第8話 家督
ジルはその場でシエラ殿を呼ぶよう使いを出した。
従者がテーブルを撤去し、代わりにソファが運び込まれる。
一度横になってしまえば、起き上がるのも辛い。全ての手配を済ますまではと、帰領してそのまま起きていたのではないか。
ジルの肌は王都で暮らしていたとは思えないほど浅黒く、顔色はわからない。
呼吸は意識して浅く落としているのだろう。汗ひとつ浮かべていない。
大貴族の当主でありながら、剛の者。
「シュウと手合わせしてみたかったのう。できるのだろう?」
それはこちらも同じこと。
だが、その望みは叶うまい。
「私などまだまだ」
「謙遜しおって。家伝に残る大鴉は皆、相当な手練れ。その中で守り刀となったのだ。腕があって当たり前だ」
ジルは鼻で笑うと、ドンっと、気を立ち上げた。
ベンチに腰かけたまま。無手。動けるような身体ではない。
手を伸ばしても届かない距離。ジルとの間に障害物はなし。
右側には何もない。左側にソファ。
こちらも椅子に座っている。
脇差は帯びているが、これは抜けない。無手も同然。
ジルは窓を背負っている。逆光。
左肩の気が前。腰の辺りから膨れ上がって延びる。
得物は槍か。
右前に転がり、ジルの左膝と左肩を押さえるか。
いや、躱される。
だが間合いを詰めなければ不利。
どうしたものか。
動けない。
ジルの腰元から鋭い切っ先が飛ぶ。
左足を引く。開いて躱す。
――ガランッ!
右後ろで金属音。
ジルの気が霧散した。ベンチに座っている。
気づかぬ間に消えていた景色が戻って来る。
こちらも椅子に座ったまま。
「得物でやってみたかったのう。よう流しよるわ」
嬉しそうにしているが、脂汗を浮かべ、呼吸も荒い。
「無茶をなさる。槍ですか」
振り返れば、従者の一人が盆を落として、腰を抜かしていた。
あの気を読めたのなら、この従者は見込みがある。
「お主の得物はわからんが、何をしても初撃は躱されるのう。それに、何やら妙な気配が飛び込んできそうな……」
殺気でもないのに、反応してしまったのだろう。
あれは仕方ない。
「ああ……イズナ、ご挨拶を」
ズルリ、と私の左側にイズナが湧いた。漆黒の狩衣姿。跪いている。
「イズナにございます」
「ほう……、これはまた……」
ジルは、玩具を見せつけられた子供のような目で、感嘆の声を上げた。
「お前の気配、読まれてたぞ」
「ビシバシ牽制されたよ。やり辛いったらありゃしない。気だけのお遊びだってわかってるのに、何度も飛び出しそうになった」
イズナはジルのことが気に入ったらしい。
同族以外の前で、素を曝している。
「シュウ、こんな美しい
「まあ!」
確かに美しいが、中身は物騒極まりない。
「私が王都に行っている間、ジルに付けましょうか?」
「それには及ばんよ。戦場には連れて行けんしな。それよりも、今の技で王宮に悪戯してやれ。それこそ腰を抜かしよるぞ」
そう言って豪快に笑った。
ネフィウスがシエラの来訪を告げ、イズナが掻き消える。
ジルは嬉しそうに、イズナがいた空間を見つめながら、シエラの入室を促した。
飾り気のない紺色のワンピースを着たシエラ殿。後ろにはアレク。
残る道を選んだか。
朝の挨拶を交わし、シエラ殿がソファへ。アレクはその後ろに立つ。
シエラ殿の顔色は優れない。
「シエラよ。お前に家督を譲る……すまんな」
ジルは前置きもなしに切り出した。
「お父様……」
「な、なんですと!」
昨晩、ジルの帰領を出迎えたシエラは、覚悟していたのかも知れない。
やはりというか、アレクは騒がしいな。
「なんだ、小僧? 不都合でもあるのか?」
ジルは、ギロリとアレクを睨む。
話を切り出す前に、よくアレクを追い返さなかったものだ。
何と言おうが、敵方の息子。
アレクがこの家と、どれほどの付き合いがあるのかわからない。この場にいることを許されている。そういうことなのだろう。
「わ、私が申し上げるのも何ですが……その……シエラ様が危険に……」
「小僧、状況がわかってないようだの」
「はい?」
キョトンとするアレク。
「シエラに家督を譲らずにワシが死ねばどうなる?」
「それは……ですが、今でなくとも……」
「お前はいつまでも小僧よな」
ジルは溜息を吐いた。
アレクはジルの怪我の程度を推し量れない。
「シエラ、爵位はどうするな? 名乗らずとも当主はできる。好きにして良いぞ?」
シエラ殿は一瞬考える素振りを見せたが、
「爵位は……名乗りません」
凛とした声でそう、言い切った。
「そうか」
そこは親子。ジルもわかっていたようだ。
脇机と共に書類が運ばれてきた。
文面は既に書き込まれており、ジルは署名して丸めると、指輪で封蝋した。
「これを王に渡してやれ。準備が整い次第、王都に向け出立せよ。それにしても、王宮に大鴉が降りるのは何度目かのう」
「三度目です、ジル」
「ふっふっふ。盆暗貴族どもが慌てふためく様を見たかったが、ワシは留守番をしておるよ。小僧、お前も留守番だ。面倒なことにならぬよう、しばらく屋敷に篭っておれ」
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