過去からの侵略

 ジュネーブ国際連盟本部。

 パレ・ウィルソンの奥まった会議場に足をふみ入れた満田謙吉は、出席者がすでに揃って、自分を待っていたことを知った。


「……お待たせして申しわけない。なにぶん急なお申し出で、準備に手間どりました」

「お気になさらずに、満田公使。お呼びだてしたのはこちらの側ですから」


 連盟事務総長ジョセフ・アヴェノルは優雅に一礼し、満田に着席をうながした。

 満田は出席メンバーを確認する。イギリス・イタリア、そして日本とドイツの脱退後に新たに常任理事国になったソ連と、オブザーバー役のアメリカ大使。そして満田は見知った顔を見いだした。中国国民党政府外交官、顧維鈞こいきんである。


「……して、どういうご用件でしょうか? 常任理事国以外に国民党政府関係者が出席されているという事は、リットン調査団の続きをおやりになるつもりで?」


 日本が満州国建国問題で連盟から脱退したのは二年前。現在、連盟への〝つなぎ〟のため申しわけ程度に公使館を置いているだけだった。かつて幣原外相の元で協調外交に尽力した満田は、閑職に追いやられていた。個人的には今でも列強各国と緊張緩和を図るべきだと思っているが、現状、連盟の活動に参加する義務はないし、まして中国側関係者を交えての〝日本つるし上げ〟につきあう義理もない。

 アヴェノル事務総長はあくまで丁重に振るまった。


「お話をうかがいたいだけです。実のところ、ドイツ代表にも出席を要請したのですが断られました。決して日本単独を名指しで非難するような意図はありません。……率直に申しまして、我々の関心事は満州国における武力衝突です。内乱……と呼ぶべきでしょうか」

「……」


 満田も予想はしていた。現在日本政府がかかえる最大の懸案と言っていい。しかし、どう弁じたものか。正直この件について本国から送られてくる情報がひどく混乱しており、状況が皆目わからない。送られてきた報告を、この場で開陳すべきだろうか? それは日本外務省が神経症にかかったかと笑いものになるだけに思われる。死人の軍団が反乱を起こしたなどと……

 満田はなかば正直に、なかば不誠実に振るまうことにした。


「申しわけありませんが、お話しできることはほとんどありませんな。私も実に不本意なのですが、本国からさっぱり連絡が来ないものでして。連中、ジュネーブを完全に〝窓際〟と心得ているようです」


 自虐的な韜晦で煙に巻こうという手である。


「死人の反乱とは、奇妙な事態ですなぁ」


 唐突にイタリア代表が口を開いた。議場の空気が固くなる。


「我々を侮らないでいただきたいですな、満田公使。すでに満州国の内乱について、概要は聞き知っておりますぞ。現在、新京の満州国首脳部と連絡不能。公主嶺と四平街が〝死霊部隊〟に占拠されており、満州国首脳は日本に対して反乱を起こしたと見られると。おっと、独立国が日本に反乱とはおかしな話ですな。満州国が、真実独立したとでも言いましょうか」


 イタリア代表は事務総長ほど丁重ではなかった。口調にいらだちがこもっている。


「〝死霊部隊〟とやらはさておき」


 大柄なソ連代表が口を開いた。


「わが国としても事態を憂慮しております。国境を接する隣国の話ですからな。現在はっきり指摘できる異常現象は、満州国奥地が中心と見られる通信障害です。妨害電波の類いではない。まるで通信電波がひとりでに減衰してしまうかのような、そんな異常現象です。これは一体何なのか? 満州国第一の保護国としての、日本に説明を求めたい」


