第20話『千堂さんの話』
予定より少し遅くなってしまった。
楽しい話とうまい飯。大人になったらそこに酒。それさえあれば幸せなのだ。そんな幸せ空間に捕まると、脱出するのは困難を極めてしまう。
「あー、結局おかわりまでもらっちゃって……」
いやぁ、バイト先でまかないじゃない飯が出るって、なんだかすごい経験をしている気がする。
姉妹に帰宅する事をケータイで伝えて、夜道を歩く。住宅街だから、周囲は非常に静かだ。
近所だからいいんだけど、この帰る短い時間にもバイクに乗って、三〇分くらい走り回りたい。明日はバイク通学してもいいか、姉妹に聞いてみなくては。
しかし、酔っぱらい連中はやれ恋愛だ、結婚だとうるさかったな。
ああいう飲み屋にいると、なんだか俺まで飲んでもないのに酔っ払った気になってしまい、恋愛したほうがいいのかっていう気になってしまった。
大人の言う事は結構正しい、そう思っている俺だが、恋愛をしたほうがいい、というのだけは飲み込めない。俺は一人で生きていけた方が立派だと思っているから。まだ一人で生きていけないんだけども。
今後、俺はどうなっていくんだろう、という漠然とした不安が生まれてしまった。
ため息を吐き、曲がり角を曲がる。
曲がり角、というのは思わぬことが起こるものだ。日常で数少ない、歩く先が見えないという事態になるから。
誰かとぶつかったり、考えもしないものがあったり。俺は、曲がり角を曲がった瞬間、キュッと心臓が締め付けられるような気持ちになった。
「あっ……」
相手も、そんな気持ちだったのかもしれない。
彼女の顔はとても困っていて、俺は、どう言葉を出すか、迷ってしまった。
「も、もしかして、鈴本くん」
彼女は微笑んで、そう言った。一瞬しらばっくれようかと思ったけれど、彼女の勇気を裏切るわけにはいかない。
「ひ、久しぶり。千堂さん」
小柄で、黒髪を小さなポニーテールにした、黒いセーラー服の女の子。
彼女の名前は、千堂美冬。
中学時代、俺に告白してきた女子生徒だった。
「……元気そうで、安心した」
彼女は、まるで思い出の品に被っていたホコリをフッと息で払うように優しく言った。
「あ、あはは……。まあ、それなりに」
なんて言ったらいいかわからなくて、曖昧に頭を掻くしかできなかった。
人生で初めて、俺の事を好きだと言ってくれた、家族以外の人。断ったけれど、俺は彼女を大事に思っていた。数少ない友達だし、彼女の勇気は俺の励みになった。だから、大切に扱いたい人なのだ。
「せ、千堂さんこそ、元気だった?」
「……まあ、それなりに」
大切に扱いたい、が。それとちゃんと扱えるかは、また別の話なのである。
告白断った相手と普通に話せるようになるには、俺はまだまだガキすぎた。
じゃあ、と言って別れたい気持ちはあったけれど、それを俺から言うには負い目がありすぎた。
「……」
「……」
お互いに見つめ合ったまま、黙ってしまう。昔はもうちょっと普通だったんだが。
「ざ、ザックス・アドランド」
いきなり、千堂さんが俺の好きな映画監督の名を口にした。
「鈴本くんが好きだって言ってた監督の最新作、この間やってた、よね」
『ブラッドベリサーカス』のことだろう。
「あれ? 千堂さん、洋画は観ないって言ってなかったっけ」
俺と織花の話に混じりたそうにしていたが、洋画をさっぱり知らない千堂さんは話を聞く事しかできていなかったはずだ。
「あれだけ熱弁されたら、覚える……。そしたら、観たくなる」
「おぉッ、観てくれたんだ! どう? 面白かった?」
「……よく、わからない。面白いと言えば、面白かったけど」
「そっかぁ。アドランドの映画は、初見に厳しいから。最初に観た方がいいのは、やっぱり『ラスト・リゾート』だよ。あれはプロデューサーとアドランドの相性がよくって、商業と創作のいい融合だったんだ。ストーリーもわかりやすいし、映像も気合の入ったCGで、画面を観てて退屈しない――」
気まずい思いをしていても、好きなものをぶら下げられるとこうしてくっちゃべってしまう。なんとまぁ、単純な男。
「ご、ごめん……調子乗った……」
頭を下げると、千堂さんがくすくすと小さく笑った。
「ふふ……変わらないね、映画の話になると早口になるの」
その言われ方は非常に癪だが、事実なので反論ができない。
しかし、不本意だけど場が和んだのは助かった。
「鈴本くん、バイト帰り?」
「あ、うん」
頷くと、なぜか千堂さんは、俺の服に体を近づけ、匂いを嗅いでいた。女の子からそんな仕草を取られてしまうと、自然俺も、制服の襟元を持ち上げ、確認してしまう。
「……煙草臭いけど、なんのバイト?」
おっさんどもめ! これだから喫煙者は!
酒と煙草の相性は最高、じゃねえんだよ!
