ただの山本

九良川文蔵

ただの山本

 約四十年前。世界中で同時多発的に、眼球をひとつしか持たない赤ん坊が生まれた。既存の言葉に当てはめて『単眼』と呼ばれたその存在は、初めはひどい差別を受け、虐待、殺人、果ては暴動事件まで起きた。

 そんな不遇な歴史を歩んだ単眼達であったが、十年ほど経つと単眼差別を撲滅しようという団体がいくつかでき始める。その運動はみるみる広がり、単眼も目が二つある人間と同じように就学、就職ができるようになって、今では単眼は全人類の二十パーセントほどにまで増えた。


 さて、そんな世の中に私が生まれてから、すでに二十三年が経過した。

 私は某大学院の修士課程に身を置く学生だ。年齢は先ほど記したとおり二十三歳、性別は女なのだが、背が高く髪が短いためによく男だと間違われる。恋人は居ない。居たことがない。初恋もまだだ。成人も過ぎて、情けない限りである。

 しかし恋人が居ないとは言え、寂しくはない。私には友人が居る。たった二人だけだが、気の置けない親友が居るのだ。

 私が物心ついたときから近所に佇んでいる喫茶店に向かうと、彼はまだ来ていなかった。私はカウンター席に座り、ウインナーコーヒーを注文して、ぼんやりとする。七月の終わりの今日はひどく蒸し暑いが、店内は冷房がききすぎていて寒い。先程まで炭酸飲料が恋しかったのに、店に入った瞬間温かいコーヒーを頼んでしまう程度には。

 カラコロとドアベルを鳴る。

「上田!」

 彼は、店に入ってくるや否や私の名を呼んだ。

「ちょっと遅刻ですね、すみません」

「遅刻って、たった二分だよ」

 私は笑って彼へ視線を向けた。中分けの髪と私より幾分か低い背。トレードマークの桃色のネクタイを今日も締めて、大きな一つ目をきょろきょろと動かして。

 彼は山本といい、見てのとおり単眼の青年である。年齢は私と同じ。大学を出てからは在宅のバイトをしつつ、小説家を目指している。……いや、目指している、というか。

安宅川あたくがわ賞ノミネートおめでとう」

 隣に座った山本にそう言うと、彼はひへへと変な笑い声をあげた。

 つい先週、山本が書いた小説が新人作家の登竜門とも言える安宅川賞の候補になったのだ。初の単眼の受賞者になるのではないかと過剰なまでに報道され、山本はすっかり有名人である。

「まだ受賞って決まってないんですけどね」

「候補にあがるだけでもすごいんじゃないの?」

「そりゃあ、光栄なことですけど……」

 語尾を曖昧に濁し、山本はため息をつく。恐らく疲れているのだろう。いきなり世間から注目され、取材やら雑誌のインタビューやらで多忙を極めているのだから。

「そんなことより、セッちゃん、もう来る頃ですかね」

「そうだね、もうすぐ来るよ」

 私が言うと、山本はあからさまにそわそわし始めた。気持ちは分かるが、あまりの分かりやすさに私は含み笑いをする。

 やがてドアが押し開けられ、ドアベルが鳴った。そちらを見ると、彼女が居た。この店の扉は内側に押して開くので、腕のない彼女でも入ることができる。

 そう、彼女には生まれつき両腕がない。

「セッちゃん、久しぶり」

 声をかける。セッちゃんは微笑んで、席に座った。私、山本、セッちゃん。昔からこの喫茶店のカウンター席では、この順番に座るのだ。懐かしくて、苦いような甘酸っぱいような気分になった。

「空港からそのまま来たの?」

「ううん」

「じゃあ、一旦家帰ったんだ」

「うん」

 セッちゃんは今日私達が集まった理由そのものだ。障害者陸上の世界選手権で、セッちゃんが準優勝して日本に帰ってきたお祝い。

 彗星のように現れた腕のない陸上選手として脚光を浴びたセッちゃんではあるが、無口な彼女はインタビューや取材を徹底的に拒んでいる。セッちゃんいわく、そんなことより私達に会いたいそうだ。

「久しぶりに三人揃いましたね」

 山本が弾んだ声で言う。

 私達三人はかつて同じ小学校と中学校に通っていて、常に三人で行動していた。中学校卒業後は私と山本は別々の高校へ進んで、セッちゃんは進学はせずプロの陸上選手になった。

 当然会う頻度は減ったが、それでも関係というものは意外と続くものだ。セッちゃんが陸上で成果をあげたり、誰かの誕生日だったり、そういう理由をつけては集まっている。

 私が注文したウインナーコーヒーが運ばれてきたのを見て、思い出したかのように山本はカフェオレ、セッちゃんはオレンジジュースをそれぞれ注文した。

「でも……二人ともすごいなあ。期待の新人作家と、世界で活躍する陸上選手だもんね」

 私はと言えば、粘菌の研究をしている冴えない学生である。とても胸を張って肩を並べることはできない。

「まだ作家未満ですよ。それに……」

「それに?」

「……なんでもないです。そんなことより、ほら、どんな状況だろうと三人で居るときはただの上田と山本とセッちゃんで居ようって約束したじゃないですか」

 無理やり話題を逸らされた気がするが、そう言われてしまえばこれ以上詮索することができない。その約束は、中学校の卒業式からずっと守り続けてきたものなのだ。

 セッちゃんは運ばれてきたオレンジジュースをストローで吸い上げ、ふふんと笑った。

「上田また伸びたね」

「えっ、何が?」

「身長」

「う、嘘。伸びてないよ。これ、靴、靴がちょっと厚底だから、ほら、そう見えるだけで、もう伸びないよ。伸びてないよ」

「冗談」

「そういう冗談良くないと思う!」

 山本とセッちゃんはケラケラと笑った。

 背の順に並べばいつも一番後ろにしかならなかった私への身長いじりは、小学生の頃から続く伝統である。普通は低い方がいじられるのだろうが、三人中二人が小柄で、一人がのっぽだった場合、のっぽの方が明らかに浮くものだ。こちらは身長が一番のコンプレックスだというのに。

