マーメイド

@bekkudaisuki

出会い

「水の中が一番安らぐの」

 それが彼女の口癖だった。

 僕の通うスイミングスクールには「マーメイド」というあだ名の女の子がいた。その子の名前は花水木天音。僕と同学年の子だ。まぁ、学校は別だけど……。

 花水木さんの泳ぎはさながら人魚の様に美しく軽やかで、素晴らしい。それに、このスイミングスクールで彼女の右に出る者はいない。

 僕はスイミングスクールに入ってすぐに花水木さんの泳ぎに憧れた。「僕も花水木さんの様に泳ぎが上手くなりたい」そう思い、僕は毎日、彼女の泳ぎを見て研究していた。

 花水木さんのことを思うと夜も眠れない。水を操っているかの様に素早いクロール。水しぶきを殆どあげない平泳ぎ。バタフライなんて花水木さんが本物の魚に見えてしまうくらい美しい。背泳ぎなんて花水木さんの胸が――……やめておこう。僕はいつも高鳴る胸を押さえながら布団に入るのだ。

 ある日。

「ねぇ」

 彼女から僕に話しかけてきてくれたのだ。

「はひゃ!? は、花水木さん!?」

 僕はいきなりのことで戸惑い、変な声を出してしまった。

「これ、落としたわよ」

 そう言って花水木さんはスイムキャップを僕に手渡した。

「あ、ああああああああああああありがとう!」

「いいえ、これからは気を付けてね三井くん」

「ふぁ!? ど、どうして僕の名前を!?」

「キャップに書いてあるじゃない」

 花水木さんは白くて美しい指で僕のスイムキャップを指した。

「あ、あぁ! そ、そうだよね! はははははははっ!」

 そうだよね。こんな綺麗で泳ぎが上手い子が、僕みたいな奴のことなんて知ってるわけないもんなぁ。そう僕は自分に言い聞かせた。しかし、心のどこかでは「覚えていてほしいなぁ」と思っていた。

「覚えておくわね」

「………へ?」

「貴方の名前」

「ど、どうして?」

「私、三井くんの泳ぎ、好きなのよ」

「……あlkfじゃヴぃおんdfdfklgjsfkgん:おいgkgじょちrjn!?!?」

「それじゃ、また今度ね」

 花水木さんはそう言うと去って行ってしまった。

「…………母さん、僕を産んでくれてありがとう」

 僕は涙を流しながら、母にこれ以上ない位感謝をした。その光景を見た友達に気持ち悪がられたけど……。

 その日はスキップ交じりに家に帰宅し、母に感謝の意を述べた。気持ち悪がられたけど……。

 次の日。僕は、意を決して花水木さんを食事に誘ってみることにした。

「は、花水木さん」

「あら、三井くん。何かしら?」

「あ、あの。この後お暇でしょうか?」

「えぇ、スイミングが終わった後は特に何もないけれど」

「そ、それなら僕と一緒に――」

 僕は深く息を吸い、気持ちを整えた。

「泳ぎませんか!!」

 僕は極度の緊張から言葉を間違えてしまった。散々、泳いだ後にまた泳ごうだなんて……何言ってんだろう。しかも泳ぎの上手い花水木さんが僕なんかと泳いでくれるわけ――。

「えぇ、いいわよ」

「……え?」

 予想だにしない答えが返ってきて僕の心は舞い上がっていた。

「レッスンが終わったら休憩所で会いましょう」

「は、はい!! 喜んで!!」

 どうして彼女がOKを出したのか、僕にはわからないけど、ま、結果オーライってことにしよう。

僕は小さくガッツポーズをした。

 その夜。僕と花水木さんはロッカーに隠れて、警備のおじさんをやり過ごし、夜のスイミングスクールに留まっていた。

「さ、警備の人がいなくなったことだし、泳ぎましょうか」

 花水木さんはそう言うと、服のままプールに入ろうとする。

「え!? 花水木さんそのまま入るの!?」

「着替えはちゃんと持ってきてあるし、服の下は水着よ。なんの問題もないわ。それに、私時々服着たまま泳ぐこともあるのよ」

 そう言い終えると花水さんはTシャツと短パンのままプールに入ってしまった。

「温水だから寒くないわよ。早くいらっしゃい」

 花水木さんがプールの中で僕に手招きをする。僕は少し戸惑いながらプールに入った。

「綺麗よね。夜のプールって」

 確かに窓から入ってくる光がプールの水に反射して、綺麗だ。だけど……。

「僕は、底が見えないから怖いかな」

「もしかして三井くんは溺れた事があるのかしら?」

「え!? なんでわかるの!?」

「その反応は図星かしら?」

「う、うん。実は小さい頃、海に遊びに行った時に親の忠告も聞かずに沖の方まで泳いで行っちゃったんだ。その時は泳ぐのが好きだったし、得意な方だったんだ。だから過信ちゃって………」

「三井くん、続けて」

「あ、うん。えっと、その後はあっという間だったかな。大きな波に呑まれちゃって、パニックになった僕は、いつもの様に泳げなくなっちゃったんだ。その時はまるで海が意識を持った生き物の様に思えたよ。どんなにもがいても、もがいても、見えない手でどんどん海の底に引きずり込まれていく感じがして、とっても怖かった。好きだった海も恐怖の一部でしかなくなったよ」

