霞んだ宝石《おもいで》の終いかた

 一年前の冬。

 窓から覗かせる景色は今にも雪が降り出しそうな雲行きで、自室で暖を取りながら外の寒さを気にも留めず、一人の女の子が机にあるノートパソコンに向かい、呼吸をするようにキーボードを叩いていた。


『私の気持ちは全てこの手紙に書いてある』

『俺は……沙由佳のことを、ずっとずっと見てた』

『…………』

『沙由佳は?』

『そんなこと言わせないで……』

『俺が大好きなのは、沙由佳だけだ』


「やっとできた……」

 ようやく『恋するメトロノーム』の最終巻の初稿が産声を上げた。

 寝る間も惜しんで詩羽が持ち得る全てを発揮し、何時間も何日もかけて、それこそ魂を削って宿しながら、その想いを吐き出して注ぎ込んだ『恋するメトロノーム』最終回。

 この初稿がまさに〝プロット通り〟の展開で書き上がってしまったことは、当の本人も思ってもいなかった。

 書き上げたことに作家の充足感であるところの達成感と脱力感に襲われる詩羽は、満面の笑みを浮かべながらも、こそばゆくて夢見がちな結末に頬を赤く染めている。

 それは、いつものように取りかれたように書いてしまったから。

 けれど、今回は少しおもむきが違っていた。

 いつもは、あの人の思わぬ考察や意外な視点に驚きながら、結局は彼が彼女の作品に対する率直な感想を嬉々として語るその姿が見ていて、単純に作者としても嬉しかった。

 その期待に応えるような展開を作っていたけれど、今回ばかりは詩羽の妄想に付き合って欲しいと。

 だって、詩羽が沙由佳の言葉を借りて、沙由佳が詩羽の魂を借りた、一目見れば誰が誰なのか把握はあくできてしまうような内容だったから。

 だから、そんなちょっとしたエゴと期待と遠回しでワガママな告白を受け取ってもらえたら、なんて痛々しい乙女な思考回路になってしまって……。

 やっとのことで直人と沙由佳が結ばれる……、そんなことを考えていたら居ても立ってもいられなくなって、さらに頬を赤く染めると、これからほんの少し先の未来を夢想する。

 それは倫也と詩羽が結ばれたら……、という淡い期待と一抹いちまつの不安を背負って、さながらメトロノームのように揺れ動く気持ちを胸に秘めて。

 これは例えば、ありきたりでどこにでもあるような何の変哲もない物語。

 何の変哲もない舞台から、何の変哲もない女の子が書き上げた何の変哲もない恋のお話。

 それでも誰かを感動させたい一心で、詩羽自身をも感動させられるような、そんなお話を書きたかったから。

 むしろ、あの人を夢中にさせることができたのか、私情丸出しの物語の結末をあの人はどうとらえて、どんな感想を言葉にしてくれるのだろうと、いつの間にか本来の目的がすり替わっていたことに気づきもせずに……。

 ただそれでも、変わっていたとしても、切なる想いを沙由佳に託すしかなかった。


 予定調和でセオリー通りのまさに王道展開でも、一人の読者に振り向いて、気づいて欲しかったから。

 直人と沙由佳と真唯の結末を……。

 そして、詩羽の恋の行く末を……。


 その未来は、もう神様にしかわからない。


        ※ ※ ※


「さて、詩ちゃん。原稿の進捗どう?」

 翌日、ホテルジェファーソン和合のロビーにあるカフェ。

「それが……」

「あ、いいのいいの。今回は最終巻だから、締切はいつもより、ちょっとだけ後ろ倒しさせてもらってて、あと一ヶ月もあるから」

 日が傾き夕日が照らす中、突発的に呼び出されて、相も変わらず眠たそうな詩羽ではあるけれど、担当編集者の町田がいる手前、欠伸をするのを必死にかみ殺しながら打ち合わせをしていた。

「それだと、楽しみに待ってくれているファンの人達に申し訳ない気が……」

「焦らしておけばいいのよ。熱狂的なファンなんて二年近く続編が出なくても都合良く解釈して、作中でも三年が過ぎてるからって、主人公の気持ちに浸れるとかほざくんだから」

 それは制作者側が故意にすることではなく、大人の事情による誤算でしかないはずですよね。そうだと言ってください……。

「冗談はともかくとして。今日は、しーちゃんと息抜きにでもって思って」

 また何かよからぬ知らせが舞い込んでくるのかと、不安になりながら過敏に反応しつつも、そのことをおくびにも出さず、今になってそんなことを言い出す町田に疑問を感じていた。

「息抜きなんてしなくても……」

 もうすでに原稿を書き上げてしまっていたから、息抜きなんて必要なかった。

 そんな時間すら惜しいぐらい今はただ〝あの人〟に、いち早く読んでもらいたかった。

「呼び出しておいてはなんだけど、電話越しではわからないことがあるのよ。例えば、そうね……詩ちゃんの内心とか顔色とか、それに色恋とか」

「最後のはともかく、連絡はいつも取っていたと思いますけど」

「それでもほら、これで最後になるから」

 町田は憂いをかもしだした表情で言葉を濁し気味に告げた。

 『恋するメトロノーム』最終五巻が、ついに一年越しの刊行の末、ようやく日の目を見るに至った。

「気が早いですよ。まだ誰の目にも触れていないのに」

 まだあの人の目に触れていないのに……。

 そんな思考と言動がかみ合っていないのは、さすがに寝不足がたたってなのか、それとも、これからある一つの相談事を持ち出すことに勇気を振り絞る必要があったからか……。

「そう言わずに。さぁ、移動するわよ、しーちゃん。何が食べたい? 和食? 中華? 洋食?」

 そんなの倫也君に決まってる、とか脳内お花畑なのを必死に抑えながら、席を立とうとする町田を呼び止める。

「待ってください、町田さん」

「ん? 他に食べたいものでもあった?」

 町田の誘いには乗らず、鞄からある物を取り出し、そっとテーブルの上に置いた。

「詩ちゃん、これって……」

「すみません。息抜きと言うよりは、打ち上げになってしますけど……」

 詩羽が取り出したのは何の変哲もないUSBメモリ。

 座り直した町田さんは驚きを隠せずにいた。

「いったいどうしたの詩ちゃん?」

「実は昨日書き上げてしまいました」

 締切なんてお構いなしに書き上げてしまったから。

 けれど、心配そうな顔つきで町田が詩羽を見つめ、お構いなしに手を握ってくる。

「そんなことして喜ぶのは、編集者だけよ。この作家は早めに書き上げるから、次から締切が前倒しされていいんだって認識されて、結局は自分の首を締める羽目になるんだから」

