第3話 三回目のお見舞い
千円札の話の後、
『やっぱりたとえ話なんてボクには向いてないね』
と言って、彼女は帰っていった。俺はその後ろ姿を、十五センチの紙切れを持って見送った。その時の俺は、なんだか満たされているように感じていた。
それからは、その十五センチの紙を視界に入れるごとに、頭の内側がうずくようになった。俺は確かな予感を感じながら、その紙きれを極力見ないようにしていた。
「もうすぐ退院だね」
三度目のお見舞いに来た彼女はそう言う。俺はそれを、花瓶に刺された赤色の、名も知らぬ花を見ながら聞いていた。
「千円札の話は、少しでも君の力になれたかな」
しみわたるような声だった。
ああ、これはダメだ。そんな風に感じている自分は、きっともうダメなのだ。
だから、その質問に答えることはせず、俺から彼女に質問を投げかけた。
「なあ、俺は消えてしまった方がいいと思うか?」
その質問をするときでさえ、俺は彼女の顔を見なかったから、彼女がどんな顔をしていたのかは俺にはわからなかった。
少しの間があった後、ぽつりと答えが音になって聞こえた。
「……そうだね。もし、君の記憶が戻ったとき、今の君の記憶がなくなってたら、ボクは賭けに負けたことになるかな」
『賭け』という今の質問に不相応な単語が聞こえた。俺は無言で、その意味を問いただす。
また少しの沈黙があって、それから彼女が息を吸い込むのが聞こえた。
「最初、君のお見舞いに行ったとき、ボクは君に聞かれなくても、君が好きだという事実を伝えるつもりだった。そうすれば、いつか記憶が戻ったときに、君はボクの気持ちに気づいてくれるだろう? ……ボクには、面と向かって告白する勇気なんてなかったからさ」
俺は、そこまで聞いてようやく彼女の方を向いた。視線の先で彼女は、自嘲気味に笑っていた。笑うなら笑えと、そう言っているかのように。
「ああ、でも、今は少し理由が増えたよ。前にも伝えたと思うけど、ボクは今の君を気に入ってるんだ。……だから、君のその問いかけに対するボクの答えは、ノーだよ」
「……そうか。ありがとよ」
「どういたしまして」
がらがらと、扉が開く音がする。時計はすでに、面会時間終了間際に迫っていた。
最後に、彼女は立ち上がりながら言った。
「ボクは君の幸せを願ってるよ。一種の自己満足としてね」
そんな彼女に、流れで俺も幸せを願う。
「ああ、俺もお前の幸せを願ってやるよ」
彼女は俺のそれを聞いて笑って、そのまま病室から出て行った。
「――一種の自己満足で、か」
言葉を反芻する。それは俺にとって、どれだけの意味があったのかはわからない。でもかすかに、ほんの少しだけではあるものの、俺は俺の背中を押すことができた。
元々決めていたことだ。実行には、それだけで事足りた。
十五センチの紙切れを手に持って、俺はナースにポリ袋を要求した。
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