「……今は、怖くはないの?」

「ちょっと怖いけど、昔ほどじゃないね。昔は水たまりを見ただけで怖くて、足が竦んで動けなくなっちゃってたから」

「それだけ水が怖かったのに、どうしてスイミングスクールに通おうと思ったの?」

「父親が少し厳しくてね。『男がそんな軟弱でどうする!』っていっつも足が竦む度に怒鳴られてたよ」

「その厳しいお父さんが三井くんの姿に見かねてスイミングスクールに入れたのね」

「うん。最初は父親を怨んだけど、今では感謝してるかな」

 スイミングスクールに入ったおかげで花水木さんにも出会えたんだしね。

「私、三井くんの泳ぎが好きな理由がようやく分かったわ」

「え?」

 花水木さんは背泳ぎで少し泳いでいった。

「私、最初は分からなかったの、三井くんの泳ぎが好きな理由が。突出した才能も無ければ、泳ぎが上手いわけでもない。正直に言うなら中の下ね」

 花水木さんの言葉がザクザクと刃の様に僕の心に刺さっていく。自分でも上手い方じゃないと分かってはいたけど、そこまで包み隠さず言われると、正直泣きたくなる。

「でも、どうしても目が離せなかった。三井くんの泳ぎを見ていると、心が惹きつけられるの。それが、どうしても私の中で分からず仕舞いだったわ。……でも、ようやく理由が分かった」

「そ、その理由って一体、何?」

「……私はね、水の中が一番安らぐの。でも、三井くんは違う。そこね」

「…………え~っと、つまり?」

「私は水と友達で、心の底から信頼して身を任せて泳いでいるの。でも、三井くんにとって水は最大の敵で、決して身を任せてはいけない相手。信じているのは自分だけで、どんなに水が味方をしてもそんなのお構いなしに三井くんは自分の力だけを振るい続けている」

「は、はぁ……」

「私はね、小さい時から水が語りかけてきたわ。でも、人間の話す言語じゃなかったからなかなか理解ができなかったの。でも、小学校に上がる時にようやく分かったの。耳で聞くんじゃなくて、心で感じるんだってね。だって、そうじゃない? 人間だって口に出して言う言葉が、本当に心からの言葉だなんて思わないじゃない? 三井くんもそう思わない?」

「そ、そうだね……」

「それからは耳を傾けるんじゃなくて、心で感じるようにしたの。水は私に何を語りかけたいのか、水は私にどうしてほしいのか、私は水にどうしてあげたらいいのか。そう思っている内に、いつの間にか泳ぎが上手くなってて『マーメイド』なんてあだ名が付いちゃってる始末。全く、勘弁してほしいわ。私は人間であって人魚じゃないのよ。あんなに素晴らしい神秘的な生物と一緒にされたら、人魚に失礼だわ。」

 どうしよう……。花水木さんの言っていることが全く理解できない。それに途中から話の方向がずれてるし……。

 すると花水木さんは体をひるがえし、僕の所まで平泳ぎでやってきた。

「私の言ってること、分かってる?」

 どうやら理解していないことが顔に出ていたらしく、花水木さんに指摘されてしまった。

「……ごめんなさい。全く分りませんでした」

「私が三井くんの泳ぎが好きな理由は恐怖そのものと闘っている姿勢よ。私にはできない泳ぎをしている、から三井くんが好きなの」

「……………え?」

「え?」

 僕らは目を丸くしてお互いを見つめた。

「花、水木さん。え? 今、え? 僕のこと、もしかしてだけど……すすすすすすすすす好きって言った?」

「……言った、わね」

 花水木さんは自分でも意外なことを言った、みたいな顔をしている。

「そ、それは、僕が好きなの? 僕の泳ぎが好きなの?」

「………」

 花水木さんは黙ってしまった。

「ぼ、僕は、花水木さんの事が好きです! 泳ぎも! 花水木さん自体のことも!」

 僕は勢いに任せて花水木さんの手を強く握った。

「ありがとう」

 花水木さんは優しく僕に微笑んでくれた。

「じゃ、じゃあ!」

「残念だけど、私、自分より泳ぎが下手な人は対象外よ」

 僕の心が音を立てて崩れ落ちた。天国から一気に地獄に叩き落された気分だ。

「でも、三井くんの熱意は伝わったわ。だから、早く私より上手くなってね」

「え? え? って、ことは?」

「今後は花水木さんなんて呼ばずに天音って呼んで、雨月くん」

 僕らはその後、警備のおじさんに見つかってしまい、こっぴどく怒られた。原因は僕の歓喜の声だ……。花水木さんの言葉があまりに嬉しすぎて、自分でもビックリするほどのデカい声を上げてしまったのだ。

 僕らはコーチからもお叱りを受けたが、初犯ということで水に流してもらった。父親からは怒号をゲンコツを食らったけど。

 その後、僕は花みz……天音の泳ぎを越そうとレッスンが無い日でもスイミングスクールに通い続けた。コーチにお願いして時間外でも教えてもらえるようにしてもらい、毎日クタクタになってスクールを後にする。

 天音の泳ぎに近づくことは困難だろう。でも、いつか天音以上の泳ぎをするために、天音に近づくために、僕は泳ぎ続けてやる。それが、何年掛かろうとも、僕は天音のために、自分のためにこれからも泳ぎ続けてやる。

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