3.残忍なカースト制度
出かける支度を済ませた優子は紀美子と共に部屋を出た。階段を降り、玄関で室内用のスリッパから制服に合わせた黒の革靴に履き替えると、銃を掲げる兵士を思わせるおかしなオブジェの横を過ぎ森の中を揺らぐ木漏れ日の中を進んでいく。くねくねと曲がる現在地の分かりにくい森の道を進んでいけば、前方に赤茶けたレンガ造りの建物が見えてきた。
生徒たちが利用する大きな食堂である。
何処と無く映画に出てくる英国の宿を思わせる外観とは裏腹に、ここでは和食から洋食に至るまで様々な料理をビュッフェ形式で楽しむことが出来るのだ。
美味しい料理に何種類もあるデザートは全て日替わり。それらに舌鼓を打ちながら友人たちとのんびり語らう時間は花の盛の少女たちにとっての至福のひとときである。それは優子たちにとっても同じこと。この食堂は優子に取って数々の蔵書を誇る図書館の次ぐ、お気に入りの場所だった。椿丘の生徒で食堂が嫌いな少女などいないんじゃないかと言うのが、優子の見解である。
全校集会の朝ということもあって食堂はいつにも増して混雑していた。優子がそうであるように、他の授業に出る組の生徒たちも集会前に朝食を済ませておきたいのだろう。広い食堂の中でザワザワと少女たちの話し声がひしめき合っている。優子と紀美子は人混みに揉まれながらそれぞれ自分の朝食を何とか取り分けると、丁度空いていた隅の席に向かい合って腰掛けた。
「相変わらず、よくそんなに甘い物朝から食べられるわね」
「美味しいのに。紀美子こそよくそれだけで1日持つね」
「朝は胃に入らないのよ」
優子の皿の上に乗った糖蜜がたっぷりかけられたフレンチトーストを見て紀美子はげんなりと顔を歪めたが、優子としてはブラックコーヒーに小さな焼き菓子1つで朝食を済ませてしまう紀美子の方が信じられない。今日のメニューはフレンチトースト、スープにサラダにヨーグルトと盛りだくさん。朝からしっかり食べるのが、椿丘女学院に入学する前から染み付いた優子の習慣だった。
「紀美子は今日も授業出ないの?」
コンソメスープに浮かんだベーコンをすくいながら優子は尋ねる。
「興味あるのがなかったからなぁ……今日も1日アトリエね。でも明日は出るわよ。デッサンの授業があるの」
「へぇ。美術系の授業って全然想像つかないな。どんな感じなの?」
「少なくとも、ひたすら先生の話を聴くだけのものではないわね。楽しいわよ、明日一緒に出てみない?」
「紀美子私の絵心のなさ知ってるでしょ?」
「大丈夫よ、あれは一周回って芸術だから」
「一周回さないでよ、ひどいな」
優子の“力作”を思い出たのか、紀美子はフッと声を漏らした。優子が睨んだところで暖簾に腕押し、紀美子はひとり肩を震わせている。
高い天井の高い位置に付けられた丸い窓から朝の光が斜めに差し込んでくる。大きめに切ったフレンチトーストを1口で頬張り優子は、先程までの紀美子の笑い声を吹き飛ばし、その甘さにうっとりと目を細めた。たっぷり卵の染み込んだパンが糖蜜と混ざりあってじんわりと口の中で溶けていけば、自身の画力を笑う目の前のルームメイトへの苛立ちも何処かへ飛んでいってしまう。
「卒業したらこれが食べられなくなっちゃうんだよねぇ」
「留年でもする?」
「授業に出なくても単位が来るこの学校で、留年する方法なんてあるの?」
「理事長先生の私物壊すとか?」
「そんなことしたら留年の前に退学ものじゃない?」
「それもそうね」
そう言って2人は肩を震わせた。友人との下らないお喋りほどこの年頃の少女の日常を輝かせるものはないだろう。
紀美子に尋ねられ優子は昨晩読み耽っていた小説のあらすじを彼女に聞かせていた。
