第6話ACT6「桃太郎の世界」
茅葺屋根の連なった村、もっと言えば集落。それが桃太郎の世界における建築基準だった。笛吹き男のいた中世に比べれば少しばかり文明レベルが低いか、とナインは判断する。
「現時刻、桃太郎が上流から流れてくる一時間前だ」
腕時計を確認しナインは一組の老夫婦がお互いに仕事を分担しているのを目にした。手を振って老人が山へと向かっていく。それを見送った老婆は洗濯物を纏めていた。
『あれじゃない? おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、ってね』
ベルの声にナインは影と同化して成り行きを見守る。上流から桃が流れてくる。そうすればこの物語は開幕するはずだ。
その時、不意に揺れが襲った。地震か、とナインは感じ取るがそれは違う。大地が揺れているのではない。現に老婆は何も感じていないようだ。
――これは時間震だ。
ナインは咄嗟に腕時計を見やる。分針が滅茶苦茶な方向を示していた。一気に時間が早められ、桃太郎の桃が上流から下流へと流れていくのを老婆は観測できていない。地面が揺れる。今度は実際の接地を揺らした振動に老婆が怯えた。村の人々が声にする。
「鬼だ! 鬼が現れたぞ!」
ナインは目を見開く。一対の角を持つ巨大な鬼が村を襲っていた。まさか、と腕時計を確認する。腕時計の示すのは鬼の出現時間だった。だが鬼が人々を脅かし始めるのは桃太郎の誕生以降のはずだ。桃太郎の誕生を無視して鬼が出現するのは物語のルールに反している。
「おかしい。物事が前後している」
ナインの声にベルがコートから飛び出した。
『まずいよ、ナイン。鬼が人々を襲っている』
棍棒を振り上げた鬼が茅葺屋根を粉砕する。逃げ惑う人々の中で若い女を一人、また一人を鬼がさらっていく。これは道理に反した事象だ。ナインの身体が反射的に動いた。鬼の行く手を遮る。鬼は一つ目のものもいれば両目がついているものもいた。青黒い肌や赤い肌を持っている鬼たちがナインの姿を認めて睥睨する。
鬼が咆哮しナインを威嚇した。ナインは右手の手袋を外す。
「こうなってしまえば消すもやむなし」
明らかに事象が狂っている。このままでは桃太郎を育てるはずの役目である老夫婦が殺されかねない。ナインへと棍棒が打ち下ろされた。だがナインは影の移動方法でするりと避けて鬼の懐へと潜り込む。手刀が鬼の身体を引き裂いた。断絶された鬼の身体が吹き飛ぶ。仲間の鬼が喉の奥から威圧した。
『どうするの? ナイン! 物語への過度な干渉は、また可能性世界を生む結果に』
「そんなことは分かっている」
分かっていても主役不在の物語をこれ以上継続させるわけにはいかなかった。ナインへと鬼が襲いかかる。それぞれの攻撃を紙一重で避けたナインは鬼の心臓を引っ掴み手で握り潰す。
鬼たちが恐怖しそれぞれ鳴き声を発して逃げ帰ろうとしていた。その背中を追うほどナインは冷徹ではない。逃げるのならばそれでよかったが被害は甚大だった。桃太郎を育てるはずだった老夫婦のうち、老婆が重傷を負っていた。ナインはどうするべきか決めあぐねる。
桃太郎を今さら呼び起こしたところでこの物語世界に救済はないだろう。桃太郎という主役を欠いたためイヌ、サル、キジの三人の従者も現れる保証はない。
『ナイン……』
「この物語世界を去る」
ナインの決断にベルは押し黙っていた。人造妖精でも分かっているのだ。桃太郎の世界は破壊された。主役がいない、というだけの結果でこれだけの被害が出るのだ。だからと言って剪定者にできることはない。主役の代わりに鬼を滅すればいいというわけでもないのだ。
ベルは被害に遭った人々を見やり小さくこぼす。
『仕方がない、そうなんだよね……』
ベルとて一度や二度ではない。こういった最悪の事態を知っているはずだった。もちろん自分とて引き際は心得ている。
