第4話 懊悩するイノセント

 金曜日の午後、昼食のカレー(大盛)を平らげると僕は食堂を出た。

次の講義まで時間はあるが、その前に図書室に借りた本を返さねばなるまい。

食堂の入り口は狭くて、身体が大きな僕には少し通り辛い。

隣を歩いていく女子のグループ。

身体が大きいため見られることには慣れているが、少し気にはなる。

汗臭いとか思われてないかな。

僕はリュックの掛紐かけひもを握りしめて図書室へと向かった。

その時だった。

「あの、すいません」

僕は身体を翻して、その声の方向へ向き直る。

「志藤さん、ですよね」

男子生徒だった。

ワックスでまとめられた髪は天に伸びて、スキニーのジーンズで決めている。

男性としては少し細身な体型だった。

あくまで僕と比べれば、の話だが。

「そうだけど……君は」

どこかで見たことがある顔だと思った。

しかし、どこで見たのかが思い浮かばない。

「村瀬紗綾の友人っす」

その言葉でやっと僕は彼のことを思い出した。

この前、村瀬さんが体調悪そうにしていた時に来た二人組の男女の男の方だ。

遠目から見て村瀬さんと楽しそうに喋っていたから、友人だとは思っていたが。

同じ学校だったのか。

「あぁ……この前喫茶店に来ていた子だね。しかし、どうしたんだい?」

「志藤……先輩は、村瀬のことどう思ってるんすか」

「どう、と言われても……」

もしかして、この子は村瀬さんのボーイフレンドなんだろうか。

それで僕を恋敵だと思って鎌をかけているのかな。

でも正直、こんな格好いい男子と僕では勝負にもならないと思うんだけど。

「えっと……君は」

「御堂琢磨です」

「あぁ。琢磨くんは、村瀬さんとはどういう関係なのかな……」

彼氏なのか、とは訊けずに遠回しに尋ねる。

村瀬さんも可愛らしいし、そりゃ彼氏くらいはいるか。

「ただの幼馴染っすよ。先輩こそ、どういう関係なんすか?」

「どうって、ただのバイト仲間だよ」

「それだけ?」

「それだけって、そうだよ」

それ以上の言葉は浮かんでこなかった。

とはいえ、週末には食事に行く予定を控えているんだったな。

食事に行く関係っていうのは、ただのバイト仲間と言えるのだろうか。

「先輩は村瀬のこと、どう思ってるんすか」

「どうって……そりゃ」

気立ての良い子だと思う。

何かと僕を気にかけてくれるし、優しくしてくれる。

凄く良い子だと思うけど、あまりこちらが意識し過ぎてもいけないのかとは思う。

優しい子というのは、しかして誰にでも優しいものだから。

変に深く考えてはいけないんだと自分に言い聞かせている。

「優しいし、良い子なんじゃないかな」

「ふぅん」

琢磨は実に興味がなさそうな声をあげた。

「そう……」

少し残念そうに言葉を濁す琢磨。

「えっと、琢磨くんは何を訊きたいのかな。僕に」

「いや、志藤先輩が村瀬のことどう思ってるのか知りたかっただけなんで、大丈夫っす」

「そう、なの?」

よく分からないけど、大丈夫なら大丈夫なんだろう。

「じゃあ、俺はこれで失礼します。時間取らせてすいませんっした」

「いや、いいよ。気にしないで」

琢磨はそれだけ言い残すと、小走りで校舎の外へと駆けだして行った。

変な子だな、と少し思いながら。

僕は、村瀬さんのことを考えてしまっていた。




決戦の日がやって来た。

土曜日、腕に巻かれた細い時計は午後六時を指している。

本当は午後七時に待ち合わせなので、これほど早く来る必要などないのだが、それでも気持ちが身体よりも先に走って、気付けば私は品川のスイミングスクールにいた。

二階建ての建物に、大きなペンギンとアザラシの絵が描かれている。

建物自体は結構古そうで、元々白かったであろうアザラシの絵は褪色たいしょくしている。

入り口は二階で、そこから一階のプールを見下ろすような設計になっている。

私が入ると、そこには四十代くらいのお母さんたちが大勢ガラスに張り付いていた。

迎えに来るついでに、我が子の泳ぎを見に来ているのだろう。

そんな中で、勝負服で決めてきている私は場違いも甚だしかった。

私も親御衆に倣ってガラスに張り付く。

