死後物語 BLUE その6

  6


 ヴェルディヴェールが言う「見にいく」というのは、つまりこういうことだった。


「それがしは死後の世界と現世を行き来できるでござる。ま、死んでおらぬのだから当然のことでござって。それで、それがしはおぬしらを〈乗せて〉いく。あとはそこで起こったことを見るだけでござる。実際、おぬしらは死んでおるわけで、そこで起こっていることには干渉できないでござるが、まあ事実が確認できれば充分でござろう」

「それってつまり……幽霊みたいに化けて出るってこと?」

「ま、そうなるでござるなあ」

「い、いやだなあ、なんか……それに、生きてるおれたちには気づかれないのか?」

「それがしは死んでおらぬゆえ、生きているおぬしらにも気づかれるが、おぬしらだけなら気づかれることはあるまい。人間はそもそも死後的存在を認識することは不可能なのでござって。霊感云々ではなく、存在する階層がちがうゆえ、こちらから向こうを見ることはできても、向こうからこちらを見ることは原理的に不可能なのでござる」

「そうか……でも、じゃあ、おれは自分が死ぬところを見にいくわけだな」

「嫌なら、それがしだけで行ってきてもいいでござるよ」

「あたしも行きたい」と佳澄。「自分のことだもん。自分の目で、ちゃんと見たい」


 おれは、と永一郎は悩む、おれはどうだろう?


 自分のことにはちがいない。しかし自分が死ぬところを見にいく、というのは、やはり抵抗がある。死んだ瞬間のことはよく覚えていないが、見るとおそらく苦しかったであろうそのときの感情が蘇ってくる気がするし、なにより、自分を捨てて生き延びた眞未をもう一度見るというのは、なんだかフラれた瞬間をもう一度見せつけられるようで虚しかった。


 死んだときは、よかった。自分は眞未にフラれたなんて気づきもしなかったわけだし。だからおとなしく死んでいけたのだ。もしその時点で眞未に死ぬ気がないと気づいていれば……それでも、死ぬという選択肢は変わらなかったかもしれない。騙されていたにせよ、死ぬという決断をしたときには、すでに生きていく気力をなくしていたのだ。もしそんな人間が生き延びていたとしても、それこそ幽霊のように気力もなく生きていくしかなかっただろう。


 眞未にフラれて死ぬことを納得できたら、思い残すことなく成仏できるかもしれない。成仏したいかどうかはともかくとして、いまこうして死にきれずいるのは、そのときの後悔や悲しみがあるせいだ。それが失われれば、成仏してもいいと思えるかもしれない。


「……わかった、行こう」


 永一郎は言った。


「おれも行く。見にいって、確かめよう。うまくいけばこの子の父親もわかる」


 では、とヴェルディヴェールは立ち上がった。


 チャイナ服の女は、瞬きのあいだに巨大な鳥へ変わる。長い羽根を持つ、美しい鳥。佳澄が驚いたような声を上げると同時に、その鳥がばさりと羽ばたいた。時間と空間、そして生と死の境界さえ超越し、飛ぶ。


 永一郎は猛烈な風に吹かれているような感覚を覚えた。それが現実の感覚なのか、別の感覚がそのように表現されているのかはわからない。


 あたりの景色が変化していく。前や後ろ、上や下、でたらめな方向に風景が流れ、世界がだれかの手で振り回されているような感覚になる。世界がかき回されている。過去も未来もない、ミキサーで細かく裁断され、さらにそれを混ぜ合わせたような。遠心力を感じる。現実的な恐怖を覚えるほど強い力。外へはじき飛ばされそうになるが、地面もなにもなく、踏ん張ることもできないまま、永一郎は自分が吹き飛ぶのを感じた。


「ここがおぬしにとっては過去にあたる世界でござる」


 ヴェルディヴェールの声だけが響いていた。


「それがしは姿を見られぬように隠れておるから、おぬしらだけで確かめてくるのでござる。ではまた!」


 待て、ヴェルディヴェール、ここはどこだ、おれはどこにいるんだ?