「この時点における物語世界の凍結を申請する。人造天使の命により、桃太郎の世界は完全に他とは隔離。物語を〝閉幕〟する」
閉幕。それはつまり、この物語を誰の目にも留まらせる事のないように完全に排除するという意味であった。剪定者の任務において閉幕は最終手段のうちの一つである。
閉幕する事によって、この物語は継続性を喪失し、自然消滅を辿る。そうでなければ、時間の止まった中間地点にこの先ずっと繋ぎ止められたまま、終わりも始まりもない、物語としての体裁を失った状態として密封される。
『閉幕……。随分と久しぶりだよね。あたしたちが閉幕なんて失態に出るなんて』
失態なのだ。閉幕は即ち、剪定者の実力不足と言っているようなもの。ナインは、右手を掲げ、物語世界の継続性を問いかける。
「このまま、桃太郎の世界を放置した場合、起こりうる可能性」
参照したデータがすぐさま呼び起こされ、概算値が人造妖精の声で導き出される。
『桃太郎の世界は多数の継続的可能性の枝葉を持っている。放置すれば、新たな物語の可能性の発生を見過ごすことになりかねない』
「やはり、どこかで切り落とさなければ」
このまま物語を閉幕させるにせよ、密封するにせよ、どこかで折り合いをつけない限り、物語に延長の可能性が浮かび上がってくる。
茅葺屋根の並び立つ集落を見やり、そこいらの破壊の痕を解析する。
「棍棒による攻撃だな。だが、この鬼、あまりにも……」
絶句したのは一体の鬼だけがあまりにも強大な力を持っていたからである。山一つ分が吹き飛ばされ、削り取られた様は棍棒という原始武器のせいとは認めづらい。
『ナイン、鬼から七時間後に物語世界の発生を確認したよ。これは……泣いた赤鬼の物語だね』
その事実にナインは覚えず聞き返す。物語の主役から派生するならばまだしも、悪役から物語が派生するのはイレギュラーだ。
「鬼から? どういう意味だ?」
『分かんないよ……。でも物語の発生を剪定者は』
「見過ごせない、か。閉幕と密封措置を一時的に解除。剪定者ナインはこのまま、桃太郎の世界にて可能性の枝葉を切り取る」
ナインは集落を見て周り、負傷者を観察していた。
何も干渉をしないのは剪定者のルールだ。たとえ相手が瀕死でも、物語における脇役ならば過度な介入を行ってはならない。
『酷いよねぇ……。鬼ってそんなに凶暴だっけ?』
「桃太郎の世界の基準に準拠するのならば、鬼はイヌ、サル、キジの三体で退治できるほどの強さだ。つまり、あまり強くはない」
そのはずなのだが、半身を引き裂かれた者も存在するなど、明らかに鬼の破壊活動は常軌を逸している。
まるで何もかもを破壊し尽くさなければ収まらないようであった。
『逃がしちゃったのはミスだったのかもね。全滅させれば可能性世界は……』
「だが全滅させれば桃太郎の世界の継続可能性を摘み取ることとなる。俺は結局、後付けの戦いをするしかない」
それが剪定者の宿命だ。可能性が発生したから摘み取らなければならない。どこまでも後手に回ってしまうのは必然的なのだ。
「助けてくれぇ」と村民が呻く。片腕がもがれており、血が止まらない様子であった。
期待の眼差しを向けてきた相手に、ナインは冷たく返す。
「勘違いをするな。剪定者は人を救わない」
だが、とナインは左手の手袋を取っていた。負傷者の頭部を引っ掴み、そのまま赤い電磁が跳ねる。
「恐怖を忘れて死ぬことは許されている」
鬼という存在を欠いて、ただ単に負傷して死ぬだけならば少しは安楽に近いだろう。ナインは蹂躙された集落を下っていく。
本来、桃太郎が流れてくるはずであった川に辿り着いた。
『おばあさんは洗濯に、ってはずなんだよね?』
「そのはずだが、この河川は……」
すくい上げた水はまるで血のように赤い。どろっと質量を持っており、臓物に近い何かが上流から流れてくるのが窺えた。
ナインは上流を目指して歩み出る。いずれにせよ、鬼が来たのは山の向こう。行く先は同じだ。