「そんなつもりは全く……」

 冗談っぽく言ったつもりの町田だったけれど、そんな哀れみと困惑の表情が詩羽をいたたまれなくさせてしまい、いつも通り軽めに言い加える。

「まさか担当作家に締切一ヶ月前に仕上げるなんて思ってなかったら、ちょっと驚いただけよ」

「クオリティに関しても、落としてはいません」

 それに、詩羽にとっては締切云々の話でもないから。

「ほんとに、その熱意だけはもう新人とは思えないくらいね」

 今のこの熱をなんと言えばいいのか、それを簡単に認めてしまうことなんてできないのかもしれない……。

 だから、詩羽は町田を真剣な眼差しで見つめ返す。

「なにかしら? 霞先生。今日は何を言ってくれても構わないわよ」

 逆に、優しく接してくる町田さんが、詩羽には怖くてしかたなかった。

 けれど、言わないわけにはいかない。

「その、ですね……。実は折り入って一つだけご相談があるのですが……」

「なになに? やっと、あのTAKI君に告白する気にでもなった?」

「やっぱりやめます」

 よくよく考えてみると否定はせずに相談を断るというのが、もう既に肯定しているようなもので、その失態に気づいた詩羽は、顔から火が出そうだった。

「ごめんごめん。カスるというよりは、ド真ん中だったみたいで」

「違います」

 けれど、煽り返した町田さんに無許可で行えるほどの度胸などもなく。

「……それで、相談というのは?」

 それより後が怖いからとか、ただでさえ締切を伸ばしてくれていたからとか、町田からの信頼や配慮を無碍にしたくなかった。

 でも、後悔したくない詩羽は、町田への迷惑を顧みず、そんなことで引き下がる訳にもいかなかった。

「はい、この初稿をとも……TAKIさんに読んでいただくことは可能でしょうか?」

 だから、これは彼へのちょっと変わった恩返し。

 けれど、恩返しとは少し違う、ただの独りよがりな提案を……。

「いいわよ。そのくらいなら」

「え……?」

 二つ返事で了承を得られるとは思っていなかったから、詩羽は思わず驚いてしまった。

 だって、ただ彼に読んでほしいだけの身勝手な相談事でしかなかったから。

 一番初めに詩羽の気持ちを、彼に読んで欲しいだけのワガママでしかないのに……。

「なにそんな驚いた顔してるのよ?」

「てっきり私は断られるものだと思っていましたから」

「端から私はそういう相談恋のだと思って、ビクビクしながら身構えていたんだけどね。でもまぁ、今回の原稿の件も含めて、私も驚かされたしお互い様よね」

 見知ったような顔ぶりで、見透かすように町田は言い加えた。

「ただし条件が二つあるわ。一つ目はTAKI君には、このことを絶対に公言させないこと。まぁ、彼ならそんな無粋なことはしないとは思うけれど。二つ目は詩ちゃんになんだけど、この初稿に関して、TAKI君から感想や意見を聞いて、ブラッシュアップするのも目に見えているし、なおのことクオリティ上げてくるしょうから、そうね……二週間後、修正校をメールで送って」

「本当によろしいのですか?」

「いいもなにも、それが作家の為になるのなら」

 だって、町田にとって、その低い可能性が、ただただ詩羽への作家人生に大きく左右することだと、すでに気づいているから。

「重ね重ねありがとうございます、町田さん」

 それに、詩羽にとって感謝してもしきれないぐらい、こんな融通を利かしてもらえるなどと思ってもいなかったから。

 町田が担当でほんとうによかったと、何度も何度も反芻はんすうして、頭を下げる。

「バッファは持たせてあるし、見る見るうちに成長した霞詩子先生のお陰で、こちらの修正が少なく済んでることだし、大丈夫よ」

「それこそ町田さんのお陰です」

 次からは締切遅らせても大丈夫ですね、なんて詩羽は野暮なこと言ったりしない。

 唐突に町田はかしこまり、深々と頭を下げながら、淡々と声を発した。

「霞先生、今まで紆余曲折うよきょくせつありましたが、あなたと最終巻に至るまで、色々とご迷惑をお掛けしました。それでも、最後まで一緒に進むことができ、編集者として喜ばしくもあり、そして……一個人として霞先生の最終巻を心待ちにしておりました」

「町田さん、いきなり何を……」

 詩羽の言葉を最後まで聞きもせず、まだ初稿のチェックすらしてもいないのに祝福し、笑みを浮かべながら町田は、涙ぐんで完成を夢見ていたかのように感極まっていた。

「おめでとう、詩ちゃん。やっとここまで辿り着いたわね」

 そう、今にして思えば、二巻で打ち切られるはずだった『恋するメトロノーム』が、当初の予定通り五巻まで刊行することができたのは、打ち切りから救った一人のファンによる布教活動の賜物たまもの

「ありがとうございます。それこそ私の台詞ですよ、町田さん。それにここまでやってこれたのも町田さんと……それにファンであるTAKIさんのお陰でもあり、私だけの実力ではありません」

 勘違いもはなはだしいけど、詩羽には窮地に陥った所を颯爽と現れた白馬に乗った王子様が救ってくれたみたいだった。

 謙遜する詩羽は、おそらく自分一人では何もすることができなった。

「ほんと編集者ながら嫉妬しちゃうわ。それと、これはアドバイスと言うより忠告なんだけど……、物語が完結するということは、あなたが今まで焦らし続けてきた結果に、けじめをつけるということになる。だからこそ、この作品に納得しているわよね?」

「納得するも何も、私はただ、心を動かされる作品を作れたのなら、何も言うことはありません……」

「それでも、何があっても……あなただけは、あたなのキャラクターたちを、この作品を認めてあげなさい」

 町田は、詩羽にそのことを意識させるには、まだ早すぎた。

「そして、まずは書き上げたことに誇りを持ちなさい、詩ちゃん。世の中にはね、途中で投げ出す作家もいるんだから。それに、あなたの作品を最後まで愛し続けてくれた人たちを、今度こそ、その目に焼き付けて、実感するのも悪くないわよ」

 それは作家としての業でしかない……。

 しがない高校生の詩羽が、その意味を理解するには幼すぎて、盲目になっていた。

「だから、詩ちゃん。読者の予想をほんの少し越えてあげなさい。いい意味で期待を裏切ってあげなさい。あなたの作品を一番心待ちにしているファンに……夢を見させてあげなさい」

 それが、誰か一人のために作られた物語であったとしても……。

「はい!」

 さっきまでの真剣な表情とは打って変わって、満面の笑みを浮かべながら、詩羽は嬉しそうに返事をした。

「あと、一つだけ。余計なお世話だと思うんだけど……」

 それでも、倫也に受け入れられて、その経験が作品に活かされることを見込んだ上で、町田は詩羽を後押しする。

「なんでしょうか?」

「ホテル、一名追加しとこうか?」

「けっこうです」


       ※ ※ ※


 ホテルで町田さんと別れた詩羽は、駅前のコンビニで原稿データを出力し封筒に大事そうに入れた。

 コンビニを出ると日は沈み、暗く澄んだ空気感と気温に、暖房の効いた店内との温度差にあてられマフラーをしていてもより一層肌寒さを感じる。

 和合市駅前には仕事を終えていくサラリーマンや部活帰りの学生、これから水族館へ向かであろうカップルを尻目に、駅前近くの広場からその改札から押し寄せる人波の中に、たった一人……あの人が出てくるのを、ただひたすら待っていた。

 電車が到着するたびに今か今かと期待に胸を膨らませ、まさにご主人様の帰りを待つ忠犬のようにしっぽを振って。

 だって、そのたった一言で、待ち続けてしまうことが出来てしまうのだから。


『あ、もしもし、倫也君ですか?』

『詩羽先輩?』

『今から来れないかしら』

『もしかして和合市にですか?』

『うん……』

『今すぐ行きますから!』


 そう、それは学園モノの告白シーンによく似ている。

 放課後にみんなが去る待って、誰も居ない教室に好きな人を呼び出して、夕日が照らす中、勇気を振り絞って愛を綴ったラブレターを渡し、決死の思いで〝好き〟だと告白する。

 そんな少女漫画で最初に使われるようなテンプレとまでは言わないまでも、陳腐でよく見慣れた味気無い切っても切り離せない王道イベント。

 けれど、今まさに詩羽は自分自身がそのヒロインのようなことをしていると思うと、むずがゆい気恥ずかしさのあまり顔を赤らめてしまって。

 作品ばかり目がいって、決して詩羽自身に振り向いてはくれないファンの男の子を待ち続けて、こんなことをまさか詩羽自身が経験するなんて夢にも思っていなかったから。

 それに、きっとあの人にとって、詩羽は憧れでしかない。

 だって、神様でしかなかったから。

 なら、堕天してでも、詩羽はそんな一人の男の子の元へ降りていこうと。

 本物の神様に逆らって、邪神でも、それこそ神様でもない、たった一人の女の子として……。

 でも、今にも雪が降り出しそうな、月明かりも星空も見えなくなってしまった物悲しい空は、そんなよくあるイベントとはまるで違う。

 この先のイベントを予見させてしまいそうだった……。

 そして、嫌な予感は的中し、とうとう雪が降り出してしまった。

 改札口の流れるような人並みとは違い、ちらちらと桜のように舞い落ちる雪は、原稿の入った封筒に滲むほどの雪量ではないけれど、それでも滲んでしまわないように、ただただ原稿を大事にぎゅっと胸に抱えて直す。

