6.温かなひかり



「貴女……」

「どこに言っても人の目が気になっちゃってさ。みんな見てくるんだもの、嫌になるよ。落ち着けないし、体に穴が空いちゃう前に人気がなさそうな所に逃げてきたんだ」


 そう言って先客は、エリカはニカッと笑ってみせた。理事長の仮面の笑顔とは異なる明るい笑顔だ。

 ……こんな明るい笑顔を見たのに、自分はどうして理事長のことを思い出したのだろう。正反対だからつい、頭に浮かんだのだろうか。


「ここいつも使ってるの? わたしがいると邪魔だったら退くよ」

「……き、気にしないで」

「そう?」

「……」


 じゃあ遠慮なく、とエリカは深く椅子に腰掛ける。


 き、気まずい……!


 やっぱり出ていってもらえば良かっただろうか。小さなテーブルを挟んだエリカの向かいの席に腰掛けながら、優子はうろうろと視線をさまよわせる。しかしここは暗黙の了解で優子がよく使っているだけであり、本来は誰でも利用できる共有スペースだ。彼女が先に使っていたところに自分が勝手に押し入ったのだから出て行けというのもおかしい。

 今日は別の場所を探そうか。それとももう部屋に戻ってしまおうか。

「ねぇ、確か名前、優子だったよね」

 そんなことを考えながら借りてきた本にすら手を付けずに下を向いている優子に、エリカが声をかける。


「え、う、うん……」

「優子っていつもここで本読んでんの?」

「……そう」

「本すき?」

「す、すき……」

「わたしもね、本すき」


 ヘラっとやわらかくエリカが微笑む。その笑顔に釣られて優子もぎこちなくだが口角を上げた。

「最初はあんまり、活字に興味持てなかったんだけど。マンガの方がすきでさ。でも友だちが本すきで、良くオススメの本紹介してくれてたんだ。そんで読むようになってね」

「そう、なんだ……」

「すげー好きだった本があったんだけどここにあるかな? タイトルも忘れちゃったからどうやって探せばいいのか分からなくて」

「どんな話?」

「空に住んでる男の子が空の国から落っこちちゃって、海で船暮らししてる女の子と出会うボーイミーツガールな話」

「それ……っ」

 優子は思わずパッと弾かれたように顔を上げた。


 この時優子は、初めてエリカの目を真っ直ぐに前から見ることが出来た。

 大きな瞳に長いまつ毛が影を落としている。


 きれい……。


 時が止まったようだった。優子は真っ直ぐに数センチ先にあるエリカの瞳を見つめた。東洋人らしい茶色の虹彩は、優子のものと同じ色。それなのにどうしてこんなに綺麗なんだろう。宝石のようなギラギラした輝きではない。淹れたての紅茶、1滴の紅茶。そんな繊細な美しさがそこにある。


「そんなに見つめられると照れちゃうよ」


 おどけたエリカの言葉に優子は「ごめんなさい!」と慌てて跳ねのいた。顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。何をしているんだと自分の行動を恥じる。

「ご、ごめんなさい、本当に」

「怒ってないからそんなに謝らないでよ」

「……っ」


 初対面の……正確には2度目、いや3度目?

 とにかくほとんどの相手の相手の目を間近でじっと見るなんて自分何をしているんだろう。


「さっきの」

 林檎のように頬や耳、首まで真っ赤に染めながら優子は声を絞り出す。

「さっき言ってた本……海と空の、あれ、この図書館にあるよ」

「本当に?」

「昨日借りて読んだの。さっき受付で返しちゃったけど、明日には棚に戻されてるはずだから」

「そっか! 嬉しいな。あ、タイトルって何だった?」

「えっと……確か、【拝啓地平線の彼方】だった」

「そうだ、それだそれ! 【拝啓地平線の彼方】だ!」


 探し物が見つかりエリカは笑顔を綻ばせる。その眩しい笑に優子の心臓がどきりと跳ねた。感じるそれは生まれて初めての感覚だった。


「あれ、すごく素敵だよね!」

「う、うん」

「特に少年が空と海との生活で揺れ動くところ、あの心理描写がすきなんだ」

「わ、私も、繊細な描写に心が惹かれて、空と海との2つの青の書き分けが……」

「そうそう!」


 ぎこちなかった優子の笑顔も次第に明るさを増していく。

 胸の中がドキドキうるさい。でもそれ以上に初めて感じた高揚感に突き動かされる気分だった。

 眩しい。眩しい、こんなにも。眩しい。

 目の前にいるのは本当に、今朝、全校集会をざわつかせたあの少女なのだろうか。

 いや、そんなことどうでも良かった。


 2人はしばらく【拝啓地平線の彼方】について語り合っていた。

 本について語らうことが出来る友人はたくさんいたけれど、そのどれとも違う感じたことのない喜びが優子の胸の中で暴れ回る。

 その感情の正体が何であるのかこの時の優子には分からなかったけれど、エリカが笑う度に嬉しくなった。もっともっといろんな話がしたい。エリカの話が聞きたい。そんな欲が彼女の中で大きくなっていく。



「そろそろ行かなくちゃ。リジチョーに呼ばれてるんだ」

 ポーンポーンと時計の鐘が鳴ると同時にエリカが立ち上がってしまった。

 もう行っちゃうの? まだ話し足りない。

 そんな目で優子が彼女を見上げれば、エリカは「またここで会おう」と笑いかけてくれた。とたん、ぱあっと優子が笑顔になる。

「約束ね」

「うん、約束」


 子供っぽい約束を取り付けて2人がまた笑いあった後で、じゃあまたねとそう言って優子は手を振って尻尾のような赤毛を揺らしながら去っていった。


 ……またね、またね。

 エリカの言葉を胸の中で反芻し優子は微笑んだ。

 ぽわんと浮かんだ温かい光。あったかくて心地いい光。

 この時の優子は、まさかその光から身を引き裂くような強い痛みがうまれてくるなんて思いもしなかった。


 先程までエリカが座っていた椅子と、優子との間にある小さなテーブル。

 その上に乗った青い詩集をエリカが冷たい目で見下ろしていたことさえ、彼女は気づくことが出来なかった。




 真紅の薔薇に恋をした。

 夕日が真紅に恋をした。

 けして手の届くことのない地平線で咲く薔薇に、夕日は恋をした。

 手を伸ばしたい。抱きしめたい。

 願うけれど触れれば薔薇は燃えてしまう。

 哀れな夕日は今日も空の上から薔薇を眺めるのだ。

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