 それでもこの二人に限ってはどんなにからかわれても笑えてくるのだから、私のコンプレックスなど軽くて安いものである。

「そういえば」

 ひとしきり笑い、山本がふと口を開く。

羽鷺うさぎさんがコロっていう犬飼ってて」

「兎? 犬? ちょっとよく分かんない」

「ああ、ええと、兎じゃなくて、羽毛の羽に鳥の鷺って書いて羽鷺さんっていう名前の人が居て」

「本名?」

「たぶん。で、羽鷺さんが犬飼ってるんですよ。コロって名前の」

「へえ。それで?」

「それだけですけど」

「それだけかいな」

 失笑に近い形で笑う。どうして山本はあんなに文章を書くのが上手くて語彙も豊富なのに、話すことはここまで下手なのだろう。

 羽鷺さんなる変わった名前の人物がコロという犬を飼っているという話をして、どんな反応をされると思ったのか。

「犬見に行きたい」

 セッちゃんが言う。

「じゃあ羽鷺さんの家行きます?」

「行く。上田も行こ」

「え……知らない人の家に行くの? 犬見るために?」

「羽鷺さん優しいから大丈夫ですよ」

 優しいとか厳しいとか、そういう問題ではなかろうに。あらゆる分野の天才というものは皆こうなのだろうか。それとも才能の有無に関わらず、この二人が変人なのか。

 注文した飲み物を飲みきってから、代金を払って外に出る。寒かった店内に慣れた体から、一気に汗が吹き出した。

「あっつ……」

「上田、きっと黒い服着てるから暑いんですよ。俺なんかほら、真っ白なシャツです」

「真っ白なシャツだと暑くないの?」

「暑いです」

 何が言いたいんだこいつは。

 山本を先頭に、駄弁りながら歩く。大通りを抜けて路地裏に入り、山本は古びた一軒家の前で止まった。表札には確かに『羽鷺』と書いてある。インターホンを押すとスピーカーから、入れ、と妙に格好良い声がした。

「行きましょ」

 まだ躊躇している私をよそに、山本とセッちゃんはさっさと行ってしまう。置いていかれても困るので、私は腹をくくり、二人のあとをついていくようにして家の中に入った。

 玄関で出迎えてくれたのは、兎。

 本当に兎。着ぐるみの兎。身長は二メートルもあろうかという巨大さで、さんざん高身長をいじられている私でさえ見上げなくてはならない。

「こんにちは羽鷺さん!」

 山本はひるむ様子もなく笑顔で挨拶をした。

「山本……と、そっちは誰だ」

 兎はスピーカーから聞こえたものと同じ、低くて格好良い声で山本に質問をする。

「上田とセッちゃんです。前に話した友達」

「そうか。俺は羽鷺という。あがれ」

 羽鷺と名乗った着ぐるみの兎はそれだけ言って、私達を誘導するように廊下を歩き始めた。私は山本の袖を引っ張って耳元でささやくようにして訊ねる。

「ねえ、何あれ」

「羽鷺さんです」

つられて小声になりながら、山本は答えた。

「いや名前じゃなくて、何あの着ぐるみ。九分九厘ヤバイ人じゃん」

「そんなことないですよ」

「嘘だ……自宅で着ぐるみ着てる人がヤバくいわけがない……」

 大丈夫大丈夫と軽く言い、山本は羽鷺さんの背中を追っていってしまう。それどころかセッちゃんまで靴を脱いでひょこひょこと行ってしまった。このまま玄関で突っ立っているわけにもいかず、ほとんど不可抗力で私も家の中へ入った。

 案内されたのはリビングであるらしい部屋だった。必要最低限の物しか置かれていなくて、潔癖なまでに片付いている。そして白いソファの上で、凛々しい顔のドーベルマンが寝ていた。

「コロ、山本が来ましたよー」

 言いつつ、山本はドーベルマンの頭を撫でる。

「……え、このドーベルマンがコロ?」

「そうですよ」

 コロだなんて犬の名前を聞けば、もっとコロコロした、例えばマルチーズなんかを想像するものだと思う。少なくとも私はそう思った。まさかこんな、凛々しく大きな犬種だとは考えていなかった。

「犬可愛い」

 セッちゃんはコロという名のドーベルマンに近づき、その背中に頬擦りをする。コロは目を開けてこちらをちらりと見はしたものの動く様子はなく、されるがままだ。

 頭に入ってくる情報が多すぎて呆けていると、羽鷺さんは私にも座るよう促した。白状すると今すぐ帰りたいのだが、着ぐるみを着たヤバイ人に逆らうこともできず、私はL字のソファの端っこに腰を下ろした。

「で、なんの用だ」

「コロに会いに来たんです」

「そうか。良かったじゃないかコロ」

 羽鷺さんが呼びかけるとコロは頭を上げ、視線だけで返事をした。

「ゆっくりしていけ」

 そう言って、羽鷺さんはリビングの奥へ行ってしまった。私は恐る恐るコロの頭を撫でてから、改めて部屋を見回す。カラーボックスに几帳面に並んでいる新聞が目についた。三つに区切られたカラーボックスの一番下の段には、あれはなんだろう、小説の単行本だろうか。新聞はあんなに几帳面に仕舞ってあるのに、あの本達は乱雑に、どうでも良いもののように置かれている。