 また次の電車が到着し、改札を出てくる人混みの中から、地味でメガネを掛けた男の子が姿を現した。

 やっと、やっと来てくれたのだと、こんな寒い中、外で待ってしまうくらい、詩羽はその熱で堪えてしまうぐらい浮かれてしまっていた。

 彼は詩羽に気づいたのか、近くまで駆け寄ってきては、膝に手をつき息を切らせていた。

「すみません。遅くなりました、先輩」

「待ちくたびれたわ、倫也君」

 ほんとは、いつまでも待っていたかったのかもしれない。

「呼び出しておいて、ましてや和合市まで一時間以上かかるの知っててですよね」

 ぶつくさ文句を言いながらも、足を運んでくれた事実が詩羽には素直に嬉しくて、言葉にすることも躊躇ためらわれる。

「編集さんと打ち合わせの帰りですか?」

 倫也は詩羽が胸元に抱えている封筒に目線を向けながら、尋ねてくる。

「そんなところね」

 一瞬、冷やっとした詩羽ではあったが平静を装った。

「こんな遅くにわざわざ呼び出してしまって、申し訳ないわね」

 そう言いながらも、いつもと比べてしおらしい詩羽は、何の捻りもなく謝罪の言葉を口にした。

「いえ、大丈夫ですよ。どっちにしろ、今夜も恋メトをまた一から読みなおそうと思ってましたから」

「そう、なんだ……」

 詩羽の作品を何度も読み返してくれて、照れてしまって何も言い返せなくなってしまった。

「あの修羅場展開からの続きが今か今かと待ち遠しくて、なおさら次巻で最終巻となると、あざといけれどそのまっすぐな想いで直人を振り向かせようとする真唯を選ぶのか、それとも表面上ではドス黒く意地っ張りだけど心の中では乙女でなかなか自分の気持ちを素直に打ち明けられない沙由佳を選ぶのか、一般的には優柔不断って思われそうな直人なんだけど、それでも悩んで悩んで悩んだ末に見出す答えがどこに向かうのか、俺にとって未開の境地である霞詩子ワールドにおいて、三人にどんな結末が訪れるのか居ても立ってもいられなくて、夜もついつい読み返してしまうぐらいで」

 駅前までのファーストフード店で語ってた時のように目をキラキラと輝かせながら、熱く雄弁に語る倫也の姿が詩羽の作品わが子を可愛がられて、頭を撫でられてるようで微笑ましくなった。

「ふふっ。なんだか火照ってくるわね」

「照れてるんですよね! ほをつける意味ないですよね!?」

「褒められてるだから、ほをつけるのは当然でしょ。それとも、惚れられてるのかしら」

「作品にだからね! 惚れてるのは先輩の作品に対してですからね!」

 そんな他愛のない話が、いつまでも続けていたいとさえ思った。

 いっそこのままでも……と、そんな淡い夢を描いても、この恋は叶わないまま……。

「ところで、以前ファーストフード店で、この後どうなるかって質問したの覚えてる? どっち派なのか訊いたの?」

「覚えてますよ! あの四巻の引きなんなんですか! あんなの見せられちゃ、真唯を応援したくなっちゃうじゃないですか! 真唯の純粋な想いに、心打たれてしまいますよ! 沙由佳に対して、真唯が直人の想いを引き出そうとするんだけど、それでも素直になれない沙由佳は真唯の想いも知ってるから、どうにもすることができなくて、言葉にもできなくて、どっちがどっちって悪いわけじゃないのに互いが互いを思いやってるから空回りして、それでも沙由佳にもグッと惹きつけられる。こうやって読者に揺さぶりをかけるなんて、最終巻ほんとどうなっちゃうんですか!」

 そして、なんだかんだ言いつつも、その熱心な語り口は子守唄のように詩羽を安心させてくれる。

「さぁ、どうかしらね。それで参考までに訊きたいんだけど、四巻まで読んでみて、倫也君は沙由佳と真唯のどっちが、直人と結ばれると思う?」

「ん~……。ここまで来ちゃうと真唯が勝ってもおかしくないというか……。どっちが直人とくっついてもおかしくないというか……」

「未だにはっきりしないのね」

「はっきりさせてくれないのは、目の前にいる悪逆非道で無慈悲な神様のせいですよね!?」

「神様でもわからないことがるのよ、例えば倫也君の――」

「もう! やめてやめて! 俺は純真無垢で清廉潔白な状態で、邪神の罠にはまりたいんだよ!」

「そんな大それた罠なんて張り巡らされてないわよ」

 もう罠なんてない。あるのは、何の変哲もないハッピーエンド。

「この話はこれでお終いです! ほら、雪もちらついてきてますし、それに俺が言うのもなんですけど、こんなところで立ち話もなんですから、どこか近くの喫茶店でも入りませんか?」

「すぐ終わるから大丈夫よ」

 だから、きっと大丈夫。

 それだけ、詩羽の作品を愛してくれてるのだから。

「ね、倫也君」

「な、なんですか詩羽先輩。急に改まって……」

「その……倫也君が熱く語ってくれた三人の結末が書かれた『恋するメトロノーム』最終巻の初稿が、今ここにあるんだけど……」

 雪のように融けてしまう前に、そんな真唯みたいにはいけないけど、この気持ちをふんわりと雪に乗せて、沙由佳の、詩羽の想いをのせて……。

「読んではくれないかしら?」

 そのたった一言を言うために、倫也をこの和合市まで呼び出した。

 沙由佳に幸せになって欲しくて、喜んで欲しくて、直人と沙由佳を祝福して欲しくて、見届けて欲しくて……。

 そして、詩羽の気持ちを読んでもらうために……。

 詩羽は倫也が口を開くのをうずうずしながら、モヤモヤしながら、ハラハラしながら、さながらメトロノームのように揺れ動く複雑な感情を抱きながら、彼の言葉にただ期待していた。

 けれど、その答えは……


「読めませんよ、こんなの……」


 そんな予想だにしていなかった答えは、詩羽が求めていたのと全く違った言葉が返ってきて……

 期待していたのは詩羽だけなんだって……

 無残にも打ちひしがれて……

「大丈夫よ、あなたがバラすなんて思ってないし、編集さんの許可も貰ってる」

 そんな見苦しい言い訳で、誤魔化すことで精一杯で……

「なんでそんな……俺、知りたくないです」

 詩羽が知りたいのは、倫也の気持ちなのに……。


 ――どうして、倫也君は私の気持ちを読んではくれないの……。


「世の中に出るまでに、読んで欲しいんだけどな」

 彼に一番初めに読んでほしかった。他の誰でもなく、倫也に……。

「どうして?」

「できれば、認めてもらいたいから、倫也君に」

 倫也に直人と沙由佳が結ばれるストーリーが良かったと、二人の中を認めてもらいたいから。

 そして、神様なんかじゃなくて、ファンの男の子を好きになってしまった女の子との恋なんだと認めてもらいたいから……。

「だから、なんで……」

「…………」


 ――それを訊きたいのはこっちのセリフ……。なんで読んでくれないの……。


「俺、最終巻がちゃんと本屋に並んだら、絶対に買って、いくらでも感想言います。それに、どんな展開でも、先輩が書いたものなら絶対に認めますから」

「そんなのただの盲目的な追従じゃない。私が欲しいのはそんな感想じゃない」


 ――そんなの遅いよ。

  倫也君が最初じゃなきゃ嫌だ……。

  ならもし、私の勝手で直人と真唯を結ばせてしまっても、

  その結末を倫也君は認めてしまうの……?


「じゃあ先輩は、俺に何を求めてるんですか……?」

「読めばわかる……かもしれない」

 確信が曖昧になるのがわかってしまった。

「かもしれない……って」

「あなたが、この結末から何を感じ取るのか……その上で、どんな答えをくれるのか」


 ――どうして私のお願いを聞いてはくれないの?

  作品のことはわかっても、私のことはわからないの?