それは青い海に船を浮かべて生きる少女と、青い空に船を浮べて生きる少年の一時の邂逅を描いた美しい物語り。陸地のない地球を舞台に、それぞれ空と海という違う世界で生きていた少年少女が出会い、恋に落ちるというストーリーだった。
優子が空に生きる少年が少女の暮らす船に落ちてくるシーンについて話し、紀美子がそれを熱心に聞き入っていたその時だ。
パリンとガラスのコップ冷たい床に叩きつけられる音が食堂内に響き渡った。
「何よ、その目」
棘を孕んだ少女の声に、ほんの一瞬しんと食堂全体が静まり返る。
あ、また“貴族”だ……。
同じ空間で起きているいさかいの状況を咄嗟に理解した優子は僅かに顔を歪めるも、直ぐにいつもの笑顔を貼り付けて先ほどの空から落ちてきた少年の話を紡いだ。
紀美子は優子の話に笑顔で相槌をうち、2人の周りに座っていた少女たちもまた何事も無かったかのように取り繕い笑顔で会話を続ける。
「ねぇ、聞いてる? その目は何なのって尋ねたの。ちゃんと答えなさいよ」
少女たちが取り繕った“普段通り”の喧騒の中に、凛とした声が響き渡る。優子は笑顔で空に戻るべくひとまず海での生活を始めた少年が異なる文化に戸惑いながらも海で生きる人々の温かさに触れていく様を身振り手振り交えながら必死に話していたが、意識の欠片はそのいさかいに向けられていた。
“それ”は優子の視界の片隅で起きていた。
5人ほどで固まっていたグループの1人が近くに腰掛けていた少女にイチャモンをつけ始めたのだ。
「……その目って、何ですか」
イチャモンをつけられた少女は、怯えた目で問い掛けに答える。
「小生意気なその目よ。今私たち“貴族”のこと睨んだでしょう?」
「に、睨んでません!」
「睨んだわよ。ねぇ」
「そうねぇ」
「こわぁい目をして見てたわね」
必死の弁明などお構い無しに、貴族と名乗った少女が同じグループの生徒たちに同意を求める。彼女たちはくすくすと上品な笑みを浮かべながら怯える少女を優しげな目で睨みつけていた。端正な顔が美しく歪むその様に優子はぶるりと背筋を震わせた。
「ねぇ、貴方ヒトじゃないわよね?」
貴族のグループの1人が尋ねる。尋ねられた少女は言葉の意味が分からずに「え?」と目を丸くした。
「“隷属民”は人間じゃないわよね、家畜と同じでしょう。それなのにどうしてヒトと同じテーブルについて食事をしているのかしら? あなた方の席はこっちじゃなくて……」
そう言って少女は怯えきった彼女の食事をテーブルから叩き落とし、割れたコップが散乱する冷たい床に叩きつけた。
キャハハハと明るい笑い声が少女の喧騒の中で木霊する。最高、素敵ねなどの賞賛の言葉がグループ内に飛び交う中で床に落とされた自分の朝食を見つめ、少女はただ呆然と立ち尽くしていた。
「ほら、召し上がれ?」
食事を床に叩き付けたその手を頬に当て、少女が天使のようににっこりと微笑みながら小首をかしげる。
集会前にひっきりなしに少女たちがやってくる時間帯、食堂の床はお世辞にも綺麗とは言えない。おまけに割れたコップの上に散らばった食事なんて口にしようものなら、間違いなくガラスの破片で口内を切ってしまうだろう。
「隷属民は貴族の持ち物、主である貴族の命令は絶対でしょ? 早く早く、食べてみせてよ」
「もちろん手は使っちゃダメよ。ちゃんとソレらしく食べてね」
そう言って5人グループの少女たちはまた笑う。嘲笑の嵐の中、震えながら少女は冷たい床に膝をついた。逆らうことは許されない。逆らえばもっと恐ろしい罰が与えられるのが目に見えている。
