第5話『役割の話』

 毎朝起きた直前、一瞬だけ、俺が抱えている悩みなんてどうでもいいや、みたいに頭がものすごく馬鹿になる瞬間がある。


 誰かに話したことがないので、他の人もこういう感覚があるのかは知らないが、俺はこの時間がすごく好きだった。


 でも、本当に一瞬なので、すぐため息を吐いて、ベットから出る。学校は嫌いじゃないから、行きたくない、いう事はないのだが、俺も人の子なので、ずっと寝て過ごしたいと思う事は頻繁にある。


 しかし、血の繋がらない俺を学校に行かせてくれている玲二さんのお金を無駄にするわけにはいかないので、さっさと一階に降り、シャワーを浴びて朝ごはんを作らねば。


 階段を降りながら耳を澄ますと、なんだか静かだ。昨日は姉さんが朝ごはんを作ってくれていたが、今日は作っていないらしい。


 まあ、それなら俺がさっさと作って、サッと食べよう。


 その前にシャワー浴びよう。


 一階廊下奥にあるドアから脱衣所に入り、寝間着のTシャツとスウェットを脱いで、脱衣カゴに放り込んで、風呂場の引戸を開いた。


「へっ!?」


 俺が引戸を開いた瞬間、流れ出すシャワーの音。目の前には白い肌と、なめらかな曲線と背骨の凹み。ほどよく膨らんだ尻。そのすべてを惜しみなく、バスチェアに座って俺に見せつけているのは、秋菜だった。


 流れ出すシャワーに髪を濡らしながら、驚いた表情でこちらを見ている。肌を伝う雫が体を撫でる様に、俺は、不覚にも乾く喉を生唾で紛らわすほど緊張していた。


 俺達は数秒ほど見つめ合った。さっさと出ていくべきなのはわかったし、俺も裸なので、前を隠したりすべきだったのだが、こういう経験が初めてすぎて、固まったあとに出た言葉は


「……あー、ちょっと痩せた?」


 だった。

 やっと出た言葉がこれとは、我ながら気の効かないもんだ。

 当然、秋菜がそれで上機嫌になるわけもなく、彼女は傍らにあったシャンプーのボトルに手を伸ばしていた。


「やっ、ちょ、ちょっと待て秋菜!」

「さっさと出てけぇッ!!」


 投げられたシャンプーボトルをバレーのスパイクみたいに地面に叩き落として防ぐと、秋菜から「なんでガードすんの!!」と理不尽な事を言われ、さっさと風呂場のドアを閉めた。


「はぁー……っ。油断したぁー」


 先程無造作に寝間着を入れた脱衣カゴを見ると、影に隠れて秋菜のキャミソールとピンク色の下着が脱ぎ捨てられていた。いつもは俺が一人でさっさと起きて、風呂入ってたもんだから、誰もいないと思ってしまった。


 シャワーの音が聞こえなかったのは、開けた瞬間にシャワー流し始めたからか……。


「……にしても、マジで秋菜、ちょっと痩せたな」


 ちゃんと食べてるのかなぁ、と心配になり、朝ごはんは少しボリュームを増やしてやろうと決意して、脱衣カゴから自分のパンツを手に取ったその時である。


 がちゃっと、脱衣所のドアが開いたと思えば、そこには姉さんが立っていた。水玉模様のパジャマを着て、俺をまっすぐ見ていた。


「あら」

「げぇッ! 姉さんまで!?」


 さすがに、俺は慌てて持っていたパンツで自分の股間を隠した。


「ご、ごめんなさい。入ってるとは思わなくて……あら?」


 姉さんは、俺の背後でシャワーの水音が鳴っている風呂場の磨りガラスが目に入ったらしい。

 それだけ見れば、この家に三人しかいない以上、秋菜が入っているのを推測するのは難しくないだろう。


 次に、俺が股間を隠しているパンツを見る姉さん。

 そんな姉さんを見て、俺は、姉さんが何を考えているのかわかった。


「……ち、違うよ」

「ナツくん……。私も、きっとアキちゃんも、ナツくんのことは家族だと思っているけど、それでも、その歳で男女が一緒にお風呂、っていうのはどうかと思うの」

「違うよ!? 偶然だからね! 秋菜が入ってるの知らなくて入ろうとしたら鉢合わせして追い出されただけだから!」

「そうなの? ……まあ、ナツくんがそう言うなら、信じるけど」

「あ、ありがとう……」


 俺は軽く頭を下げ、そして、さてどうしたものかと姉さんと見つめ合う事になった。いや、出てってくれよ。

 期待して見ていたのだが、姉さんは何をどう考えたのか、ほんのり顔を赤くして顔を反らした。


「いや、あの、姉さん、出てってくれるかな……」

「あぁ、そうね。ごめんなさい」


 やっと、廊下に出て扉を閉めてくれた姉さんを見送り、俺はパンツを履く事ができた。結構時間かかったような気がしたのに、まだパンツかよ。


 朝は忙しいのに、何やってんのよ俺、などと呆れて、Tシャツを着ようとしたら、今度は秋菜が入っているはずの風呂場のドアが開いて、思わず「えぇ……」とものすごく嫌そうな声を出してしまった。


