10.友人協定



「優子、お待たせ! 洗面所が混んでて、朝ごはんに行きましょ」

「ちょっと待ってて紀美子、あとちょっとだけ読ませて」

「相変わらず本の虫ね。どれくらいで終わる?」

「5分で読んじゃうよ」

「分かった。じゃあ待ってるわ」


 いつものように図書館から借りてきたたくさんの書籍に視線を落とす日々。約束通りきっかり5分後、優子は目的のページまで目を通し紀美子に声をかけて寮を出た。

 エリカの転入から2週間が過ぎようとしている。

 この2週間、椿丘女学院は“普通に”回っていた。2週間前と何も変わらずに、まるで、決定打から目を背けたかのように平然とした顔をしていつも通りを装って回っている。歪な均衡はいつまで続くのだろうか。紀美子の隣で笑いながら、銃士の像の横を通り過ぎながら優子は考える。


 空からは青い光が差し込んでくる。

 空の青を見上げ優子は目を細めた。【拝啓地平線の彼方】で言うのなら、これは少年を取り巻いていた青だろうか。残念ながら山の中にあるこの箱庭からは、海の青を拝むことは出来ない。少女の青は当分優子の目に映ることはないだろう。


 優子と紀美子はいつものように食堂を訪れ、いつものように自分の食事を確保し、いつものように空いた共に腰を下ろした。話題はいつもと変わらず授業のことや優子が最近読んだ本のこと、それから紀美子の作品制作の近況についてばかり。代わり映えのない学園の生活を2人はなぞっていく。それは本当にいつもと変わらぬような朝だった。


 しかし、いつも通りはそう長く続かずに、ふと異端が顔を覗かせる。

 ふたつの影の登場に食堂が音も立てずにざわめいた。空気がそわそわと揺れ動くのを感じながらも、優子はあえてそちらを見ないように心がけていたのだが、座った場所が悪かった。視界の片隅にどうしたってその並んだ影を捉えてしまい、誰にもバレないようにため息をつく。


 どうせなら、あんな光景見たくないのに。


 優子の視界に映る、薔薇子の半歩後ろを歩くエリカの姿が。エリカは本物の従者のように薔薇子に付き従っている。しかしそこには隷属民などという乱雑な言葉には似つかわしくない甘美な空気感が漂っていた。あれでは奴隷の従者ではなく、姫君に付き従う騎士にしか見えない。

 ああ、綺麗だな。

 2人を取り囲む活字の中かと錯覚させるほどに美しい世界に、優子はもう一度、誰にもバレぬようにため息をつく。


 元貴族であるエリカが隷属民に落ちたことも、彼女の学生証を薔薇子が持っていることも知らない生徒は今やこの椿丘に1人として存在していないだろう。薔薇子が聖女であるため、じろじろと視線を向ける者はいないけれど、食堂中の意識が2人に向けられていることは確かだった。


 椅子を引き薔薇子を座らせるエリカ。完璧なエスコート。エリカは可愛らしい顔をした紛うことなき女性であるのに、あれではまるで本物の王子様だ。


「いつもと同じのでいいの? たまには違うのにしないと飽きちゃわない?」

「構わないよ。いつもと同じものを持ってきてくれ」

「ハイハイ、今日は紅茶? それともコーヒー?」

「そうだね……紅茶をお願いしようか」

「お砂糖とミルクは今日もなし?」

「ああ、無くていいよ」


 動作は紛れもない従者と主のそれであるのに、聞こえてくる会話は親しい友人達のものを思わせる。エリカは薔薇子を座らせるとちょっと待っててねと手を振り彼女の食事を取ってくるべくその場を立ち去った。


 優子は紀美子から彼女たちはジュニアの頃から親しかったと聞かされていた。

 エリカの薔薇子に対する態度は他の貴族たちのものとは大きく異なっていた。先生や理事長など第三者の目があり敬称や敬語を禁じる椿丘の表のルールが適用される場合を除いた時には貴族たちが皆、聖女である薔薇子のことを様付けして呼び敬語を使い丁寧に丁寧に扱うのに対し、エリカはいつだって薔薇子のことを呼び捨てで呼び親しい友人のように接していた。それはエリカが隷属民に落とされ薔薇子との間に絶対的な主従関係が出来てからも変わらない。聖女の所有物である隷属民として動いていようと、エリカは依然として薔薇子のことを【薔薇子】と呼び、当然のように軽口を叩いていた。


