第4話 その十五センチの紙切れは、

「記憶喪失なの」


 それは恋心とかいうものを抱いている身としては、ひどく心に負担がかかったのだけれど、その裏でボクは、今なら気持ちを伝えられるんじゃないか、なんて、そんな不謹慎なことを思ってしまっていた。


 それから、性格が変わっていることを聞いて――その変わり具合は想像よりずっと大きいものだったけど――さらに好都合だと思った。

 彼が、彼と乖離すればするほど、ボクが気持ちを伝えるハードルは下がっていくように思われたから。


 ボクはその時から、記憶が戻らないという可能性を考えていなかったのだと思う。恋は盲目というけれど、ボクはまさにそんな状態だったのかもしれない。


 それで、都合をつけて会いに行った。おばさんから思い出話でもしてあげてと頼まれたから、それを表面上の理由にして。


『――好き』


 そんな言葉をさらりと言えたのには、自分でも驚いた。直前に、彼が悪魔の飲み物と形容していたコーヒーを、何の抵抗もなく飲んでいたのを見ていたからなのかもしれない。


 そうやって少しだけともに時間を過ごして、自分のことを俺と言う彼を、ボクは少しだけ気に入り始めていた。それは恋していた姿だったからなのか、好きだということを伝えられたという達成感からなのか、よくわからなかったけど。

 でも、消えてほしくないなあなんて言う感情が、確かに芽生えていた。


 あとは、悩んでいるようだったから、少しでも力になれないかと慣れないことをして、退院が近づいていると知って、もう一度会いに行って。


 そうして、本心から、幸せになってと願って。


 ボクは、その報せを聞いた。


「記憶が戻ったの!」


 電話の向こう側でおばさんは明るい声をあげていた。ボクもそれを聞いて喜んで、すぐに病室に会いに行った。


 一刻も早く、賭けの結果が知りたかったのだろうと思う。


 病室の扉を開けると、おばさんがいて、彼はその横でおばさんの話を聞いていた。ボクはおばさんから一応の検査のために退院が少し伸びたことを伝えられ頷く。おばさんは気をきかせてなのか、少しの間ボクと彼の二人きりにしてくれた。


「えっと、迷惑をかけたみたいだね」


 その顔を見て、声を聞いて、記憶が戻ったという事実をようやく実感した。


「ううん、そんなことない」


 ボクはそう言って、それから、賭けの結果を聞こうと思って、口を開いて、


「――僕はちょっと覚えてないんだけど、思い出話とかをしてくれたんだよね、ありがとう」


 声を発する前に、賭けに負けたことを知った。


「ううん、当然のことをしたまでだよ」


 平静を装って、ボクが受けた衝撃など、少しも感じさせないように。

 ばれないように、ばれないように。


 ボクは笑顔を顔に張り付けた。


「今日はどうしたの? なんかいつもより女性らしい服を着てるよね。好きだったっけ、そういうの」

「あはは、なんとなくだよ。ボクだって女の子だから、ちょっとおしゃれしたくなる時だってあるのさ」


 張り付けて、張り付けて。剥がれぬように、見透かされぬように。


 そう言った努力を続けながらも、結果から導き出される結論を、ボクは心の中でつぶやいていた。


 ……じゃあ、あの彼は消えちゃったんだなあ。


 悲しいような気もするし、そうでもないような気もする。ただ、幸せを願ったのに消えてしまうというのは、なんだか納得がいかなかった。


「――そういえば、これ、わかる?」


 問いかけに意識をもどしたボクは、彼が差し出すそれに反射的に目を通した。


『パスワード 俺の長さ ローマ字   幼馴染にでも入力してもらえ』


 何の心持もなく見たのだ。目を見開くには、十分すぎる内容だった。


「スマホの電源入れたらパスワードが設定されててさあ、スマホの裏側に張ってあったんだ、それ」

「……うん。わかる。わかるよ……!」


 思ったよりもうれしくなっている自分に気づいた。彼がいた痕跡が、こんなに明確に残されていて、そのことに、なぜか心の底からほっとしていた。


「じゃあ、お願いできるかな」

「うん」


 スマホを受け取った。画面をつけると、文字数が決まっていないパスコード入力画面と、キーボードが現れた。

 ボクはそこに、入力していく。


 俺の長さ、か。なんてひねりがないんだろう。ボクにロックを解除してほしかったにしても、もっと何か凝った暗号はなかったのだろうか。


 あのたとえ話は、自分でも無理があると思っていた。なんとなくその場のノリというか、そんなことで話したことだったけど、ボクのあの話は、少しは彼の役に立ったのだろうか。

 そういえば、そんな問いをしたけど、答えてもらえなかったと思い出す。


 ――十五センチ。

 それをローマ字で入力して、エンターキーを親指でタップした。画面がスライドして、ホーム画面が現れる。すぐに、彼が伝えたかった文字が目に飛び込んできた。


『病室の花瓶の中を見ろ』


 そう書いた紙をカメラで撮影して壁紙にしたようだった。


 ボクは、スマホを机の上に置いて、病室を見回す。


「ありがとう。……どうしたの?」


 窓際に赤い花が飾られていた。ボクはそれに近づいて行って、花を横目に花瓶をのぞき込む。

 花を生かすための水の中に何かが沈んでいるのが見えた。


 えいっと水の中に手を突っ込んで、ボクはそれを取り出した。

 最初、視界の隅で彼は頭に疑問符を浮かべていたけど、彼もスマホを見て、気づいたようだった。


 じっと、彼はボクの手の中にあるビニール袋を見つめている。ボクも、それを見つめていた。


 中には紙が入っているのが見て取れた。ビニール袋は、中身がぬれないようにするためのものだったのだろう。

 ボクは中から紙を取り出した。それはどうやら手紙のようだった。折りたたまれて、開かなければ中が見えないようになっていた。


 息を吸い込んだ。なんでそんなことをしたのかはわからないけど、しなければいけない気がしたのだ。それだけの覚悟が、必要な気がしたのだ。


 ひらく。はらりと、あの十五センチの紙切れが落ちた。手紙の一文目には、こう書かれていた。


『十五センチの紙は最後に見ろ』


 ボクはそれに従って、初めに手紙を読むことにした。手紙はところどころ一人称が僕になっていたりして、それを鉛筆で上から塗りつぶして直しているのが見て取れた。


 ……なんて馬鹿野郎なんだろうか。なんて大馬鹿野郎なんだろうか。

 ボクは、その手紙を読んで、そう思った。


 最後に、足元に落ちた紙を拾い上げる。十五センチの紙には、あの日ボクが書いた言葉が書かれていた。


 そして、裏返して――。


 ――ボクは、彼を見据えた。記憶を取り戻した彼を。ボクの想い人を。


 心臓がバクバクと高鳴っている。呼吸を意識するたびに、それがおかしいものになっているような気がする。

 ……それでも、そんなことを理由に逃げることはできなかった。


 空気を震わせる。


 ボクは背中を押してくれた十五センチを握りしめて、ばかやろーなんて、そう心の中でつぶやいていた。

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