 イタリア代表ほど露骨ではないが、さすがに態度が固かった。どうやらこれまでだ。正直に話そうにも満田自身納得できる情報を持っていない。会見を続けても無益だろう。


「誠に遺憾に存じますが、事実これ以上お話しできる情報がないのです。もう少し情報が私のもとに寄せられてから、お招きにあずかりたいものですな。では、失礼」

「お待ちください満田公使、お見せしたい物があります。……この場の皆さんにもご覧いただきたい」


 席を立った満田の背に、中国側代表、顧維鈞のよく通る声がかけられた。満田は声の調子に思わず歩を止めた。日本側代表の自分に対し、敵意より懸念とでもいうような……


「本日早朝に、私のもとに届けられた写真です。情報提供者が添えた手紙によると、二月五日、公主嶺における死霊部隊襲撃時のもの、と」

「何ですと!」


 アヴェノル事務総長の驚きの声。他国代表にとってもふい打ちだったらしい。その場の数名が息をのみ、顔を見合わせた。


「さらに、撮影者は新聞記者を名のるドイツ情報部員。その男から情報提供者側が奪いとったもの、と注釈がついております」


 後に続いた言葉の方が、満田には衝撃だった。先だってドイツ駐在の葛巻大使から送られてきた報告が脳裏によみがえる。


(やはりナチス・ドイツは満州国内部に情報部員を送りこんでいたのか?)


 内心を無表情に押し隠し、満田は顧維鈞に一礼すると、立ち上がりかけていた腰を席に戻した。


「ドイツ情報部員からフィルムを奪った? 情報提供者とは何ものです? 中国政府の情報部なのですか?」


 押しかぶせるようなイギリス代表の質問を、顧維鈞は手をあげてさえぎった。


「まずはご覧ください。質問と討議はその後で」


 黒いハードカバーのファイルとじが各国代表に渡され、そして議場は異様な雰囲気に包まれた。低いうめき、つぶやき、かすれ声で神の名を呼ぶ者も。


「……これは……まさか、こんな……」

「信じられん……完全に軍団規模ではないか……」


 数十年前までは、各国とも魔術を組み込んだ軍隊を動かしていた時代である。しかし、それを因習と切り捨て、列強と呼ばれる国々は〝進歩〟し続けてきた。印画紙に写った光景は、国連大使という〝理性人〟たちを過去に引きずり戻すような悪夢そのものだった。


「顧維鈞代表……これは……現実の情景をそのまま写したものなのでしょうか……?」


 アヴェノルの声は細くかすれ、優雅さを装う余裕をなくしていた。


「時間は限られておりましたが、当方の職員が分析を試みた範囲では、不自然な点は発見できませんでした。さらに、フィルム・印画紙ともにドイツ製で、提供者の注釈と一致しております」

「……まあ、今の中国に、ハリウッドはないでしょうなぁ……」


 アメリカ代表のつまらぬ冗談に、顧維鈞は軽く咳ばらいを返し言を継いだ。


「一連の品はすべて連盟本部に預けます。どうぞ確認作業をひき継ぎ、ご検証ください」


 会議室は数分間沈黙に支配され続けたが、ようやく衝撃から立ちなおったアヴェノルの宣言で、時間は再び動きだした。


「もはやこの件、自分だけで判断を下すことができません。この場におられる各国大使の皆さんにおいても同じではないでしょうか。……魔術・呪術研究の専門家を、オブザーバーとして迎えたく思います」

「魔術の、専門家、ですか……」


 迷いの露わなソ連代表の言葉。科学的社会主義を看板に掲げるソビエト連邦は、魔術・宗教に属する文化を国内から一掃しようとしていた。その立場からいえば拒絶したい話だろうが、目の前に突きつけられた現実に躊躇せざるをえない。


「実は……私はさる人物から、昨年の十月以来繰りかえし警告を受けてきました。それがこの件を指すとまでは明言できませんが……」

「警告ですと! 一体誰です? どのような内容ですか?」


 アヴェノルのためらいがちな告白に、思わず満田は食いついた。本国でも情報不足で混乱しているのだ。別方面からの情報は、ぜひとも聞き出したい。一旦席を立とうとした決まりの悪さをふり捨て、満田はこの会議に残り続けることを決意した。


「警告者は、ヨアヒム・テレルマン博士。ローザンヌ大学で宗教史を講義しておられますが、魔術史の研究家でもあります。実質、スイス国内におけるユダヤ・カバリストの代表と呼んでいいでしょう」


