『イルカとラブレターと恋一つ』
山本てつを
第1話 イルカとラブレターと恋一つ
僕は水族館に勤める、イルカ担当のスタッフ。俗に言う、イルカの調教師。
相棒の名前は〝ノープ〟。もう五年近い付き合いになる。
実は、今日から、大学の研究グループの人達がやってくる事になっていた。
研究内容は、簡単に言ってしまえば、『イルカと話をする』っていうことらしい。本当はもっと難しい説明をされたけど、僕にはよく分からなかった。多くのパターンを採取できれば、マトリックスに当てはめて――。とかなんとかかんとか。
予定の時間より少し早く、研究者の人達が来た。
やって来たのは三人。男の人が二人に、女の人が一人。大学の研究者というから、典型的なインドアータイプの人達が来ると思っていたのだけれど、皆よく日焼けしたスポーツマンタイプだった。
「研究室にいるより、海に潜っている時間の方が長くて」笑顔で女の人が言った。
海や海洋生物が本当に好きな人達なんだな。研究者なんていう人種の人達とうまくやっていけるか、少し不安だったけれど、仲良くやっていけそうだ。
研究リーダーは女の人。教授の下の准教授のそのまた下の役職である助教で、男の人は両名ともまだ学生さんだそうだ。
綺麗な女の人だ。シャープなあごへのライン、笑うと無くなる目、少し厳ついフレームのメガネもよく似合っていた。
明るくて、嫌味の無い魅力的な人だった。
翌日から研究というか、コミュニケーションをとるための実験が始まった。
ノープを使うかと思っていたけれど、別のイルカに白羽の矢がたった。ノープは年齢的に少々おばあさんなので、候補としてのプライオリティが低いそうだ。
ノープには黙っておこう。怒るといけないから。
そう、イルカの調教師は、皆イルカと話ができる。
もちろん、今回の研究の音や超音波でって言う訳じゃない。長く付き合えば、目を見れば話ができる。そういった感じの意味で話せる。大切な友達で、パートナーだから。
助教の彼女と一緒に仕事が出来るかと思っていたから、少し残念だ。もっとも、僕なんか相手にされないだろうけれど。
彼女達がやってきてから三ヶ月ほどになるけれど、研究はほとんど進んでいないらしい。
有意な情報と思われるような言葉を、イルカが全く言わないためだ。
最初の若いイルカでは無理なのかもしれないと、その後別のもう少し年上のイルカを研究対象に変えたけれども、結果は同じだった。
データが圧倒的に不足していた。
最初の一週間や二週間は、彼女もまだ余裕のある態度だったけれど、ここまで苦戦するとは思っていなかったみたいだ。
毎日その日の終わりに、肩を落として機材を片付ける彼女を見ていると、胸が痛かった。
何もしてあげられない自分が悔しかった。
仕方がないのは、分かっている。
彼女達の研究の細部も分からないし、自分では力不足なのはよく分かっていた。
僕は高校を卒業してすぐにこの水族館に就職した。それに対して、彼女は僕と二歳くらいしか離れていないのに、もう助教だ。学歴が全てを決めるとは思わないけれど、この差は大きい……。
分かってはいた。分かってはいたけれど、それでもやっぱり、何もしてあげられない自分が悔しかった。
三匹目の対象として、一番お年寄りのノープが選ばれた。時間的に今度がラストチャンス。ノープでもダメなら、資金集めからやり直しだそうだ。
ノープ、三匹目だからって、いじけたりしないでくれよ。
ノープを研究対象にしてから、一週間ほどたった夜。
僕は他のイルカ達をショー用のプールから飼育プールに移した後、休憩でドリンクの自動販売機が並んでいるコーナーへ行った。
その自動販売機の前に、彼女が膝を抱えて座っていた。
暗くて表情はよく分からなかったけれど、どんな顔をしているのかは容易に想像できた。
僕は自動販売機で缶コーヒーを二つ買い、その一つを彼女の目の前に差し出した。
「あ、ありがとう」顔を上げ、僕を見ながら彼女が言った。
「やっぱり、難航してますか?」
