死後物語 BLUE その5

  5


 眞未。


 ちがう。眞未ではない。眞未のはずはなかった。よく似ていても、眞未とはちがう。


 永一郎が知っている大貫眞未は、大人の、二十八歳の女性だった。


 キャスターつきの椅子にちょこんと座り、振り返っているのは、まだ十五、六の少女だ。


 しかし顔は眞未そのままだった。永一郎は時間が巻き戻されるような感覚を覚える。こちらを振り返る少女。そうだ、この眞未は、大人になった眞未ではない、学生時代、淡い恋心を抱いていたあの少女だ――。


 気づくと、あたりは教室になっていた。


 永一郎は自分が懐かしい学生服を着ていることに気づく。教室の風景も、その匂いも懐かしい。耳を澄ませば校庭のほうから野球部の声が聞こえてくる。あの頃の教室だ。そういえば一度、こんなことがあったような気がする。放課後、なぜかだれもいない教室に眞未がひとりで残っていて、忘れ物を取りにきた永一郎に驚いたような顔で振り返り――。


「――え?」


 少女はふしぎそうにあたりを見回した。


「どうして――さっきまで事務所だったのに」


 その声で現実が、あるいはここにあるべき風景が戻ってくる。


 教室が消え去る。懐かしい声も。永一郎は火の鳥探偵社の入り口近くにぼんやり立っていて、眞未は、少女はキャスターつきの椅子の背もたれに両手を置き、こちらを振り返っている。


「あらあら、まあまあ」とアナトミア。「あなたも吸血鬼だったの、永一郎さん?」

「ちがうでござるよ、アナトミア」ヴェルディヴェールは机に足を上げたままで、「いまのはエーチロウの記憶がここの時空間と同期しただけでござる。それほど強烈な思い出だったということでござるなあ」

「なんで、きみが」


 永一郎は呆然と言った。


 眞未がどうして? 眞未は死んでいないはず――いや、年を取って、死んだのか。ここには過去も未来もない。年を取って死んだ眞未が、なにかの理由で成仏せず、このヴァルハラへきたという可能性はある。しかしなぜ少女の姿で? 現れるなら、せめて年を取った姿で現れてほしかったのに――よりによってあの頃の姿のままで現れるなんて。


「エーザブロウ、この客人と知り合いでござるか?」

「あ、ああ……」

「知り合い、ですか……?」


 少女は首をかしげる。永一郎は心臓がぎゅうと締めつけられるような気分だった。その表情は、大人になった眞未と同じだ。


「眞未、だろ。おれを捜しにきたのか? どうして――」

「眞未――?」


 ふと少女の瞳が揺れた。


 次の瞬間、その大きな瞳にじわりと涙が浮かび、頬を伝って落ちる。


 少女は椅子を蹴って立ち上がった。飛ぶように永一郎と距離を詰め、そのまま永一郎に抱きつく。


 あらあら、とアナトミア。おおお、とヴェルディヴェール。永一郎は自分よりもちいさな少女の身体を抱き留めるべきなのか迷い、その腕がゆっくりと少女の背中に回ったとき、少女は言った。


「会いたかった、お父さん!」

「――へ?」

「お父さん――お父さんでしょ、ねえ。わたしのお父さんよね」


 涙に潤んだ少女の目がまっすぐ永一郎を見上げる。嘘を言っているわけでも、口から出任せを言っているわけでもなさそうだった。


 永一郎はさび付いた機械のようなぎこちない動きでヴェルディヴェールを見る。ヴェルディヴェールはふむうと腕組みしていた。


「エージロウ、おぬし、子どもがおったのでござるか」

「い、いやいや! こ、子どもなんていないぞ、おれは」

「じゃあ、それはなんでござる?」

「おれが聞きたいけど――」


 視線を下げる。潤んだ少女の瞳。うっと永一郎は言葉に詰まる。その目を見ると、おれはなにも関係ない、とは言えないような気分になってくる。


「お父さんよ、きっと。絶対、そうだよ」

「ま、待ってくれよ――まず、きみは、眞未じゃないのか?」


 眞未の過去の姿なのだとしたら、愛人、と呼ばれることはあっても、お父さん、と呼ばれることはない。そもそも永一郎には心当たりもなかった。知らないうちにどこかで子どもを作っていたはずもないし、精子バンクに登録していた精子をだれかに利用されて遺伝的な子どもが産まれていた、なんて未来的な問題もないはずだ。


 しかしその少女が眞未と無関係とは思えなかった。他人にしては、似すぎている。だとすれば――。


「あたし、佳澄。古谷佳澄」

「古谷――」


 ああそうだ、と永一郎は思い出した。


 古谷、だ。眞未の、いまの名字は。旧姓の大貫という名字の印象しかなかったが、一度か二度、聞いたことがある。


「古谷眞未は、あたしのお母さんの名前よ」


 すこし予感していたことを、少女ははっきりと言う。永一郎はその言葉をどう受け止めるべきか迷った。


 悲しい、寂しい、という気持ちと、そりゃそうだよな、という気持ちが入り交じった、マーブル模様の感情だった。きっと、そりゃそうだ、という気持ちだけなら、とっくに成仏できているのだろうと永一郎は思う。諦めきれないから、ここにいるのだ。


