第14話ACT14「亡命者」
影が伸びて気泡の場所へと一瞬にして到達する。気泡の相手はその気配の分散に気取られたようだ。
「今だ」
ナインは跳躍する。中空に躍り出た気配と、影の気配を同時に察知して攻撃することなどできまい。必ずどちらかに集中する。
気泡の相手は中空の自分を優先したらしい。海原を叩いて出現したのは触手だった。
『海洋生物?』
「いいや、これは」
ナインは右手の手袋を取り去っていた。こちらへと伸びてきた触手を一本断ち切ると叫びが木霊する。直後、海面に飛び出してきたのは女性だった。長く湿った髪で胸元を隠しており、しなやかな体躯の先には魚の尻尾が付いていた。
『人魚……』
ベルの声にナインは人魚の触手を掴んで引き寄せる。人魚は牙を剥き出しにして吼えた。そこには美しさも品性も欠片もない。
「この人魚、野生か?」
ナインは海面に叩きつけられることはない。既に先ほど伸ばしておいた影が布石であった。影の上にナインは降り立つ。さながら水鳥のように軽やかに。
人魚は海面でばたついている。えら呼吸なのかもしれない。あるいは呼吸法を即座に変えられないのか、窒息寸前であった。
『どうするの?』
「話を聞く必要ぐらいはありそうだが、知性はあるのか?」
『あたしが試すよ』
ベルが人魚へと飛んで近づき、そのこめかみに触れてやった。すると人魚は昏倒した。人造妖精には相手を無条件に眠らせる術式が組み込まれている。ただし超至近距離で、動きを封じた相手にしか通じない。
「眠ったか?」
『これで知性があるかどうかは試せそう』
ベルが小さな触覚を用いて人魚の額へと接続する。人魚のニューロンへと直通回路を開いているのだ。ナインは人魚がまた目を覚ましてばたつかないように触手をしっかり掴んでいた。
『驚いた、この人魚、物語の登場人物だ』
ベルの声にナインは、「では」と視線を振り向ける。眠っている人魚は美女の容貌だった。
「海賊と、ウェンディと、こいつで三つ目か」
『いいや、ナイン。この人魚、群れで棲息しているみたいだ』
その言葉を理解する前にナインは後ろから組み付かれた。突然の膂力に抵抗する間もなく海中に引きずり込まれる。ナインは水の中で相手を見やった。それは複数の人魚だ。先ほどの人魚のような凶暴さはないが女の力ではない。
「こいつ……!」
ナインは右手を振り上げる。その時、人魚は声を発した。
「怖がらないでください」
うっとりするような、歌うような声だった。常人ならば正気を失っているだろう。だが自分は剪定者。ナインは強靭な精神力でそれをいなした。人魚の目を見返し、ただ応ずる。
「怖がるな、という相手の動きではない」
「あなたは剪定者ですね」
人魚の声にナインは掴んでいる失神したほうの人魚を一瞥する。
「仲間の仇返し、というわけでは」
「彼女は先走ったようです。あなたが、珍しくこのネバーランドに馴染んでいない人間だから」
ネバーランド。やはりこの世界の住人なのか。ナインは攻撃の意思は緩めずに相手を見据える。
「この世界ではこうして攻撃に出るのがまず手段としては先なのか?」
「攻撃することが最も望ましい防衛手段でもあるからです」
自衛のため、と言われてしまえばそれまでだ。剪定者に対して自衛手段に出る相手は珍しくない。
「だが攻撃されれば反撃せざるを得ない。この人魚のように、失神するはめになる」
「ですが妖精は海には潜れないでしょう?」
どうやら相手の人魚はこちらに交渉を持ちかけるらしい。それも人造妖精、ひいては人造天使ゼルエルの意思を介さない交渉を。
「何をするつもりだ?」
「剪定者と出会うのは初めてですが、こうして見えたことは僥倖というほかありません」
「質問の答えになっていないぞ。俺は何のつもりだと訊いた」
人魚は泡を吹き出す。するとナインを覆い尽し、巨大な気泡となった。
「これで呼吸は問題ないでしょう」
「基より、剪定者は海底の奥底でも活動できるようになっている」
「ですがこれから話すことは漏れて欲しくないので」
口止めの意味もあるわけか。ナインは海面で自分の帰りを待っているであろうベルへと目線を振り向けた。ベルの、人造妖精の眼は特別製だ。だから自分がどういう状態なのかをモニターするのは容易いはず。だがナインはあくまで追ってくるな、と命じる。ここはネバーランドという場所がどういう規律の上で成り立っているのか知る必要がある。
「どこへ案内する」
「来てくださる気になったのですか」
「行かない理由もあるまい」