  それでも、ただ私は彼の意見に耳を傾けて、面白い物語にしてきたのに……。

  きっと倫也君が喜んでくれる物語になったのに。

  私はあなたの気持ちを知りたいのに……。


「…………」

「……もう一度聞くわよ? ここにある最終回の初稿、どうしても読んでくれないの?」


 ――いつも楽しみにしててくれたじゃない。

 二人でこの街で語り合ったじゃない。


「……お断りします」

「……っ」

 そんな拒絶にも似た言葉を詩羽は受け入れるはずもなく、俯いて歯を食いしばってしまう。

「だって俺は、この作品に責任が持てません」

「どうして……?」


 ――どうして責任とか言われなくちゃならないの?

  作品がとか責任がとか聞きたいのは、そんなの言い訳じゃない。

  作品に責任を持って欲しいんじゃない。

  だた読んで感想を、どんな想いを抱いたのか、

  倫也君がどんな気持ちになったのか、それが聞きたいだけなのに。


 詩羽は本当にどうしてなのかわからない。繰り返し繰り返し、自分の中で問い掛ける。

 フィクションじゃなくて、男の子と会って話をするのだって……。

 そんな自分にとって、憧れの王子様なのに……。

「…………」

「何も、言ってはくれないの?」


 ――物語の中でどれだけ心理描写が上手くても、

  どれだけ複雑な人間関係を描いても、展開で、文章で、

  言葉で惹き付けられても、それでも人の考えてることなんて、

  男の子の気持ちなんて、わかりっこないじゃないっ……。


「……っ! 言わなきゃわかんないのかよ」

「え……」


 ――それ以上先は言わないで!


「そんなの、大ファンだからに決まってんだろ!」


「…………」


 ――ネットで熱心に布教活動していたのも、

  二巻で打ち切られそうになったのを救ってくれたのも、

  ブログで感想を綴って私をその気にさせてくれたのも、

  サイン会で一番に足を運んでくれたのも、

  ファーストフード店であんなに深く語ってくれたのも、

  学校の図書室で私の作品を推薦したのも、

  私が書いた脚本の演劇を隣で見てくれたのも、

  今日だって来てくれたのも……、

  全部……全部ファンだったからって言うの……。

  ふざけないで……。

  私が書いていたのは、私が恋をした……好きになった男の子は――


「先輩。俺、ほんとに最終巻楽しみにしてますから。だから――」

「…………ふふっ」


 ――倫也君がそんなにファンでい続けたいというのなら、私も神様でいつづける。


 内心とは裏腹に、もう取り返しのつかないことを思ってしまう。

 だから、これは倫也に対しての初めての叛逆はんぎゃく

 そして、闇に堕ちていく。

 創作の闇とは違うドロドロとした底知れぬ深い深い闇の底に……。

 呪縛にも似た倫也の言葉が氷のように身も心も凍らせる。

「…………そもそも一介のファンのくせに、こんな特別扱いなのがはなからおかしかったのよね」

 だから、この毒々しいまでの言動は、これからの詩羽を彷彿させてしまって……。

「先輩……?」

「申し訳ないわね。こんな茶番に付きあわせてしまって」

 口から出た言葉は鋭く氷の刃みたいな鋭くあったけれど、詩羽の表情は少し溶けてしまった氷の表面のように滑らかで柔らかい。

 だから、詩羽は必死に言い訳を考える。

 氷で覆われた中身を悟られないために。

「茶番って」

 倫也は、さっきとは打って変わって戸惑いの表情を浮かべていた。

「実はまだ、結末書けてないの」

「え……?」

「最終回、どういう結末にしようか迷ってて……」

「迷ってるって……」

「ほら、最初にも言ったでしょ、あくまで参考までによ」

「参考って……」

「お陰様で、面白い話が書けそうよ」

「その為に俺を呼び出したんですか?」

「そうよ。物語が面白くなる為だった何だってするわ。悪い?」

「そんなことしてまで……」


「だって、私は邪神ヽヽですもの」


 その顔は威厳よくというわけではなく、悲しみを噛み殺した表情で、邪神である顔つきではなかった。

 それこそ、神様を殺してしまったかのような……、悲しいながらも微笑みを浮かべ目尻に涙を溜めていた。

「あなたの……ファンの言葉が、どれほど作家に影響を与えるか、思い知るがいいわ」

「先輩、俺が言いたかったことは――」

「私は、原稿つづき書かないといけないから」

「送っていくよ、詩羽先輩」

 詩羽はもう聞く耳を持たない。

 作品に対する熱意がほんの少しでも、作家に向いてくれたら、どうなっていたんだろう。

 そんなすれ違いむなしく、思い出の詰まった和合市と倫也に背を向け、この場を去ろうとする。

 そして、広場からホテルに向かうまでのほんの少しの時間は、冷たい風によって否応なく身も心も痛く感じさせる。

 お構いなしに倫也は付いてくる。町田が言ったように最後まで付いてくる。

 けれど、ホテルに辿り着いた二人は、そこから動こうとしない。

 だからって、ズルズル引きずるわけにもいかなかった。

「じゃあ、ここでお別れね」


 ――私と倫也君との関係もここでお別れ、かな……。

  倫也君は、私じゃなくて私の書いた作品が好き、なんだよね……。


 『私達、もう別れましょう』みたいな、付き合ってもいないのに、そんなニュアンスさえ感じられてしまう。

「最終巻、楽しみにしててね」

 そして、詩羽と倫也にとっても最終回。

 詩羽は名残惜しくて、未練がましくて、ただただ諦めきれなくて、倫也の方に振り向いた。

 最後に彼の顔を見たくて……、今までの思い出に浸りたくて……。

 でも、なんでだろう。どうして彼は悲しそうで悔しそうで苦しそうで辛そうで、まるで詩羽の内面が鏡に映し出されたかのような表情をしているのだろう……。


 ――倫也君が断ったはずなのに?

  どうして、そんな顔するの? 嫌だったんでしょ?

  読みたくなかったんでしょ?

  好きすぎたから?

  ファンでいようとするからでしょ?

  なによ、それ……。

  そんな倫也君には、きっとこの言葉がお似合いよ……

  だから、もうこれで……


「さよなら、〝倫理りんり〟君」

 そのファンたらんとした倫也は、一線を超えてくれなかった。もう一歩、踏み出してくれなかった。

 ファンとして倫也の言葉が神様を縛らせてしまった。

 どれだけ悲しくても、涙が零れそうになっても、心が荒みそうで今すぐ逃げ出したくても、それでも詩羽は微笑みを絶やさない。

 だって、倫也だけは詩羽の作品を愛してくれていたから。

 運命の赤い糸なんて微塵も感じさせない詩羽は、見るに堪えかねたのか、ホテルのロビーに入ろうとする。

 けれど、何も言ってこない彼が名残惜しくなってしまい……。

「ね」

 詩羽は振り向いて、ありもしない糸を手繰り寄せようとしてしまう。

「はい?」

 か細い声で聞き返した倫也の表情は、驚きと戸惑いと後悔の念で少し落ち込んでいた。


 ――一線を超えてはくれないなら……。


 それでも、詩羽は最後の最後に期待した。


 ――私はあなたのことが……。

  いや、違う。

  そんなことを倫也君は望んでいない。

  だって、こんなの私の一方的な想いでしかないから……。


 だから、きっと彼は今までのことも、この一言で冗談だと捉えてしまうだろうから。

「今日、泊まっていかない?」

「っ……今そういう冗談言わないでよ先輩!」

 ほら、もうきっと届かない……。


 ――さよなら、倫也君。


       ※ ※ ※


『もう一度聞くわよ。

 ここにある手紙の内容をどうしても読んでくれないの?

 私の気持ちを受け取ってくれないの?