 眞未の娘ということは、眞未の夫とのあいだに産まれた子どもだろう。


 永一郎が知るかぎり、眞未に子どもはいなかった。永一郎が死んだあとに産まれたのか。この少女が――本当に眞未とよく似た、まるで自分の記憶から抜け出してきたような少女が、眞未の娘か。


「事情はよくわからぬでござるが」とヴェルディヴェール。「まあ、積もる話もありそうだし、座って話をしたらどうでござる? アナトミア、茶を」

「はいはい、少々お待ちを」


 永一郎は曖昧にうなずき、少女、古谷佳澄に座るよう勧めた。



  *



 制服を着た黒髪の少女は、ソファにちょこんと座り、出された茶を飲み、すこし落ち着いたような目であたりを見回した。


「死人ばっかりの町っていうから、どんなところかと思ったけど、案外ふつうなんだ。さっきは変だったけど。まわりが学校になったみたいな」

「まあ、そういうことがよく起こるところらしいよ」と永一郎。「おれも詳しいわけじゃないけど――それで、あの、さっきの話だけど。おれのことを、なんだって?」

「お父さん」

「う、ううむ……」


 聞き間違いという可能性は消えた。まあ、最初から期待していなかったが。


「おれの名前が尾籐さんだと思っているとか、そういうオチじゃないよな?」


 佳澄はむっとした顔で首を振った。こっちは真剣に話しているのに、冗談だと思われるのはシンガイだ、という顔。こっちも冗談のつもりではないのだが。むしろこれ以上ないくらいシリアスに、思いつくかぎりの可能性を潰していっているわけだ。そして、シャーロック・ホームズではないが、最後に残った可能性が真実、ということになる。


「お父さんっていうのは、つまり……」

「父親ってこと」

「だよなあ……」

「なによ、その顔」むすっとした、強気な顔。「あたしが娘だったら、なにか困るの?」

「い、いや、そういうわけじゃないけど……いやそういうわけなんだけど……つまりその、ええっと、きみは大貫――古谷眞未、さんの、娘で間違いないんだな。同姓同名じゃなくて、あの古谷眞未の」

「どの古谷眞未のことかわからないけど、あたしが知ってる古谷眞未はお母さんひとりだけ。きっとお父さんが知ってる古谷眞未と同一人物だと思うけど。なんなら特徴でも言う?」

「いや、まあ、同一人物でいいよ――きみが古谷眞未の娘ってことは、わかった。それはいいんだ。でも、じゃあ、なんでおれのことをお父さんって呼ぶんだよ。おれは――彼女の夫じゃなかった」

「知ってる。愛人でしょ」


 平然と言う。ヴェルディヴェールが後ろで、ほおお、と感心するような畏れるようなよくわからない声を漏らした。永一郎は自分の罪を人前でさらけ出されているようないたたまれない気分で、うなずく。


「隠してもしょうがないから、認めるけど――そうだよ、おれは、彼女の愛人だった。不倫相手だ。だから、きみの父親っていうなら、おれじゃなくて彼女の正式な夫のはずだ」

「戸籍上はね。そういうことになってるけど、でも、あれはあたしのほんとの父親じゃないと思う」

「あれ、ねえ」

「ろくでもないやつだし」

「きみくらいの年の娘にそう言われるってことは、まあ、そうなんだろうなあ」

「お母さんだって言ってたもん。あたし、ほんとは別のひととのあいだの子どもなんだって」

「……眞未が、そんなことを?」

「お母さん、そのひとのことが好きだったんだと思う。でもなんでか知らないけど、離婚はしなかった。できなかったのかもしれないけど。そのへんは、あたしも子どもだったからよく知らないけど……結局、あたしの本当のお父さんとは結婚しなかった」


 佳澄はスカートの裾をきゅっと握った。その力がこもった指に、まだ庇護を必要とするような幼さを感じる。


「あたし、本当のお父さんがだれなのか、知りたかった。あのクソ親父がほんとの父親じゃないってことは間違いないと思うけど」

「クソ親父ねえ」

「なあに、あいつの肩持つわけ?」

「い、いや、そうじゃないけど……そりゃ、会ったこともないひとだし、どっちの肩を持つかって言われたらきみの肩を持つよ」


 佳澄は一瞬きょとんとした顔のあと、えへへと笑う。怒った顔は大人びているが、笑った顔は年相応だった。


「ありがと、お父さん」

「いやおれが父親だって決まったわけじゃ……ま、それは一旦置いとくとして。つまりその、生きてるうちに本当の父親がだれなのか調べたってことだよな」


 そう言ったあと、永一郎ははじめて佳澄が死者であることを認識した。いままでそれどころではなかったが、このヴァルハラにいる以上、佳澄もすでに死人なのだ――もしその姿が死んだときの姿そのままだとすれば、ずいぶん若く死んだことになる。平均寿命ほどまで生きたという眞未よりも先に死んだのだろう。娘を失った眞未は、どんな気持ちだっただろう――まさか、その娘があの世ともいえる場所で若い頃の不倫相手と顔を合わせているとは思いもしないだろうが。


