1章 10月は転校生

1.ここは花園




 初めてこの学園に来た時のことを覚えているかしら。


 唐突に投げかけられた問に優子は驚き、パチパチと2回、目を瞬いた。どうしてそんなことを尋ねるのですかと、思ったままに返したところ質問に質問を返すのは宜しくないわねと窘められてしまう。

 優子はもう1度パチパチと瞬きをした。今度は驚きからではなく思考のため。優子は瞬いた目を持ち上げると、自身の前に立つその人を見上げた。

 その人はいつも通りニコニコと柔和な笑をたたえている。それはまるで修道女のような優しげな笑みであるはずなのに、どうしてか優子の目にはその穏やかな笑顔は不気味なものにしか映らない。優しいはずの笑みに、奇妙な無機質さが漂っているように感じられた。


「ええ、もちろん覚えてます」

 それでもそんなこと口に出すことも表に見せることも出来るはずがない。だって、相手はこの学園の理事長なのだから。

 理事長への反骨など、この学園においてはあってはならぬこと。

 優子はにっこりと笑って相手が望むような、しかし嘘偽りのない回答を綴った。


「とてもびっくりしました、あの衝撃は忘れられるわけありません」

 嘘じゃない、初めてここに来た時たしかにそう感じた。目の前の光景がまるでお伽噺の世界のようだと驚嘆したものだ。

 優子がそう告げると、理事長はそれはそれは満足げに微笑んでみせた。

「ここでの生活は素敵でしょう? わたくしね、お花畑を作ってみたかったのよ」


 そう言って理事長はまたあの無機質な笑を浮かべる。ぞわりと粟立つ背中と引き攣りそうになる口角をぐっと抑え、優子はそれは素敵ですねと頷いてみせた。

 理事長の言うお花畑の花がこの学園の至る所に咲き誇る色とりどりの花のことを指しているのか、それともこの学舎に閉じ込められている少女たちを比喩しているのか、その真意は優子には分からない。もしかしたらそのどちらの意味も込められているのかもしれないなと、薄っぺらい笑みを浮かべつつ考える。


「優子は今3年生だったかしら」

「はい、理事長」

「それじゃあこの学園にいられるのも後半年だけなのね。貴方がいなくなってしまうと思うと、寂しいわ」

「そんな、恐縮です」


 この中高一貫において高校から外部進学者の影は薄い。オマケにスクールカーストの末端を自覚している優子の名前でもスラリと口にしてしまう理事長に、彼女はひそかに驚嘆した。

 この人は学園にいる生徒全員の顔と名前を覚えているのだろうか? この人なら有り得るかもしれない。だってこの人はこの箱庭の、理事長なのだから。

 称賛すればいいのか不気味だと訝しめば良いのか分からないが、凄いことには変わりないけれど優子は曖昧に笑うだけに留めた。

「引き留めてしまってごめんなさいね。優子、残りの半年是非楽しんでちょうだい」

「はい。お話して下さりありがとうございました理事長先生。ごきげんよう」

「はい、ごきげんよう」


 無機質な笑顔から解放されたことにほっと胸をなでおろすと、優子は腕の中の教材を抱え直し次の授業が行われる教室へと向かうべく歩き出した。

 しかし。


「ああ、優子。ごめんなさい、わたくし1つ大事なことを伝え忘れていたわ」

 再び理事長に呼び止められ、優子はその場でくるりと振り返る。

 彼女の目に飛び込んできたのは無機質な笑顔をしまい、至極楽しそうに笑う理事長の姿。きっとあれが理事長の本物の笑なのだろうが、その笑顔は無機質な仮面よりも遥かに恐ろしく、優子の背筋にぞわっと冷たい何かが走った。


「貴方の学年に転校生が来るわ。だから仲良くしてあげてね」


 そう言うと理事長は踵を返し、カツカツとヒールで地面を叩きながら去っていってしまった。取り残された優子はポカンと口を開けその場に立ち尽くす。


「……へ?」

 転校生? この時期に?