 あなたの答えを聞かせてくれないの?』


『お断りします』


『何も、言ってくれないの?』

『……っ! 言わなきゃわかんないのかよ』

『え……』

『そんなの、大好きだからに決まってんだろ!』


「酷い振られ方よね、沙由佳」

 好きなのに受け取ってくれない……。

 きっと、それは直人も沙由佳のことが大好きだっから。

 それこそ、直人には特別すぎたから……。

 それでも、直人からの沙由佳への『大好き』がここまで意味を変えてしまったのは、他でもない詩羽自身によるもの。

 手の届かないほどの距離でもなかったはずのに……。

「好きなのに振るって何様よね。恋は盲目というけれど、どっちが盲目だったのかしら」


『…………』

『俺には――』

『あはっ、はははっ、おかしい。おかしすぎて、お腹痛いよ。もう涙出てきちゃいそう』

『ちょっと、な、何がそんなにおかしいだよ』

『好きだから受け取れないって何様よっ。ははっ……こんなに笑ったの久しぶりかも……』

『もう笑うなよ! 俺だって真剣に考えて――』

『はぁー……。なんてね、さっきのは嘘よ』

『嘘って……?』

『実はこの手紙、私が書いたものじゃないの』

『えっ……』

『真唯から渡してって頼まれてたの。けれど、もう渡す必要ないみたい』

『いや、けど……』

『ごめんね。直人君にちょっといじわるしてみたくなちゃった。だって、真唯のこと好きなのに、あまりにも優柔不断だったから。それに、こんなにも両想いなのに、どっちも素直じゃなかったから。だから、ほんとにごめんね……』

『いや、ちょっと待てって。つまり俺から本音を聞き出すために、あんなことを……』

『そうよ。私は好きな人の為ならなんだってするわ』

『そんなことしてまで……』


 ――だって、私も真唯のこと大好きだから。


 詩羽ができなかった恋愛を沙由佳する。

 激しい恋をして……、狂おしい恋をして……。

 それはまるで物語の世界に入り込めたようだった。

 そこに現れた一人の女の子。

 真唯は明るくて元気いっぱいで誰にでも好かれて、詩羽にはないものをいっぱい持っている――大好きなヒロイン。


 ――これでいいの?

  直人君のこと諦めちゃっていいの?


『ほら、さっさと迎えに行ってきなさい。中庭で真唯が待ってるから』

『ちゃんと手紙の内容読んでからじゃないと……』

『初めて会った時もそうやって優柔不断だったわね。けれど、あなた達が結ばれて、幸せになるの楽しみにしてるから』

『まだ決まったわけじゃないだろ』

『ううん。私は出会った頃から知ってた。あなたの気持ちなんてわかってた。

 だから、もう私は決めたんだよ』

『でも、沙由佳。俺は三人で……』

『あぁ、もう……。真唯がいなくなっても知らないからね?』

『……ごめん、ありがとう。沙由佳』

『……いってらっしゃい、直人君』


 ――まだ泣いちゃいけない。

  もう少しだ。

  もう少しの辛抱だ……。

  いや、でも……。


『ねぇ』

『ん? なに?』

『今、私があなたに迫ったら、私を受け入れてくれる?』

『もう、こんな時までからかうなよ』


 ――嫌だ。嫌だ。いやだ……。

  なんで、なんだろう。

  直人君と真唯が結ばれて、喜ばしいはずなのに。

  私が望んだ結末じゃないのに……。

  どうして、どうして、ねぇ。

  どうして、こんなにも胸に締め付けられるのに、

  なのに、どうして、そんなに幸せそうなの……。

 ねぇ、答えてよ……沙由佳……。


 その結末の修正はホテルに帰って寝ずに嗚咽混じりになりながらも、たった三日で最終巻を丸ごと書き換えてしまった。

 どれだけの時間をかけてやっとの思いで書いた一年半越しに直人と沙由佳と真唯の物語だったのに。

 直人と沙由佳が結ばれて迎えるはずのハッピーエンドだったのに……。

 たった一瞬で、ガラスが粉々に割れてしまったかのように崩れ去ってしまった。

 そんなはずでもなかった結末が……。


 ――どうしてだろう。

  散々泣いた後なのにまた溢れてくる。

  直人と真唯が結ばれたから?

  それとも、直人と沙由佳が結ばれなかったから?

  どっちなんだろう……。


 涙がキーボードにポタポタと落ちる。


 ――ねぇ、倫也君。

  あなたが好きな人は一体誰だったの?

  結末が真唯になっても、沙由佳を選んでくれるの……?


 十二時を過ぎれば、魔法が解けて作家に戻ってしまった。

 けれど、魔法のような言葉をくれた魔法使いは、もう目の前に姿を現さない……。

 だって、魔法使いも王子様も同一人物だったから。


 二つあったガラスの靴は、一つだけを残し、消えてなくなってしまった。

 けれど、残ったガラスの靴は、もうただの女の子にはそぐわない……。

 だって、色も形も素材もサイズさえも、何もかも変わってしまったから。


       ※ ※ ※


 ――恋をしてみたかった。


 それは、詩羽が中学生の頃だった。

 口数も少なく、人見知りでおとなしい詩羽は、取り立てて友達も作らず、学校にはただ授業を受けて帰るだけの日々を過ごしていた。唯一の楽しみと言えば、小説や漫画といった創作物を読むこと。休憩時間や帰宅してからの時間を、普段の生活では味わえない色鮮やかな物語に没入していた。

 物語にハラハラしたり、ウキウキしたり、心躍らせる展開から、嬉しかったり、悲しかったり、笑ったり、怒ったり、泣いたりする登場人物の表情や思考、言動や行動をワクワクしながら読んでいた。

 そして、時には涙し、時には喜び、時には落胆し、時には時間を忘れてしまうぐらい楽しませて、魅了してくれる物語が大好きだった。

 いろんな作品に感銘を受けて、ありきたりで何にも変わらない日々を過ごしていて、何も変わらない、何も出来やしない詩羽は、こんなにも感動させられる作品がたくさんあるのに、周りの世界は何一つ変化が訪れないことに不満を持っていた。

 そんな毎日が代わり映えのない日々だからこそ、物語の人物に憧れていて、あんな風に素敵な恋をしてみたいと、いつしかそんなふうに思っていた。


 けれど、そんな憧れた夢を見ても、結局何も変わりはしなかった……。

 物語に感動して、嬉しかったとか、悲しかったとか、憤りを感じたとか、色んな感情が混ざり合って、溢れ出しそうな涙を必死に抑えながら、どこかの青春物語のようにいつの間にか、がむしゃらに走っていた……。

 たどり着いた先にあった何の変哲もない坂から見た夕焼け空は、そんな何も変わらない日常を少しだけ色鮮やかにしてくれる。

 まるで物語の中に入れたかのような気持ちになる。

 あの場所坂の上は、そんな場所。

 何も変わらない詩羽の物語だけど、それでも世界は輝いていることを少しだけ実感させてくれる。


 中学を卒業すると、何の変哲もない街から少しだけ生活環境が変わった。

 両親の引っ越しで、和合市から少し離れた高校に進学することとなった。

 少しは何かしらの変化があるのかと期待したけれど、結局、高校に進学したからっといって、詩羽の性格上も相まって何一つ変わりやしなかった。


 それなら、自分ができない代わりに少しでも何かが変わってくれたらと願いながら……。

『ありきたりな生活環境や変わらない周囲の人間関係に不満を持って、けれど何もできない臆病な女の子がいる』

 そして、いつか自分と似た境遇の人だって夢を見られるのだと信じながら……

『明日は今日より少しでもいい日を望んで、けれど結局同じ毎日を繰り返して、いつの間にかその向上心すら忘れて馴染んでしまう男の子がいる』

 代わり映えのしない世界が、ほんの少しでも変わってくれたら……

『そんな何の変哲もない街にいる、何の変哲もない女の子だって恋をする。何の変哲もない男の子だって、いつかは変わる』

 普通の中にある些細ですら思えるきっかけを特別に変えたくて……

『…………そういう、本当に普通の話を書きたいって、思ったから』

 だから、筆を取ってみた。


 初めはどんな物語にすればいいのだろう。

 今までに感動したことから、好きな作家さんの教えまで、参考にしながら、手当たり次第書いてみた。

 こうしたら面白いのじゃないか、ここはこんな展開にしたら、驚くんじゃないのだろうか。

 きっとそれは、詩羽が今まで読んできた小説や少女漫画から切り取ったことを伝えたいだけで、詩羽は今まで、恋に落ちたことも、恋愛をしたことなんてないから、コンプレックスを抱きながら、そんな作り話が面白いかどうかなんて判断付かなかった。