 ひどく気になったが、さすがに他人の家の小説や新聞を勝手に読むのは憚られるので諦めて、またコロ、ひいては山本とセッちゃんに視線を向けた。

「……」

なんとなく、ちくりと胸が痛んだ。

「……ちょっと、煙草吸ってくるね」

 私はそう言って部屋を出て、そのまま外に出た。

 ズボンのポケットからライターとくたびれたアイシーンクリスタの箱を取り出して、その一本を口にくわえる。火をつけて煙を吸い込みながら、私は胸の痛みの原因を探った。

 最初にこの痛みを感じたのはいつだろう。確か子供の頃……小学生の頃だ。山本やセッちゃんと出会ってからだ。

 当時入学したてで初めてクラスメイトの顔を見たとき、誰もが二人の児童に視線を向けたことだろう。単眼の山本と、両腕のないセッちゃん。案の定二人は遠くから好奇の目で見られ、クラスでは浮いていた。それを見た先生達は無理やり山本やセッちゃんを皆の輪の中に入れようとした。みんな仲良くしなくてはいけませんよ、人と違ってもいじめてはいけませんよ、なんて言って。

 先生の言ったことは間違ってはいないのだろうが、それならばなぜ、人見知りで友達のできなかった私には目もくれず山本やセッちゃんばかり仲間に入れてあげなさいと何度も言っていたのか。

 理由は簡単、山本とセッちゃんが人と違っていたからだ。

 そんな特別扱いをしてくる先生も、嫌々一緒に遊んでくれたクラスメイトも、セッちゃんは嫌っていた。いや、嫌っていたと言うより、自分には必要ないものだと切り捨てているような印象を受けた。

 反対に山本は何があってもニコニコと笑っていて、誰のことも嫌っていなかった。優しくて穏やかで相手のペースに合わせてくれる山本は、やがて人気者になった。

 人気者の山本はひとりぼっちの私にも声をかけてくれて、初めての友達になった。それからセッちゃんに『セッちゃん』というあだ名をつけて、セッちゃんとも仲良くなった。

 セッちゃんは私達と居るときだけ口を開き、笑う。それは今も変わらない。

 そして、小学一年生のときの体力測定の、五十メートル走にて。セッちゃんは八秒という記録を叩き出した。これは六年生の男子の平均とほぼ同じである。同級生達をごぼう抜きにしたセッちゃんは、競技用の義手をつけたらもっと速いんだ、と私と山本にこっそり教えてくれた。

 それから時間は過ぎて、三年生になる頃には私達は離れがたいほど仲良くなっていた。仲良しトリオとして周りに認知され、先生達も無理やり友達を作らせようとはしなくなった。

「上田、これ、絶対ナイショにしてほしいんですけどね」

 ある日セッちゃんが居ないときを見計らい、山本は私に顔を寄せてきた。

「俺セッちゃんのこと好きです」

「え、そうなの」

「うん。ナイショですからね。絶対ですよ」

 分かったと答えると同時に、ちくり、と胸が痛んだ。これが最初の痛み。それから三人で居ると、ふとした瞬間にこの痛みがやって来る。どうしてかは分からない。なんとなく痛い気がする、という曖昧な感じだ。二人から目を逸らすとその痛みはなくなる。

 短くなった煙草の火をもみ消して、ポケット灰皿に突っ込み、また羽鷺さん宅のリビングに戻った。

「ねえ山本、あの羽鷺さんって人とはどういう関係なの?」

 山本に訊ねると、師弟関係です、という答えが返ってきた。意味が分からない。

「三日くらい前ですかね。本屋さんの前を通ったら、兎の着ぐるみ着たでかい人が俺の本立ち読みしてて、それが羽鷺さんで」

 あの着ぐるみ、外でも着ているのか。いや家で着ていて外では着ていないというのもおかしいが、あの格好で出歩いてよくもまあ通報されないものだなと思う。

「で、あー読んでくれてるなって思って見てたら本屋の店員さんに見つかって、山本さんですよねサインくださいとか言われて、びっくりしてしどろもどろになってたら羽鷺さんがこっち来て、お前が作者かって訊かれたからそうですって答えて」

「で……褒められたの?」

「いや、懇切丁寧に駄目出しされました」

 そりゃあもう細かいところまでボロクソです、と山本は笑う。なぜ笑っていられるのか分からない。着ぐるみを着た変な人にいきなり自分が作ったものを批判されたら、普通は怖くなって逃げるだろう。いや、着ぐるみを着ていなくたって怖いし嫌だ。

「だからこの人こそ俺の師匠だと思って」

「理解が及ばないよ……」

 こんなことをされて全く気を悪くせずあろうことかその人を師と仰ぐのは、聖人君子か救いようのない馬鹿か山本のどれかである。

 そして彼は山本だ。山本だから仕方ない。

 いつも優しくて、穏やかで、相手のペースに合わせてくれる山本なのだから。

「やーまーもーと」

 セッちゃんが山本の肩に顎を乗せた。それから私の方にも視線を向け、「うーえーだ」と言ってにっこりと笑う。

「この犬可愛いね。べーどるだん」

「ドーベルマンだよセッちゃん」

「べーどるだん」

「ドーベルマン」

「べーどるだん」

 セッちゃんはどうしても『べーどるだん』と言いたいらしい。私は訂正することを諦めて、話題を転換した。

「あんまり長居するのも悪いし、もう帰ろうよ。犬見れたから満足したでしょ」

 そうですねえ、どうしましょうかねえ、と山本は曖昧に答える。恐らくセッちゃんか私に結論を出してほしいのだろう。常に相手に合わせる山本は、あまり、というか全く、自己主張というものをしない。彼が私に自分の気持ちを吐露したことなど、小学生のときの「俺セッちゃんのこと好きです」が最初で最後である。