   ◇


 急な呼び出しだったにもかかわらず、テレルマン博士は意外なほど早く連盟本部に到着した。学究らしく神経質そうな細身の人物。軽く息をきらし紅潮した頬は、取るものも取りあえず駆けつけたという風情だった。手渡された黒いファイルを一瞥し、大きく息をのむ。


「これは……死体の傀儡術なのか……。しかも、こんな規模で……」


 各国代表が注視する重い空気の中、一通りファイルを見終わった博士は、しばしの沈思をはさんで話を切りだした。


「昨年の後半から、我々はユーラシア大陸東方・内陸部に、異常な魔力の反応を観測しておりました。年が明けた頃から、反応は更に強くなっています。……原因は、今のところ我々も解明できておりません」

「む……」


 かすかに漏らしたソ連大使の声に、満田は彼の胸中を察した。これは本国報告にあった、満州国で通信障害が始まった時期と一致する。


「加えて、ドイツ国内の同胞から、ナチス党が中国東北部に異様な関心を持っているとの情報を得ていました。党首のヒットラーはドイツ軍において装備の近代化を急速に進めておりますが、プライベートなレベルでは魔術に強く傾倒しております。我々は、中国東北部、満州方面で、何らかの異変が起こっているのではないか。そしてナチス・ドイツがそれに関連し、何らかの行動を起こすのではないか。そういう懸念を連盟本部に伝えてまいりました」

「……事前の警告を活かせなかった事を遺憾に思います。なにぶん、判断材料が不足しておりまして」


 アヴェノル事務総長の謝罪に軽く会釈を返し、博士は言葉を継いだ。


「我々も、事態を正確に把握できていたわけではありません。まして、こんな光景を生きているうちに目にするとは思ってもいませんでした。連盟の対応を非難できる立場ではありません」


 博士の言葉に、今度は事務総長が会釈を返した。それを機に各国代表からの質問が始まった。要点はただひとつ、これは一体何ものの仕業なのか、そこに尽きる。博士は質問を截然と整理し、まとめて答えていった。


「……死者の復活、あるいは死体を操作する魔術は、現状、神話・伝説の類いです。記録が信頼できる中世以後では、成功例は残っていないといっていいでしょう。まして、これほどの規模で行使するなど、どれほどの魔力が背後にあるのか想像を絶します。十九世紀最大の魔術師と呼ばれたグリゴリー・ラスプーチンでさえ、集団幻覚以上の行使はできなかったのです。申しわけありませんが、何ものが死体の軍団を動かしているのかについては、私もお力になれません。ナチス・ドイツがこの件で不審な動きをしていると指摘しましたが、彼らが単独でこのような魔術を産みだしたとは考えておりせん。もしそうだったなら、ドイツ本国において軍事行動と連携する形で行使されるでしょう。彼らの満州地方での活動は、花の蜜にハチが群がるような、そんな性質のものだと推察しております」

「……死体の軍団、見たところ日本兵の姿をしていますが、それは参考になりませんか?」


 アメリカ代表の発言だった。それはこの魔術を行使したのは日本自身ではないかというほのめかしに等しい。思わず満田は反論の声をあげようとしたが


「それはない……と思いますが」


博士の即答にさえぎられる形になった。


「根拠を聞かせていただけますか?」

「そう……ですね、例えばここに列席されている方々の本国で同様の試みがあった場合、それは国家レベルで承認される事でしょうか? いかに強力なものとはいえ、自国の青年たちを生贄にして軍団を作る。それは国民国家の基礎を破壊しかねない行為ではありませんか?」

「ふむ……」


 博士の論にアメリカ代表はあっさり引きさがった。一瞬冷静さを失いかけた満田だったが、考えてみれば、自分が他国の代表の立場なら、一応発しないわけにはいかない質問だったろう。