 それでも、こんな話が好きだから、このキャラクターが好きだから、自分と重なるから、こんな経験をしたから、理想だから、憧れるから、驚いたから、自分の夢にまで描いた恋愛模様がどんな人に受け入れられるのだろう。

 そんなこと知ったことではなかった。

 ただ実感が欲しかった。

 詩羽にも憧れていた恋ができるという実感が……。

 とはいえ、誰の目にも触れず、自分の中だけの恋にしておきたいとさえ思えるほど、人に見せるには憚られた。

 だから、共感を得られる女性向けではなく、あえて自分の力を試せる男性向けを選んで応募した。

 それが見事、大賞を受賞し、『恋するメトロノーム』一巻が発売された。

 自分で書いた本が書店に並ぶのが感慨深くもあり恥ずかしくもあり、詩羽の描いた恋物語が認められている気がした。

 そんな創作に夢中で、楽しくて、いつの間にか寝るのも忘れて授業中ついつい寝てしまうのが癖になっていた。

 けれど、突然打ち切りを言い渡されて、詩羽は意気消沈していた。

 そんなある日の放課後に突然……。


「霞ヶ丘さん、ずっと前から好きでした! 俺と付き合ってください」


 眠っていた詩羽が目を覚ますと、一人の男子生徒が目の前にいて、初めは何を言われているのか理解できなかった。

 見ず知らずの一度だって話したこともない男の子から告白。

 謂われのない好意に、ドキッとさえ、キュンとさえこなかった。

 何かが違う……。

 こんなの恋じゃない。

 適当に理由を並べ立て、振ってしまった。

 だから、今にして思えば、あの時、無碍むげにされた男の子は、今の詩羽みたいな気持ちだったんだろうか。

 後から考えてみると告白してきた男の子は、いったい詩羽の何を好きになったのだろうと。

 それでも、男の子にとっては恋だったんだと。

 気軽に告白を受け入れてから育む恋だってあったかもしれない。

 けれど、それは……


 ずっと憧れてた恋じゃない。

 きっと憧れる恋じゃない。


 二巻で打ち切りされそうになった時、会ったこともない人から熱い想いを告げられた。


『情熱が凄いから。

 努力が凄いから。

 一生懸命だから』


 いつの間にか、恋をしていた。

 それはきっと、単純でありきたりな勘違い。

 たまたま異性だったから。サイン会に一番に足を運んでくれたから。

 たまたま同じ学校という運命さえ感じされたから。

 たまたま作品を褒められたから。

 作品もそうだけど、中身を見てくれたように思えたから。

 あの人は本当の詩羽を見てくれている。

 そして、何よりも詩羽の作品を好きだと言ってくれたから……。

 だから、勘違いなんてしてしまう。


 ――恋をしてみたかった。


  苦くても甘い恋を……。

  つまんない恋を……。

  気付かれない恋を……。

  大人げない恋を……。

  忘れない恋を……

  NGダメな恋を……。

  中学生の恋を……。

  届かない恋を……。

  息苦しい恋を……。


  冴えない恋を……。


  でも、失ってしまう恋なんて……

  実らない恋なんてしたいわけじゃなかった……。


       ※ ※ ※


 数日後。ファンタスティック文庫編集部第二会議室。

「第二校、読ませてもらったわ」

 詩羽は町田に何の相談もせずに、修正校とは言いがたい第二稿を送っていた。

「…………」

 町田さんに呼び出され、テーブルの上にドサッと原稿が置かれた。

「ねぇ、詩ちゃん」

 詩羽はただ俯いて、何も返事をしない。

 先日のことは訊いてこないのは詩羽のことを気遣ってからか、それとも……。

「私はいったい何があったの? なんて、訊きはしない」

 だって、そんなの原稿に書いてしまっているから。

「この改変はどういうことなの? なんて、責めはしない」

 だって、そんなの誰かと誰かが結ばれなかったから。

「だけど、ほんとにこれでいいのね?」

 直人と沙由佳と真唯の三角関係は、最初から直人が沙由佳を選ぶプロットが組まれていた。

 真唯はあくまで物語を引き立てる為の駒でしかなかった。

 時にはかき回し、時には読者に揺さぶりをかけ、時にはその読者さえも魅了する。

 それこそ絶対に勝てない〝サブ〟ヒロインとして、読み手をおとしめる罠として登場していた。

 それなのに、書き換わった世界で直人と結ばれたのは、二巻から登場した沙由佳にとっての恋敵でもある真唯……。

「…………」

 真剣な眼差しで町田は詩羽を見つめるも、意気消沈していて心ここにあらずの詩羽は何も返さない。

 むしろ、返せる気力をすべて作品につぎ込んでしまってから……。


 読めないと指摘されたから。

 突っぱねられたから。

 だから、変えた。

 プロットを変えた。

 解釈を変えた。

 結末を変えた。

 心を変えた。

 それでも、好きな人は変わらなかったのはどうしてなんだろう……。


 沙由佳は詩羽の分身。

 幸せを享受きょうじゅするなんてこと、今の詩羽にはできない。

 だって、沙由佳と同じで〝失恋〟したのだから。

 憔悴しょうすい仕切っているのは、寝ずに原稿を書き上げてしまったからか、それとも、振られてしまったからなのか、もうわからない。

「もういいんです。この物語と運命を共にすると決めていましたから、悔いはありません……」

 自暴自棄になってしまいそうな詩羽の言葉には覇気がなく、もうどうにでもなれとヤケ気味の返答だった。

 町田さんは多少呆れたように小さくため息を付くも、淡々と応じる。

「…………。まぁ、そうね。これが詩ちゃんの求めていた本来の結末が、これなら問題ないわ。この作品は面白いと思う。これなら売れること間違いなし、絶対にヒットするわ。話題にもなる」

 それこそ、なんの熱意もなく、なんの説得もなく、ただありのままを口にする。

「でもね、詩ちゃん。いえ、霞先生は……この結末に納得できているの?」

「…………」

 この結末が納得できるかどうかなんて、詩羽にはわからなかった。

 ただ、思い当たることと言えば……

「こんなのセオリーに反してる。読者は喜んでくれないかもしれません……」

 想定していなかった展開だったから、詩羽ですら戸惑っていた。

「そうね、沙由佳を好きな人たちにとっては、心締め付けられるわよね。そういった批判もあるかもしれない。なんで沙由佳は諦めてしまったんだろうって」

「…………」

 諦めざるを得なかったと言ってしまえば、簡単かもしれない。

「この終わり方が、あなたのやりたかったことなら、納得がいってるのなら、それはそれで構わない」


 ――そうだ、こんな結末、初めのプロットから変えたんだから。

  町田さんがそういうのも頷ける。


「私がどうこう思ってるより、あなたがどう思ってるのかが大事なの」

 けれど、それよりも、詩羽が幸せを掴むことを諦めてしまった。

 だからこそ、この結末に至ってしまったと言えなくもない……。

「返事を聞かせて、霞先生」

「…………」

「黙っていたら、通るだなんて思わないで」

 きっと誰かに後押しして欲しかったんだと思う。

 これでいきましょう、って私情に任せてもらいたかったんだと思う。

「……町田さんが面白いと仰るのでしたら、これで構いません。私にはこの作品が面白いかどうかわかりませんから」

「…………らしくないわね」

 初稿の時の威勢は、どこへいったんだろうと、町田さんは詩羽の心境をおもんぱかる。

 仕上がってきた原稿は、詩羽のそういった投げやりも含めて、恋愛感情を文章に落とし込まれているから、より一層面白く、そして、心理描写を際立たせている。

 そんな詩羽の言葉を生写した文章だから、読み手を選びはするけれど、詩羽の複雑な感情を体現しているからこそ、一度深みにハマったら抜け出せないくらい惹き込まれてしまう。

