第17話ACT17「対抗者たち」
海賊一味を秘密基地に連れて来たせいだろう。ウェンディは目を見開いたし、その上短剣を突き出して脅した。
「あんたたちなんて私だけでも!」
「ウェンディ。違う、もう彼らは敵ではない」
「嘘! 海賊は敵だって、ピーターが言っていたもの!」
「ウェンディ嬢。今だけでも、共闘関係を結ぼうではないか」
歩み出たのはフック船長本人だ。ウェンディもフック船長が矢面に出るとは思っていなかったのかうろたえた。
「……何で、フック船長が。ピーター! どういうこと?」
ナインは、「ピーターではないが」と前置きしてから答える。
「この物語は間もなく忘却の淵に落ちるか、あるいはそれよりももっと悪い結末に転がる。それを回避するために同盟を結ぶのが適切だと感じた」
「同盟って……」
ウェンディが声を詰まらせる。そこには陸地に上がってきた人魚もいたからだ。彼女たちは魔法で今は人間の足が生えている。しかし完全に騙せないのか足に鱗があった。
「どういうことなの……。ピーターは何をしたの?」
ナインは一つずつ説明するほかないだろうと感じた。
ウェンディには理解できないはずだ。と半分は思いながらも物語世界を練り歩いてきたのならばある程度の理解はあるかもしれないと期待する自分もいた。ウェンディに説明したのは大きく二つ。
自分は剪定者と呼ばれる物語の殺し屋であり、ピーターパンではない。もう一つは物語の殺し屋が追っている標的がこの物語を忘却よりもなお悪い方向に進ませようとしているかもしれないということ。
「テラー、って言ったわよね?」
秘密基地の最下層の部屋でウェンディは聞き返す。ナインはテラーのことも教えてしまうのが一番だと感じていた。
「物語は通常、終わらなくってはならない。そしてまた新生し、始まりの時を迎える。だがこの物語は終わりもしなければ始まりもしていない。そのような中途半端な物語にテラーの介入を許せば、俺は致命的な間違いを犯すことになる」
テラーの正体は分からない。どうして剪定者と同じような戦闘能力を有しているのか。そもそも実体は何なのか。人造天使への接続権限はどうしてだか切れており、ナインは自分で判断するしかない。
「その過程で、この世界の戦闘できる人間を呼び集めた、というわけ?」
『ナインだってやりたくってやっているわけじゃない』
ベルが自分の言葉の代弁をしてくれた。本来ならば物語世界を歪める結果、つまり可能性の枝葉の出現に手を貸していることになるこの行為だが、今は一人でテラーに立ち向かうよりもこの忘却の世界で一人でも多くの援軍が欲しかった。
「それは分かっているわ、ティンク。だってピーターは残酷なところもあるけれど結局は優しいんだもの」
『だからピーターじゃ……』
ベルの抗弁にナインは手を掲げて制した。言い合いをしても時間の無駄だ。
「テラーは危険だ。だから俺が倒さなければならない」
いや、そもそも相対できるほどの実力なのか、と自身に問いかける。テラーはまだ余裕があるように見えた。
それに比して自分はテラーと闘うだけでも精一杯だった。時間震と他にも能力を隠し持っている気配がある。
「ねぇ、ピーター。本当に、大丈夫なのかしら?」
ピーターではない、といちいち否定するのも面倒でナインは聞き返す。
「何がだ」
「本当に、この世界の住人が太刀打ちできる相手なのかしら?」
ナインは端から戦力は当てにしていなかった。相手は時間震と形状記憶の能力は持っているのだ。
「だがかく乱にはなろう」
自分が背後から回って一撃。それで事が済めばどれだけいいだろうか。だがテラーは、今日相対したあの底知れぬ存在はその程度では屈しないように感じられた。
「テラーは何が目的なの? どうせ、ピーターのいない世界なんて滅びてしまうんでしょう?」
ナインが疑問に感じたのはその声音がどこか弾んでいることだった。ウェンディはこの物語の消滅を悲しまないのだろうか。ハーメルンの笛吹き男のように。あるいは桃太郎のように、物語の消滅を危惧だと思わないのだろうか。
「どうして、お前は笑っている?」
だからか、尋ねてしまった。ウェンディの顔に張り付いている笑みの謎を。ウェンディはそれこそ無意識だったのだろう。口元に手をやってから、はたと気づいたようだった。
「私、何で笑って……」
「無意識下か。それとも物語世界を渡る間に麻痺したのか、お前にはこの物語に頓着する意味もないのだろう」
