第11話『敵の話』

 姉さんがいつも画材を買っているのは、俺たちの通う学校に近いショッピングモールにある画材屋らしく、当然、画材屋に行く理由の無い俺が詳しい場所を知っているわけもなく、姉さんの後について歩くだけだ。


 俺を後ろに添えて歩いている姉さんが、なぜかくすっと小さく笑う。


「なに? どしたの、姉さん」

「いえ。……ただ、ナツくんが後ろについてきてるって、なんだか久しぶりだな、と思って」


 小さい頃は一歳差って大きいから、遊びに行くとなると、俺は姉さんに手を引かれていたっけな。姉さんが俺の手を引き、俺が秋菜の手を引くという、だんご3兄弟みたいな構図になって出かけていたっけな。


「そういや、そうッスね。まあ、あの時と違って、もう迷子にならないし、なってもなんとかできるから」


 今更、手を引いてもらわなくてもいい程度には大人になったという事だろう。

 なんだか妙なところで自分の成長を自覚してしまったな、と頷いていたら、なぜか姉さんが手を差し出してきた。


「……なにこの手」


 いや、話の流れでわかるけど。

 それでも、確かめない訳にはいかない。


「いいじゃない、久しぶりに」

「久しぶりにって、もうする理由もないじゃないスか」


 俺は迷子にならないし、はぐれてもケータイあるし。いい年した姉弟が手を繋ぐ理由がこれっぽっちもないじゃないの。


「それに、さっきまで繋いでただろ」

「駄目よ。家族のスキンシップを何年サボってきたと思ってるの。ナツくんから繋ぎなさい」


 ……それは俺の所為じゃない気がするんだけどな。

 姉さんと秋菜が近づくなオーラ出してきたんじゃなかったっけ?


 小心者の俺がそんな事を言えるわけもなく、拒否して変な空気になるのも嫌なので、俺は姉さんの手を取った。


「あら」


 なのに、なぜか意外そうな顔をする姉さん。そして次に、笑顔を見せる姉さん。


「嫌がるかと思ったのに」


 えぇー……。


「だったら離すよ」

「ふふっ、ごめんなさい。それじゃあ、行きましょう」


 織花とか、知り合いに見られてないといいんだが……。

 俺のそんな心配をよそに、姉さんはなんだか嬉しそうな足取りで俺を引いて歩く。


 嬉しそうならいいさ。

 俺がちょいと恥をかくくらいで姉さんが嬉しそうなら。


 そうして、ショッピングモールの地下にある画材屋へやってくると、姉さんは先程とは打って変わって、真剣な表情で画材を見始めた。


 見ているのは油絵の画材で、筆を取って、その毛先を指で撫でながら、物を選んでいるようだ。


「……姉さんって、油絵やってたんだっけ?」


 俺の記憶の中では、スケッチブックに鉛筆でデッサンしていただけなので、こんな本格的にやっているとは思っていなかった。


「いえ。普段は水彩画なんだけど、ちょっと新しい事に挑戦したくて」

「……こう言っちゃなんだけど、筆に違いってあるの? そりゃ、太さとかあるんだろうけど、そんなふうに指でいじらなくてもわかるんじゃない?」

「そんな事ないわよ。水彩絵の具と違って、油絵の具は粘り気があってちょっと硬いから、それに負けない毛じゃないと。まあ、あえて柔らかい毛を使ってもいいんだけどね。描きたいものに応じて変える、って感じかしら」


 ふぅん……。

 絵心もなきゃ描く気もない俺にはわからない世界だが、やはりどこの世界にも、やる人にしかわからない心遣いみたいなものがあるんだな。


「どう? ナツくんも描いてみない?」

「俺が? ははっ、俺って絵が下手だから」

「写実的に物を描く事はないわよ。もちろん、基礎のデッサンは大事だけど。絵画っていうのはモチーフと自分の心のせめぎ合いが大事だから。自分の表現したいものと、キャンバスに刻まれた絵の間を埋めるために、技術がいるってだけ。描きたいものを描けるように描けばいい」


 本当は、絵に上手いも下手もないの。

 姉さんはそう言って、筆を三本ほど手に取って、持っていた買い物かごに入れた。


「かご、持つよ」


 姉さんからかごを取ると、姉さんは「ありがとう」と俺にかごを任せる。


「何を描こう、みたいな予定があるとか?」

「んー……。デッサンをいくつかこなしてから決めようかと思ってたけど、そうね、ナツくんの肖像画でも描こうかしら」

「俺の顔を描くの? この顔を描いてもらってもなぁ」


 そう苦笑して、俺は自分の頭を掻いた。別にイケている顔というわけでもなく、姉さん秋菜と並ぶと『ほんとに血が繋がってるの?』なんて疑われる冴えない顔だもんで。


「あら、いいじゃない。私は、ナツくんの顔好きよ」

「へっ?」

「今みたいな、困ったり照れたりした顔なんか、特に」


 いやほんと、姉さんってば人が悪い。

 会話のイニシアティブが取れないから、やりにくいったらありゃしない。俺が秋菜を相手にする時のような、子犬でも相手にするような感情を、もしかしたら姉さんも今、抱いているのかもしれない。