「ただ……予測・想像レベルの意見を許していただけるなら……」


 截然とした調子から打って変わって、ためらいがちに語り出す博士。


「私はこの、死体兵の軍団に、非常な違和感を覚えます。技術的なレベルと、思想的なレベルとで。……ご承知のとおり、魔術の歴史は衰退の歴史といっていい。神話の時代に隆盛を誇った万能の技術は、時を経るにしたがって衰微していき、そして今は科学技術にその座を奪われ、消え去ろうとしています。……神話の記述をそのまま信じれば、ですが。現在、どこかの国か組織が、神話・伝説レベルの魔術を突然開発しえたとは、ちょっと信じられません」


 場の数名がうなづき、残りの者からも異議はない。


「思想的なレベルですが……先ほども述べましたが、我々の時代に、同じ人間を大量に生贄とするような、そんなやり方が公認されるものでしょうか? 比喩的な意味では、他者への搾取行為も〝生贄〟と呼べるでしょうが、〝これ〟は文字どおり命を奪い、呪法の道具にするのです。それが国家レベルにおいて許されるものか? 近代国家は、ある意味〝正義〟なしには自己を維持できない。そう私は考えております。さらに、様々な国家・民族において、死者を蘇らせる魔術の伝説は一様に語り継がれてきましたが、同様に共通していたのは、それが〝禁呪〟に属するものだという認識です。死者を蘇らせ操る行為は、自然の摂理に反し人の尊厳を踏みにじる行為だと、各民族が等しく感じてきたと言えましょう。それに対して……〝これ〟を行った主体、個人か団体かわかりませんが、一切頓着していない。むしろそれらをあざ笑っているかのようです。私は……〝これ〟が……」


 グラスの水に口を湿し、押し出すように続ける。


「我々の時代とは隔絶した、時か場所か。そんな所から突然ほうり込まれたような、そんな印象を受けます。あえて我らの世界との繋がりを仮定するなら、……遠い過去、神話・伝説の時代から、当時の魔術文明がそのまま甦ってきたような……」


 ためらいながら語られた博士の仮説を、その場のメンバーもまた、どう受けとっていいか迷うしかなかった。笑い飛ばす事も、鵜呑みにする事もできない。……が、国連脱退国にして部外者を決めこもうとしていたはずの、満田謙吉公使を決断させる力はあった。


「アヴェノル事務総長……日本が現在把握している事件の推移を資料化し、提出したいと思います。しばしの時間をいただきたい」

「おお!」


 固いままの表情だったアヴェノルは、思わず破顔した。


「感謝します満田公使。何にせよ、当事国の報告は事件把握の基礎となります」


 満田は、脱退済みの連盟に対し、本国方針どおり背を向け続けるのではなく協力する道を選んだのである。


(この件が陸軍の若いのに知れれば、俺を売国奴と呼ぶだろうな……)


 本国で頻発していた若手将校のテロ事件を思えば、満田の胸にもためらいや怖れが浮かぶ。しかしこの件で日本が孤立をつらぬき通すのは、きわめて危険に思える。同じ国連脱退国ドイツと手をむすぶ方向も考えられるが、どうもドイツのやり方を見ると、この問題に対し〝火消し〟ではなく煽る立場をとっているような……それも日本に対して秘密裏に。

 もしもテレルマン博士の予想が正しければ、同じ時代に生きる人類すべてが、免疫を持たない病原菌に直面しているようなものだ。列強各国が本質的には他国を狙うオオカミだとしても、現状、祖国にとって最良の道は〝協力〟しかない。満田は弱気になりがちな自分を叱咤するように、自身に強く言い聞かせた。


   ◇─────◇


 奉天司令部開原出張所。

 志羅山中将以下、幕僚会議が持たれていた。議題は、満州国の現状をどう理解すべきかである。いやこの場合、奉天も地域としては満州国に含まれるのだから、新京の満州国中枢と言うべきだろう。


