第10話 ディアハント

「し、鹿を捕まえに行こう」


 少女の訓練も残り十日を切ったある日のこと、朝食を終えた青年は唐突に切り出した。


「鹿?」


 少女が不思議そうな表情をして、その名を繰り返す。


「鹿、しか、シカ……むー、ねぇ、イヌ。鹿ってなぁに?」


「う、馬よりすこし小さい獣だよ。お、雄は頭に木の枝みたいな角があるんだ」


「えー、凄い! ネコ、その鹿ってのを見てみたい!」


 少女は満面の笑みで青年に抱きつくと「ねぇ早く行こう! 早く鹿を捕まえに行こうよっ!」とねだりはじめた。


「あ、ああ。じ、準備が整ったすぐに出発しよう。で、でもすぐに見つかるとは限らない」


「そうなの?」


「し、鹿はすごく気配に敏感なんだ。こ、こちらの気配を感知したら最後、すぐに逃げてしまう」


「すっごく臆病さんなんだねっ!」


「お、大きさの割には弱い生き物だからね。そ、それぐらい臆病でないと、厳しい獣たちの世界では生きていけないんだよ」


 もっともそれほどまでに警戒心の強い獣だからこそ、少女の訓練の最後を締めるに相応しかった。

 青年も子供の頃、鹿を仕留めたことがある。

 とても苦労したが、その甲斐あってこれまでの襲撃で相手に気配を感じ取られたことは一度もない。

 

 おそらく少女もこの試練を乗り越えることが出来れば、暗殺者として大きく成長する事が出来るだろう。


 ただし、もし乗り越えることが出来なければ、その時は……。


「早く見たいなー、鹿さんの角。ねぇ、イヌ。捕まえたら触ってもいいよねー?」


 無邪気な笑顔を浮かべる少女に青年は苦笑いで応えながら、不安にざわめく心のうちを悟られぬよう必死にひた隠した。




 本来、鹿を捕まえるには罠を張るのが一番だ。

 だが、今回は少女が暗殺者になれるかどうかの最終テストである。罠を張るのではなく、鹿に気配を感づかれぬよう近付いて捕獲する必要があった。


 だから青年と少年は、彼らも飲み水として毎日汲んで来ている川のほとりで、鹿が水を飲みに来るのを隠れて待つことにした。

 

「い、いいかい。う、動かず、隠れてじっと待つんだ。す、少しでも動けば、鹿は俺たちの気配に気付いてしまう」


「うん、分かった!」


 言ってる傍から返事が必要以上に大きくて青年は溜息をついたが、以降は少女も静かに身動ぎひとつせず、じっと川の様子を見つめた。


 暗殺者にとって、相手に気取られることなく待ち続けることも重要な仕事のひとつだ。

 勿論、出来る事ならば速やかに仕事を終わらせるに越したことはない。

 だが、標的がなかなか隙を見せない場合は辛抱強く、その時が来るまで待つ必要がある。

 しかも待つだけではダメだ。常に標的の動きに注目しながら、同時に自分の気配を消し続けなくてはならない。

 相手の隙を見逃せば仕事はいつまで経っても終わらない。そしてもし焦れて見つかってしまえば、事切れて地面に横たわるのは自分の方だ。

 

 この重要なスキルを学ぶのに、野生動物の狩りは最適だった。

 奴等は人間以上に警戒心が強く、人間のような毎日の生活の中で決まっている動きをしない。

 残された足跡から川に水を飲みに来ることは分かっている。

 ただし、それがいつなのかは分からない。

 一時間後か。それとも一日後か。はたまた一週間後か。

 いつ訪れるとも知れぬその時まで、常に観察と気配を殺すことに集中しなくては狩りの成功は有り得なかった。


 もっとも少女の性格と体力から、とてもそこまで集中力が持たないことは青年にも分かっている。


 事実、初日は待つこと一時間足らずでいつの間にか寝ていたので、青年は少女の頭にゲンコツを落とした。

 翌日はゲンコツが効いたのか居眠りこそしなかったものの、鹿以外のウサギやイノシシ、さらには青年にもよく分からない奇麗な色の羽を持つ鳥が水を飲みに来る度に、少女は草むらから飛び出してしまった。

