第8話ACT8「鬼哭世界」
木々を踏み締める音が残響する。ナインが視線を投じた先にいたのは見上げんばかりの巨体を持つ鬼であった。
三面六臂の鬼が得物を手にナインを睨み上げる。
『「(剪定者か)」』
三つの声の相乗したものにナインは眉間に皴を寄せた。
「こいつは?」
「ただの鬼だ」
「嘘をつくな。この鬼は、ただの物語上の悪役にしては随分と……凝っている。子供の作り上げた悪夢の産物にしては、凶悪が過ぎる」
「悪夢だって。これがオレの相手になる鬼だって言うんだから」
「金太郎の物語の鬼……酒呑童子か」
酒呑童子は金太郎と所以のある鬼だ。だがこのような異形の姿であったという記録はない。三面六臂の鬼が携えた剣を大きく振り上げた。
『「(死ね)」』
轟音と共に大剣が山を突き破る。鬼ヶ島が両断され、地形が大きく変動した。水田が干上がり、雨空に逆さ雨が降りつける。
浮かんだ水滴を足がかりにして、ナインは跳躍していた。
一滴一滴を足場に、鬼へと標的をつける。
「物語上のイレギュラーを確認。剪定者の権限により、対象の排除を許可されたし」
鬼が吼え、鎖鎌を放つ。天地を縫うように鎖が跳ね上がり、鎌が地表を焼き切った。曇天を引き裂いた鎌が手元へと戻ってくるまでの僅か五秒。
剪定者にとってはそれだけでも充分な好機。
雨粒一つ一つを右手で触れてやる。すると、緑色の光を帯びた光弾が一斉に鬼へと殺到した。
全方位を埋めた水の榴弾が鬼を叩きのめす。着弾点からもうもうと黒煙が上がった。
それでもまだ鬼は死んでいない。撲滅の光を受けながらも、鬼が空いた四本の腕でナインを掴み取る。
『「(取った!)」』
天地を割る哄笑にナインは静かに返した。
「違うな。取られたのだ、お前は」
手首が次々と複雑に折れ曲がり、鬼が呻く。引き裂いた雲間から太陽が覗いた。腕に落ちた影に潜り込み、ナインは瞬時に鬼の首元へと至る。
「――もらうぞ。その首」
形作った手刀が薙ぎ払われ、鬼の首の一つが落ちた。大質量が茅葺屋根を粉砕し、田園を破壊していく。
大剣が再び頭上へと掲げられた。威圧を浴びせようとした鬼に、ナインは左手の赤い光を払う。
大剣の太刀筋へと忘却の赤が触れた。その途端、大剣から力が失せていく。ぐにゃぐにゃに折れ曲がった刀身は完全に殺傷性能を奪われていた。
「銘のない剣ならば、忘却させることが可能だ。俺は今、剣から〝武器であること〟を忘れさせた」
武器の資格を剥奪された剣が飴細工のように滴り落ちる。鎖鎌を振るおうとした鬼の額へとナインは左手で触れる。
トン、と叩いただけの一打。それだけで相手の表皮が裏返り、もう一つの首が瞬時に白骨化した。
最後に残った鬼の首が泣き喚きながら腕を払う。涙が田園を埋め尽くし、溢れ出た洪水が集落を流しつくしていく。
「これが泣いた赤鬼の物語の根源か」
それと同時にもう三時間も経っていたのか、という事実に驚嘆する。金太郎と鬼に時間を取り過ぎたせいなのか。あるいは、あの灰色の影が時間感覚を麻痺させたのか。
イレブンの言っていた通り、時差ボケに晒されそうだ。ナインは黒衣を翻し、赤鬼へと振り仰ぐ。
「剪定者の権限で命じる。桃太郎の世界から泣いた赤鬼への分岐を確認。物語世界の枝葉を摘み取るために、赤鬼を成敗する」
跳ね上がったナインのコートから重力が掻き消え、赤鬼の腕へと降り立つ。払われた掌を回避し、ナインは影の移動速度で瞬時に赤鬼の眼前に立ち現れた。
涙する赤鬼が両手を合掌させ、ナインを叩き潰そうとする。
合わせられた手の隙間からナインは影となって滲み出し、指先に顕現した。