 身体の感覚がない。思い出せ。足で地面を踏みしめる。手は。だれかの手を握っていた。そこから世界が生まれるように、永一郎は自分が世界の一部として再生されるのを感じる。


 永一郎はさして広くもないワンルームのなかに立っていた。


 その部屋に、強烈な親近感を覚える。ここは、おれの部屋だ。間違いない。自分の部屋に戻ってきた、という感覚がある。


「ここ――どこ?」


 右手にだれかの手の感触があった。見ると、佳澄が永一郎の手をきゅっと握り、不安げにあたりを見回している。佳澄にとっては知らない部屋に出てきたということなのだろう。永一郎は手を握ったまま、佳澄と同じように部屋を見回した。


 仕事場まで徒歩で行ける距離にあるワンルーム。マンションの三階だった。三○五号室。玄関は北向きで、部屋の窓は南にある。永一郎はその窓の前に立っていた。


 目の前には床に座って使うためのちいさな机。向かって右側にはあまり使っていなかったテレビ。左側にはベッド。奥にキッチン。ガスコンロがひとつしかない。眞未がそれを、これじゃ料理がしにくい、と言っていたのを思い出す。


 キッチンにちいさな食器棚を置いたのは、眞未と出会ってからのことだ。それまではこの部屋で料理などほとんどしたことがなかった。せいぜいインスタントのカレーを作るくらいで、ガスコンロより電子レンジのほうがよく使っていたし、冷蔵庫には飲み物くらいしかなかったが、眞未と出会ってからはその冷蔵庫にも食材が入るようになった。


 眞未は料理がうまかった。母親みたいだ、と言ったことがある。眞未はおもしろくなさそうに首を振った。


「男のひとって、どうしていつまでも母親のことを気にするの? 女は、大人になって出会った男にお父さんとはちがうとか、お父さんみたいだ、なんて言わないのに」

「役割のちがいじゃないか。ま、家によるだろうけど、父親は仕事で家を空けることが多い。母親は家事をすることが多いから、家事を通じて母親を意識することが増えるんじゃないかな。実際、仕事をするようになってから、前よりも親父のことが身近に感じられるようになったよ。親父もこんな感じだったのかな、とか」

「それだけの理由かな」

「マザコン、ファザコン的なものがあるって?」

「ファザコンはどうだか知らないけど、マザコンは、あると思う。あなたはちがうと思うけど。うちのひとなんて、きっとそう。あのひとの理想は、若い頃の自分の母親なのよ」


 そう言ったあと、眞未は自分で嫌な話題を出してしまったというように首を振った。


 いっしょにいても、眞未から夫のことを聞くことはあまりなかった。まあ、聞いても返答には困っていただろうと永一郎は思う。眞未の愚痴に乗って見たこともない男を侮辱するのも気が引けるし、かといって不倫している身で本当の夫の肩を持つというのも変な話だ。結局、曖昧にごまかすしかない。そうすれば眞未の機嫌を損ねるだろうということはわかっていても。


 覚えているかぎり、眞未とケンカをしたことは一度もなかった。


 ちょっとした意見の食い違いくらいはあったはずだが、お互いケンカをするのもばからしいと思っていたところがあったのだ――いい年をして、しかも不倫関係で痴話げんかなんてばかばかしい、と。


 眞未。永一郎は自分の部屋を見回して、眞未への思いを再確認する。愛していたのだ。いまも。たとえ彼女に嫌われていたとしても。


「ここは、おれの部屋だ」

「そう――なんだ」


 佳澄は部屋を見回したあと、こくりとうなずいた。


「なんか、男のひとのひとり暮らしって感じ。ものもすくないし。でも片付いてるね。ママが片付けてくれてたの?」

「ママ、か。いや、単純におれがきれい好きだっただけかな。仕事も早く帰ってこられることが多かったから、掃除くらいしか趣味がなかったのかも」

「ふうん。まあ、散らかってるよりいいけどね――ねえ、えっちな本とか隠してないでしょうね?」

「か、隠してないよ。中学生じゃあるまいし」


 パソコンの中身は決して見せられないが。いい時代になったものだ。


「でも、なんでここに?」

「さあ――たぶん、今日があの日なんだ」

「あの日?」


 玄関の鍵を開けるような音が響く。すぐに玄関が開いた。リビングから玄関までは短い廊下でつながっていて、もともとそこには視覚的に遮るものはなにもなかったが、眞未に言われていまは白いレースが目隠しとしてつけられている。その向こうで人影が動き、リビングに入ってきた。


