0.ある未来のはなし
ぷるるると電話が鳴った。
優子は小学生と幼稚園生2人の娘をそれぞれ見送り、溜まっていた洗濯物を片付けリビングとキッチンの掃除を済ませた後で、リビングに鎮座する大手家具チェーン店で購入した安物のソファに腰を下ろしした。ふうと息をつきテレビのリモコンに手をかけたところで、タイミングを見計らったかのように鳴り響く電話のベルに重たい腰を上げる。
「はい、もしもし。桂木です」
違和感なくすんなりと口からこぼれた夫の姓。新婚時代は名乗る度に気恥しさがこみ上げてきたものだが、今となってはそれも懐かしい思い出に過ぎない。
「ごきげんよう。久しぶりだね、優子」
電話口から聞こえてきたのはまるで女性のようなボーイズソプラノ。その声に優子の心臓がとくんとはねた。
ごきげんようと言うかしこまった挨拶、自然と出てくるファーストネーム。
それらが優子の螺旋の記憶を解いていく。その物腰柔らかな物言いに、たった1人だけ思い当たる人物がいた。
「……もしかして、ツバキ?」
震える声に応えるよう電話口からクスッと笑い声が聞こえてくる。
「よく分かったね」
「ええ、そりゃあ、分かるわよ。びっくりした……」
電話の向こうで彼がくつくつと肩を震わせている。最近どうだいと、まるでピアノの音色のような滑らかな声が機械の音となって紡がれ、優子の鼓膜をやわらかく揺らした。
「なんて事無いわ。結婚して、子どもが生まれてごくごく普通の主婦をしてるわよ」
「驚いた。結婚していたのか。相手はどんな人なんだい?」
「旦那さまは就職した会社の営業マン。受付嬢の寿退社なんて、有り触れた話でしょ?」
「そんな言い方しないでくれよ、君らしくて良いじゃないか。なんだ、式に呼んでくれれば良かったのに。僕たちの仲だっていうのに水臭い」
「あら、それならまず長い間ずっと音信不通で生きてるのか死んでるのかも分からない人たちに結婚式の招待状を出す方法を教えてもらえる?」
「ごめんごめん、もしかして怒ってる?」
「ええ、とってもね」
穏やかなやりとり。優子は楽しげに肩を震わせた。彼女抑えた笑い声に釣られるよう、電話の向こうの相手もくつくつと笑みを零す。
「それで? あなた今何処にいるの? まさかエリカも一緒なんでしょうね」
「もちろん、僕らが離れることなんてある訳がないだろう。日本に帰ってきたんだ」
「本当に? え、貴方たち日本にいるの?」
「嘘をついてどうするんだい。エリカが君に会いたいと言ってるんだが、時間は取れそうかな?」
「いざとなったら娘たち旦那に預けて向かうわ。私もエリカに会いたいの」
「おや、僕はオマケなのかい?」
「当たり前でしょう? 私は今も昔もエリカ一筋だからね」
そうやって軽口を叩きながら、2人はまた子どものように笑い合う。
待ち合わせ場所として告げられたのは、都内有数のホテルだった。そんなところに入っていくのに相応な洋服など自分のクローゼットの中にあったかしらと、優子は待ち合わせ場所と時刻のメモを取りながら密かに頭を抱える。早急に買いに行くにも出費にかまける訳にもいかない、どうにかこうにか手持ちの物だけで上手いこと取り繕えれば良いのだが。
受話器を置いて、優子は昼食の準備を始めた。帰りが遅くなってしまった時のことも考えて家族3人分の夕飯の支度も済ませてしまうのが得策だろう。
いつもの主婦としての仕事をしながらも、優子の心はふわふわと浮き立っていた。思い出されるのは崖の際に聳え立つ森に囲まれた校舎の群れ。そこはまるで活字の中の世界。1年を通して甘い花の香りに包まれた少女たちの世界、その中で過ごした刺激的な日常の日々がさーっと脳裏を走りさる。
それだけのことが優子を平凡な主婦から花の園に暮らす少女へと変えていく。時計の歯車を逆回転させていくのだ。
ふと、優子は手を止めて振り返ると食器棚の奥に隠してある小さなノートを取り出した。角のへしゃげたノートは、彼女が消えゆく記憶から思い出を守るために綴ったものだった。
ノートをきゅうっと胸に抱きしめ、優子は何よりも尊い思い出に走り去る思いを馳せてゆく。
高校3年生の10月にやってきた転校生によって巻き起こされた、半年間の激動の日々。このノートには優子にとって何よりも尊い、半年間の記憶が詰まっているのだ。
ねぇ、エリカ、私アナタに恋していたわ。
アナタのことが今でも大好きよ。
彼女のしあわせを壊すつもりなど更々ない。臆病者の優子にはその言葉を声にして伝える勇気はなかった。
それでも、何年経とうとも色褪せない思い出を胸に優子は自虐的な笑みを浮かべたのだ。
図書館の隅にある小さな休憩スペース。
膝の上に置かれた詩集と2人を繋ぐきっかけになった1冊の本。
だいすきなエリカ、あなたは今どこにいますか?
アナタはちゃんと、笑えていますか?
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