カキツバタのせい


~ 七月三日(月)  お昼休み 四十センチ ~


   カキツバタの花言葉 音信



 遥か遠くの席に腰かけるのは、昨日、ピンチの時に逃げようとした俺に対して膨れてしまった藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪を、今日は頭のてっぺんで結わえて、まるで葉物のように広げている。その中央に活けられているのは、一輪のカキツバタ。

 紫の優美なフォルムを鮮烈に印象付ける、見事な作品だ。


 そんな芸術作品が、今日は一日中揺れっぱなしだ。

 その理由は三つある。


 まず、暑い。

 湿気をはらんだ不快な暑さは、穂咲が一番苦手としているものだから。


 二つ目。

 土日と勉強漬けで、一日も休まず月曜日を迎えているから。

 ……勉強漬けの定義については、まあ、人それぞれだろうから深く考えまい。

 重要なことは、こいつにとって勉強漬けだったかどうかということで、どうやら頭の使い過ぎで相当疲れているようだ。


 そして最後の一つ。

 湿気をはらんだ不快な暑さは、穂咲が一番苦手としているものだから。


 ……大丈夫。

 暑さでぼーっとしてはいるが、間違いじゃない。

 これは、一つ目の理由とはちょっと違う。


 今、俺の机には鍋の中でくつくつと揺れる豆腐が一丁、ポン酢の海に浸るのを心待ちにしているのだ。

 おかげで、いつもはかぶりつきで楽しむギャラリーはおろか、クラスメイトすら廊下にエスケープしているのです。


 ……俺たちの近辺、お手軽サウナ。

 あちぃぃぃぃぃ…………。


「きょーじゅー。いくらなんでもー。みーす、ちょーいす……」

「あついの……。でも、これがあたしのやりたかったこと………………なの?」

「しー、らー、んー……」


 俺の向かいに腰かけた教授が、ぼーっとしながら俺の皿の目玉焼きを鍋に入れる。

 ああ、せっかくの目玉焼きが堅焼きになっちまうよ。


「あついから……、あのね、やりたかったことが、あついの。それでね……」


 俺ですら暑さで思考がほわっと霧消しているのだ。

 もともと思考が無いこいつは、バカに磨きがかかっているご様子。


 目玉焼きの皿にポン酢を入れたかと思うと、その上から豆腐を乗せて俺に渡し、自分の分は豆腐の小鉢に目玉焼きを無理やり突っ込んだ後、箸で鍋から直接豆腐を摘まみ上げたまま呆然としている。


 もう、突っ込む気も湧かない。

 俺も割り箸をぱきりと割って、豆腐を摘まみ上げた。


 箸の上でプルンと揺れる豆腐は、その裾野をオレンジから黒にグラデーションさせながら、最近わかり始めてきた大人の滋味を舌に伝えて来る。


「美味そう……。でも、熱そう……。冷めるまで……、待ってから……」

「熱いけど、あのね、もう平気でね、それ、冷めたから、食べていいの」

「そうなんだ……」


 ガブ。


「……って言ったらね、食べていいの」

「あっひ」


 おそーい。口の中、あつーい。

 でも、突っ込む気になれなーい。


 しかし、ゆどうふか。


 …………。


 ピカタ。ゆかり。ゆどうふ。


「…………ねえ、教授のやりたいことって、浴衣?」


 俺が豆腐のようにプルンとした思考でたどり着いた答えを聞いた教授の目が、急にぱあっと明るく輝いた。


「ロード君! それ!」


 そうか、時間かかったなあ。

 でも、前の二つは分かるけど、ゆどうふってなに。

 文字数すら合ってない。


 それに浴衣ってなんだろ?

 浴衣で何をしたいの?


 ……いや、今日は考えるのよそう。

 というか何も考えたくない。


 立ち上る湯気のせいか、俺がもう限界なのか。

 教授の顔がおぼろげだ。


 でも、きっとニコニコ笑ってるんだよね。

 そんな思いで見つめる教授の口に、豆腐が一つ、放り込まれた。


「あっひ」


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