 そう、まさに詩羽のファンTAKIが『恋メト』一巻の感想で評したように。

 それを詩羽自身が面白いかどうか判断つかないのも見当がつく。

 もうそれは一種の才能だ……。

 だからって、決断を編集者に委ねるのは、お門違いだ。

「編集者を舐めないで」

「…………っ」

 詩羽はただただ町田の言葉を受け入れる。

 町田を舐めていた訳じゃない。

 ただ、どう答えていいか、どう言葉にすればいいか、わからないだけ……。

「何を思っているのかわからなくは無いけれど、それでも作者が面白いと思わない作品を読者は面白いとは思わない。読み手もそこまで馬鹿じゃない。そんなあけすけな文章、すぐに気づかれる。けれど、不本意にも作品を面白いと判断するのは、作者かみさまじゃない。読者ファンよ」

「ですが、こんな結末……」

 望んでいなかったはずなのに、しっくりきてしまったから。

 けれど、このモヤモヤした気持ちは、はっきりとしなかった……。

「いい、詩ちゃん。この結末に大多数の人は驚くかも知れない。読者は納得いかないかもしれない。それでも、ほとんどの人は気づかないとは思うけれど、直人と真唯が結ばれた裏で沙由佳の二人に対する想いが溢れてくるんだもの。一人の失恋した女の子の心情が余すことなく書いてある。それはもう霞詩子節といわれるほどに。沙由佳の心情が凄く伝わってくるのだもの」


 ――そこがあなたの魅せるところ。

  無意識でやってのけるところが、あなたを作家たらしめる才能でもある。

  でも、編集者の私が作家を信じないでどうする……。


「けれど、この結末に霞先生が納得していないなら、私はGOサインを出せない」

「…………」

 町田は詩羽の気持ちを察するような事は言わない。

 辛かったでしょう、悲しかったでしょう、そんな慰めを言葉は、今必要としない。

 それでも、真剣さは損なわずさとすように、ただ思いのままに、何もかも失ってしまったような女の子を放っては置けなかった。

 だって、今まで一緒に血反吐を吐きながら、作品作りをしてきたのだから。

「あなたがこんなところで挫けるような作家ではないことは理解しているつもり」

 だから、こんなにも素晴らしい作品が生まれるんだと、町田は染み染みと思う。


「私はね、あなたの側で直向きな努力を見てきた。

 土壇場でも諦めない熱意を見てきた。

 感動を伝えようとする一生懸命さを見てきた」


 ――そして、一途な女の子を見てきた。


「私が訊いているのは、直人と沙由佳が結ばれないことに対してじゃない。詩ちゃんとTAKI君がもう元には戻れなくなるけど、いいのね? TAKI君の手の届かない存在になってしまうけど、本当にそれでもいいのね?」

 本当の恋を知らなかった女の子が、大嫌いなコンプレックスの塊を認めてくれる男の子と出会って、何の変哲もない恋をした。

 倫也がここまで詩羽に影響を及ぼすとは思ってもいなかったわけじゃない。

 ただ、初稿を読まなかったことが、ここまで変わってしまうとは思ってもいなかったから。

「それとね、この前言いそびれてしまったんだけど、今回の恋メト限りで私はあなたの担当を外れることになったから。恋メトの業績もあり、副編集長に昇進。私はもうあなたの無茶を直接聞いてあげられなくなる。あなたと一緒に作品が作れなくなる。あなたの気持ちを有耶無耶なまま〝恋メト〟を終わらせたくないの」

 こんな最後にはしたくない。こんな終わり方を迎えたくないと、町田はまだまだ始まったばかりの詩羽の作家人生を思案する。

「幸せにならなかったからって、沙由佳を幸せにすることだってできる。それが作家にしかできない創作という夢物語のはずよ」

 だから、町田さんは詩羽にひとつの選択肢かのうせいを与える。

「……一から書きなおして、今から沙由佳が幸せになる物語をまた書いてもいい。書き直すというのなら、私は意地でも締切を伸ばす。編集長に掛け合う。あなたの納得の行く物語にするまでとことん付き合う」

 それでも、詩羽は書き直す気力も幸せになる希望も何もかも見失っている。

 だから、何もできない。何もしない。

 だって、その選択肢は、詩羽にとって何かが違っていたから。

「私にはもう沙由佳が幸せになるイメージが思いつきません……」


 ――一から書き直すってことできるのかな、私……。

  沙由佳は、きっとそんなこと、許さない。

  二人の仲を切り裂こうなんて、もうできない。

  だって、もう知ってしまったから。

  大好きな二人が幸せになるのを夢見てしまったから。


 『私の分身が不幸せになってもいい』


 ――私では倫也君を輝かせられない。

  だって、私自身ではなく、私によって生み出された作品が……

  倫也君を輝かしているのだと、わかってしまったから。


 結局、何の為に、誰の為に、物語を書いているのか一目瞭然だった。

「霞先生…………それでもあなたが、この物語の結末を決めなさい」

「…………」

「他の誰でもなく、私でもなく、ましてやTAKI君でもなく、あなたが決めるの」

 町田は何を今更血迷ったこと言っているんだろう、と詩羽は目の前の原稿を眺めた。

 だから、そっと口を開く。

「…………結末に関しては、問題ありません」

「じゃあ、一体何に不満があるっていうの?」

「…………わかりません。それでも私は納得いっているかすら、自分でもわかりません」

「だったら――」

「けれど、沙由佳ヽヽヽが納得してしまったんです」

 か細い声でも、強くその想いを言葉にする。

 もう理由なんかいらない。


「…………なら最後に、改めてもう一度訊くけど、本当にこれでいいのね?」


 ――これが、あの人に捧げる私の物語へんじだから。


「はい……」


 ――そう、これは神様のきまぐれ。

  沙由佳わたしの想いを宝石箱にしまって……。


       ※ ※ ※


 その後しばらくして、『恋するメトロノーム』最終巻は、主人公の直人と〝メイン〟ヒロインだった沙由佳とのハッピーエンドではなく、二巻から登場した真唯との胸が締め付けられる切ない恋物語で幕を閉じた。