ナインは海底に降り立つ。光がほとんど差し込まず影の移動には適さない。だが人魚たちが海底でも光を灯すランタンを持っているため影は存在した。いざとなれば影の移動方法で人魚たちを出し抜けばいい。ナインはそう感じながら海底に棲む人魚の動向を眺める。人魚たちは皆、温厚だ。先ほどの人魚のように牙を剥き出しにしているものはまずいない。
「温厚なのだな」
「言ったでしょう? 彼女は先走っただけだと。我々としても、せっかくの人魚の性。殺してしまうのは嫌なのです」
「テンプテーション、あるいは混乱」
人魚の歌に含まれる幻覚作用だ。ナインが澱みなくそう口にしたことでここまで連れて来た人魚の長らしい赤い髪の人魚は、「そう」と答えた。
「私たち人魚は本来、そうやって旅人をたぶらかし、餌としてきました」
「だがもうこの世界には人間はいない」
「ご存知なのですね」
赤髪の人魚の声にナインは目にした亡者の行進を思い出す。
「全て、亡者になったのか」
「滅びていない種もあります。海賊、という集団」
海賊。そういえばどうやってあの海賊たちは生き永らえているのだろう。物語の登場人物とはいえ、不死でもなければ空腹を感じないわけでもない。
「彼らは呪われているのです」
「呪い?」
「全てはピーターパンが去ったことでこのネバーランドを覆い尽してしまった呪い。いいえ、そもそもネバーランドという場所は永遠の、おとぎ話なのです。だから誰も老いないし誰も死なない。通常では」
亡者の存在がその事実を否定している。ナインは言及した。
「誰も死なない? そのような世界はない」
「剪定者であるあなたからすれば、あり得ない世界の一つかもしれませんね。ですが、ネバーランドとはそういう願いに包まれた世界なのです」
物語の構造上、死んでも復活する、という物語はある。だが死なない、という物語はない。死は物語に彩りを与えるエッセンスであり、人間が有史以来、不死の物語はない。聖書ですら死はある。
「誰も死なないように願う。願いの物語が彩ったのがネバーランド。だからなのか、腕を切り落とされる大人はいます。ワニを恐れる大人もいます。撃ち殺される大人もいます。ですが、子供にとってしてみれば、ほとんど不死のコミックショウなのです」
「それは子供の安全圏を守っているだけだ。不死ではない」
剪定者として不死は認められない。ナインの強情さに人魚は微笑んだ。
「使命に忠実なのですね」
「俺を縛り付けるのはその使命だけだ。他には何もない」
人魚が訪れたのは岩礁で作られた城だった。門扉が開くと堅牢な内観が目に入る。
「岩礁の城。人魚の砦か」
「私たちは海賊も恐れません」
前を行く赤髪の人魚の声にナインは、「だろうな」と応ずる。
「敵と言っても、このネバーランドは願いと優しさに包まれた国。だから害する存在はいない。ただ一人を除いて」
人魚は城に入るなり従者の人魚を呼びつけて服飾を整えた。羽衣を纏った人魚が階段を上り、玉座に座る。どうやら長という認識は間違っていなかったらしい。
「敵? 何者だ」
「ピーターパンです」
人魚の言葉にナインはすぐさま言い返す。
「何を言っている。この物語の主人公だと聞いたが」
「ピーターパンは奔放で、遊び人の、そして〝永遠の子供〟です。このネバーランドの主でありながら彼の行動はトリックスターのように映る」
「人造妖精に検索させた。そのような物語はない」
「忘却されたのでしょう。だからこの世界はとても不均衡なのです」
水墨の海。セピアの断崖。
「だが、お前たちはピーターパンとやらが帰ってくるのを待っている、というわけか」
「待っているのはあのウェンディとかいうお嬢ちゃんとフック船長でしょう。私たちはあくまでこの物語の付随物。メインではないのですから」
物語の登場人物であることを既に分かっていてこのような交渉に出る。ナインは人魚の長を睨み据えた。
「特権、でも狙っているのか?」
「察しがよくって助かります」
特権。つまり付随物ではなく、この物語の登場人物の一人でもなく、独立した物語をくれ、と要求している。
「傲慢だな。剪定者に特権をねだる輩は大勢見てきたが、俺は誰一人としていい心象はない」
「ですがこの滅び行く世界では付随物として終えるのはあんまりです。そこに剪定者が現れた、だとすれば私たちのするべきことは剪定者に願うことだけ」
「特権を俺に約束させて、どうする? この物語が忘却されても他の物語に逃げるつもりか。だがその特権は俺個人の心象でどうにかなるものではない。人造天使と、そして我ら当局の慎重なる判断の上で成り立つものだ。何故ならばそれは可能性の復活。つまり、可能性世界を閉ざそうとしている剪定者からしてみれば」