「あ――ママ」


 佳澄は永一郎の手を強く握る。永一郎はそれを意識する余裕もなく、リビングに入ってきたふたりを見ていた。


 ひとりは、自分だ。いまの自分となにも変わっていない、鏡越しにいつも見ていた自分。しかし客観的に見る自分はまるで他人のようで、自分とそっくりな人間が動いているような、不気味な居心地の悪さを覚える。


 もうひとりは眞未だった。


 白のシャツにベージュのスカート。淡い茶色に染めた髪。


 永一郎は、自分が白いビニール袋をぶら下げていることに気づく。ビニール袋にはドラッグストアの名前。あのなかに睡眠薬があるのだ。


 家に帰ってきたふたりには会話もなかった。お互い、今日がどういう日なのか理解しているのだ。


 そうだ、と永一郎は忘れていた記憶を鮮明に思い出す。この日は最初から、なにを話していいのかよくわからなかった。これから死ぬというときに普段どおりのどうでもいいような話はできないし、かといって心中を決めているのに、これ以上話すこともなかった。


「ママ、若いな……何歳くらいなんだろ」


 佳澄は記憶を辿るような目つきで呟く。


「二十八のはずだ。まだきみは産まれてない」


 眞未はこのとき、もう心中はやめようと心に決めていたのだろうか。でも。


 生きている永一郎がビニール袋から睡眠薬を取り出す。箱に入ったそれをテーブルに置いて、呟いた。


「これで死ねるのかな。そう考えると人間の命なんて呆気ないもんだ」

「そうだね――」眞未は囁くように言う。「そういえばね、このあいだ、知り合いに子どもが産まれたの。それで赤ちゃんを連れた知り合いと会ったんだけど、ほんと、産まれて何ヶ月かの子どもってこんなにちいさいんだってびっくりしたよ。身体もやわらかくて、生きてるのが奇跡みたいだった」

「おれたちもそうやって産まれてきたわけだ」

「でも、人間はいつか死ぬ。たぶん人間が死ぬときって、生きてる理由がなくなったときか、死ぬ理由ができたときなんだと思う」


 じゃあおれたちはどうして死ぬのか。生きる理由がなくなったのか、死ぬ理由ができたのか。


「じゃあ、わたし、行くね」


 眞未が立ち上がる。永一郎も立ち上がり、玄関でキスをする。眞未が部屋から出ていった。永一郎はベッドに寝そべり、そのまま机に置かれた睡眠薬を眺める。そのとき永一郎は、もしこれを飲まずに眠ればどうなるだろうと考えた。明日の朝、眞未の死を知るのか。この世界にたったひとり残されるのだ。それは嫌だ。ひとり残されるよりは、だれかを残してでも立ち去りたい。


 そんな自分を眺めていた永一郎は、佳澄の手を引いて家を出た。その身体は実在しておらず、閉じた扉をすり抜けて廊下へ出ることができた。


「眞未を追おう。おれは、あのまま薬を飲むんだ」

「自殺――したの?」

「自分では心中のつもりだった」

「心中って……ママと? でも、ママは」

「結果的に死んだのはおれだけだったんだ。死んで、はじめて知った。死んだあとにややこしい問題を残していくのも申し訳なかったからさ、お互いの死んだところに立ち会うのはやめようって言ってたんだ。万が一どっちかが生き残ったら、生き残ったほうは人殺しになりかねない。だからお互い離れた場所で死のうって言って、おれは部屋で睡眠薬を飲んだ。でも眞未は死ななかった」

「……ママのこと、恨んでる?」


 まるで自分のことを聞くような佳澄の不安そうな顔だった。永一郎は首を振った。


「恨めたら、もっと簡単だっただろうな。いま顔を見て、思った――やっぱり、おれはまだ彼女が好きなんだ。だから死にきれない。ひとりで死んだ悔しさなんかじゃないんだ」


 佳澄はほっとしたように永一郎の手を握り返した。お互い、もう死人で幽霊のような存在だとしても、佳澄の手の温かさはしっかりと感じられる。生きている、とさえ思う。


 眞未はもうエレベーターを降りていた。階段を駆け下り、マンションを出たところで眞未の後ろ姿を見つける。駅のほうへ歩いているようだった。永一郎と佳澄は、それを数メートル離れたところから追いかけた。