「そこまで言うんなら、描いてもらおうかな。せっかくだし」

「ふふっ。ある程度、油絵の具になれたら、付き合ってね」


 約束よ、と、姉さんは言って、立てた小指を差し出してきた。

 俺は苦笑して、その小指に自分の小指を絡ませた。


「あぁ、約束するよ。楽しみにしてる」


 なんだか姉さんの前ではいつまでも子供みたいだ。いや、実際まだ子供なのかもしれないが。


 ちょうど、そんな話をしていた時である。


 俺の制服に入れていたケータイが鳴って、姉さんから小指を離し「ちょっとごめん」と、ケータイを確認する。


 そこには、桐谷織花の文字。電話か。


「はい、夏樹」

『ケロケロ、織花だよ』


 なぜか、織花は電話の時『もしもし』ではなく『ケロケロ』という癖がある。よくわからないし、出会いたてのころはちょっと痛くね? と思ったりしたが、なぜか今ではこのケロケロが聞きたい自分がいる。


「はい、ケロケロ。どした?」

『んーにゃ、ちょいと明日の段取りの確認したくてさ。明日、観に行く約束してたろ? ブラッドベリサーカス』

「あぁ、そういやそうだ」


 忘れていたわけではないが、明日ってことは意識してなかったな。


『休日だし、チケット早めに取りたくってさ。何時から行く? 一番早いので10時からなんだけど』

「あぁ、それでいいんじゃねえか? お前が起きれりゃの話だけど」

『アホ抜かせ。ボクは映画に関して抜かりのない女よ。んじゃ、明日の10時に、いつもの映画館前で。席はプレミアムシートでいいだろ?』

「あぁ、いいよ」

『おめかししてこいよ』

「お前もな」


 おめかしって、久々に聞いたなと思いつつ。

 俺は織花との電話を切って、ケータイをポケットにしまった。


「……今の電話、誰かしら」


 なぜか、楽しい話を終えて姉さんを見たら、姉さんが軽く怒気を含んだ目で、俺を見つめていた。


「えっ、誰、って……。えと、友達だけど」

「友達」


 ふぅん、と、なぜかその言葉を染み渡らせるみたいに、何度か頷く姉さん。


「女の子?」

「え、そうだけど」

「ふぅん。デート中に、女の子と、次のデートの約束ってわけ」


 これってデートなんですかとか、織花とのあれだってデートではないつもりなんですがとか、いろいろ言いたい事はある。

 しかし、俺がどう思っていようと、男女二人で出かければデートなのだろう。


「い、いや、姉さんも会ったことあるやつだよ? 桐谷織花。覚えてない? 俺、中学の頃に結構家に連れてきてたと思うんだけど」


 ほら、ショートカットのだらしないカッコした、と、説明すると、姉さんは「あぁ」と頷いてくれた。


「あの、ナツくんと妙に距離の近かった」


 どういう人間の覚え方だよ。

 まあ、確かに俺と織花はかなり距離が近いとは思うけど。


「多分その子だけど、明日、その子と映画行くんだよ」

「わ、私も行くわ」

「……いや、やめといたほうがいいと思うよ。怖いやつだし」

「くっ……!」


 何故か悔しそうに拳を握りしめる姉さん。血とか出てくるやつは基本的に『怖いから』と見ないので、ブラッドベリサーカスは間違いなく無理だろう。

 ちなみに、秋菜も無理。姉妹揃ってグロ、ホラー、スプラッタは苦手なのだ。秋菜は強がって否定するが、俺のホラー映画棚からは必死に目を反らしているので、間違いないだろう。


「んで、明日は映画見た後、ウチに泊まるから」

「……は?」


 姉さんが目を見開いて、マジかこいつ、みたいに俺を見てくる。


「お、女の子、でしょ?」

「うん」

「な、ナツくんの部屋に泊まるの?」

「あぁ。つっても、二人だって明日いるだろ? 二人っきりってわけじゃあないし」


 まあ、一人暮らし時代から、部屋で雑魚寝とかしてたけど。


「こ、これは……由々しき問題だわ……」


 と、姉さんは人差し指の腹を唇で噛みながら、明後日の方を見る。

 ……一体何を考えているんだろうか。多分、見当違いな事だろうが。

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