「いや……煙草の匂いは、バイトと関係はないよ。知り合いが近くで吸ってただけ。バイトは酒屋」
「ふうん」
なんだか、疑っているような目だ……。
俺が煙草吸ってる、とか思ってないだろうな。
鈴本家に迷惑かけるようなことを、俺がするはずないだろう――って、俺が鈴本家の養子だって知ってるの、家族以外だと織花しかいなかったな。
「大丈夫。鈴本くんは、そういう事しないって信じてるから」
「いや、信じなくても、事実してないからね……」
千堂さんは「あっ」と口にして、腕時計を確認する。
「ごめんっ。あんまり遅くなると、親が心配しちゃうから、もう行くね」
「あ、うん」
千堂さんはそう言って、俺の横を通り抜け、俺が来た道を行こうとした。
しかし、ピタリと止まって、振り返り、顔を赤くしながら、カバンからケータイを取り出した。
「その前に。連絡先、前と変わってないよね」
「え、あぁ。変わってない」
「その内、連絡する」
「へ?」
走り去る千堂さんの背中を見送りながら、俺は「連絡って、なんで?」と首を傾げていた。……どういう意図なのかわからないけれど、彼女がまた俺と話して、笑顔を見せてくれると考えれば、些細な事に思えた。
……帰ろう。なんだか、千堂さんが元気とわかって、ちょっと安心したからか、疲れがドッとやってきた。
■
懐かしい気分をそのままに、俺は真っ直ぐ家に帰った。
玄関の鍵を開け「ただいまー」と言ってみる。
すると、何故か今日に限って、姉さんと秋菜がリビングから出てきて、出迎えてくれる。さっきまでの話のせいで、俺に子供がいて、奥さんもいたら、こんな感じで出迎えてくれるのかな、なんて考えてしまう。
「おかえりお兄ちゃん」
「おかえりなさい、ナツくん」
二人の笑顔に、改めて「ただいま」と返事をしながら、靴を脱ぐ。
「今日は晩御飯、どうする?」
姉さんは、何故か少しそわそわしたように、というか、目を泳がせながら、ちらちら俺を窺うように言う。
「いや、バイト先でありがたくごちそうになってきたから、今日はいいよ」
「お兄ちゃん、残念だったねえ。今日はお姉ちゃんのハンバーグだったのに」
と、食卓を一緒にしないから幸せを逃すんだみたいな、意地悪い笑みをして、口許を押さえる秋菜。
「姉さんのハンバーグが食べられないのは残念だったなぁ」
「大丈夫。明日、お弁当に入れてあげ、る……」
なぜか、姉さんがジッと俺の顔を見つめて、フリーズした。それを変に思った秋菜も、姉さんから俺に視線を移し、フリーズ。
……一体なによ?
「なに? 俺の顔に、なんかついてる?」
「うっ、ううん。そういうんじゃないけど」
「うん……。なんか、お兄ちゃん、いいことあった?」
俺は思わず口許を隠してしまった。ニヤニヤしていたのか、と思ったからだが、これでは『いいことがあった』と白状しているようなものだ。
「ナツくんがそんなに機嫌良さそうな顔をしてるなんて……よほどいいことがあったの? ごちそうになったのがステーキだったとか」
俺は姉さんからどんだけ子供だと思われてんだ。確かにご機嫌になるけども。一番に出てくるのがそれかい。
「いや、ちょっと、昔の友達と再会しただけ」
すると、何故か秋菜が一歩踏み出してきて、俺の目を覗き込むみたいに顔を近づける。
やばい、照れちゃう照れちゃう。秋菜は俺と血が繋がってないことと、自分が可愛いことを自覚してくれ。
「……嘘は言ってないけど、本当の事も言ってない、って感じだね」
秋菜の言葉が、俺の心臓をキュッと絞めた。
なんで!? なんでそんなことわかんのよ!?
「……この顔を見るに、アキちゃんの言う通りみたい。アキちゃん、すごい」
小さく拍手する姉さんに応えるみたいに、秋菜は腰に手を添えて胸を張り、ドヤ顔。
「女の勘よ」
勘だけで看破されちゃたまらん。神様、男にもこれくらい鋭い勘をください。
「で? なにがあったの? 事と次第によっては、ビンタだけでいいよ?」
素振りをしないで秋菜ちゃん。
隠し事されたのが不満だったのか。っていうか、ビンタ確定やめて。
「いや、って言っても、大したことじゃないんだよ」
言っていいのか迷ったんだけどね。
しかし、もう半ばバレてるみたいなもんだし、言い訳を考えるのに半日ほしい。あんまり長考したら、これからの言葉を全却下されかねないので、仕方なく本当の事を言う。
「……中学の頃、告白された女の子と再会したんだ。で、元気そうだったからよかったな、って」
まあ、恋愛で体調を崩したり、性格が変わるということはないだろうから、今考えると少し自意識過剰というか、自信過剰というか。
俺の安心を伝えると、何故か、姉さんと秋菜の顔が強張る。
……今度は一体なんだろう。
「……どんな話を、したの」
恐る恐る、という感じで、噛むかもしれない犬を撫でるような口調の姉さん。
「どんなって、バイトはなにしてるのとか、また連絡してもいい? とか」
「お兄ちゃんはそれになんて返したの!」
いきなり怒鳴られてびっくりしたが、秋菜の表情が真剣そのものだったので、それについてなにも言えない。
「え、いや、いいよって、それだけ……」
すると、なんだかあからさまに姉さんと秋菜が肩を落とし、リビングへとゾンビみたいな足取りで引き返していった。
「……一体なんなのよ?」
わっ、わからん。
俺が千堂さんと連絡取ることに、なんか問題あるのか?
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