第27話 霧

 寝る間さえ惜しい。夜のノスキーラを移動することは出来ない。

 ヴェインならば、或いはとも思うが、イチムラもいる。

 焦るな。

 野営地で夜が明ける。

「まるで見えませんね」

 白い世界。

「この霧が晴れるまで待つしかあるまい。今日中に離宮まで戻れば良いのだ」

 岩に背を預け、身体の力を抜く。

 動き出せば、南で待つ大戦が終わるまで駆け抜ける。

 束の間、心を落ち着ける。

 姫様を思う。

 朧げな予感はあっただろう。

 それにしても、突然現れたであろう我らを、受け入れてくれた。

 夫に先立たれ、その夫の実家に攻められ、父親の命も長くはない。

 王家と袂を分かち、戦場に駆り出される。

 なんと波乱万丈なことか。

 姫様がどんな方なのか、まだわからない。

 イズナは随分と寄り添えたようだが。

 どんな方であろうと、役目故に守る。

 役目故にお守りすることができる。

 最後の姫様になられるやも知れぬお方。

 死に場所は、人生を全うされた姫様の傍。

 戦場ではない。

 どちらの戦も、姫様をお守りし、自身も無傷で勝つ。

 命は投げ出せない。

「イチムラ。お前の死に場所はどこだ?」

「カモ様はいつも難しいことを仰いますよね。場所なんて、何処だっていいじゃないっすか。でも、どうせ死ぬなら、姫様やカモ様のためにですかねぇ。イズナ様でも良いけど」

 こいつにも死生観はあったか。

「ま、俺はカモ様と違って死ねるますから、気楽なもんっすよ」

 さらりと言ってのけたイチムラに驚く。

「嫁も子供にも恵まれましたし、思い残すこととかないんすよね。カモ様やイズナ様より背負ってるもんがちっさいですから」

 それは違う。

 役割が違うだけだ。

「お前は未来を残した。それを守るが役目ぞ」

 我らは古より続く今を守る。

 その為に、此奴の命さえ道具として、盾として使うだろう。

 未来のため、今を。姫様を。

 陽が差す。

 霧が下りて行く。

 麓の森が靄に沈む。

「イチムラ、行くぞ」

「はっ」

 騎乗。

 濡れた足元。

 今は急いでも意味はない。

 ヴェインをゆっくりと進める。

 鳥の囀り。

 小さな獣の動く気配。

 立ち昇る土の香り。

『旦那……』

 耳元に声。

「戻ったか。進軍の具合は?」

『先触れは参陣していやす。ご隠居さんのご容態が芳しくねえですぜ』

「間に合いそうか?」

『あのご隠居ときたら、大人しくしてねぇらしいんで。よく生きていなさるってなもんでやすよ』

 ひとまず、姫様は間に合いそうだ。

『それと南でやす。平和ボケしてる連中にしちゃ集まりが早え。王都の隣、公爵領から行軍を始めやした』

「適度に嫌がらせしてやれ」

『それが、進軍速度に関しちゃ平和なもんで。牛が昼寝してんじゃねぇかってね』

「どれほどでゴルドーを越える?」

『あのままなら十日は掛かりまさぁ』

 それだけあれば充分だ。

 こちらを片付けてから、転進する時間がある。

「シグルドの連中は移動したか?」

『大方フラウデルテバに向かっていやすよ。何組か抜け出して、こっちに向かっているようでやすが』

 そうなるだろうとは思っていた。

 血の気の多い奴らは我慢できぬだろうと。

 死にたがりどもめ。ここでは死ねんというに。

「敵の増援は?」

『今のところはねえでやす。今後もねえでしょうが。総数は六千。こちらはそれを四千で抑えていやす』

 姫様が率いるは千五百。

 兵の質、士気ともにこちらが上。

 だが数の力は馬鹿に出来ん。

 側面ではなく、後背より襲い掛かるか。

 あの陣取りならば……。

 枝に赤い布。

 イチムラの付けた目印。

 ここからは下り。

 霧で濡れていた足元も乾いている。

「イチムラ、今宵は月見の盃といこうではないか。付き合え」

「はっ。ところで酒なんてありましたっけ?」

「泉に湧いておろう」

「酒が湧いてるんですか?!」

「そんなわけがあるか。それより盃の心配をせい」

「ありますよ、盃は」

 イチムラは懐から一対の盃を取り出す。

 翡翠色。

「それは?」

「嫁に持たされまして。出陣には必要だろうと」

 出来た嫁ではないか。

 郷を出る折にも、割ったであろうに。

「あとは月が出るのを祈るとしよう」

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