「真逆の行動」
先んじて言い放った人魚の長にナインは首肯する。
「分かっているのならば、何故俺に希望を持とうとする。俺は、あくまで一剪定者に過ぎない。お前らをどうこうできるような立場でもない」
「どうしてでしょうかね……。恐らく、あなたが彼に似ているのもあるのでしょう」
この物語に入ってから繰り返される「彼」。ナインは眉根を寄せた。
「ピーターパン」
「彼はとても自由奔放で、他者の忠告など気にも留めない、この世界を飛び回る永遠の子供」
「俺とは正反対のように思えるが」
使命に忠実であり、なおかつもう子供ではない。人魚の長もそれは心得ているようだ。
「ええ、そう。全然違う。だけれど、何ていうのでしょうか、根幹が似通っている」
根幹と言われてしまえば対応のしようもない。自分のことは自分が一番よく知っているつもりだが、どうしてそのピーターとやらが自分の根幹に関わっているというのか。
「俺はどの物語世界にも属さない、黒の剪定者だ。だからお前らがいくら俺を持ち上げようとも特権も、吟味する必要がある」
「あなたを殺そうとしたこと、それに関するお咎めは」
「あるとすれば、俺がもう執行している」
ナインが振り翳した右手の殺気に人魚の長は僅かに震えた。
「彼女が先走っただけなのです。本当」
「それはもう聞いた。いくら言葉を弄そうとも事実は事実。剪定者を害そうとしたことも含めて、特権に関してだったな、人造天使にかけ合おう」
ナインの言葉が意外だったのか人魚の長は、「本当に……」と口にしていた。
「ああ。どうせ一個忘却されて消え去るんだ。一個代わりが入っても処理は変わらない」
この物語世界はもうすぐ終わる。ならば代わりの物語を予備として提言するのも悪くない。ナインの言葉に宿る冷徹さに人魚の長は口元を緩めた。
「本当に、剪定者は冷たい」
「剪定者に温情を求めようというのが間違いだ。物語の滅殺者に一感情論を当て嵌めようとするな」
ナインは身を翻す。人魚の長はその背中に声を投げた。
「そういう立ち振る舞いも含めて、あなたはピーターパンにとてもよく似ている。彼も自由気ままで、それでいて行動力と勇気だけはあった」
ナインは足を止めて肩越しに視線を向けた。
「その、ピーターパンに俺がいくら似てようと、俺は剪定者ナインであり、ピーターパンとは全く関係がない」
「ええ、そう。そうですよね」
人魚の長はもう一言だけ付け加えた。
「あなたがピーターでないとしても、フック船長にはお気をつけください」
「海賊風情だろう。何を気をつける? 財産も何もない」
「この世界において、フック船長はただピーターパンに復讐のみを誓っている。だからあなたがもしピーターパンに似ているとなれば、彼の復讐の矛先はあなたに向く」
「ならば殺し返すまでだ」
ナインは右手に視線を落とした。物語の登場人物程度ならば滅殺の右手が黙っていない。
「……そういう無鉄砲なところもピーターそっくりですね」
「やめろ。俺をこれ以上、見知らぬ他人で装飾するな。剪定者にラベル付けは不要だ」
ナインの言葉に宿る本気さを感じ取ったのかそれ以上人魚の長は引き止めようとしなかった。ナインは岩礁の城を後にする。他の人魚に捕らえられた先ほどの凶暴な人魚が岩礁の城へと投獄されていた。彼女たちからしてみればあの人魚は異質だろう。だが滅び行く世界で正気でいられるのもどうかしている。あの人魚の野生もある一面では仕方がないことなのかもしれない。
『どうだった?』
海面に上がってくるなりベルが尋ねる。ナインは手を払うと身体についた水滴を根こそぎ弾き飛ばした。
「どうもこうも、俺のことをまたしてもピーターだという奴が現れた」
ベルは、『何でかなぁ』と疑問視する。
『全然、物語の主格って感じじゃないのに』
「俺もそう言ったが、そういうところも含めてピーターパンだと。……ベル、本当にピーターパンという物語は存在しないのだろうか」
二人の証言者がいる。だというのにこの物語は忘却対象だ。
『検索窓には引っかからない。色々と試したけれどやっぱりピーターパンって言う物語はないよ』
「そう、か」
存在しないはずの主人公。では彼は一体どこへ行ってしまったのか。物語の登場人物たちを置いて主人公が姿を消す。さらに言えば物語そのものの存続が危うくなる。ナインは首を巡らせた。
「朝陽だな」
東の空から太陽が昇ってくる。水墨の海の表面をてらてらと照らした。
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