ナインの結論にウェンディは言い返す。
「そんなこと! だってこの世界はピーターの世界よ? だから私が守らなくっちゃいけないの! 子供たちだって」
今もブロックノイズの浮かぶ亡者たちをウェンディは愛おしいそうに撫でる。だがナインにはその行動もどこか虚飾めいて見えた。
「フェアリートリップを撒いて、被害が出るとは全く考えていなかった。それは嘘だな?」
確信めいたナインの声音にウェンディが表情を強張らせる。ナインは畳み掛けた。
「被害が出ると知っていて、やっていたな? それとも、他の物語世界の人間などお前からしてみれば道具なのか」
「そんなことない! 私だって物語世界の人間だってことくらい分かるわ!」
「ならば何故やった? フェアリートリップが唯一ピーターパンの手がかりであったならばそれを剪定者に早期に差し出すべきだった」
「……剪定者なんて私は信じていない」
子供騙しの世界に生きる人間の言葉とは思えなかった。ナインは、「目の前にしても、か」と問い質していた。
「当然。だってあなたはピーターだし、この子はティンクよ」
『だからそういうんじゃないんだって。どうして分からないかな。ティンクだとかピーターだとか、夢見てる場合じゃないってことが……』
「いいじゃない! 夢くらい見たって!」
遮って放たれた言葉の気迫にベルがおずおずと引き下がる。ナインはウェンディの顔が苦痛に歪んでいるのを目にした。
「夢くらい、見たって……」
「夢、か。ネバーランドは願いの国だと聞いた」
「そうよ。願いと夢でできた世界」
「だが、それも虚飾だ。テラーという力の前には無力だし、さらに言えば、もっと無力なのは忘却に対してだ。忘れられればどのような物語も無意味となる」
「物語に無意味も何もないでしょう? だって心を豊かにしてくれる」
「そう思える奴らばかりではないということだ」
それならば忘却対象も封印措置も必要ない。それどころか剪定者さえも必要ないだろう。忘れ去られる物語の片隅で、今も可能性の枝葉を伸ばす物語がある。剪定者はそれらを摘み取り、適正な形に直す。それが仕事であり使命なのだ。
「どうして、そこまで悲観的になってしまったの? ピーター。まるで……」
ウェンディが言葉を濁す。ナインは促した。
「まるで、何だ? 言ってみろ」
ウェンディは少しの逡巡の後に口にした。
「まるで、大人になってしまったみたいに」
その言葉にナインは無機質に応じた。
「そうだな。大人になるということは物語に悲観を持ち込むことなのだろう」
フック船長はレイピアを研いでいた。鉤爪は付け替えが可能らしい。いくつかのアタッチメントがあり、その中には何と砲弾さえもある。
「左手は武器庫か?」
ナインの茶化しにフック船長は、「ピーターを倒すために我輩は日夜研究を重ねてきた」と応じる。
「だが、そのピーターはもう、いないようだな」
ここにも大人になってしまった人間が一人。ナインはフック船長に問いかけた。
「ピーターの存在は、お前を豊かにしたのか?」
物語の登場人物、それも悪役に自分を豊かにしてくれる存在だったのかなど聞いていいのだろうか。だがフック船長は迷いなく答える。
「そうさ。ピーターがいるとね、我輩は何倍にも何十倍にも強くなれた。悪として、悪徳を重ねる存在として、どこまでも狡猾に、どこまでも計算高くなれたんだ」
だが、とフック船長は肩を落とす。
「ピーターがいなくなったあの日、我輩はようやく宿願を果たしたと感じたと同時にとてつもない虚しさを感じた。胸に穴が空いて、そこから何かが漏れ出したような感覚だよ。何日も飲まず食わずで、そのうち海賊仲間で流行っていたバカ騒ぎもしなくなった。下っ端連中は今でもたまに子供をさらおうとする。だが、もうそれが実体のない亡者なのだと、我輩は教えていないのだ」
知っていて教えていないのか。ナインは目線で問う。
「知っていて、さ。何でって、下っ端たちからも、存在理由を奪いたくないんだよ。我輩だけで充分なのだ。この虚無感は」
ナインはフック船長が思いのほか人間味のある悪役だと感じた。鬼や笛吹き男を殺そうとした住民たちとは違う。彼の目にはまだ燃え尽きようとして燃え尽きない野心があった。だがそれがピーターを倒す、という一事にのみ傾けられているのが惜しいともナインは感じる。
「特権、というものがある」