 休日の昼間だった。空は曇り。あたりは市役所に近い住宅街。地元では噴水公園と呼ばれている広場では、子どもたちが声を上げながら走り回っていた。鬼ごっこでもしているのかもしれない。眞未はその姿を眺めながら公園を通りすぎ、方角を変える。


「どこに行こうとしてるんだろう――家に帰るのか」

「ちがうと思う」と佳澄。「うち、このへんじゃないもん。ここがどこだかわかんないけど、たぶん、うちから歩いていけるような距離じゃないと思う」


 眞未がどこへ行こうとしているかはついていけばわかるだろう。眞未。どうしてきみは死ななかったんだ? いや――むしろいまは、死ななくてよかったと永一郎は思う。きみが生きていてくれてよかった、眞未。もし死んでいれば、こうしてきみの娘と会うこともなかっただろうし、もう一度きみと会うこともなかっただろう。それともおれたちは死後の世界でいっしょになれただろうか? なんの不安も、悲しみもなく?


 眞未の足取りはゆっくりとしている。曲がり角の度、どちらへ行くか迷うようでもあった。


 もしかしたらこの風景に名残惜しさを感じているのかもしれない。だとしたら、眞未も死ぬ気だったのだろうか。それとも。


 住宅街を抜けると、目の前に河川敷が現れた。壁のように高くなった河川敷に階段を使って上がっていく。永一郎と佳澄も続いた。


 河川敷はサイクリンロードのようになっていて、きちんと舗装されている。それよりも川に近いところは少年野球の練習場になっていた。二、三十人の子どもたちが二人一組でキャッチボールをしている。眞未はそれをぼんやりと眺め、また歩き出す。


 犬の散歩をしている老婦人とすれ違った。犬が眞未にじゃれつく。眞未はしゃがみ込み、犬を撫でてやり、また歩き出す。


「あたし、ずっとふしぎだったんだ」


 佳澄は若い自分の母親を見ながら呟いた。


「ママがどうしてあんな男と結婚したのか、わからなかった。いまもわかんない。どうしてママはあの男と離婚してあなたと結婚しなかったのかな」

「さあ……そればっかりは本人に聞いてみないとわからないよ。まあ、いろいろとあったんだろうな。きみのお父さんは……あー、つまり戸籍上の父親は、医者だったんだろ? その点、おれはただの地方公務員だ。市役所の職員だよ」

「いいよ、それでも。そのほうがいい。あの男は、ママのことを家政婦かなにかだと思ってた。家事をして当然、自分に尽くして当然って。あたしには勉強して医者になれとしか言わなかったし。休みの日にいっしょに遊んでくれたこともないくせに。そんなの、父親じゃない」

「おれだって結婚してたらそういう男になってたかもしれないよ」

「本気で言ってる?」

「ま……親バカになったとは思う」

「わかる。そういう顔、してるもん」

「どういう顔だよ」

「そういう顔――ああでも、ママがあなたを好きになった気持ちはわかるな。いいひとそうだし。ほんと、さっさと離婚してあなたと再婚すればよかったのに。いまどき離婚とか再婚とか、みんな大して気にしないのにな」


 佳澄はため息をつく。永一郎は苦笑い。それからふと、もし佳澄が自分の娘なら、こうしていっしょに河川敷を歩くこともあっただろうかと考えた。三、四歳の娘なら手をつないで歩いてくれるだろうが、さすがに高校生になるとなあ。父親としても、高校生の娘と手をつないで外を歩く勇気はない気がする。それとも自分の娘だと思えば気にならないのだろうか。


 前を行く眞未の先に橋が現れた。一級河川にかかる、片側二車線の大きな橋。眞未はその橋までたどり着くと、迷いのない足取りで橋を渡っていった。


 永一郎は嫌な予感を覚える。佳澄も同じことを考えているようだった。しかしどうなっても大丈夫だと、永一郎は早鐘を打つ心臓に言い聞かせる――どうなるにせよ、眞未は生き延びるのだ。そしてそれからも健康に暮らす。大丈夫だ。