眼下には大きな二十五メートルのプールがあり、子供たちが一心に泳いでいた。

温度差で少し曇ったガラス越しに、志藤の影を探す。

「あ……」

すぐに見つけることが出来た。

講師は何人かいるのだが、その中でも一際大きくて目立つ講師が一人。

ゴーグルと帽子を着用しているため造作までは確認できないが、間違いないだろう。

小学生くらいの子供と隣り合わせると、冗談抜きで二人分くらい大きい。

正しく人間と熊との比較のように。

可愛いな。

私は目に焼き付けるようにして、その肢体をまじまじと見ていた。

これを逃したら一生見れないかもしれないし。

腕や足は着衣時からも分かるように丸太のように太く、胴も負けじと厚みがある。

しかしだらしがないといった風体ではなく、筋肉の上に十分に脂肪が乗った体型だ。

他の女性が見たらデブだなんだといやしい言い方をするかもしれない。

しかし私から見れば、その体系は男性的魅力と柔和な人柄がミックスされた可愛らしくもたくましい、恵まれた体格だと思う。

正直、水着姿を見たら父のことをフラッシュバックしてしまうかとも危惧していたが、そんなことは微塵も無かった。

むしろより好きになった。

ちょっと可愛すぎる。

周囲のお母様方の目が無ければ写真撮影をしていたところだった。


 どうやら階下のプールは自由時間になったようで、志藤さんと小学生が手で模した水鉄砲で遊んでいた。

羨ましいなぁ。

私もあの小学生になりたい。

そう思っていると、今度は志藤に後ろからふざけて抱き着く男児の姿。

あの小学生にもなりたいな。

そう無邪気な姿を邪気の籠った瞳で見つめる私。

これが大人になるということなのか。

すると建物内に大きなチャイムの音が響き渡った。

時間設定は知らないが、恐らく終了を教える鐘の音なのだろう。

そのチャイムに押されるように、プールを上がる小学生たち。

横一列に並んで、ありがとうございました、と一礼する。

すると一斉にシャワールームへと吸い込まれていき、志藤も講師用の更衣室へ姿を消した。


 時刻は七時五分。

エントランスは既に先程まで泳いでいた小学生たちで溢れており、濡れた髪を振り乱している。

親子の姿を尻目に、私は置かれたベンチの上で志藤を待っていた。

もしかして約束のこと、忘れていたりして。

そんなことを思いながら膝に置いた手を握りしめる。

「ごめんごめん、少し遅くなっちゃって」

志藤は俯く私に大きな足音で駆け寄ると、濡れた短髪の頭を掻いた。

首元にバスタオルを巻いて、リュックサックを背負っている。

「志藤さん」

「もしかして、結構待ってくれてたのかな。ごめんね」

「いや、大丈夫です、私も今来たばかりなので」

そんな常套句を口にしながら、私は顔の前で手を振る。

「そっか……」

「髪、拭かなくて大丈夫ですか? 風邪ひいちゃいますよ」

「え? あ、あぁ……急いで来たから」

仕事の後で疲れているだろうに、そんな急いで来てくれたんだ。

少し胸の中がじんと熱くなった。

「拭いてください。風邪でもひいたら、詩織さんに怒られますよ」

そうだね、と志藤は巻いていたタオルで髪を拭くと、私の横に座った。

二人掛けのベンチだが、志藤の体積を鑑みると少し窮屈で。

でもその窮屈さが、どうしようもなくたまらなかった。

あの志藤が横に座っているという事実が、私の顔を綻ばせた。

「あー! ぽん太先生彼女といるー!」

「え、本当だ! ぽん太先生の彼女!」

二人で座っている私達を見て、何人かの小学生が無造作な言葉をかけた。

そしてバタバタと寄って来る小学生達。

「ねぇねぇ、お姉さんぽん太先生の彼女なの?」

「デートとかしたことあるの??」

恐らくぽん太先生、は志藤のことを指しているのだろう。

可愛らしい語感だなぁ、と感心していると志藤が少し困った顔をした。

困った、というより顔を赤らめている。

「こら、女性に向かってデートだとか付き合ってるだとか、そういうのを明け透けに言うのはだなぁ……」

「良いですよ、志藤さん。気にしないで」

「でも……その」

本気で照れている志藤さん、可愛いなぁ。

「ぽん太先生の顔赤いー」