どうしてだかナインは口を滑らせていた。ベルが制するように飛び出す。
『ナイン、それは……』
「物語の登場人物が他の物語の主人公になるように亡命することだ。忘却から逃れることができるし、ともすれば主人公になれる。そうなれば新たな物語が誕生するため我々の中では最終手段だと捉えている一派もいるが」
「何で、それを我輩に話す?」
ナインは、「何でだろうな」と自嘲する。
「だが多分、お前には諦めて欲しくないんだろう。宿敵を逃した悪役の末路など、見たくないものだ」
ナインの言葉にフック船長は弱々しく笑んだ後、「断るよ」と言った。
「何で? 断る理由がない」
「我輩は海賊フック船長なのだ。ピーターパンの宿敵であり、彼を追い詰めるためならば何の迷いもなく悪徳を犯す。だから彼のいない、ただの海賊など、ただのフック船長など、何の価値もない。そんな物語はいらないよ」
「たとえ忘却の彼方に追いやられようともか?」
忘れられれば、そこには死さえもない。ただの現象として消え行くだけだ。フック船長はしかし左手の鉤爪をさすって呟く。
「忘れられてもいいんだ。フック船長として生きていたい。我輩は、他の何者かに成り代わるのではなく、ピーターの宿敵であり続けたいのだ」
変わり者だ、とナインは結んだ。
「変わり者かね?」
「ああ。特権を剪定者からちらつかせられて断るような奴はいない」
「そう、か」
『そうだよ。ナイン、今のはネットワークが復活したら人造天使様に報告するよ』
ベルの声音にナインは、「そこまで厳しくなるな」と返す。
『厳しくもなる。ナインは、この大人に甘過ぎ』
舌鋒鋭いベルの口調にフック船長は失笑した。
「手厳しい。だが、この感じ、前にもあった。とても小さな、リトルレディがいてね。彼女は金色の粉を撒き散らしながら飛ぶんだ。その粉は黄金にも変えがたいものだった。なにせ、人を飛ばせられる」
フック船長は思い出したのか手をひらひらと振った。ナインは冷徹に声にする。
「フェアリートリップの作用だ」
「だろうな。あれは合法麻薬だ。我輩とて分かっている。本当に飛べるのは子供だけだ」
フック船長はレイピアの手入れに戻る。ナインは一つだけ尋ねていた。
「前にも、というのはティンカーベルか?」
「ウェンディから聞いたか。そうだとも。貴殿とその小さな妖精との関係は、まさしくティンカーベルとピーターパンだ」
「だが俺は」
「分かっている。だからこそ、一つだけ」
フック船長は立ち上がり、レイピアを掲げる。
「何だ?」
「真剣勝負を」
その眼差しは伊達や酔狂を言っている風ではなかった。
「もうやったが」
「あれは、我輩が正気ではなかった。今度は正気で戦いたい」
「俺はピーターではない。何度やっても、それは同じだ」
「分かっているさ。だがね、思い出したいんだよ」
フック船長の申し出をナインは受けた。右手の手袋を取って、「悪いが」と口にする。
「手加減は苦手だ」
「構わない。我輩もだ!」
宣誓のない突きがナインを見舞う。悪役の面目躍如と言ったところか、フック船長の太刀筋に迷いはない。ナインの動きを見極めようと一手ずつ詰めているのが分かる。だがナインとてそれを許すようならば剪定者ではない。ナインは右手を開いた形で突き出し指と指の間にレイピアの刀身を挟んだ。
身を翻し影の移動方法は使わずに宙返りする。フック船長の真上を跳躍したナインは振り返り様に手を薙いだ。その一撃とフック船長がレイピアの切っ先を突き出したのは同時だった。ナインの手刀はいつでもフック船長の首筋を掻っ切れる。フック船長のレイピアはいつでもナインの右目を射抜けた。
「ここまでだな」
フック船長はレイピアを仕舞う。ナインも手袋をつけた。
「真剣勝負なのでは?」
「これ以上やればどちらかが死ぬ。いや、我輩だな。退き際は潔いほうがいい」
フック船長は手拭いで額の汗を拭いていた。ナインは汗を掻くこともない。今まで汗を掻くほど焦ったのはテラーを前にした時だけだ。それ以外では汗など掻かない。
「しかし、今の動き。ますます我輩は惜しいと感じた」
「何がだ」
「貴殿が、ピーターではないことに」
そんなにも似ていたのだろうか。どうして自分は影の移動方法を使ってかく乱しなかったのだろう。その答えだけは出なかった。
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