 しばらくしてテーブルへと戻ってきたエリカは薔薇子の前に彼女の朝食起き、自身も薔薇子の向かいに腰を下ろした。


「毎日グラノーラで飽きないの?」

「もうこれで習慣づいてるからね」

「そんなもん?」

「そんなものでしょう。エリカこそ、それだけで足りるのか?」

「美味しいよー、お砂糖とミルクたっぷりのミルクティー」

「角砂糖、いくつ入れてるの?」

「5つ」

「……そんな甘い物、自分には飲めないな」

「薔薇子は昔から甘い物得意じゃないもんね」

「その量は得手不得手の問題でもなさそうだけど?」

「えー、美味しいよ。ちょっと飲んでみなよ、ほらほら」

「やだ。飲まないよ」


 エリカが差し出したマグカップを薔薇子は片手で遠ざけながらクスクスと笑う。本当に、親しい友人同士の戯れのようだ。


「いい加減にしないと怒るぞ」

 口ではそう言っていても薔薇子の表情は穏やかであり、それが分かっているからこそエリカも「お許しくださいませ薔薇子様」とおどけて見せる。

 聖女と隷属民が膝を合わせて食事をしながら笑い合うそれは、この椿丘において異様な光景だった。

 エリカという少女はどうしょうもないほどに、異質であった。


 エリカと薔薇子はどんな関係なのだろうか。

 どんな関係だったんだろうか。

 そんな疑問がぐるぐると優子の心中を渦になって駆け巡る。


 ……いや、何だっていいだろう。エリカにとって薔薇子が何であったとしても、自分は彼女にとって今この学園において唯一の“友だち”なのだから。

 胸のうちを取り巻きかけたほの暗い感情を消すかのように、優子は自分に言い聞かせながらあの図書館での出来事を無理矢理にでも思い出した。




 2週間前のあの日全校集会終わりの図書館で、優子はエリカに首を絞められた。

 しかし窒息死までの5分間を待たずに、エリカは優子の首筋から手を離すと、そして悲しげに微笑んだのだ。


「抵抗してよ」

「そんな顔して言われても」

「わたし、どんか顔してる?」


 2秒ほど考えた後で優子が思ったままに「迷子の子供みたいな顔」と答えると、エリカはそりゃあひどいなと笑って見せた。

「迷子かぁ、迷子。そうかも」

「貴方はこの本に出てくる、空の少年みたい」

「……【拝啓地平線の彼方】?」

「そう」


 ひとり空の世界から海の世界にやって来てしまった独りぼっちの少年。帰る方法もわからず、生き方の異なる海の世界でもがく悲しい少年。

 真っ赤な髪を揺らす少女は、青い少年によく似ている気がした。


「……それ、せっかく教えてもらったのに。ここにあるって優子が教えてくれたのに。だけどわたしにはもう借りられなくなっちゃった。……ごめんね」


 優子の膝の上にある【拝啓地平線の彼方】を指さしながらエリカは言った。彼女は隷属民に落とされた身。学生証がなければ、図書館で本を借りることも出来ない。


「……そんな」

 そんなこと気にしなくていいのに。優子が言葉をつむぎ切る前に、またエリカが口を開く。

「その本、美園がわたしに教えてくれたんだ。オススメだよって。美園も、本が好きだったから」


 エリカの口から零れたのは、彼女の手によって死に追い込まれたと言う少女の名前。貴族であったエリカと仲の良かった市民の女の子。今優子とエリカがいるこの場所で、ふたりで会っていたという女の子。


「でも、わたしには読めなくなっちゃったね」


 悲しげに微笑むエリカの目に自分は写っていないのだと、優子は直感した。今彼女の美しい瞳に映し出されているのは優子ではなく、かつてここに座っていたはずの少女。

 エリカが美園に抱く感情が何であるのか優子には分からない。分からないけれど、今すべきことが何なのかは分かった。


「エリカが言ったんだよ、ここでまた会おうって」

「……」

「だから私は来たんだよ。あなたに会いたくて。あなたに会うために。ねぇ、エリカ、ここに来た時にもう覚悟は決めたよ。この先、何があるかは分かんないけど、覚悟は決めたんだよ」


 そう言って優子は膝の上に置かれた本を手に取り、エリカに差し出した。見開かれた目はやはり美しい。


「私の名前で借りたの。又貸し、図書館の人にバレると怒られちゃうから秘密ね」


 エリカが隷属民に落ちた時点で本を借りることが出来なくなると分かった時点でこうするつもりだったのだ。唯一の懸念はエリカがこの場所に来てくれないかもしれないということだったが、来てもらえたのならもう迷うことは無い。

 戸惑いを隠せぬエリカに優子は精一杯の笑顔を向ける。


「ねぇ、エリカ。私とお友だちになってくれませんか?」


 いつか来る別れを理解しながらも海の国に住む少女が空から落ちてきた独りぼっちの少年に手を差し伸べたように、優子は微笑み、エリカに手を差し伸べた。

 活字の世界に暮らす少女はこんな気持ちだったのだろうか。そんなことを考えながら。



 薔薇子とエリカの関係が何であるのか、優子には分からない。分からないけれど、ひとつ言えることがある。

 貴族から隷属民に落ち、人殺しの噂まで立つエリカは椿丘における状況はまさに針のむしろ。彼女に近づくものはエリカの所有者である薔薇子を除けば誰もいない。彼女は独りぼっちなのだ。

 そんな中エリカの中で友人に位置づけられているのは椿丘の中で唯一、優子だけだろう。


 いいの、私は唯一、エリカの友人なんだから。

 エリカの友だちは、私だけなんだから。


 余りに惨めな優越感に浸りながらも、視界の片隅で笑い合うエリカと薔薇子に、優子は言葉にしようもない感情を胸の中でぐるぐるとくゆらすばかりだった。

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