 眞未は橋の中腹で立ち止まった。


 手すりにもたれかかり、川の上流のほうを眺める。川の水量はそれほど多くなかった。


「ママ――!」


 佳澄が永一郎の手を振りきって眞未のほうへ駆け出した瞬間、眞未の身体がぐらりと揺れた。


 永一郎は後ろからナイフで突き刺されたような胸の痛みを覚える。眞未。眞未の身体が手すりを越え、落ちていく。佳澄は目を閉じて悲鳴を上げた。だれにも聞こえない悲鳴。永一郎はすぐに手すりから身を乗り出し、眞未が落ちた場所を見た。


 水しぶきは一瞬でなくなったらしく、川の水面にはだれかが落ちたような気配はなかった。まるで川が眞未の身体を飲み込んでしまったように、平然と、緩やかに水は流れている。


 車のけたたましいクラクション。永一郎のすぐ後ろで車が止まる。


「いま、ひとが落ちたぞ!」

「早く助けないと――あなたは救急車を!」


 何人かが橋を駆け出し、下りていく。永一郎はその様子を呆然と見つめた。そうだ、眞未は助かるのだ。ここでは、死なない。しかし眞未は死ぬ気だった。死ぬ気もなしに、この場所から飛び降りられるはずがない。眞未はたしかに自分との約束を守ろうとしたのだ。


 河川敷が騒がしくなる。眞未を助けに川辺まで下りた人間たちが、息はしている、と叫んでいた。永一郎は座り込んでいる佳澄に手を貸し、橋から離れた。


 人気のない河川敷の端に、ヴェルディヴェールが立っている。鳥の姿ではなく、人間の姿で、ふたりを待っていた。


「だいたいの状況はわかったよ」永一郎はゆっくり首を振る。「眞未は、運良く生き延びたんだ。本当に死のうとして――よかった。いまは、そう思う。眞未が生きていてくれてよかった」

「うむ――父親のことはわかったでござるか」

「いや、そっちはだめだ。まだわからない」

「ならばもうすこし先へ飛んでみるでござるか――さ、手を貸して」


 ヴェルディヴェールの手を握る。再び世界がぐらりと揺れ動いた。


 広い河川敷が消える。一瞬、見たこともない町に現れ、またそれもすぐに消えた。時空間を飛び回っている。時空というのは非連続的なのだと永一郎は思う――それも感じ方、捉え方のちがいなのかもしれないが、ヴェルディヴェールにとって時間や空間とは一直線に並べられたものではなく、飛び石のようにでたらめに配置されたものなのだろう。そのなかから目的の時空を選び出すには、文字どおり特殊な能力が必要なのだ。


「ママ」佳澄が呟いた。「知らなかった――こんなことがあったなんて」

「おれもだ。死んだあと、眞未がそのあとも生きてたって聞いて、おれは眞未が死のうともしなかったんだって……心中は口だけだったんだって思ったけど、ちがったんだな。彼女は約束を守ろうとして、死ねなかったんだ」


 ヴェルディヴェールの手を握っていた左手から、その感触がふと消えた。ジェットコースターから見える景色のように流れていた風景がぴたりと止まる。


 永一郎と佳澄はどこかの廊下に立っていた。


 白く清潔な印象。リノリウムの床。病院の廊下だとわかる。しずかで、物音は聞こえない。目の前には病室があった。病室に名前は書かれていなかったが、扉は閉まっている。永一郎と佳澄は扉をすり抜け、なかに入った。


 ベッドに、眞未が寝そべっている。手術着のような服。布団は胸の下までかけられていて、いまは上体を起こし、ベッドサイドには医者と看護師が立っていた。


「大丈夫ですか、どこか痛むところは?」


 医者の問いかけに、眞未はゆっくりと首を振る。どこかうつろな目で、まだ完全には目覚めていないような表情だった。医者はちらりと看護師を窺い、もう一度眞未に視線を戻す。


「意識ははっきりしていますか? ご自分の名前や生年月日を、ゆっくりで結構です、おっしゃってください」

「――大貫眞未です。生年月日は――」

「ふむ――大貫さん、ですね」

「いえ――すみません。大貫は旧姓です。いまは、古谷と」

「古谷眞未さん、なるほど。ご自分がどうしてここにおられるか、わかりますか?」

「……橋の上を歩いていたら、頭がふらりとして。そのあとはわかりません」

「そう、あなたは橋から川へ落ちたんです。近くを通りがかった方々がすぐに助けたそうで、検査はしましたが、ちょっとした擦り傷以外はほとんど無傷でした。しかし落ちた衝撃は相当なものがあるでしょうし、もしかしたら川底で頭を打っているかもしれませんから、二日程度は入院なさったほうがよいと思います。そこで何事もなければ退院ということで大丈夫でしょう」