 理事長は貴方の学年にと言っていたけれど、優子は現在最高学年である高等部の3年生だ。3年生の10月という奇妙な時期にやって来る転校生というだけでもおかしな話だが、そもそもここは箱庭だ。

 普通の学校とは訳が違う。

 外界から隔離された特殊な空間に転校生がやって来るなんておかしな話、今まで1度だって聞いたことがない。中高一貫校と銘打っておきながら、高校からの外部進学者だってほとんど取らないほどにここは外の世界をシャットアウトしている。

 その閉鎖空間に転校生がやってくる。

 ここはあの人の、理事長の箱庭だ。つまり季節外れの時季外れら閉鎖空間にやってくる奇妙な転校生は、あの理事長に招かれてやって来る。

 異例の自体を自ら招いた理事長が、わざわざその事実を伝えるために優子に声をかけてきた真意も分からない。

 優子は自身のこの学園における立ち位置を取り立てて目立つこともないごくごく平凡な生徒だと自覚していたはずなのに。


 優子はぶるっと体を震わせた。10月の冷たい風の中、優子はその場から逃げるように授業の教室へと駆け出した。




 椿丘女学院は全寮制、中高一貫性の女子校だ。


 森の中に佇む学校への連絡手段は無人に近い駅から出る学校所有のバスのみと、そこはまさに陸の孤島。生徒たちは余程の事情がない限り在学中に学園の敷地外に出ることも、外と連絡を取ることも禁止されている。森の中、崖の際にポツンと佇む校舎の群れは遠い昔の異国の要塞を思わせた。

 そこはまさに、花の園である。


 優子は理事長と別れた後、優子は迷路のような渡り廊下を進んでいた。渡り廊下ひとつ取っても、この花園は普通の学校とは異なっている。色とりどりの花に囲まれたそこはまるで、大きなお屋敷の庭にある薔薇の迷路……お伽噺の中の光景だ。

 この学校は時間を忘れて現実を忘れるという理事長の以降に沿って、校舎の中も外もぐちゃぐちゃに入り組んだ作りになっている。

 未だに敷地内で迷子になってしまう優子のことを友人たちはジュニアの子たちみたいねと笑っていた。


 優子はこの学園では1割にも満たない高校からの外部進学者だった。中等部からこの花園にいる大多数の内部進学組との間にそびえる3年分の壁は、低いようで越えられない高さを持っている。優子を中等部生を指すジュニアと笑う友人たちの声の中に嘲笑や差別の色はないけれど、その壁の高さに時折優子は嫌気がさした。自分も中等部から入学していればこんな小さなモヤモヤを感じなくてすんだのだろうにと、どうしても思わずにはいられない。


 次の授業に何とか間に合わせるべく必死に足を動かしていた優子だが、無情にも遠くの方で始業のチャイムが鳴り響く。


 ああ、もう!

 歩みを止めて優子はため息をこぼした。

 この学校は生徒の自主性を重んじているため、授業に出ることばかりが重要視される訳では無い。月に1度の全校集会にさえ出ていれば、生徒たちは授業に関しては何も言われないのだ。出たい講義に出たい時に出ればそれで良いというのがこの学校のルールであり、極端なことを言ってしまえば在籍中1度も授業に出なくたって卒業することは可能らしい。現に優子の友人にも、芸術家志望であるために授業にはほとんど出席せずにアトリエにこもって作品制作ばかりしている生徒もいるくらいだ。


 この学園では自主的な自由が許された。楽だと言えば楽だが、すべて自分で責任を取らなくてはならない鬱陶しさがあることもまた事実。自己責任と自業自得が、ここでは常に付き纏う。


 優子はため息をこぼして青い空を仰いだ。

 次の講義は必ずしも受けるべきだったものではなく、興味本位で何となく聞いてみたかった程度のもの。ならば別に今から走って教室に向かうことはないだろう。自由なこの学園では遅刻をしたからと言ってとやかく言われることもないけれど、何となく、講義中の教室に遅れて入っていき無駄に注目を集めてしまうのが嫌だった。