「こら、先生になんて口利いてるの。帰るわよ」

騒いでいた小学生たちは、その親御衆に諫められて半ば強制的に退散していった。

エントランスに私と志藤さんの二人だけになった後も、志藤は顔を紅潮させていた。

「ごめんね……恥ずかしいところをお見せして」

「いやぁ。可愛らしいじゃないですか、小学生」

「そうなんだが……まぁ、そうだね……」

「でもさっき、彼女じゃないってはっきり言っても良かったのに」

そうすれば流石の小学生も諦めそうなものだが。

「それは……」

「それは?」

「……ご飯、食べに行こうか。お腹空いちゃったよ、僕」

「ふぇ、あ、そうですね」

はぐらかされた気もするが、まぁ良いか。

志藤は髪を拭いていたタオルをビニール袋に入れてリュックに詰めると、立ち上がった。

私はいそいそと歩く志藤の大きな背に付いていくようにして、建物を出て行くことにした。




 品川駅近くにある洋食屋で、私達は夕食を食べることにした。

「ここって、よく行くお店なんですか?」

「高校生の時にね、スイミングの先生が良く連れて来てくれたんだよ。最近はあまり来ないけれど……」

「へぇ……」

店内はログハウスのような内装が施され、高い天井にはシャンデリアがぶら下がっている。

よく分からないお洒落な洋楽が流れて、謎のプロペラが頭上で回転している。

格調高く見えるけれど、店内は親子連れや老夫婦で賑わっていた。

案外庶民的なお店なのかもしれない。

私と志藤さんは一番奥の向かい合う二人席に通された。

机と椅子も木目調で、少し志藤の巨体には不釣り合いだった。

「ふぅ……」

「お疲れ様です、すいません。仕事の後に……」

「良いよ。どうせ家に帰って一人で食べるつもりだったんだし」

志藤は人懐っこい笑みをこちらに向ける。

ふぅ、ともう一息吐いて手を扇子のように振る。

「ここって何が美味しいんですか?」

「なんでも美味しいよ。でもまぁ、オススメはハヤシライスかなぁ」

グランドメニューの見出しを指差して志藤が語る。

丁度水を運んできたウェイターに、私は早々にハヤシライスを頼むことにした。

「え、もう頼むの? ……ええっと」

志藤が急いでメニューをめくる。

「じゃ、じゃあ僕はこの今日のオススメプレートっていうやつを一つ」

「サラダのドレッシングはどちらになさいますか?」

「あぁ……青じそドレッシングで」

「かしこまりました。それではハヤシライスが一点、今日のオススメプレートが一点、プレートのドレッシングは青じそでよろしいでしょうか」

志藤と私は大丈夫です、と同時に言ってウェイターの方を見る。

少し微笑むと、ウェイターの女性は厨房の方へと歩いて行った。

「ごめんなさい、注文を急がせるつもりはなかったんですけど……」

「僕もお腹空いていたから、気にしないで」

「……あの、一つ訊いても良いですか?」

「なんだい?」

運ばれてきた水を口に含むと、私は口を開いた。

「ぽん太先生のぽん太って、やっぱりあのぽん太ですか?」

本当は先程の話題を蒸し返したかったが、執拗しつこい女と思われるのは勘弁だ。

少し違うベクトルから話を進めてみるか。

「あ、あぁ……聞こえてたんだ。まぁ、そうだよね……聞こえてるか」

志藤が真似をするように水を飲んで、こちらに微笑む。

「去年からあそこで働いてるんだけど、あの子達がしきりに僕のことをぽん太先生って呼ぶから、それであの子達にぽん太ってなんなの? って訊いたら、日曜日にやってるアニメだって聞いて……。最初は興味本位で見てたんだけど、なんかハマっちゃってさぁ。こんな大の男が恥ずかしい話だけど、毎週早起きして見てるんだよ」

というとやはりぽん太先生のぽん太は、あのぽん太なのか。

最初に渾名あだなを付けた小学生、センスあるな。

「全然恥ずかしくないですよ。私もぽん太好きで、毎週録画してますし」

「え、そうなの?」

「そうですよ」

本当に毎週録画してます。

「そうなんだ……いや、実は弟が好きっていうのは嘘でね……ちょっと、恥ずかしかったから。でも村瀬さんも好きなのかぁ……可愛いよね、ぽん太。でも僕はプリンセス・ポンポコの方が好きなんだよ。可愛くないかい?」