 だから仕方なく私とセッちゃんでどうするか決めようとしたところで、奥の部屋から羽鷺さんが戻ってきた。手には大きな盆を持って。

「メロンが切れたぞ」

「メロン!」

「おメロン様」

 羽鷺さんの言葉の語尾に被せるように、山本とセッちゃんが声をあげる。食べやすく切り分けられたメロンの乗った大皿が、テーブルの上に置かれた。

 これでは帰るに帰れない。食材を出された以上要りませんと言っては失礼になるし、何よりメロンは食べたい。

「いただきます!」

 言って、山本はメロンの一切れを爪楊枝を刺して持ち上げ、自分ではなくセッちゃんの口に放った。セッちゃんは自分で物を食べることがほとんどできないので、三人で居るときはいつもこうなのだ。

「おいしいですか?」

「うん」

 私も皿と一緒に出された爪楊枝でメロンの切れ端を持ち上げ、口に運ぶ。甘くて冷えていておいしい。

 私達がメロンを堪能しているのを黙って眺めている羽鷺さんは、満足そうな顔をしている。ような気がした。

「……羽鷺さん、って」

 勇気を振り絞り、羽鷺さんに声をかけた。

「お仕事は、何を?」

 羽鷺さんは少し首をかたむけて、ああ、と声を漏らす。やはり格好良い声だ。

「以前は高校の教師をしていた。現在は在宅の仕事をしている」

 まさかこの風貌でサラリーマンだとは思わなかったが、教師と来たか。確かに小中学校にも高校にも変わり者の先生が居たし、今居る研究室の教授も頭のネジが外れていそうな人だが、それでも着ぐるみを着た先生には出会ったことがない。

「その格好で、授業を……?」

「着ぐるみを着て授業をする教師がどこに居る。そんな教師は即座に問題になり、保護者や同僚から白い目で見られ、やがて解雇されるだろう」

「いや……はい、そう、ですね……」

 羽鷺さんの言っていることは当たり前だ。至極常識的だ。しかし突拍子もない外見とはあまりにミスマッチで、逆に混乱した。

「……では、なんでそんな格好を?」

「子供に好かれたくてな。教師時代は厳しくしすぎたためか、生徒達から疎まれていた。だから、今度こそはと思った」

 混乱は深くなる。言っていることは理解ができる。自分の態度が悪かったと認め、変わろうとすることは大人になればなるほど難しくなるものだ。それを実践しているのなら、羽鷺さんは立派だと思う。

 しかし。

 しかし、だ。だから兎の着ぐるみを着ようという発想は、いささか飛躍しすぎている。もっと他に方法はなかったのかと問いたい。

 遠回しにそう言うと、羽鷺さんは今度は反対側に首をかしげた。

「ではどうすれば良い」

「どう……って、ええと」

 具体例が思い浮かばない。羽鷺さんは大して落胆した様子もなく、考えるときりがなくてな、と呟いた。

「……」

 羽鷺さんは、きっと真面目な人なのだ。人間観察が得意なわけでも人を見る目が秀でているわけでもないが、そう思った。一度そうだと思うともうあまり怖くもない。山本のようにはいかなくとも、羽鷺さんにうっすらと好感が持てた。

「お前、良いのか」

 不意に、羽鷺さんにそう訊かれる。

「え、何がですか?」

「メロン」

「あ!」

 すっかり意識から外れていた。あわててテーブルの上に視線を向けると、メロンはもう一欠片も残っていなかった。

「あああ、なんで全部食べちゃうの……私まだ一個しか食べてなかったのに……」

「んまかった」

 セッちゃんは悪びれる様子もなく言う。山本の方を見ると、恨まないでくださいね、とでも言いたげに目を逸らされた。

「……まあ、次はスイカでも用意しておくから、そう気を落とすな」

 羽鷺さんの優しい声が、余計に今はなきメロンへの恋しさを掻き立てる。私は本気で泣きそうになった。二十三歳にもなって。メロンが原因で。情けない。

「次はスイカですか! 夏のうちにまた来ないといけませんね、セッちゃん」

「おスイカ将軍に謁見するべし」

 メロンを食らい尽くした悪魔達が騒いでいる。おのれ外道、スイカまでもを毒牙にかける気か。

 何か悪態でもついてやろうと思い山本とセッちゃんを視界に入れると、また例の胸の痛みがやって来た。

 二人は楽しそうだ。私はそれを見ている。そしてその私をどこかで俯瞰して見ているもう一人の私が居る。そう、この痛みが顔を出すのはいつだって、二人が楽しそうなときなのだ。

 また泣きそうになったが、これはたぶん、メロンは無関係だ。メロンが無関係なのはなんとなく分かるが、ではなんなのだろうと考えても結論は出なかった。

「本」

 セッちゃんの声で我に返る。顔をあげて見てみると、セッちゃんは新聞や小説の入ったカラーボックスの存在に気がついたようで、私と同じく乱雑に押し込まれた本が気にかかったらしい。私と違うのは、彼女は気になれば躊躇なく近づくというところだ。

 つられて山本もソファから離れ、小説のひとつを引っ張り出した。

「あ! これ、伊賀須いがす先生の本じゃないですか」

 伊賀須という名前は私も聞いたことがある。去年デビューした人気の小説家だ。私は一冊も読んだことがないのだが、山本は好んで読んでいたような気がする。

「羽鷺さんも伊賀須先生の本読むんですね」

 山本が言う。羽鷺さんはなんとも答えなかった。代わりにセッちゃんが山本の手元を覗き込み、小説のタイトルを読み上げる。

「にるばあな。有名?」

「有名ですよ。『ニルヴァーナ』は伊賀須先生の処女作で、文章は説明臭くなく文学的なのにストーリーはごりごりのミステリーで、複雑な読後感を感じられるって文芸雑誌にも書いてありました」