少女は散乱したスクランブルエッグの両サイドに手を付くと、恐る恐る顔を近づけた。しかし床に落ちた食事を四つん這いになって、手も使わず犬のように這って食うなんて行為がそう簡単に出来るはずもなく、スクランブルエッグに鼻がつきそうなほど顔を近づけたところで彼女の動きは止まってしまった。
「……もう、早くしてってば!」
痺れを切らした少女は、四つん這いになつた彼女ほ頭を黒い革靴の底で踏みつけた。突然、勢いよく顔面を冷たい床に押し付けられた少女から潰れたカエルのような惨めな声が上がる。その声に少女たちはまた楽しげな笑い声をあげた。
「あははっ、なぁに今の!」
「おっかしいー。ギャアって……フフッ。朝から笑わせないでよ。お化粧崩れちゃいそう」
「ねぇ、美味しいでしょ? ほらちゃんと食べてね」
天使のような綺麗な顔で笑いながら、少女はそのまま革靴の踵をグリグリと潰れた漆黒の髪に押し付けた。あれではきっと鼻も潰れてしまっていることだろう。
ぐうぐうと苦しげな声が、優子の耳にまで届いた。
数十秒が経過し後頭部を押さえつける踵が遠のくと、少女は勢いようやく顔を上げた。泥にまみれた顔面は、押し付けられたガラスの破片で切れ、あちらこちらに血が滲んでいる。グリグリと踏み付けられた髪は見る影もなくぐちゃぐちゃになっていた。
痛みと惨めな行為に耐えきれず少女の目にじわじわと雫が浮かんでくると、その様子に5人組は大きく目を見開いた。
「あらごめんね、泣いちゃった」
「そんな顔しないで、ほら、顔を上げてちょうだい?」
命ぜられるままのろのろと少女が顔を上げた瞬間、泥と血でぐちゃぐちゃになった顔面にグループの1人が湯気立つホットコーヒーを投げつけた。その痛みと熱さに上がった少女の短い悲鳴が、周囲の生徒たちが意図的に作り出す喧騒の中に響き渡るとまた、楽しげな5人の笑い声が木霊する。
「さて、そろそろ行きましょう」
「ちゃんとした格好で集会に来るのよ? 理事長先生にみすぼらしい姿見せたら、分かってるでしょう?」
「ついでに床を磨いて、私たちの食器も片付けておいてね」
席を立ったその瞬間5人の少女たちの関心は床に這いつくばり涙をこぼす彼女から、新しい話題に移り変わっていた。
お気に入りのブランドから出た新色アイシャドウについて話す姿は、やはり楽しげな天使たちに他ならない。
5人がいなくなった食堂で、惨めな少女は声を押し殺すことも出来ずに泣きじゃくった。しかし誰も彼女に手を差し伸べるものはいない。そんな勇気がある者はここにはおらず、それは優子も同じことだった。
この花園に年齢による上下関係は確かに存在しない。椿丘女学院は年齢による差別を禁じているが、それはあくまで表のルールだ。
実際にこの箱庭に鎮座しているのは、年功序列など比べ物にならない絶対的な上下関係による差別である。余りに残酷な差別だ。
「優子、優子」
紀美子からの呼びかけに優子はハッと我に返った。紀美子はぐっと優子に顔を近づけて彼女にしか聞こえない小さな声で「見すぎよ」と、優子の行動をたしなめた。
“貴族”が起こした問題について“市民”にはそれを言及する権限はない。貴族から“隷属民”に大して行われる躾については、市民は黙認に徹することが求められる。
「それで? 初めて海の潜った空の少年はどうなったの?」
「……えっとね」
ありがとう紀美子。そう目配せをすれば彼女はいたずらっぽく優子にウインクをして見せた。
ここは箱庭。絶対的な鉄の掟によって縛り付けられた花の園。少女たちは天使のような笑顔を振りまきながら、悪魔の所業に手を染める。
ここは甘い甘い糖蜜の箱庭。
4つのカーストによって構成された完璧な上下関係の元で保たれる、絶対的な身分社会なのである。
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