 そんな意外な結末と、人気を博したキャラクターとの、絶妙なバランスが作品の評価に拍車をかけ、賛否両論の結末は議論になった。


 『まさか真唯と結ばれるとは思わなかった』

 『沙由佳も幸せにしてください。お願いします』

 『霞先生、沙由佳ルートはよ』

 あの結末に誰もが驚いていた。だからといって、それが全てではない。

 『直人と真唯がお似合い』

 『真唯が幸せになってよかった』

 『真唯可愛い』


 詩羽にとって、そんなところを見てほしいわけではなかった。

 作者が読者にどんな感想を言われようが気にすら止めなかった。

 あの人の感想をドキドキしながら、手に汗握りながら、開けてはならない扉を開けるような感覚で、毎日ように訪れたサイトはいつまでたっても更新されないままだった。

 どんな感想をくれるのだろう。

 そればかり考えながら悶々とした日々を過ごしていた。

 それは、〝沙由佳が良かった〟という感想なのだろうか。

 そんなのいまさら言われても遅い……。

 結局、数ヶ月経っても更新なんてされるはずもなかった……。


 担当者が町田から変更になって、なおさら何一つやる気なんて起こらなかった。

 詩羽をその気になんてさせてはくれなかったから。

 毒を吐いて追い返すだけ。

 そして、すぐに担当者が変わる。


 町田から次回作についてのジャンルは、いままでと趣向が違った〝学園ハーレム〟ものと聞かされた。


 一人の男の子を巡って、複数の女の子が可愛く嫉妬しながら展開されるラブコメディ。

 古くから愛され、安定的で根強い人気の高いジャンルとなっている。

 けれど、詩羽は今そんな気分ですらなかった。


 何もかもが灰色になっていった。


 それでも時間だけは、あっという間に過ぎていき……

 そして、春を迎えた。


 季節が変わった。

 雪が溶けて、桜も散り、ほんのりと身も心も暖かく感じさせてくれる季節になっていった。


 ファンタスティック文庫編集部第二会議室。

「インタビューアーが変更ですか?」

 町田から呼び出しをくらい、渋々応じた詩羽は、現状を把握するのに少しだけ時間が掛かっていた。

「そうよ。って、誰のせいよ、誰の!」

「すぐ音を上げて逃げ出す編集者って、どうかと思うのだけれど」

「こっちは、その原因が|目の前にいる原稿が全く上がってこない作家様かすみうたこせんせいであることに自覚を持ってほしいわね……」

「本気で創作に臨まない編集者なんて、こっちから願い下げよ」

「皆が皆、私みたいな編集者じゃないのよ、詩ちゃん。このままだと次回作の企画が全く進まないの。作家である前に仕事であることも、理解して頂戴」

「…………気分が乗らないんだから仕方ないです」

「もうこれ以上引き伸ばせないの。ファンの人達だって、霞先生の新作を心待ちにしているわ」

「…………どうかしらね。あっさり切り捨てられてるのかも」

「ともかく、こっちもそれなりの秘策を用意したわ。もうけっこう時間も経ったしそろそろ頃合いかしらね」

「秘策って……」

「準備は整えたから、後はなるようになることを祈るしかなわね」

「一体何を企んでるんですか……」

「それはね……。私の代役に、TAKI君をお願いしようと思ってるの」

「え?」

「今回は、インタビューアーとしてだけど、今後は詩ちゃんの担当編集をしてもらうよう取り計らうつもり」

「町田さん。ちょっと待ってください-」

「もう待てません。嫌なら、急遽インタビューに差し替えざるを得なくなった昨日締切の読み切りを今直ぐ提出してもらおうかしらね」

「…………っ」

「……まっ、頑張りなさい。乗り越えてみせなさい」

「…………」

「じゃ、TAKI君呼んでくるから、少しの時間待っててね、詩ちゃん。あとは二人仲睦まじくよろしくねぇ~」

 そう言って、町田さんはいそいそと退室してしまった。

 何が何だか詩羽は理解が追いつかず、身動き取れずにいた。


 ――え? え? 倫也君が?

  なんで? どうして? あの二人、いつの間に知り合ったの?

  急に言われて、どんな顔して会えばいいかわからない……。


 一人で待たされる時間は、あの冬の日とは違っていて気温は暖かいけど、心は冷たい風が吹き荒ぶように寒く感じさせる。

 だから、何も行動に移せず仕舞いで、椅子に腰をかけてただじっと待つだけ……。

 今直ぐにでも立ち上がり、ドアを開ければ逃げ出せることだってできるのに、躊躇われてしまう。

 だって、ここで待っていれば、迎えに来てくれるから。

 とはいえ、さすがに数時間経っても、来ないのは待たせすぎなんじゃないだろうか……。

 詩羽はヤキモキしてしまい、もう来ないのなら帰ってしまおうと思い立ってドアノブに手をかけると、ドアガラス越しに一人の男の子が現れた。

 偶然にしては運命的すぎる。

 神様のいたずらにしてはできすぎている……。

 でも、何ヶ月ぶりだろう、こうして間近で顔を合わせるのは……。

 だからって、一枚のガラス越しなのに、緊張感を全く感じさせないのは、学校ですれ違っても赤の他人のように振る舞っていたから。

 倫也にドアをノックされて、一瞬冷やっとする詩羽は、焦燥感のあまり素早く内側から鍵をかけてしまう。


 ――もう入って来ないで。


『え、先輩! なんで鍵が掛けるんですか! 開けて下さいよ! 詩羽先輩!』

 その後、町田さんに解錠させられて、あっさり入られてしまいました。


「本日、霞詩子先生のインタビューアーを務めさせていただきます安芸倫也と申します」

「知ってるから。で、何しにきたの? 振った女に未練でもあったわけ?」

「いや、町田さんから話聞いてるでしょ……」

「前置きはいいからさっさと始めて」

「あっ、はい! では早速……。霞先生、今日はお忙しいところありがとうございます」

「私の何もかもを知り尽くしている男が今更、何を知ろうとするのかしらね。私の方が興味あるわ」

「いきなり誤解を生むような発言やめてよぅ! これでも色んな事情が重なりまして……」

「言い訳なんて聞きたくない。どうせ町田さんにそそのかされたんでしょ」

「うっ……」

「図星のようね」

「もう! インタビュー、始めさせてよ……」

「そもそも私は作品を読んで欲しいのに、私自身に興味を持つ物好きなんて、この世にいるのかしらね」

「少なくとも俺は、興味ありますよ!」

「へ、へぇ~……。た、例えば、具体的にどんなところが気になるのかしら?」

「それはもちろん。『どうやって恋するメトロームが生まれたのか』とか『プロットの段階で真唯が結ばれることが決まっていたのか』とか、そういった完結したからこそ出せるお蔵入りの制作の裏話とか!」

「ふぅん」

「今後の新作を制作する上でのヒントにもなると思うんです。『恋メト』自体も素晴らしいんだけど、俺は生まれた経緯もきっと素晴らしいと……」

「そうね。鼻クソほじりながら片手間に書いていたから、よく覚えてないわね」

「嘘ですよね! 嘘だと言ってください……」

「名誉とか肩書とかお金とか、簡単に手に入りそうだったから」

「生臭いこと言わずに、感動を伝えたいとか感想を貰えると嬉しいとか読者の喜んでくれる顔とか、嘘でもいいから言ってくださいよぅ……」

「綺麗事を言って喜ぶのは、アンチだけよ。それにあなたの個人的な質問が読者の総意だとは、思ってもみないのだけれど」

「うっ……」

「心当たりがあるようね」

「い、いやぁ……でも、ほら、俺、霞先生の一番のファンを自負してるから……」

「自分で一番だなんて言うのも、どうかと思うのだけれど。何の説得力の欠片もないわね。自称の間違いじゃないかしら。あ、それとも私の作品で自◯行為に及んでくれているのだとしたら、それはそれで作家冥利に尽きるわね」

「自分の創ったキャラが、お◯ずにされるのって、喜ばしい事なんですかね!」

好きな人ファンにされるのだったら、いくらでも大歓迎よ。それも自称大ファンりんりくんだったら、なおのこと嬉しいわね。あっ、でも倫理君のくせに、自分のことは棚上げするのね」

「俺がしてるって、一言も言ってないからね!」

「ふふっ……、そういうことなら、私が直々に手伝ってあげても――」

「丁重にお断りします!」


「ところで、倫理君」

「こんなんじゃインタビューにならないじゃないですか……。茶化さないでくださいよ、詩羽先輩」

「ボイスレコーダーの録音ボタン押されてないわよ」

「えっ? あ、あっ~! やってしまった……早く言ってくださいよ……」

「大丈夫よ。あなたの言葉は一言一句、忘れずに覚えているから安心して」

「冗談じゃなくても、十分に安心しないから!」

「まぁ、冗談なんだけどね。そんなことに労力を割くなら、新作のアイデアを考えるわ」

「で、ですよね……」

「あとでデータを貰おうと思っていたのに台無しじゃない」

「それはこっちの台詞なわけで……」

「あら、何にどう使おうが私の勝手でしょ?」

「創作のネタにですよね! そうですよね!」

「そうね、誰かのことを思い浮かべながら、迫られたり破られたりするのも悪く無いわね」

「町田さんのことですよね! 迫ってくるのは締切ですよね!」

「あなたのことを言ってるのよ、倫理君」

「と、ともかく、ほんっとに今から始めるので、もう余計な事言わないでください!」

「大して変わらないと思うけれど」

「では、改めて、コホン。霞先生、今日はお忙しいところありがとうございます」

「…………つまんないインタビューだったら、寝るわよ」

「そうやって脅かさないでよ、詩羽先輩」


 もう一度やり直す。


 もう彼はファンであっても、ファンとは少し違う。

 だって、倫也はファンでありながら編集者として、作家に寄り添う立場になったから。

 そして、創作的な意味でも必要不可欠な原動力となっていく。



 そう、これから始まるは、もう一つの『恋するメトロノーム』。

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