プリンセス・ポンポコは狸王国の女王でぽん太の許嫁いいなずけの女の子である。

「ポンポコ可愛いですよね、純粋っていうか……」

プリンセスはいつもぽん太とコン太の下らない競争を傍目で見ている女の子。

時にぽん太を気遣い、諫め、看病する純粋で無垢な女の子。

よこしまな気持ちで志藤さんに近付いている自分とは全然違う女の子。

「そうそう。多分だけどコン太もプリンセスのことが好きなんじゃないかなぁ。だから下らないことでぽん太に言いがかりをつけて競争してるんじゃないかなって」

へぇ、そういう解釈もあるのか。

何にせよ、大好きなぽん太のことを大好きな志藤さんと語れる日が来るなんて。

なんて幸せなんだろう。

運ばれてきたハヤシライスとプレートには目もくれずに、私は志藤さんを見ていた。

「じゃあ、食べようか」

「そうですね。いただきます」

両手を合わせてスプーンをハヤシライスに差し込む。

一匙掬ひとさじすくって口の中にハヤシライスを運ぶ。

トマトの酸味と甘みが醸成されたデミグラスソースが白飯に絡んで口に広がる。

特別な言葉は浮かばなかったけれど、美味しかった。

「村瀬さんは……兄弟とかいないの?」

「私は一人っ子ですよ。あ、弟さんが居るっていうのも嘘だったんですか?」

「ううん、弟はいるよ。前も言ったみたいに小生意気な子さ。あまり家には帰らないけど」

「家出ですか?」

「いや、女の子のところに外泊ばっかしてるんだよ。なんというか、軽いんだよね。女の子に対して。それを抜けば面白い奴だと思うんだけど……」

「へぇ……」

「ところでさ、村瀬さん」

志藤がプレートの上のハンバーグを頬張る。

かけられたデミグラスソースが皿の上を覆い尽くす。

「村瀬さんって、彼氏とかいるのかい?」

他意は無いんだけど、とすぐに続けて志藤が気まずそうに下を向く。

私は思わず時が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。

周りの音が耳に入ってこなくなるような。

口に含んだハヤシライスの味が消え失せるような。

「なぜに、そんなことを」

訊くのだろうか。

それがまず分からなかった。

そもそも、そんなチェックを志藤がする意味合いがあるのだろうか。

思わず深読みしてしまいそうになる思考を強制的にシャットダウンする。

「いや、実はね。村瀬さんの友達の御堂くん、いるだろう」

「え? あ、あぁ」

琢磨のことをなぜ志藤さんが知っているのだろう。

この前視察と称して二人が喫茶店にやって来た時に知り合ったのだろうか。

「その御堂くん、実は僕と同じ大学みたいで……」

この前僕も知ったんだけど、と付け加える。

「え、琢磨が?」

目を見開く。

客観的に見て、結構不細工な顔をしていると思う。

そう言えば私は志藤さんが通っている大学も知らないのか。

「そう。それで一昨日、僕に声をかけてくれてね。『志藤先輩は村瀬のことをどう思ってるんですか』みたいなことを訊かれたもんだから、てっきり村瀬さんのボーイフレンドなのかと思って……」

志藤が口を紙布巾で拭く。

分かった、琢磨が余計な詮索をかけたのか。

やはり空気が読めないな、あやつは。

麻紀の言う通り悪気はないんだろうけど。

「あ、ごめん。なんかデリカシーが無いこと言ってるね、僕……。気を悪くしたなら……」

「いいえ、全然。琢磨は幼馴染なんです、ただの……。というか、アイツ彼女いますし」

誤解を解こうと思わず早口になる。

「え、そうなのかい?」

「そうですよ、琢磨なんて全然男として見たことありませんから、本当に」

本音なのだが、あまり言い過ぎると嘘に聞こえるか。

「なんだ、安心した」

志藤がカレーライスを食べながら微笑む。

安心って、どういうことです?

「安心?」

考えるより先に口が出ていた。

「え、あ、いや……。その、なんでもないよ。ハヤシライス冷めちゃうよ」

志藤が落ち着きを失ってまくしたてる。

「あぁ、はい……」

私はそれ以上は詮索できずに、言われるがままにハヤシライスを口へ運んだ。

志藤の目はわざと避けるように明後日の方を向いている。

頬に熱が溜まっているのか紅潮しつつある、

私、少しは期待しても良いのだろうか。

それとも慣れない話題が照れ臭いだけなのだろうか。

なんにせよ、神様のおぼしに感謝します。

だって、こんな可愛い志藤さんの姿をこの目に収められたんだから。

私は口の中から広がる多幸感と充足感で、思わず口角を緩めた。


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ユートピアのマシュマロ まっちゃ大福 @daifuku9923

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