「……」

 書いてありました、か。

 そこが引っかかった。いや、引っかかったというよりは、やはり山本自身の気持ちや考えは言わないんだな、と思った。

「ねえ、羽鷺さんはこの本読んでどう思いました?」

 本を元の位置に戻しつつ、山本は羽鷺さんに訊ねる。羽鷺さんは私に話しかけられたときと同じように、首をかたむけた。

「駄作だと思った」

「な、なんでですか?」

「思うことになぜも何もない。感情に理由はない。お前達、もう暗くなるから帰れ」

 はあ、と困惑したような声を出す山本。

「それじゃあ、ええと、お邪魔しました。またねコロ」

「犬バイバイ。羽鷺さんもバイバイ」

 セッちゃんは山本と一緒にソファから立ち上がる。私も同じようにしてリビングを出た。羽鷺さんではなくコロが玄関まで見送ってくれた。

 また三人でくだらない話をしながら歩く。空は薄暗くてくすんでいて、綺麗な夕焼けではなかった。

「あ」

 セッちゃんが声をあげる。

「忘れ物した。取ってくる」

 それだけ言い、彼女はとてとてと行ってしまった。残された私と山本は顔を見合わせ、ここで待ってようか、と苦笑する。

 思い出話やら最近食べたおいしいものの話をしていると、通りかかった女性のグループにすみませんと声をかけられた。

「は、はい」

「山本先生ですよね? 本買いました!」

「ああ……ありがとうございます」

「単眼なのにすごいです! 差別なんかに負けないで頑張ってください!」

「……ええ」

 山本と握手をして、ノートやクリアファイルにサインをねだってから、女性グループは去っていった。山本は笑ってその後ろ姿を見送る。

「大変だね」

「……」

「山本?」

「え? あ、うん」

 何か変だ。喫茶店に居るときから、山本は自分が書いた小説に関する話になると何かを言いかけてやめたり、語尾を濁したりしている。なんだか、あまり良い気分はしない。

「上田」

「ん?」

「小学生のときセッちゃんのこと好きなんだって言ったの、覚えてますか?」

「覚えてるよ」

「そのこと、なんですけど」

 山本の唯一の自己主張。

 私と山本だけの秘密。

「俺が安宅川賞に選ばれなかったら、告白しようと思います」

「……は?」

 ホームランを始めとして、フィクションの作品では何かを成し遂げたら告白する、と決意する展開は王道である。しかし、成し遂げることができなかったら告白するだなんて聞いたことがない。理解ができない。不条理だ。そう言うと、山本はひとつしかない目を伏せて口をつぐんだ。

 重苦しい沈黙が流れる。山本と居て、初めて居心地が悪いと思った。

「どーん」

 沈黙を破るように足音が近づいてきて、私の背中に小さな体が直撃した。

「お待たせ」

「忘れ物見つかった?」

 振り返りながら、私はセッちゃんに訊ねる。セッちゃんは「見つかった」と簡潔な返事をした。

 視線を戻すと山本はもういつもの山本で、あの目を伏せて口をつぐんだ誰かはどこにも居ない。

「さ、帰りましょうか」

「うい」

 三人で帰路を歩く。くだらない話をしながら。期待の単眼作家でも両腕のない陸上選手でもなく、ただの親友の、山本とセッちゃんと話している。

 それなのに、どうしてこんなに痛むのだろう。山本が賞を取っても、取れなくてセッちゃんに告白しても、どちらに転んでも喜ばしい結果のはずなのに。山本が悪いのだ。あんなわけの分からないことを言うから。

 ちくり、という痛みは、今はずきずきと胸の内側で暴れている。居ても立ってもいられなくなって、私は無意識に唇を噛みしめた。

「セッちゃん、今後しばらくは日本に居るんですよね」

「うん」

「また羽鷺さんち行きましょうね」

「行きたい」

 山本とセッちゃんがなんでもない会話をするごとに痛みは強くなる。痛みを誤魔化すために何か話そうと思って、特に考えもないまま口を開いた。

「ねえ」

「なんですか?」

「えっと……い、伊賀須さんの本って、山本から見てもすごい?」

「すごいの方向性にもよりますよ」

「そっか。じゃあ、好き?」

 ええと、と山本は言葉に迷うようにうなって、一度上を見上げる。空を見上げたのではなく、ただ単純に上を見ただけに見えた。

「好きっていうか……羨ましい、ですかね」

 予想外の答えに一瞬言葉に詰まる。好きか嫌いかを訊かれて羨ましいと答えるのは質問の答えになっていないが、それも気にならないくらい私は必死だった。山本の思っていることが知りたい。優しくて穏やかで相手のペースに合わせてくれる山本ではなくて、ただの山本と話がしたい。

「セッちゃんは活字苦手なんでしたっけ」

「苦手なんて騒ぎじゃないぞよ」

 私山本とか上田みたいに頭良くないからとセッちゃんは言った。

 やがて空が暗くなった頃、比較的大きな交差点に差し掛かった。この交差点は中学生の当時に使っていた通学路でもあり、私達三人のそれぞれの家への帰り道は、取り計らったかのようにここで分かれるのだ。