 ちょっと出るには早いから、詰替え用のシャンプーなりボディソープなりを取ろうとしていたのだろう。


「でえぇ!? なんでまだいるのお兄ちゃん!?」


 勢いよく閉まった風呂場のドア。その磨りガラス越しに見える秋菜のシルエットに、先程の光景を思い出してしまい、水を被った犬みたいに頭を振った。


「いろいろあったんだよ……。着替えて出てくから、そのままでいてくれ……」


 できるだけ急いで服を着ると、やっと脱衣所から出る事ができた。

 仕方ないので待っている間、朝飯の準備をしておこうと思ったら、姉さんが作ってた。


 なので、俺は姉さんに「手伝おうか」と言ってみたのだが「人と一緒に料理するとスピードが落ちちゃうから大丈夫」と言われ、おとなしく退散した。


 わかる。料理って基本一人でするから、分担作業がよくわからない(じゃあなんで手伝うなんて言ったのかといえば、そりゃあ善意である)。



 ……する事がない。

 する事の無い朝って、いつぶりだろう。さっきまではなんか忙しかった気がしたのに。


 なにかしようと考えてみたのだが、結局思い浮かばなくて、ソファに座ってテレビを見た。


 久しぶりにテレビなんて見たせいで、知らないお笑い芸人が、まったく面白いと思えないリズムネタをやっていて、俺のセンスって置いてかれてるんだな、と悲しくなってしまった。



  ■



 秋菜が風呂の火照りだけでなく、おそらく先程俺に裸を見られたからだろう真っ赤な顔を引っさげ、制服に着替えてリビングにやってくると、今度は姉さんが風呂に入り、次いで俺も入って、三人揃った朝食を済ませて、家を出る事ができた。


 今日もバイク登校は許されなかったので、俺を真ん中に、左右を姉妹に挟まれた、ウチの学校の男子生徒からはすこぶる評判の悪いフォーメーションで登校することになった。


「あの……朝ごはん、晩ごはん、当番制にしない? 今日みたいにみんなが作ろうとして、風呂を覗き合うみたいなのを防ぎたいんだけど」

「異議なしっ!」


 俺の提案に食い気味で乗ってきた秋菜。ごめんね。できるだけ早く秋菜の裸体は忘れるから。


「そうね……。いくらなんでも、毎朝裸体を見合うなんてふしだらな関係、早すぎるもの」


 姉さん、その言い方やめて。あと、今日姉さんだけ裸体晒してないから。

 もう少し学校に近いところでそんな発言されたら、俺多分男子にイジメられる。


「今日は姉さんが作ったから、明日は俺が朝ごはん作るよ。今日の晩ごはんは秋菜でどう? 用事ができたりした時は、他の二人に相談して変わってもらうって感じで」


 俺の意見に二人共反対はないみたいで、各々「賛成」と言ってくれた。


「じゃあ、お兄ちゃん。さっきのお詫びに、今日は秋菜に付き合ってよ。晩御飯の材料、持ってもらうからね」


 少し怒ったような表情でそう言われてしまい、俺は今日のバイトが無いことをスマホに入れていたカレンダーで確認する。


「まぁ、バイト無いし、いいよ。姉さんは?」


 俺がそう言うと、何故か秋菜が、ジッと姉さんを睨んでいた。その表情に、姉さんが何を見たのか俺には察せないが、姉さんにはわかったのだろう。


 静かに頷くと「今日はやめとくわ。部活にも顔を出さなくちゃ」と言って、微笑んだ。


 ちなみに、姉さんは美術部に所属している。特にプロの画家とかを目指しているわけではなく、絵を描くのが趣味なのだ。


「そっか。んじゃ、久しぶりに秋菜と二人きりか」


 なんの気なしに呟くと、秋菜は「そ、そうだね、お兄ちゃん」と、まだ慣れていないのか、少し上ずった呼び方をしていた。


 学校が近づいてくるにつれ、徐々に視線が集まるのを感じる。


 これだけはいつまで経っても慣れなさそうだ。

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