「はい――」

「それから、あなたの持ち物は見つかっていないのですが、ご家族の連絡先など覚えていますか? こちらから連絡したほうがよければそうしますし、ご自分で連絡したいなら電話をお貸ししますが」

「家族は……夫は仕事中ですから、電話も出られないと思います。今日は夜勤だとも言っていましたし」

「そうですか。では古谷さんがよろしいようになさってください」


 眞未はちらりと医者の顔を見て、それまでのぼんやりした口調よりははっきりとした声で言った。


「この病院は、なんという病院ですか――夫は、医者をしているんです」

「おや、そうですか――ここは市立病院ですよ。ご主人は、こちらに?」

「市立病院……いえ、夫の病院とはちがいます。では、あの――わたしのすこし前かあとに、救急で男性が運ばれてきませんでしたか」

「さて――記憶にはありませんが。お知り合いが?」

「いえ……運ばれていないなら、いいんです」


 また眞未はうつむく。医者はもう一度看護師をちらりと見てから、どうするか迷うように息をついた。静かな病室では、その息づかいがやけにはっきりと聞き取れる。


「これは、あなたが充分落ち着いていらっしゃるからこそお伝えするのですが――」


 眞未は顔を上げた。


「骨折などを調べるためのレントゲン検査をする前に、念のためにと、エコー検査をしたんです。それで――妊娠なさっていることがわかりました」

「――妊娠?」


 言葉の意味が飲み込めないというような眞未の表情だった。永一郎も、戸惑う。しかし考えてみれば当然だ。これから一年も経たないうちに佳澄が産まれているのだから、この時点で妊娠していなければ計算が合わない。


「幸い、いまのところお子さんに問題はありません。しかし妊娠初期ですから、レントゲンなどの検査はご自分の意志でなさったほうがよろしいと――影響はほとんどないとはいえ、まったく、とは言いきれないのが現状ですので」

「それは――その、子どもがいる、ということですか。わたしの、お腹のなかに」

「ええ、そうです。これから産婦人科の診察をなさってください。詳しい説明はそこでされます」

「それはあの――」


 眞未はすがるように医者を見上げ、そのあと自己完結するように首を振った。


「とにかく、いまはゆっくりと身体を休めてください。ご自分のためにも、お子さんのためにも」


 医者と看護婦が出ていく。永一郎には、眞未がなにを医者に聞こうとしたのかわかるような気がした。


 ――それは、だれの子どもですか?


 もちろん、医者にわかるはずがない。だから眞未は首を振ったのだ。もしかしたら眞未自身にもわからないのかもしれない。眞未自身にわからないとすれば、遺伝子検査でもしないかぎり、だれにも真実はわからないことになる。


「どうする?」と永一郎は佳澄に言った。「もうすこし、ここにいるか?」

「ううん――なんとなく、わかった気がするからもういいや」

「そうか――そうだな」


 ふたりは部屋を出る。その人気のない廊下に、ヴェルディヴェールが立っていた。ヴェルディヴェールはふたりの様子を見てこくりとうなずき、では戻るか、と言った。


「まあ、どんな事実がわかったにせよ、大した問題でもないと思うでござるが」


 ヴェルディヴェールは永一郎の手を握りながら、呟く。


「なんにせよ、おぬしらにとっては過去の出来事、もはや変えることもできぬ、ただ思い出すことしかできぬことなのであるがゆえに――さ、ヴァルハラへ戻るでござるよ」


 永一郎は目を閉じた。


 ――眞未、きみだから、死ななかったんだな。


 きみは、自分の人生が自分だけの人生じゃないことに気づいたんだ。だから自分の意志だけじゃ死ねなかった。佳澄がきみを生かしていたんだ。大丈夫、その選択は間違えていない。おれは、きみが生きてくれて、生き延びてくれてうれしいよ。


 もう二度と会えないかもしれないけど、おれはいまでもきみのことを愛してる。


 ありがとう、さよなら、眞未。

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