途中、鬼が発生させたと思われる攻撃の痕跡がいくつか散見された。木々が薙ぎ倒され、鹿や熊などが狩り尽くされている。
「おかしい。ここまでの凶暴性を秘めた悪性存在ならば、桃太郎の物語の悪役として相応しくない」
順当なレベルというものがある。物語世界において、その世界観を破綻させない程度の悪。それが割り振られ、適切に対処されているからこそ、物語は物語たらしめられる。
しかし、これではまるで桃太郎単騎での対処は不可能であった。
事象の前後と桃太郎の不在。それに養父母の負傷。それら全部の事件が繋がっているとすれば、やはり帰結するのは鬼の存在である。
『鬼が……強すぎるってこと?』
「簡単に言えばそうなる。ここまでのレベルとなるとこれはバッドエンドへと接続しかねない」
『バッドエンド……それってまずい、よね?』
「問い質すまでもない。ハッピーエンドがバッドエンドに転化するなど、それは一番にあってはならないものだ」
山一つを超えた場所では火の手が上がっていた。腹の肉をたぷつかせた鬼が棍棒を振るい、人々を恐怖のるつぼに落とし込んでいる。
『ナイン! 助けなきゃ!』
「急くな。この集落は物語構築上、不必要な場所だ。静観を貫く」
シンデレラの物語が一転して片田舎の物語にならないように、ピノキオの舞台が別の人形師の話にならないのと同じことである。
――描かれないことはなかったことになる。
ここでどれほど人が死んでも、描かれていない部分における死者はカウントされない。ゆえにナインが介入する理由も存在しないのだ。
『でも、人死にを見過ごせって……!』
「勘違いをするな、ベル。人死にを見過ごすわけではない」
影の移動方で瞬時に鬼の眼前に現れたナインは存在抹消の右手を払う。
棍棒が接触点から掻き消されていく。目を瞠った牛のような頭を持つ鬼へとナインは回り込み、その横腹を引き裂いた。
血潮が舞う中、緑色の稲光が鬼の存在を溶かしていく。
「鬼よ。そのまま死にたくなければ答えろ。この世界は何だ? 何が起こっている?」
鬼は獣のように吼え立てるだけで意味のある言葉を発しない。牛鬼が猛り狂って爪を立ててナインのコートを引き裂こうとした。影に埋没したナインはその一閃を退け、背後からその背筋に右手を突きつける。
「今一度問うぞ、鬼よ。お前らの存在理由は桃太郎との戦いだ。それ以上の介入条件は満たしていない」
こちらの殺気が本物だと分かったのか、鬼は幾分か落ち着いたようであった。
「……桃太郎は存在しない」
「その真偽は我々剪定者が決定するものだ。悪役に決定権はない」
だみ声で鬼は言葉を継ぐ。
「本当だ。ある日、桃太郎の存在に怯えなくってもいいというお触れが出された。誰が出したものなのかは不明だが、物語の登場人物として、その設定は本能で容認できた」
それは随分と奇妙だ。何百回と繰り返しているはずの桃太郎とその悪役が突然の設定介入に異論を挟まないなど。
「それは誰だ?」
「分からない……。だが、破壊行為を容認できる立場の第三者であったことは明白だ。それに、その日を境にしてどうしてだか、鬼は鬼らしく振る舞うべきだとして我々の原始本能に刻み込まれた」
鬼が鬼らしく振る舞い、人々を恐怖に陥れる物語。それが現状の桃太郎世界におけるひずみというわけか。
「ひずみを矯正する。それが剪定者の仕事だということは」
「承知しているとも。物語の登場人物ならば皆、想定している事実だ」
ならばここで矛を交えることさえも無意味であると分かるはず。ナインは後退し、鬼へと右手を突き出す。
「ここで消滅するか、俺をお前らの根城に連れて行くか、二つに一つを選べ」
こちらの要請に鬼は哄笑を上げる。
「もう一つ、選択肢があるぞ、剪定者」
「もう一つ? 何のことだ」
牛鬼が吼え立て、その巨躯でナインを押し潰そうとする。
「こちらが、貴様を刈り取るという現実だ!」
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