「じゃあ、また」

「バイバイ」

「うん、またね」

 お互いに背を向けて、歩き出す。

 今日はもうお別れだ。

 自宅に到着する頃には、もう完全に夜だった。部屋着に着替えて、窓を開け、窓枠に腰かけながら煙草に火をつける。

 なんだか、色々と謎が残る一日だった。羽鷺さんの正体も、胸の痛みも、山本の変な態度も、何ひとつ解決していない。自分にも他人にもあまり関心がないセッちゃんは、たぶんその謎に気づいてさえいないのだろうけれど。

「……」

 私はふと思い立ち携帯端末を取り出して、山本の名前をネットで検索した。出てきたのはセンセーショナルに装飾された山本の情報だ。

 単眼初の受賞者なるか、彗星のごとく現れた期待の新人作家、山本氏の半生の全て。そんなことばかりが書かれている。私はしばらく山本のインタビュー記事を読んだり、読んでなんとなく恥ずかしくなったりしながら時間を潰した。その関連で伊賀須の記事も読んだが、彼だか彼女だか分からないこの作家は顔どころか年齢も出身地も不明らしい。分かっているのは、伊賀須かぶるというペンネームと世に出た作品だけである。これはこれでなかなか格好良いな、と思った。

 なんだか楽しくなってきて、次はセッちゃんの名前を検索してみた。前に記したとおりセッちゃんはインタビューの一切を断っているので、ヒットするのは大会などの動画ばかりだ。そのひとつを再生してみると、異常な速さで他の選手を圧倒するセッちゃんの姿があった。

 ずきり、と胸が痛む。

 私は端末を机の上に放って、短くなった煙草の火を消した。同時に、ああそうか、とひとりで納得する。

 この痛みの正体は。

 小学生の頃から、私はずっと。


 翌日になって、私は大学に顔を出してから羽鷺さんの家へ向かった。一日中考えて、何かを思いついたり行き詰まったりを繰り返して出した結論が、羽鷺さんに話を聞いてもらう、というものだった。なぜなら私達三人を知っていて、色眼鏡なしで話を聞いてくれそうな人など羽鷺さんしか思いつかなかったからだ。昨日初めて会ったのに、ずいぶん信頼しているものだと自分でも不思議に思う。

 記憶を頼りに大通りを歩いていると、向こうから見覚えのある顔が近づいてきた。よくよく見ると、山本である。山本はうつむきがちにこちらへ歩いてきて、私に気づく様子もなくすれ違った。私は一旦立ち止まり、振り返って、とぼとぼと歩く山本の背中を見た。

 呼び止めようと思わなくもなかったが、今はとてもそんな気分ではなかった。

 山本が遠くに行ってしまってから、私は再び歩く。路地裏へ入り、古びた一軒家のインターホンを押す。しばらくしてから、また昨日と同じように「入れ」と声がした。

 扉を開くとコロが玄関で寝ていて、私の姿を見ると少しだけ尻尾を振ってくれた。廊下の奥から羽鷺さんが姿を現す。リビングに案内されてL字のソファに座ると、羽鷺さんは私の隣に座り、ひとつ息をついてから声を発した。

「……何か用か」

「あの、えっと、急に来てごめんなさい。話を聞いてもらいたくて」

「良いだろう」

 素っ気ない返事だが、頼みを聞き入れてもらえたらしいことに心底安堵した。それから何から話そうかと逡巡して、私は重い口を開く。

「山本とセッちゃんとは、小学生のときからの幼馴染みで、とても仲良しで」

「ああ」

「山本はセッちゃんが好きで」

「そうだったか」

 なるほどな、と羽鷺さんは呟いた。何がなるほどなのかは知らないが、私は言葉を続ける。

「……それで、二人を見てると、たまに胸が痛くなるんです。山本がセッちゃんのこと好きって聞いてから、今までずっと。最近その痛みが強くなって、なんでかなって思ってたんですけど、昨日気づいたんです」

 山本やセッちゃんとずっと一緒に居て、二人はどんどんすごい人になっていって、それでも私と居るときはただの山本とセッちゃんで居てくれて。

「妬ましかった、んだと思います」

 期待の新人作家と、世界で活躍する陸上選手と、一介の大学院生。

 まるで平等でない。ただの三人でなんか居られるわけがない。仮に二人がただの二人で居るつもりでも、私とは圧倒的な溝がある。山本もセッちゃんも、もう私とは違う世界の人達なのだ。二人の中に私が入る隙間はない。

「だから、羨ましくて、妬ましくて、憎たらしくて、それを二人を尊敬しているふりして正当化してて……」

 情けなくて涙がこぼれた。私はこんなに最低なやつだっただろうか。きっとそうだ。いつだってきらきら光っている二人の陰にもぐり込んで、自分も何かを成したような気になっていただけなのだ。

「私、もう、二人の傍に居られない……」

「……ふ」

 ふははは、と羽鷺さんは笑った。私は一瞬頭が真っ白になって、それから混乱した。なぜ羽鷺さんは笑っているのだろう。こんな話をされて困ったり叱咤することはあっても、笑うという反応はまともな人間ならばあり得ないと思う。

「お前達は何なんだ。思春期か何かか」

「い……意味が、よく、分かりません」

 長い足を組んで、羽鷺さんは首をかたむけた。私はまだ混乱にまとわりつかれて頭がろくに働かない。

「明日は暇か?」

「え? ……十一時半から実験の予定があります……けど、なんでそんなこと」

「あの喫茶店は九時に開店と聞いた。明日開店と同時に店へ行け」

 あの喫茶店とは、私が物心ついたときから近所に佇んでいる、いつも三人で居たあの店のことだろうか。

「お前達は観察力に欠ける」

「で、ですから、意味が分かりません」

「山本の小説は凡愚だ。伸びしろがあると言えば聞こえは良いが、安宅川賞には相応しくない」

 羽鷺さんは、反対側に首をかたむけた。

「もう帰れ。安心しろ、大丈夫だ」

 コロが部屋に入ってきて、羽鷺さんの足元にすり寄る。その頭を撫でつつ、着ぐるみ男はもう一度含み笑いした。

 私はこの奇妙な反応を不思議に思い、不気味に思い、怒りに近い感情も少しだけ感じつつ、それでも言われたとおりソファから立った。なぜだか、羽鷺さんの言うとおりにした方が良いような気がした。

