第2話 願わくば

 何かが壊される音。

 何かが助けを求める音。 

 何かが下卑た笑い声をあげる音。


 そんな何かを極力考えないようにして『イヌ』と呼ばれる青年は、耳を塞いでも聞こえてくる呪われた音と、目を瞑っても瞼に焼きつくような地獄の光景の中、いつものように立ち尽くしていた。


 血が滴り落ちるナイフを、脱力しきった右手に握り。

 足元に横たわる、村の用心棒の亡骸に目をくれることもなく。

 何も聞こえていないかのように、何も見えていないかのように、感情を失った表情で、ただじっと立っている。


 しかし、そんな彼がこの襲撃の幕を切って降ろしたのは、紛れもない事実なのだった。


 かつては青年にもちゃんとした名前があったはずだ。

 が、覚えてはいなかった。

 覚えているのは『イヌ』という名を与えられてからだ。

 犬のように嗅覚に優れ、人の気配に敏感で。

 犬のように夜目が利き、暗闇を苦にせず動けた。

 なにより青年は人間扱いされない存在、つまりは奴隷であった。家畜である『イヌ』という名前は、彼にはまさにお似合いだったのだ。


 家畜として芸・暗殺術を仕込まれた青年イヌ、その仕事は襲撃の初手。

 暗闇に乗じて門番に近付き、命を奪うこと。

 もし奪えなければ……その時はただ代わりに自分が失うだけ。

 そこに特別な感情を青年は持たないようにしている。

 与えられた仕事を無事にこなすことができれば、この無為な人生が続くだけのこと。

 失敗すれば、まともな名前さえ与えられなかった奴隷の人生が終わるだけのこと。

 相手のことは……考えない。

 何故なら考えても仕方のないことだから。

 所詮奴隷である自分が何を考えても無駄だってことを、青年は小さな頃からの教育で身体に叩き込まれていた。


 そして同じように青年は希望というものも考えないようにしていた。

 かつてはある希望を抱いていたこともあった。

 が、それが決して叶うことがないと分かった今、希望などという淡い夢を抱くことは自分をよりいっそう惨めに感じるようにしかならないと理解している。

 

 それでももし死んだ時にひとつだけ願いが叶うのだとしたら――。


 青年はふと自分の足元に佇む花に視線を落す。

 数年前からこの辺りで見られるようになった、一年中花を咲かせるたんぽぽの新種……葉や茎には飛び散るように赤い斑点が出来、花弁は真っ赤に染まっていることから誰からともなく『血染めのたんぽぽ』と呼ばれるその花。

 見た目から人々から嫌われ、青年もまた決して好きなわけではなかった。

 だけど。

 

 願わくば死んだら自分もこの花になりたい。


 たんぽぽとなって花を咲かせ、綿毛となって自由に空高くへ舞い上がり、ここではないどこかへと旅立ってみたい――。


 村を襲い、またひとつ生き延びる度、青年は密かにそんな気持ちを募らせていくのだった。

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