「……確実なことは、新京と現在連絡がとれず、かの方面から死人からなる軍団が襲来していることです」


 牧原大佐の声が低い。


「こういう事態に、我々は遭遇したことがありません。日露戦争時にも、いや、記録に残る範囲においても、死人を操って軍団規模の集団を作るなど、前代未聞であります。どこかの国か集団が、呪法戦の研究を続けてあのような魔法技術を開発したものか? その由来は全くわかりません。そこでとりあえず、その件は考慮の外に置き、新京における反乱の主体は何ものかを考えてみたいと思います」


 大佐は移動式の黒板に板書する。軍人と言うよりは教師だな。会議室末席を占めた藤原少佐はそんな印象を持った。


「まず反乱主体を三つ想定したいと思います。一つは満州国皇帝、溥儀ふぎ

「ありえん。奴にそんな力があれば、上海で冷や飯食いなどするものか」


 志羅山中将が混ぜかえす。彼には、溥儀を上海から引きずり出して皇帝位に据えてやったという自負があった。自分が手を貸さなければ何もできない男と侮蔑しきってさえいた。


「……閣下、それはもう一つの場合、新京の関東軍司令部が主体であっても同じ事なのです。ついでに言えば、さらに一つは、我らの知らない何ものか、この場合人物〝甲〟と呼びますが、その場合であっても、この魔術の力がどこから来たかは説明不能です。この三者において異常な魔術を持っているという事は、数学で言う〝仮定〟として扱いたいのです」

「む……」


 決まりの悪い顔をして志羅山は黙りこむ。


「しかしそれでは……牧原大佐、どういう推測ができるでしょう? 溥儀が由来不明の魔術をもって新京を制圧し、我が帝国に反逆を宣言した。または新京関東軍がそれをやった。そう考えてみたところで、それぞれの真偽を判断する材料がありません」


 若手参謀の率直な質問。


「いや、確かに材料は乏しいのですが、二番目の例、関東軍が新京を制圧・反乱を企てたという例については、可能性は低いのではと考えます。根拠は、志羅山閣下と新京の通信内容です」

「あ……」


 通信内容は書きおこされて文書化されていた。全員書面に目をおとす。


『吠えるな下郎。犬にふさわしい振るまいだが滑稽なだけだ。汝らの無知は哀れみに値する故、教えてやろう。余は帰ってきた。以降、四海全ては余がしろしめす。汝らには選ばせてやろう。生きて余に帰順するか、死して余の兵俑と化すか、どちらかをな。ヒロヒトとやらにもそう伝えるがよい』


「……なるほど、いくら強大な魔術を得て増長していようと、日本軍に籍を置いた者が最後の部分のような不敬発言はありえない」


 納得顔の若手参謀。


「では溥儀か? 普段のあの男では考えられないが、強大な力を持ち、つけあがっているという前提で考えれば説明がつく」


 古顔の参謀中佐の発言に、あたりに納得の雰囲気が漂ったが


「あのう……」


藤原少佐が遠慮がちに手を挙げた。


「参謀会議の末席を汚すにも値しない若輩者ですが……牧原大佐のおっしゃる〝判断材料〟を、皆、少しずつ小分けにしてつまんでいるように感じまして……」

「どういう事だ? 判断材料とは?」


 志羅山の語気するどい反問。開原指揮所での一件を、はっきり根にもっている態度だ。


「はい、志羅山閣下の通信記録です。一気に全体を分析・評価してはいかがでしょう?」


 委細かまわぬ口調の藤原の言に、参謀団は顔を見合わせた。言われてみればその通りだった。〝敵方〟からもたらされた情報は、今はこれしかないとさえ言える。しかしながら、帝国軍人にとって口にするのも憚られるような文面に、無意識のうちに避けて通ろうという意識が働いたようだ。


「それもそうだが……真に受けていいものだろうか? こちら側を攪乱する意図が、あるやもしれんぞ?」


 古手参謀の意見だったが


「どうでしょう。自分は、この発言に〝嘘〟はないと思います。嘘といいますか、こちら側を欺いたり迷わせる意図はないのでは? 仮定にそって考えますと、相手は前代未聞の強大な魔術を持った怪物です。こちら側をだますような、そんな必要を感じないのではないでしょうか? 発言が非常に高飛車で、相手を己と同列に考えてさえいないような、そんな態度に思われます」