「ローマ字にして逆さ読み」

 部屋から出る瞬間、背中にそんな声が張り付いた。

 羽鷺さんの家を出て、昨日と同じように暗くなりかけた道を歩く。胸の痛みは和らいでいたが、ふとした瞬間に山本やセッちゃんが頭をよぎるとまたずきりと痛んだ。

 明日の九時。あの喫茶店に行けば何か解決するのだろうか。あるいは楽になれるのだろうか。分からない。何ひとつ分からない。羽鷺さんは安心しろ大丈夫だと言ったが、その言葉どおりになるのか知れたものではない。それでも、羽鷺さんの言葉には妙な説得力があった。本当にそのとおりになるのではないかと思わせられる、不思議な力があった。

「……あ」

 ローマ字にして逆さ読み。『うさぎ』をローマ字にして反対から読むと……。

「ああ……」

 納得した。納得はしたのだが、羽鷺さんが謎の人であることに変わりはない。私は色々なことを考えては思考をもつれさせつつ、帰路についた。

 家に着いて靴を脱ぐと、どっと疲れが押し寄せた。食欲がわかず夕食は目玉焼きだけにして、シャワーを浴びてベッドにもぐる。暑さのせいで寝苦しい。七月でこんなに暑いのなら八月には日本列島が乾上がって滅びてしまうのではないかと思われたが、七月と言っても残り数日なのでほとんど八月だ。つまりこれ以上暑くなることはない。ないと信じたい。

 そんな頭の悪いことを考えながらうつらうつらとして、気がつけば朝になっていた。夜の時点では明日羽鷺さんの言ったとおり喫茶店に行けばなんとかなるのではないか、とどこか楽観的に考えていた節があるが、いざ行くとなると途端に怖くなる。腹の底をきゅっと掴まれたようなこの感覚は、高校三年生の三者面談の直前や入試当日の朝にも感じたものだ。そのくらい怖かったし、緊張していたし、なんなら喫茶店に行かず家で縮こまっていたい気分だった。

「……いや、ここで逃げてどうする……」

 私は自分を鼓舞するように呟いて、両の頬をぱちんと叩く。顔を洗い、歯磨きをし、髪を整え、一張羅の黒いシャツを着て家を出る。

 玄関の鍵を閉めているときに、一昨日の山本との会話を思い出した。黒いシャツだから暑い。白いシャツでも暑い。そんな意味のない会話だったが、それが妙に恋しく感じた。喫茶店の前まで来て、一瞬だけ躊躇って、それから扉を開く。カラコロとドアベルが鳴る。冷房のききすぎた冷たい空気が押し寄せる。その先には。

 その先には、山本とセッちゃんが居た。いつものカウンター席で、いつものように。

「う……上田」

 山本がひとつしかない目を丸くして私を呼ぶ。セッちゃんもこちらを見る。私は吸い込んだ息を吐くことも忘れ、ただ二人の顔を交互に見た。

「……す、座ったら、どうですか」

 山本の声に我に返り、私は曖昧な返事をして定位置に腰かけた。ウインナーコーヒーを注文して、沈黙する。山本もセッちゃんも黙っている。最初にその静けさを破ったのは、意外にもセッちゃんだった。

「……山本と、上田、ってさ」

 うつむきがちに、小さな声で、セッちゃんは言う。

「喧嘩、してるの?」

「え?」

 予想外かつ的外れな言葉に困惑する。しかし彼女の表情は真剣そのものだ。

「だって、上田、最近私達と居てもあんまり楽しくなさそうだし。山本も、なんか言いかけてやめたりすること多くなった。私二人みたいに頭良くないから分かんなくて、昨日羽鷺さんに相談しに行った」

「羽鷺さん?」

 山本がすっとんきょうな声をあげた。

「昨日って、俺も昨日羽鷺さんの家に……」

「ちょ、ちょっと待って」

 今度は私の声がひっくり返る。セッちゃんも山本も、昨日羽鷺さんの家に行った?

「……あ」

 あのときすれ違った山本は、羽鷺さんの家からの帰り道だったのか。

「私も羽鷺さんのとこに相談しに行って、大丈夫だから喫茶店に行けって言われて……」

「俺も同じこと言われました。セッちゃん誘って喫茶店に行けって。う、上田、相談って何の?」

「えっと……」

 一度口をつぐんでから、私はゆっくりと話を始める。もうここまで来てしまったのだ。全部話して、羽鷺さんの「大丈夫」の意味を確かめてやる。

「……二人のこともう私とは違う世界の人間なんだって思って、妬んで、勝手につらくなってた。だから、私山本とセッちゃんと肩を並べる権利あるのか分からなくなって、それを相談しに行った」

「あー……」

「な、何、あーって」

「……俺も似たようなこと相談しました」

 しばらくの間があって、山本は恥ずかしそうに笑った。セッちゃんも同じ表情をした。私も恥ずかしくなった。

「じゃあ、何? 私達全員、似たようなことを同じ日に同じ人に相談してたの?」

 羽鷺さんのあの高笑いの謎が解けた。あの人から見れば、さぞ滑稽だったことだろう。

「……そっか」

 じゃあ大丈夫なんだね、とセッちゃんは言った。心の底から安心したような声で。

「よし」

 山本が手元のカフェオレを飲み干し、背筋を伸ばして、ふうう、と息を吐く。

「今日、夜、安宅川賞の授賞式があります」

「そうか、そうじゃん」

 ごたごたしていてすっかり頭から抜けていた。山本はずっと賞をもらいたいのだかもらいたくないのだか分からない、どちらかと言えばもらいたくなさそうな態度だ。その真意はまるで知れたものではないが、いくらか心境の変化はあったのだろうか。

