9.5分もすれば窒息死




 少女は空を見上げていた。そこには彼女たちの生活の基盤となる青とはまた違ったブルーが広がっている。彼は少女の知らない青から来たと言っていた。

 少女を取り囲む安っぽいけれど温かな青とは異なる、どこか冷たい無機質な青の中で生きてきた少年は、帰るべき場所があった。いずれ彼は自分の生きるべき青の中へと帰っていくのだろう。それでも、すべてわかった上で少女は少年に向かって手を伸ばした。


「ねぇ、わたしと友だちになろうよ」


 空と海とでは言葉が僅かに異なっている。少女は自分の想いがきちんと少年に届いている自身はなかった。それでも、そこにあったのはほんの少しの好奇心と、彼への純粋な善意だった。

 せめて彼が本来の青へ戻るまでの間孤独を感じないように、この潮風の青色の中にいるうちは自分が彼の隣にいよう。

 少女の手にはそんな思いが込められていた。

 その善意の裏側にこっそりと隠され芽吹いた想いを少女が知るはずもない。


「貴方の世界、貴方の言葉でわたしに教えて。ねぇ、空ってどんなところなの?」


 少女の言葉に少年は目を見開いた。


「……オレ、の空は」





 人の気配を感じた優子は【拝啓地平線の彼方】を閉じ、顔を上げた。

 ここは図書館の3階。非常階段の手前にある本棚に囲まれ人があまり寄り付かない、優子のお気に入りのスペースだ。


「……いないかと思ってた」


 現れた人物はそこに座る優子の姿に少し驚いた顔をした後で、どこかホッとしたような笑顔を作り開口一番にそう言った。


「ルームメイトとか、友だちに止められてない? わたしに関わるなって。隷属民と市民が関わっちゃダメってこともないんだろうけどさ」

「うん、ルームメイトに止められた」


 隠すこともなかろうと正直に頷くと、彼女は目を丸くした。

 そんなさも当然のことのように言うことではないよ。

 エリカの言葉に優子はそうかもねと微笑んでみせる。


「優子の今のルームメイトって誰?」

「紀美子だよ、知ってるかな?」

「ああ、あの子か。顔と名前は知ってるよ。話したことないけど、芸術やるためにうちに入ったんだよね。サバサバしたカッコイイ感じの子でしょ? そんな子に止められたら普通こないんじゃない?」


 人のこと無闇矢鱈に悪く言うタイプには見えないもんと、エリカ。

「でも私が来たかったから」

 何か問題でも?

 そう優子が笑うと、呆れたと、そう言ってエリカも笑う。

 座ってもいいかと尋ねられた。優子は彼女に自分の目の前の椅子に腰掛けるよう告げる。こうやって向かい合い、改めて顔を合わせると何だか緊張してしまう。真っ直ぐに優子を見つめるエリカの目はやはりとても綺麗だった。


「その様子だと、紀美子からわたしのこと何か聞いてるんじゃない?」

 正直に頷くべきか迷った末に優子は首を縦にふる。「少しだけね。ジュニアの頃の貴方の話を聞いたよ」


「ていうことは、あの子のことも聞いてる?」

「……エリカの言うあの子がどの子なのか、人伝にぼんやりと話を聞いただけの私には判断つかないけど、貴方の過去の話の中には、エリカ以外に2人の女の子が出てきていた」


 優子は膝の上に座っている【拝啓地平線の彼方】の表紙をなでながら、昨晩部屋でルームメイトである紀美子から聞かされたエリカの話を思い返す。


「私が聞いた話には、エリカと、聖女の薔薇子様、それから貴方の親友だったて言う……美園って市民の女の子が出てきてた」

 当事者ではなくあくまで第三者という立場の紀美子の口から語られた、ジュニア2年生のエリカの姿を思い返す。エリカは何も言わないで優子の話に耳を傾けた。

 彼女は貴族の地位にいながら、隷属民には関わりを持たなかったものの、市民たちとはそれなりに仲良く付き合っていたと紀美子は言っていた。エリカは覚えていないようだが、紀美子もエリカと話をしたことがあるそうだ。

 市民はあくまで市民側からの貴族への過度の接触と、聖女への接触が禁止されているだけであり、貴族にとって市民は虐げる対象にはならない。それは隷属民の役割だからだ。そのため市民と親しくしているエリカの言動を咎める貴族はいなかったという。

 その中でも一番に仲が良かったのが、美園という市民の少女だったそうだ。

 美園は、本が好きであまり目立つタイプではなかったらしい。エリカの言っていた本が好きで彼女に【拝啓地平線の彼方】を勧めたのもおそらくその美園なのだろう。


 だけれど、今この学園に美園の姿はない。

 市民の地位にも隷属民の地位にも、美園という少女はいない。


「……ねぇ、エリカ本当なの?」

「優子なんて聞いてる? 美園はどうしていなくなったって聞いた?」

「……」


 エリカからの問いかけに優子は口どもる。彼女が紀美子から聞かされた話の結末は、あまりにショッキングなものであった。それはとても非現実的で、まるでフィクションのようで。


「殺されたって聞いたの、あなたに」


 やっぱり綺麗、エリカの目。とっても綺麗。

 暗い茶色の虹彩を真っ直ぐに見つめながら告げた優子を、エリカは表情を変えずに見つめていた。

「貴方が美園って女の子を親友を殺した。学園はそれを美園の自殺として隠蔽し、貴方を退学させることで揉み消したって聞いたの」

「……」

「……本当なの、エリカ」

「まだ出会って2日、しかも人殺した噂がある人間に堂々とその真偽を問うものかな、普通」


 やっぱり君って少し変だよね。

 そう言うとエリカは立ち上がり、そして。


「……ッ」

 エリカは、薄い黄色のカーディガンから覗いた優子の白い首筋に手をかけた。

 優子の首筋よりももっと白く細い指が、くくっと首筋に沈んでいく。首筋を締め上げていく。

 突然のことに優子は抵抗することも出来なかった。驚きに見開かれた目が、自分と似た色をする暗い茶色の虹彩を呆然と見つめる。やっぱり綺麗だ。綺麗な、目をしている。器官が閉めあげられる苦しさにもがく事もせず、優子はぼんやりと場違いなことを考えた。

 苦しいけれどまだ酸素は行き渡っている。


「ねぇ、優子。どうしてこの非常階段のスペースに人が寄り付かないか知ってる? 本棚に囲まれた死角だから? それとも周りに置かれた本が読む人を選ぶマイナーな分野の専門書ばかりだから?」


 人は5分ほどなら呼吸をせずとも死なないと聞いたことがあるが、エリカはこんな細い指で5分も自分の首を絞めていられるのだろうか。


「違うよ優子。ここに人が来ないのは、ここがわたしと美園がよく2人で会っていた場所だったからなんだよ」


 エリカが笑う。やはり彼女の瞳はとても綺麗だなと、そんなことを考えながら優子は目を閉じた。

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