 どうしたものかな。

 自主休講によって出来てしまった空白の60分を有意義に過ごす手立てを優子が考えていると、カサリと右手の植木が揺れた。


「あ」

「……っ!?」


 ひょこりと、当然顔を覗かせた1人の少女の登場に優子は声も出せずに飛び上がってしまった。

 ガサガサと音を立てながら少女は花の壁から姿を現す。少女の大きな目が固まった優子の姿を捉えたと思うと、今度は何かを考えるように視線が宙へと投げられた。

「……えーっと、ゴキゲンヨウ」

「ご、ごきげんよう」

 ぎこちない挨拶に、強ばりながらも返事をする。


「えーっと、なんて言うんだっけかな。ああ、もうイイや。アンタ名前は?」

「ゆ、優子……」

「そう優子ね。ねぇ優子、わたし今鬼ごっこの最中なんだよ。どこか隠れるのにぴったりで、人気のない場所とか知らない?」

「……え?」

「あ、突然聞かれても困るか。ごめん今の忘れてちょうだい、気にしないで。あの鬼ジジイは自力で何とか撒いておくから」


 何が何だか分からずに固まる優子を他所に、少女は腰まであるストレートヘアについた葉っぱを払いながらペラペラと1人言葉を紡ぐ。

 困惑しながらも優子は目の前の少女をもう1度見た。白いシャツに黒のカーディガンを羽織り、細い足を黒のダメージジーンズに包み込んだ当たり障りのない格好。しかしそんなものを置いておいて目を引くのは、腰まである真っ赤な長い髪だった。どう見てもそれは天然の赤とは程遠い、鮮やかすぎる赤だ。オマケにその耳にはいくつものピアスが並んでいる。

 淑女を養成するこの女学院の、花の迷路の真ん中に立つ彼女の容姿は極めて異質なものに感じられた。


「ご察しの通り、こいつのせいで今鬼ごっこしてんだ」

 そう言って少女は自分の真っ赤な頭を指さして邪気のない表情でへらっと笑ってみせた。まるで彼女は小さなイタズラがバレて母親に追いかけ回されている子どものようだ。追いかけられていることを楽しんでいるようにすら見える。


 優子はふと、とある疑問を抱いた。この花園に通う女子生徒の数は中等部と高等部を合わせたところでけして多いわけではない。彼女の様な破天荒かつ目立つ容姿をした少女がいれば、その存在に気付かぬはずがないのだ。

 ましてやこの学園には絶対的なローカルルールが存在するため、どんな生徒がいるのか把握しておく必要がある。

 しかし優子は目の前にいる珍妙な少女のことを、欠片も知らないのだ。これだけ目立つ少女を知らずにこの箱庭で生活など出来るのだろうか。


「あ、の……」

「なあに?」

「貴方は……“何ですか?”」

「あ、ああ。そっか。それがあるの、忘れてた」


 優子の言わんとしていることに気付いたのだろう、しかし少女はしばらく何かを考える動作をした後で「そんなのどうでも良くない?」と笑って見せた。


「どうでもいいって……」

 どうでもいいものか。それが、この箱庭の絶対なのに。

 困惑し続ける優子を放って、少女は「そろそろ鬼に見つかっちゃうから行くね」と今度は反対側の植木の中へ飛び込んでいってしまった。

 まるで嵐か蜃気楼か。優子は何が起きたのか分からずにポカンと口を開けたまま少女が去っていった花の壁を見つめていた。

 胸の中では、ドキドキと心臓がうるさく跳ねている。


「……あ」


 その時優子の脳裏に先ほど会った理事長の言葉が浮かんできた。


「もしかして……」


 彼女の言動と照らし合わせてみればその可能性に信ぴょう性が増してくる気がした。

 明日は全校集会だ。


 この学園は生徒の自主性を重んじるため授業へと出席率についてはとやかく言われない。しかし月1で開催される全校集会はよほどの事情がない限り参加を強制される。理事長先生は転校生がいると言っていた。その転校生の紹介は明日の全校集会で行われるのかもしれない。

 明日、もしかしたらあの不思議な少女に会えるかもしれない。兎を追いかけて穴の中へ飛び込んでしまったアリスのような少女に。


 僅かな期待に優子は胸を踊らせた。

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