 それに、セッちゃんへの告白は……。

「セッちゃん」

 山本は言う。

「授賞式終わったら告白するので、返事考えておいてください」

「……え」

 私とセッちゃんが同時に山本を見た。当の山本は何かを決意したかのような顔でもう一度「よし」と言い、顔を上げる。

「ここではただの山本ですけど、世間はそうは見てくれませんからね」

 山本の奇妙な言葉の数々に呆気に取られていると、彼はカウンターの椅子からひょいと飛びおりた。そして笑顔を浮かべ、親指を上に突き立てる。

「差別なんかに負けません」

 その言葉は、表情は、私達の知らない山本だった。


 夜になって授賞式が始まるまでの時間は、それはそれは長く感じた。話しかけられても上の空で、教授にも落ち着かないねと言われて最終的に気を使われて早めに帰らされた。授賞式はネット配信で生放送するようなので、帰ってきてすぐに端末を起動する。

 始まるのはまだかと部屋の中を歩き回っていると、インターホンが鳴った。こんなときに誰だろうと苛つきながら扉を開くと、セッちゃんがぽつねんと立っている。

「授賞式、一緒に見たくて」

「ああ……そっかそっか。おいで」

「うん」

 セッちゃんは一度着替えてからここに来たようで、滅多に穿かないスカートを穿き、大切なときにしかつけない義手をつけている。それは山本のあの宣言が影響しているのだろうか。

 セッちゃんを迎え入れ、並んで座って授賞式が始まるのを待つ。やがて開式の宣言が行われて受賞した作品と作者の名前が読み上げられた。

 山本の作品と、その名前が。

「や、やった」

 セッちゃんが上ずった声をあげた。呼ばれた山本はステージに立ち、マスコミ達に今の心境を訊ねられる。山本は笑いも泣きもせずしばらく黙って、それからゆっくりと口を開いた。

「単眼が小説書いてるの、そんなに面白いですか?」

 誰も予想していなかった第一声に、周囲がざわつく。私とセッちゃんは息を飲んで、会話もせず食い入るように端末の画面を見つめた。

「ある人に言われました。この小説は凡愚であると。僕もそう思います。少なくとも安宅川賞には到底相応しくありません。でも異常に話題になって僕はここに立った。なんでかって、それは僕が単眼だからでしょう?」

 山本の名前をネットで検索したときのことを思い出す。単眼初の受賞者なるか、期待の新人作家、山本氏の半生の全て。確かに山本自身の情報は山ほど出てきたが、小説の話はほとんど目につかなかったように思う。

「あなた達は単眼なのに小説を書いてすごいって言いますけど、それって単眼を下に見てる証拠じゃないんですか? 差別に負けないで頑張れって言いますけど、それは心の底で差別されて当然って思ってる証拠なんじゃないんですか?」

 あくまで冷静に、平たい声で山本は言う。それでも私は察した。山本は怒っている。自分の作品ではなく、単眼だからという理由で闇雲にもてはやされている自分に怒っているのだ。優しくて穏やかで相手に合わせてくれる山本ではない、今の山本こそが『ただの山本』だ。今語っている言葉こそ、本当の山本の言葉だ。

「僕は僕の作品への正当な評価を望みます。そして今のこの結果は、この作品の力ではない。これ以上の侮辱がありますか。至極、不愉快です」

 いつの間にか辺りは静まり返っていた。呆気に取られている目が二つある人間達を見回して、山本はひとつ間をあけて宣言した。

「僕は受賞を辞退します」

 誰も何も言わない。言えないのだろう。差別に負けないでという差別なんか、誰ひとり考えたことなどなかっただろうから。事実、私もまるで気づかなかった。こんなに近くに居たのに。

 山本はそれ以上何も言わずステージからおりて、そのまま会場を出ていった。一瞬遅れて会場は騒然とする。それはもう、上を下への大騒ぎだ。私達は呆けてその様子を見ていたが、やがて端末から着信音が響いて我に返った。山本からの電話である。

「言っちゃいました」

 端末の向こうで、山本はばつが悪そうに言う。

「これで俺、完全に世間から嫌われましたね」

「……でも、格好良かったよ」

 私は素直にそう応じた。山本は少しだけ笑った。

「上田、私も、話したい」

 セッちゃんが興奮気味に言ったので、私は頷いて端末をセッちゃんの耳にあてた。

「山本」

「あ、セッちゃん」

「結婚しようぜ」

「え」

「結婚しよう」

 ちょ、ちょっと、あの、とうろたえた声が聞こえる。先ほどの堂々とした言葉が夢だったのかと思われるくらいだ。

「告白するつもりだったんでしょ」

「そ、それはそうですけど……あーもう、情けないな俺……」

 山本のへなへなした声に、セッちゃんは珍しく声をあげて笑った。私も知らず知らず笑っていた。そのうち山本も笑い出した。

「今どこですか」

「上田の家」

「今から向かいますね」

「おう、待ってるぞよ」

 通話を終え、セッちゃんと顔を見合わせる。ただの山本の凱旋を待ちながら。

 心の底から、彼と友達になれたこと、これからもそうであれることを幸せに思った。

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ただの山本 九良川文蔵 @bunzou

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