8.初めの転落




 貴族の地位に自身がいたと、エリカが言ってのけると同時に、多目的ロビー全体に緊張が走った。エリカを知らぬ優子にも、エリカを知っているはずの内部進学組にも。

 そんな中で顔色を変えずにいるのは、依然として壁の時計を眺め続け傍観に徹している、聖女薔薇子ぐらいのものだろう。


 ……やっぱり、エリカはもともとこの椿丘女学院の生徒だったんだ。


 優子の中にあった疑念が確証に変わった。全校集会で一部の生徒がざわついていたのはそのためだったのだ。エリカが一体過去に何年間、椿丘に在籍していたのかは分からないが、少なくともエリカの存在を知らなかった優子が入ってくるよりも前であることは確かである。仮にエリカがジュニア3年までいたとしても、彼女の存在を知っているのは現シニア1年生以上の学年に限定されるだろう。


 それから、エリカは貴族……。


 その事実には驚きを隠せなかった。

 エリカの態度は、優子の知る貴族たちのそれとはかけ離れていた。エリカの言動から察するに彼女は貴族でありながらこのカースト制度を忌み嫌い、そしてそれを平然と口にしてみせているようだった。

 それだけではなくあの理事長に対する不満を口にすることさえも、彼女がためらうことは無い。

 エリカのことを異質な存在だと捉えていたけれど、それはどうやら想像以上のものであったらしい。エリカは完全な未知の存在だったのだ。


「……単刀直入に聞くわ。何しに来たの」

「ひどい言い草だね。転校にそんな大それた理由がいる?」

「4年前に自分がしたこと分かってるのかしら」

「……」


 4年前。

 その言葉にエリカがまとっていた空気がピリッと揺らいだ。

「3年生のこんな時期に……あと半年で卒業なのよ。そんな時期にここに乗り込んできて貴方は何を考えているの」

「4年前の事件について詳細が知りたければわたしなんかよりあの理事長に聞くといい。もっとも、あのクソみたいな男は何も語らないだろうけどね」

「貴方はいい加減に……ッ、それ以上理事長先生を侮辱しないでちょうだい! 何様のつもりなの!?」


 早苗が顔を真っ赤にして声を荒らげる。2人の会話に口を挟むことはないけれど、早苗の両サイドに座る貴族たちもまた、エリカに対する怒りを顕にしていた。

「4年前のことを思い出すと吐き気がするわ。大体ね、貴方みたいな女が関わったから、美園は――」


 その刹那、エリカが動いた。


 彼女は腰掛けていたソファの背もたれから退くと同時に体を回転させ勢い任せに貴族たち目掛けてソファを蹴りあげた。

 大きなソファが傾き、貴族たちとエリカの間に設置されていた小さなテーブルの上に乗り上げる。

 けたたましい音と同時に少女たちの甲高い悲鳴が上がった。


「不快だから」


 テーブルに乗り上げひっくり返ったソファに足をかけながらエリカが低い低い声でそう言った。

 ピリピリと痺れるような空気が痛いほどに肌を刺す。


「どの口があの子の名前を出してるのかな、早苗」

「……っ」

「貴族だからってふんぞり返るのは勝手だけど、口には気をつけてよ」


 エリカのあまりの剣幕に、早苗は何も言うことができなくなってう。もし今早苗なにか言葉を発し、その言葉がエリカの逆鱗に触れてしまえばどうなってしまうだろうか。ピリピリとした空気がエリカの背後で横1列に並んでいる市民たちの元にまで伝わってくる。


 優子はぎゅっと拳を握りしめた。目の前の光景は手を伸ばせば届く距離にあるというのに、絶対に踏み入ることの出来ない境界線がそこに敷かれているような気がしてならず、そのことが筆舌しがたい感情となって胸いっぱいに広がった。



「……エリカ」


 沈黙を破ったのは今まで傍観を貫き、エリカがソファを蹴りあげようと眉一つ動かすことは無かった薔薇子だった。女性にしては低めなハスキーボイスが、静かにしんと張り詰めた多目的ロビーに響く。

「危ないだろう?」


 エリカを責めるわけでもない、やさしく窘めるようなそんな物言いだった。

「……薔薇子」

「気に触ることを彼女が言ったのなら自分からも謝ろう。だけど、だからと言ってソファを蹴りあげるのは良くないね。これで誰かが怪我をしてしまったら、大変だろう」


 ぽつん、ぽつんと落ち着いた声色で語りかけてくる薔薇子に、エリカはチィっと大きな音で舌打ちをして返す。聖女である薔薇子に対するエリカの無礼極まりない態度に貴族たちは目を吊り上げた。しかし先ほどのエリカの剣幕を見た直後のため表立って抗議する勇気あるものはいないらしい。


「相変わらずむかつく喋り方だな、薔薇子」

「そうかい」

「そうだよ」

「気に触るなら謝るよ」

「謝らなくても結構だよ」

「……そうか。それなら自分からも質問だ、エリカ」


 どうして戻ってきた。


 それは先程まで早苗が繰り返していたはずの問だった。薔薇子からの問いかけにエリカは押し黙る。

 しばらく沈黙を貫いた後にようやく、その重々しい口をようやく開いた。


「この学園の真実を暴くためだよ、薔薇子。アンタなら、この意味が分かるでしょ?」

「……」


 そう、と。薔薇子は静かにエリカに応える。エリカは薔薇子からの問に答え薔薇子もそれに納得したようだ。早苗たち貴族はそれ以上エリカの復学の理由を問い詰めることは出来ない。聖女である薔薇子がもう既に納得してしまったのだから、不躾な問いかけなど出来るはずがないのだ。