「貴様は……剪定者!」
「ナインだ。覚える必要はない。すぐに忘れるだろうさ」
忘却の赤い光が棚引き、鬼の頭蓋を激震する。不意に昏倒した鬼が足を滑らせて仰向けに倒れた。
山一つ分に相当する鬼の質量に大地が震える。
鬼ヶ島は鬼によって崩落した形となった。
降り立ったナインへと声が投げかけられる。
「へぇ、剪定者って本当に強いんだなぁ」
どうやって逃れたのか、金太郎が呑気に欠伸をしていた。鬼が大いびきを掻きながら眠りについている。
〝泣いた赤鬼〟の物語世界を完全に破壊するのは、観測神殿から通信の途絶えた今の自分の一存だけで行っていいものではない。相手も物語の主人公なのだ。
ナインは鬼の巨体でほとんど潰されてしまった鬼ヶ島を振り仰ぐ。
「これでもまだ、上に桃太郎がいると?」
「ああ、いる。上まで登ろうぜ、剪定者の兄ちゃん」
金太郎が先導しつつ、ほとんど崩落した山を登る。
臓物と血の臭気が濃くなっていく。嫌な予感が焦燥の汗となって顎を伝い落ちた。
果たして、鬼ヶ島の頂上に桃太郎は存在していた。ただし、その肉体はバラバラの状態である。
小鬼がいそいそと臓物を桃に詰め込み、桃太郎を「造って」いる最中であった。
周囲を押し包む血の臭いの根源にナインは眉をひそめた。
「何だ、これは」
「桃太郎を造っている。おかしいとは思わない? 神の加護でもなく、桃から生まれるなんて。桃太郎が鬼であった、とする説もある。鬼の大将が自分たちの子分を解体し、再構築し、桃から生まれさせるようにしたのが、この物語の〝桃太郎〟だよ」
馬鹿な、とナインは絶句する。そのような夢のない話が存在するはずがない。物語の類型の一つとしても認められない事例だ。敵役に、主人公が造られた、など。
「桃太郎の話は、そのようなおぞましいものではない」
『でも、この観測事象は現実……。ナイン、どうするの? こんなの、放置しておけないよ』
ベルの問いかけにナインは通信を確かめさせた。途絶していた通信が蘇り、案山子女が通話先に出る。
『どうなさいましたか? 剪定者ナイン』
「桃太郎の世界を封印指定に。この物語世界は継続性を失い、一度消滅させるほかない」
ナインの決断にベルは言葉を返すこともない。
『ナインが、剪定者がそう言うんなら、それが一番……』
まるで自分に言い聞かせているようだった。この物語は一度滅びるほかない。妖精のゴッドマザーを入れ換えればいい、だけのシンデレラではないのだ。物語の主要人物の不在、それによって物語そのものが瓦解する。これはしかし、あり得ない話ではない。ナインはコートを翻して村を去った。
ただ胸の中にはしこりがある。
あの時、時間震が起こった。それさえなければこの桃太郎の世界は壊れずに済んだのではないか。胸中に芽吹いた不信感はナインの心を占めていった。
「オレはどうすればいい?」
金太郎の問いかけにナインは観測神殿へと判断を仰ぐ。
「別の物語の主人公が同時存在している。イレギュラーだ。人造天使の判断を乞う」
『承認。特別コード、N30378を施行。金太郎を特一級の可能性犯罪の被害者として、観測神殿へと連行を求む』
「……だ、そうだ。お前は俺について来い」
「剪定者の城にお呼ばれするってのは、嫌な予感がするけれど」
ナインは金太郎の手にあるヘルメースの金の斧を見やり、嘆息と共に旅人帽を傾けた。
「安心しろ。俺も同じだ」
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