「むう……」


 志羅山中将にとって、気にいらない若造の意見だったが否定できない。自分が直に声を聞いた印象そのままだった。

 一同は新京側からの〝声明文〟解析にかかった。


「『帰ってきた』とは、どういう意味でしょう?」

「溥儀にしてみれば、清朝を興した父祖伝来の地に、という意味では?」

「……いや、満州における伝統的な首都は奉天でした。新京、古い名で言えば長春に帰ってきたという言い方は少々不自然では?」

「何より最後の部分が、溥儀の発言としては妙です。先年本国を訪れて陛下に拝謁し、親しく遇されたのを喜んでおりました。陛下を指して伝聞形でものは言わないと思います」

「となれば……」


 司令部一同の意見はまとまってきた。決定的な判断材料は不足しているものの、新京はおそらく、異常な魔力を持った人物か集団に支配されている。溥儀皇帝と現地関東軍は、この企てに直接は関わっていない。


「以上を奉天司令部の見解として、参謀本部に報告する。各自それぞれの持ち場において、戦闘準備を進めるように。解散」


 志羅山中将の言葉とともに、幕僚たちは一斉に席を立ち、それぞれの職分に戻っていった。藤原少佐も急ぎ自分の部隊に向かう。


(結論は「正体不明の人物もしくは集団が、由来不明の強大な魔術をもって新京満州国中枢を乗っとった」か。これでは大した事は明らかになってはいないが……)


 しかし藤原の目には、各自が死体兵焼却時の動揺した様子から落ちつきをとり戻してきたように見える。結論はどうあれ、自分らで情報分析をおこない、曖昧模糊とした状態にある程度の見当をつけた。それが自分自身の立ち位置もはっきりさせる。そういう事なのだろう。

 死霊列車の次の目標は、おそらく開原。四平街と奉天の中間地点にあたり、そこを奪われれば、敵の手は奉天に一挙動でかかる。正念場であった。


   ◇─────◇


 窓のない一室の中央。卓上に置かれた大量の書類に向かい、大柄で太った男が座していた。室内にも関わらずサングラスをかけたまま。手もとの書類を目で追ううちに、口元にゆるりと笑みが浮かんだ。


「ほう、日本公使が連盟に対し協力に転じたと。予想外に上出来だ。顧維鈞は渡した写真をうまく使ってくれたようだな」

「白六から次の指示を請うと連絡がきています」


 部屋の隅には通信機が設置されている。向かって座る若い女が、ふり返らず肩越しに声をかけてきた。


「……ベルリンに向かわせろ。ナチスがどこまで知っているか。その情報が欲しい」

「連盟本部につなぎ役を置かなくていいのですか?」


 今度はふり返って語りかける。赤ふちのメガネにライトが反射した。男も目を上げ視線を合わせ、そして電文書類を卓上に放った。


「人手が足りなさ過ぎる……連盟本部の方はしばらく放置するしかあるまい。……白二から連絡は?」

「ありません。葛月譚老師に会ってから、長春に行くと連絡があったのが最後です」

「やれやれ、糸の切れた凧は相変わらずだな……まさか一人で長春まで突っ走るつもりではあるまいな」


 小さく嘆息し、腕組みをして言葉をつなぐ。


「連絡をつけられる場所すべてに暗号文書を送れ。K14満州国内に潜伏の情報あり。奉天の日本料理屋、日吉。または四平街近くか。……あと、連絡密を請う、とでもつけ加えておけ」

「まだ確認していない情報ですが……いいのですか?」

「確認する人手も時間もない。あいつ自身が確かめて、潜入行の手がかりにでもなればそれでいい」


 男は口早に言い切ると、かすかに溜息をつき、椅子の背に身をもたれかけた。


「まさか今になってこんな事態が起きるとはな……。もう二十年も前ならば、俺たちよりよほど腕の立つ法術士らが現役でいたものを……」

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