 三日目以降は標的以降の野生動物が水を飲みに来ても少女はぐっと我慢したが、いつまで経っても肝心の鹿は姿を現さなかった。


 そして日中のほとんどを未だ姿すら見ることが出来ない鹿狩りに費やし、少女にも飽きが見られ始めた六日目。


 ついに鹿が姿を現した。


 青年たちが隠れている草むらとは別のところから、突然ひょいと現れた木の枝。

 それが鹿の角だと分かったのは、ついできょろきょろと辺りを見回しながら頭を覗かせたからだ。


 立派な角をした雄鹿だった。


 青年がふと隣を見やると、少女が目をキラキラさせながら興奮して鹿に見入っていた。

 それでも気配を殺しているのは大きな成長だ。

 だが、本当に成長できるかどうかはここから。

 青年の視線に気付いた少女は何も言わず、ただかすかに頷いて、物音ひとつ立てず鹿の死角へと移動し始めた。


 首を下して水を舐め始める鹿。

 その背後からジリジリとにじり寄る少女。

 鹿は少女の接近に気付かない。

 それは青年が見ても完璧だった。

 気配を完全に殺すと、その姿を見えてはいてもどこか存在が稀薄な感じになる。

 アレなら村の傭兵の背後にも難無く近づくことが出来るだろう。


 だが、問題は――。


「やったー! 鹿さん、捕まえたー!」


 少女が水を飲んでいる鹿の背後から、その背に馬乗りになった。

 驚き、身体を激しく揺らす鹿に対し、少女は鹿の角を握って振り落とされないように踏ん張る。


「わわっ! うわわわわっ!」


 とは言え、跳ね馬の如く暴れ回る鹿の背にそれほど長く乗っていられるはずもない。

 何度も鹿の背で跳ね上げられた少女は、ついに振り落とされてしまった。


「避けて、ネコ!」


 青年が声を張り上げる。

 いつものどもり癖が抜けた厳しい青年の声に少女は一瞬驚くが、それ以上に自分目掛けて鹿が角を振り回して襲い掛かってくることに、慌てて身体を翻した。


 横っ飛びする少女の身体を鹿の角が掠める。


 思わぬ反撃。

 だが、それも一度だけのこと。捕獲に失敗したのは残念だったものの、これで鹿は逃げていくだろうと少女はホッと胸を撫で下ろそうとした。


 しかし、そうはいかなかった。


 鹿は甲高い声でひと鳴きすると逃げ去ることなく、地面に寝転ぶ少女を睨みつけた。


「えっ!? な、なんで? なんでそんなに怒ってるの!?」


 少女は戸惑いを隠せず、もはや半ば混乱に陥っていた。

 そこへ鹿が怒りを顕わにして前足でどんと地面を叩く。


「ひっ!?」


 鹿のあまりの気迫に圧倒された少女は小さく喉の奥から叫び声をあげると、堪らず地面に水溜りを作った。

 それを見て鹿は自分の優位を感じ取ったのか、興奮して後ろ足を何度も蹴り上げて、少女に襲い掛かろうと威嚇する。


「や、ヤダっ。怖いよ。やめてよ。ネコが悪かったから、許してよぉ!」


 少女は濡らしてしまった下着がさらに土で汚れるのも構わずに、気圧されてジリジリとお尻を地面につけたまま後ずさる。

 それでも鹿は少女の蛮行を許すことなく、一気に襲い掛かろうとさらに威圧を高めるように後ろ足を激しく蹴り上げる。


「ネコ! ナイフを抜け! そいつを殺すんだ!」


 その時だった。青年の声がパニックに陥った少女の耳にも届いた。

 言われて初めて気がついたかのように、少女は立ち上がると慌てて腰のナイフに手をかける。

 が。


「ダメ……出来ないよ。ネコ、殺すなんて出来ない……」


「やるんだ、ネコ! さもないと君が殺される!」


「でも、でも……」


 青年の怒鳴り声に、少女はナイフを持ちながらもいまだ躊躇っていた。


 それは青年にとっても想定外だった。

 何度厳しく言っても、しまいにはお互いにナイフを交えあうことになっても、決して獲物を殺そうとしなかった少女。


 それでも自分の身に危険が迫れば、さすがにナイフを相手に突き刺すだろうと思っていた。


 だから青年は敢えて「鹿狩り」とは言わず、「鹿を捕まえに行こう」と言葉を換えて、少女に相手の命を刈り取る狩猟というイメージを持たさなかった。


 また、確かに鹿は臆病な獣ではあるものの、窮鼠猫を噛むと言うように、絶体絶命のピンチには命を賭けて反撃してくるのが野生動物というものだ。

 捕まえようとした少女に命の危険を感じ、鹿は反撃に出るだろう。

 対してそんな鹿にこれまた命を脅かされた少女もまた、ついに決断を下すはずだ。

 

 が、事態は今、最悪な状況を迎えようとしている。


「ネコ!」


 青年が少女の名を叫び、駆け寄ろうと走り出したのと同時に、鹿もまた少女目掛けて突進した。

 少女により近いのは言うまでもなく鹿のほうだ。

 青年の目の前で怒り狂った鹿が少女に迫る。

 少女はまだ、ナイフを手に震えていた。


「あ……」


 それは一瞬のことだった。

 迫る鹿の角が少女の胸元を貫いたと思ったその瞬間。

 

 少女の姿が消えた。

 

 実際は少女が鹿の身体の向こう側に避けて見えなくなっただけなのだが、青年にはまばたきの間の出来事に、本当に少女がこの世界から消え失せてしまったように見えた。

 

 そして。


「ごめんね……」


 少女が呟きと共に、鹿の影から姿を現すと同時に、その傍らから血がまるで嵐で吹き荒れる雨のように噴き出した。

 

「ごめんね、鹿さん、ごめんなさいいいいい」


 泣きじゃくる少女にも、首に深々とナイフが刺さり絶命した鹿の命の源が降り注ぐ。


 その光景に、青年はしばし言葉を失った。

 凄絶にして、美しい。

 だがそれ故に青年は自分が犯してしまった罪を自覚した。

 

「ネ、ネコ、よ、よくやった!」


 青年は泣きじゃくる少女を強く抱きしめた。

 それしか出来なかった。

 無垢な少女を自分の願望のために、この瞬間、決定的に穢してしまった。

 許してくれとは言えない。言えるわけがなかった。

 だからせめて「よ、よくやった。ネ、ネコは正しいことをしたんだ」と少女の行動を懸命に正当化する言葉をかけて抱きしめるしか出来なかった。

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