「話はそれだけ? こんなに大勢人を集めてまるで見世物みたいな真似して、もう戻っていいかな」

「待って、エリカ。さっきのお前の行動は僕にも聖女としての立場があることを考えると、見て見ぬ振りは出来ないよ。君はあまりにこの学園に反発し過ぎている。君にこのまま貴族としての地位を与え続けることを、自分以外の聖女たちも、貴族たちも良くは思わないだろう」

「へぇ……じゃあ、どうさなさるつもりかな、聖女サマ」


 余裕たっぷりな笑みを浮かべて薔薇子に尋ねるエリカ。

 薔薇子はすっと息を吸い、1拍ほど時間を置くと、真っ直ぐにエリカの目を見て言葉を繋いだ。


「学生証を置いていきなさい、エリカ」


 その瞬間、息を飲んだのはエリカ本人ではなく事の顛末を見守っていた優子だった。

 椿丘女学院に相応しくない生徒であると判断されることを条件に、貴族に学生証を取り上げられる。そうすることで、学園に所属せず貴族たちの所有物である――隷属民へと少女は堕ちていく。それが椿丘のカースト制度のルールである。

 生徒間での学生証の剥奪は、学園での地位の喪失を物語る。それはつまり箱庭での死を意味していた。


「そう言うと思ってたよ」


 隷属民に落ちろと言われてもらエリカは相変わらず余裕たっぷりに笑っていたことだろう。ポケットの中に手を突っ込み、引き抜いた薄桃色のICカードケースから小さなカードを取り出すと、それをポンと薔薇子に投げて渡した。薔薇子もそれを慌てた様子もなく受け取り、印字された顔写真と名前を確認し「確かに」と小さく呟く。


「別に隷属民に落ちんのは構わないけど、その学生証、薔薇子が持っててよ。他のやつらに自分の顔、持たれてるとかなんか嫌だからさ」

「……分かった。これは自分が持っていよう。そうなるとエリカの所有権は貴族全体じゃなく、自分に帰属することになるけど、それでいいんだな?」

「モチロン」


 隷属民の学生証は普通、貴族全体が管理している。そうすることで隷属民は全貴族共通の所有物という認識となるのだが、例外的に聖女個人が学生証を持つことで全体ではなく聖女の所有物とすることも可能だった。

 隷属民の個人所有が認められているのは、カーストにおいて唯一聖女だけ、貴族には認められない行為だ。

 ただ、聖女個人に所有権を委ねられたからと言って基本的な待遇は他の隷属民たちと何も変わらない。隷属民はあくまでカースト制度の最底辺、ヒト以下の扱いを受ける存在なのだ。


「薔薇子様、何もあんな奴の言うことなんて聞く必要ありませんわ。あんな者、我々が躾をして……」

 薔薇子がエリカの所有権を持つことが不満だったのだろうか、早苗が薔薇子に声をかけた。しかし。


「ソファひとつ蹴りあげられたくらいで、彼女に何も言えなくなったのに良くそんなことが言えるな。君たちの知るエリカという少女は、ただ苦しいだけの暴力に屈するような人間だったの?」

「……ッ」

「口の聞き方に気を付けな、“貴族”がトップだと誰が言ったんだい」

「も、申し訳ございません、薔薇子様……」


 早苗の方には見向きもせず薔薇子は冷えた声で告げる。しかしすぐ薔薇子は聖女にふさわしい柔らかな笑みを早苗に向けて「きつい言い方をしてしまって悪かったな」と謝罪を入れた。

 飴と鞭と言えばいいのか、きっと薔薇子は特にこれと言った意識もなくそれをやって退けるのだろう。


「……と言うことで、学園に戻ってきたけれど、これからエリカは貴族ではなく自分の物ということになった。皆もそのつもりでよろしく頼む」


 誰からともなく、市民の列から「はい薔薇子様」と声が上がった。薔薇子はそのことに対してありがとうと、にっこり微笑む。


「エリカも良いな」

「学生証はもうアンタに渡した。文句はないよ。なんなら尻尾でも振ってワンと言えばいい?」

「……」


 薔薇子は何も言わず、おもむろに右足のスリッパを床に放り投げた。


「……悪趣味だなぁ、薔薇子“様”も」


 彼女が何を望んでいるのか理解したエリカは、倒れたソファから降りると真っ直ぐに薔薇子の元へと歩いていった。そして彼女に跪き、掬いとるように薔薇子の右足を手に取る。滑らかな手つきで靴下を脱がせると、エリカは彼女甲にキスを落とした。


 ちゅっちゅっと小さなリップ音が多目的ロビーに響き渡る。その間貴族も、市民も、呼吸音をたてることすら許されないようだった。全員がエリカと薔薇子が作り出す官能的な空気に飲み込まれた。


「これからよろしくな、エリカ」

「……わん」


 薔薇子のふくらはぎを撫でもう1度甲にキスを落としたエリカは、いつもと変わらない余裕たっぷりな笑顔を浮かべていた。



「……」


 優子は絵画のように美しいその情景にただただ見蕩れ、しかしそのけして踏み入ることの出来ない境界線の前で焼け付くような悔しさに胸を焦がしていた。

 触れられない。

 近づくことすら許されない。


 まるでおとぎ話に出てくる騎士のように聖女に跪くエリカと、忠誠を誓うような口付けをしながらも反抗的な目で自らを見上げる彼女を満足げに見下ろす薔薇子。

 2人だけの世界がそこで完結しており、そこに優子の入る隙間など1ミリたりとも存在しないのだ。



 ……苦しい、こんなにも、胸が苦しい。


 昼間エリカと図書館で会ったときに心をぽかぽかと温めていた光はもうどこか遠くの彼方へ飛んでいってしまった。

 それでも優子は目の前の光景から目を離すことは出来ず、その脳裏にずっと見つけたばかりの青い詩集のフレーズを繰り返すのだった。

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