「うん……。マトリックス表を、どうしても埋められなくて」
「ノープも言う事を聞いてくれませんか……」
「ううん。ノープは、今までのイルカの中では、一番饒舌よ。ノープのおかげで、かなり変換マトリックスのプログラミングができたし」
「役にはたってくれたんですね」ちょっと、ほっとした。
「うん。でもね……」
「でも? どうしたんです?」
「同じ言葉のリピートをしてくれないの。言語の繰り返しデータを取る事で、文法の最終決定ができるんだけど……」
「同じ言葉の繰り返しって、どのくらい繰り返せばいいんです?」
「最低三分間。できれば五分以上は欲しいけれど、三分間録音してデータにできれば、解析できるから」
同じ言葉を三分間か……。小学生の子に同じ言葉を三分間繰り返させるのだって、なかなか難しいだろうに、イルカに同じ言葉を三分間もさせるのは厳しいだろうなぁ。
彼女はコーヒーをぐいっと飲み、立ち上がった。
「ごめんなさいね。愚痴聞いてもらっちゃって。おかげで、ちょっと楽になったわ」彼女が微笑した。
「愚痴を言ってもらおうと思って、コーヒーをおごったんですよ」僕は言った。
しかし、その日以降も、彼女から笑顔は消えていた。
話しかければ微笑んでくれたが、瞳の奥には悲しさが宿っていた。
胸が痛む。
何もできない自分がなさけない。
僕はイルカのスペシャリストなのに。
夜、僕はプールや水槽の掃除を終えた後、ノープに会いに行った。
僕の足音を聞きつけ、ノープはプールの縁まで来て、顔を出した。
僕はプールサイドに腰かけ、ノープをなでながら話をした。
「頼むよ、ノープ。彼女の研究に力を貸してあげてくれ。僕はね、どうやら彼女が好きになってしまったみたいなんだ。やきもち焼かないでくれよ。彼女の悲しそうな顔を見ていられないんだ。絶望しきった表情を見ていられないんだ。誰だって、好きな人には笑顔でいてもらいたいものなんだよ。だから、お願いだ。彼女に力を貸してあげてくれないかい? なんでもいい。同じ言葉をただ繰り返してくれるだけでいいんだ……」――って、僕が話してもどうにもならないか。
僕は立ち上がり、プールから離れ、出入り口の扉に手をかけた。
振り返ると、ノープがまだ僕を見ていた。
次の日。朝一番のエサの用意、プールの水温測定、動物の健康チェック、ミーティングを終えた頃には、もう昼になっていた。
休憩の時間になったので、僕は研究グループに割り当てられたプールへ行ってみた。
そして、そこでは――。
プールサイドで二人の学生さんが大騒ぎしていた。
ハイタッチをしているわ、抱きついているわ。
なんだ? 何かあったのか?
出入り口が開き、彼女が満面の笑みで入ってきた。
手にはプリンター出力された紙と、メモリースティックが握られていた。
僕は彼女を呼び止めた。
「どうしたんです? 何かいい事がありましたか? もしかして、ノープと話ができたとか?」
彼女は少し驚いたような、困惑したような顔をして、僕へ近づいてきた。
「え、えぇ。ノープが朝からずっと同じパターンの音声を出してくれて、やっとデータ解析ができたの」
「やったじゃないですか!」さすが、ノープだ。僕の思いが伝わったかな?
「うん、ありがとう」彼女が笑顔で言った。少し顔が紅潮しているように見えた。
「それで? ノープはなんて言ってたんです?」
「え、えーとね」彼女が僕から視線を外し、少しうつむいた。
「はい?」
「あのね……」
「なんです?」
「ノープにね」
彼女はうつむいていた真っ赤な顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見て、こう言った。
「あなたの、私への思いを、何回も、何回も、聞かせてもらったの!」
── END ──
『イルカとラブレターと恋一つ』 山本てつを @KOUKOUKOU
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