5.図書館にて




 楽しみにしていた2時間目の社会学の講義が全く頭に入ってこない。講師の羅列する言葉の波が右の耳から入っていって、そっくりそのまま左の耳から出ていってしまうような気分だった。

 ああ、せっかく楽しみにしてたのに。

 つまんない、つまんない。


 教室の左端に席を取った優子は、頭3行を綴ったきり綺麗なままのノートを見下ろし溜息をつく。モヤモヤした胸のうちを誤魔化すかのように窓の外に視線を向けた。視線の先ではそよそよと風が青い木の葉を揺らしている。美しく輝く景色がすぐそこに広がっている言うのに、優子の心はモヤがかかったかのように曇りきっていた。

 衝撃的な全校集会こそあれど優子個人については具体的に何があったわけでもないというのに、このモヤモヤはどこから来たと言うのだろう。


 全校集会の後、あちらこちらからエリカの話題が聞こえてきた。紀美子以外に親しい友人がいない訳では無いため、その子たちからエリカについて聞くことは可能だったのだが、あの紀美子の剣幕を思い出すと、とてもそんな気分にはなれず今日は話題の一歩外で傍観することに徹していた。少なくとも紀美子の口から事のあらましを聞かされるまでは今のスタンスを貫くべきなのだろう。


 窓の外に思いを馳せる。こんな退屈な授業は放り出して図書館にでも駆け込みたい気分だ。

 教室に閉じ込められた優子を笑うかのように、窓の外では青い木の葉から1羽の雀が飛び立った。




 結局4限まで授業を受ける気にもなれず、社会学の講義が終わるとその足で図書館へと向かった。

 椿丘女学院の蔵書はきっと他校の比ではない。児童文学小説から話題のミステリー、サイエンス誌から学術書に至るまでありとあらゆる本が揃えられ、膨大な蔵書の量に比例し図書館そのものの面積がとにかく広いのだ。本がだいすきな優子にとって、椿丘の図書館は夢のような場所だった。

 何か思うことがあると優子はいつも図書館に逃げ込んだ。図書館の中には本を読むための休憩スペースがいくつも用意されているのだが、在校生の数に不釣り合いな程に広すぎる館内面積のおかげか、大体の場合ひとつのテーブルを1人で占領出来てしまう。おまけに図書館の中でわざわざ本を読む生徒の顔ぶれなんてほぼ決まっているため、暗黙の了解としてそれぞれが使用するテーブルの位置があらかた決められていた。

 優子のお決まりの席は、3階の非常階段横にある小さな2人がけのテーブルだった。専門書籍の本棚の影になった小さなスペースは周囲から隔離されている上、いつも優子が利用しているため他の図書館常連組も近づかない。まるで秘密基地のような空間が優子のお気に入りだった。

 今日は何を読もう。

 モヤのかかった気持ちを払拭するため、宝物を探す子供のようなワクワクした気持ちで本棚をのぞき込んだ。背表紙とタイトルから素敵な1冊を見つける行為は宝探しによく似ている。当たりばかりがあるんじゃない。ハズレがあるからこそ面白いのだ。だからこうやって本棚を覗き込んでしまう。


 あれ……?

 ふと、新書サイズの1冊の本が優子の目に止まった。タイトルの書かれていない、青い背表紙の薄い本だ。厚みからしておそらく50ページ程度しかないものだろう。

 手に取ってみると表紙にもただ青が広がっているばかりでタイトルも著者名も書かれていない。出版社等の情報もないようだ。製版の荒さからして素人が作った自作の本のようだった。

 ぱららと本を開く。サイズからして2段組の小説を想像していたが、予想に反して中身は素人作の拙い詩であった。ワードで打ち出し、自分で製版したのだろう。よく見れば表紙も印刷ではなく紙に青いインクを垂らして模様にしているだけの粗末なものだ。



 真紅の薔薇に恋をした。

 夕日が真紅に恋をした。

 けして手の届くことのない地平線で咲く薔薇に、夕日は恋をした。

 手を伸ばしたい。抱きしめたい。

 願うけれど触れれば薔薇は燃えてしまう。

 哀れな夕日は今日も空の上から薔薇を眺めるのだ。



 優子はクスリとちいさく笑をこぼした。

 稚拙な詩はおそらくこの学園の生徒が綴ったものなんだろう。紙に出来たシミからしてもう何年も前のものに見える。これを綴った少女は今この学園にはいないかもしれない。

 お世辞にも上手いとは言えない下手くそな詩だけれど、何だかそれがとても素敵に感じられた。きっとこれを綴った彼女は同じ学園で暮らす少女に恋をしてしまったんだろう。

 異性を愛せない少女がいることは分かってるが、そうでなくても閉鎖的な空間に閉じ込められた承認欲求の人一倍強い年頃の少女たちが、恋に恋をし、同性同士で恋人の真似事をはじめることはけして珍しくなかった。

 優子自身は恋人をつくった経験もなかったが、親しい友人の中にも女性同士でのお付き合いをしていた者がそれなりの数いたこともあり、そういった話題に偏見や嫌悪感はない。異性の存在しない椿丘では、それも自然な光景だった。

 この詩を綴った彼女もまた、同じ学舎で生活する少女への抑えきれない恋心をこうして文字におこしていたのだろう。


 優子は1階の受付で昨晩読み終えた空と海の少年少女の出会いを書いた小説を返却し、青い詩集と、数年前に話題になった恋愛映画の原作本を借りてお気に入りの3階隅の休憩スペースへと向かった。

 詩集には貸出カードがつけられておらず、おそらく作者である少女が勝手に本の隙間にねじ込んでいったものなのだろう。期限は気にせず好きな時に返せばいいと、もし気に入ったのならそのまま持っていってしまっても構わないと図書館の係員に言われたが、そう言われてもどうすればいいか優子には判断がつかない。


「やあ」

 3階のいつもの秘密基地のようなお気に入りのスペースに足を運ぶと、そこには既に先客の姿があった。珍しい。優子の目が見開かれる。

 先客は赤い髪を揺らして「また会ったね」と彼女に笑いかけてきた。

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