな……」


 まるで感情のエネルギーを抜かれたような志羅山中将。あっけにとられていた幕僚たちがふと気づくと、大男はすでにその場から去っていた。


「失礼します。また後ほど」


 石光も大男を追うように部屋を出て行った。惚けたかのような中将を中心に、部屋には微妙な空気が残った。一体自分たちは何を見たのか、と。


   ◇


 路地裏に店を構えた小さな飯屋。大男が隅の一卓を占めていた。小料理をつつきながら杯を傾ける。


「ここにいたのか……。手はずを打ち合わせておくくらいは、やっておいていいだろう?」


 男の脇に石光が立っていた。対面に腰掛け、自分も酒を注文する。


「挨拶が遅れたが、私は石光三郎。見てのとおり予備役召集された者で、特佐という階級を与えられている。……今日は世話になったな。実際、助かったよ」


 屈託のない笑顔を向ける石光。大男は眉根を寄せた一瞥で、それに応え、ぽつりと返した。


「……清国正規軍に呪法兵が組みこまれていた頃、味方に対してあの手の術を使うことは厳禁されていた。そんなマネを許せば、隊の規律が無茶苦茶になるからな」

「私が現役だった頃の日本軍でもそうだったよ。……しかしまあ、何とかも方便ってやつだ」


 男の言葉に苦笑しながら、石光は運ばれてきた酒に口をつけた。

 大男が指しているのは石光が使った精神操作呪法である。図嚢から出した呪符を媒介に、志羅山中将のご機嫌を変えてしまった。多用すれば、確かに呪法兵が部隊全体を支配できてしまう。


「あれでは話が進まんし、何より中将閣下が卒中を起こしかねなかったからなぁ」

「……便利な言い方もあったもんだ」


 手助けされた返礼にと、石光は男にもう一杯注文した。


「そういえばまだ名を聞いていなかったが……」


 石光の問いに、運ばれてきた酒を一口あおり、


「……洪復龍こうふくりゆう


大男はそう名乗った。

 ややあきれ顔で見つめる石光。洪という姓は珍しいものではないが、名前と並べると、かなりあからさまな……


「はあ……まあそう名のるならそう呼ぶが……まさか、反清復明はんしんふくみんの人ではあるまいね?」


 洪門とは中国における秘密結社を指す。清朝の時代には〝反清復明〟が彼らのスローガンだった。満州人の王朝・清を倒し、漢民族の明朝を復活させる。そういう意味である。龍は伝統的に皇帝を示す言葉。それを復するとは……わかり易すぎるアナグラムだ。

 男はかぶりを振って答えた。


「もう皇帝が王朝を建てる時代じゃない……。その程度は俺にもわかっている。俺の〝龍〟は、中国人そのものだ。中国人が中国人自身の主人になる。それが〝復龍〟。そう思っている」

「……そうか……」


 現在の中国は、実質列強諸国に食い物にされている。日本に至っては、満州国という傀儡国家を作りあげて国土を分断した。その現状に対する痛烈な批判だった。

 杯を干して、洪は席を立つ。


「ごちそうさん、特佐。明朝八時に、開原駅で落ち合おう」


 それだけ言い残し、店を出て行った。


(……使える男だが……)


 心からの協力は求め難いかもしれない。そんな思いを抱きながら、ほどなく石光も席を立った。


   ◇


 開原守備隊兵舎の一室をあてがわれ、そこに旅装を解いた石光。ノックの音に、寝台から身を起こしドアを開けると、昼間助けたメガネの兵が立っていた。


「夜分遅くに失礼いたします。あの、一言ご挨拶を、と思いまして……」

「おお、君か。ははは、何を堅苦しい。友軍を助けるのは当然のことだ。改まって礼を言われるような事じゃない」


 笑いかける石光に訪問者は


「はい、いえその、お礼もなのですが、石光三郎……特佐と伺いまして、ひょっとして……五島幸洋をご存じでは、と」

ためらいながらも言葉を続けた。


「おお、満鉄の五島くんか! 知っているとも、懐かしいな!」


 旧知の名を聞いて破顔する石光。


「やはりそうでしたか……。五島課長から、かねて噂は聞いておりました。調査部創生期の恩人だと」

「ははは、それこそ当然のことをしたまでさ。日本人として、な。まてよ……とすると、君は満鉄調査部の一員だったのか?」


 満州鉄道株式会社の調査部は、情報収集を業とする部署である。もともとは植民地経営のため、土地の伝統風俗を知る必要性から生まれた。満鉄職員の中でも調査部員として採用される者は、社会科学の部門において一芸に秀でた者ばかりである。

 それがなぜ一兵卒に? よく見ると、ヒラの兵としては歳をとり過ぎているような……


「はい……昨年までは調査部に勤めておりました。申し遅れましたが、伊藤俊也といいます」

「む……どういうわけで君のような人材が? 前線で小銃を持たせるのは、もったいない話に思えるが……」


 石光の言葉に、伊藤は目を伏せ、かすかにためらった後、話しだした。


「……調査部月報に載せられた私の論文が、どうも関東軍上層部のお気に召さなかったようでして……」


 伊藤の言葉に目をむく石光。それはつまり、気にくわない論文を発表した満鉄社員を、関東軍が見せしめに徴兵したという事。


「馬鹿な! そんな事は……あってはならん! 徴兵の原則を出先が勝手に破るなど……!」


 思わず声が大きくなる石光に、伊藤はインテリらしい線の細い笑みを浮かべた。


「今の関東軍は、石光特佐がご存じの頃とは、かなり違っているかも知れません。……それだけ、お耳に入れておきたく思いまして」


 小さく敬礼し、伊藤は立ち去った。

 寝台の上に腰掛け、石光は大きく吐息をついた。苦々しい言葉がもれる。


「噂には聞いていたが……関東軍の僭上がこれほどとはな……」


 思いもかけず、戻ってきた満州だったが……以前とは何もかもが大きく変わってしまった。その感慨を新たにする──

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