 佳澄自身は、自分が死んだということにも無頓着な様子でこくりとうなずく。


「お母さんに聞いたりしてみたけど、だれが父親なのかまでは教えてくれなかった。それに、あのクソ親父がほんとの父親じゃないって言ったときも、そのあと慌ててごまかしてたし。たぶんあたしには知ってほしくなかったんじゃないかな」

「まあ、そうだろうなあ……」

「そのへん、ぜんぜん子どもの気持ち、わかってないよね」


 ふんと鼻を鳴らし、佳澄は腕を組んだ。


「あたしからしてみれば、あのクソ親父がほんとの父親じゃないってことのほうがよっぽど救いだったけど。お母さんがほんとの母親じゃないっていうならショックだけど、あのクソ親父がほんとに父親じゃないなら大歓迎だもん」

「そ、そんなに嫌いか」

「金と女のことしか考えないやつをどうやったら好きになれるの? 医者だからって、世界の全部が自分の思い通りにいくと思い込んでるの。考え方が子どもっていうか。あんなのに養われるのヤだから、高校に入ったらすぐひとり暮らししはじめて、それで――」


 佳澄はふと言葉を切り、永一郎を見た。じっと心の奥を読むような黒い瞳。永一郎は、この子は頭がいい子なんだろうと考える。子ども扱いしてどうにかなるような相手ではなさそうだし、そもそも高校生ならもう子どもとも言えない。


「お父さんは――ほんとにあたしのこと、お母さんからなんにも聞いてないの? っていうか、こんなに若いとは思ってなかったけど」

「ここでの見た目はたぶん死んだときのままになるんじゃないかな。おれは二十八で死んだんだ。だからこの見た目ってわけ。もしきみがおれの娘で、高校生になるくらいまで生きてたとしたら、もういい年のおっさんだよ」

「ふうん……でも、そう考えたらおかしいよね。お父さんが死んだときには、あたし、まだ産まれてなかったんでしょ?」

「たぶん。眞未からは聞いたことなかったし」

「じゃあ、やっぱりちがうのかな……お父さんじゃないのかも」


 自信をなくしたように佳澄はうつむく。永一郎は頭を掻いた。


「おぬしは父親を捜すためにここへきたのでござるな」


 ちゃっかり自分の分のお茶を飲みながら、ヴェルディヴェール。


「それが依頼内容で間違いないでござるか」

「はい――門番のひとに教えてもらったんです。尋ね人ならここへきて依頼するのがいいって。でも、あたし、お金とか持ってないけど」

「料金のことはひとまず置いとくとして、正式に依頼するというなら引き受けてもいいでござるよ」

「おれからも頼むよ、ヴェルディヴェール」と永一郎。「この子の父親がだれなのか、捜してあげてくれ」

「うむ――しかし本当におぬしではないのか、エーチロウ」

「いや、それがよくわからなくて……眞未からそんなことを言われてないのはたしかなんだけど」


 そもそも、佳澄の本当の父親が戸籍上の父親ではないとしても、それが自分だとは限らないと永一郎は思う。


 永一郎は二十八歳で死んだが、眞未はそれからも生き続けた。そのどこかで、夫ではない、永一郎でもない別の不倫相手がいたとしてもふしぎではない気がする。もちろん、佳澄の前では言えないことだが――なにしろ永一郎は、事実上、眞未にフラれたようなものなのだ。心中の約束をして、永一郎は死に、眞未は死ななかったのだから。


「佳澄ちゃん、誕生日はいつ?」

「二〇〇五年の十一月十日」

「……おれが死んでから半年以上あとだ」

「まあ、不可能ということはないでござろう」とヴェルディヴェール。「仕込んだときを考えれば」

「仕込むって言うなっ」


 佳澄が軽蔑するように永一郎を見る。くそう。言ったのはおれじゃないのに。


「佳澄、おぬしは父親についてなにも聞いていないでござるか。名前とか、相手の職業とか」

「なんにも。教えてくれなかったもん、そんなこと」

「ふむ……では、実際に見にいくのがいちばん手っ取り早いでござるなあ」

「見にいくって、なにを、どこへ?」

「さすがに仕込みの現場に娘を連れていくわけにはいかんでござるゆえ、そうでござるなあ、では、エーチロウがその眞未とやらに最後に会ったときへ行ってみるでござるか」

「――おれが眞未と最後に会ったとき?」


 忘れもしない、あのときだ。しかしそれは過去の、それも生前の記憶のなかにしかない――いや、このヴァルハラには過去も未来もない。記憶は現実と同じ強度を持っている。


「でも、その方法じゃだめだと思う」永一郎は首を振った。「おれの記憶を辿っても、たぶん、彼女のことは出てこないよ。だっておれ自身が知らないんだから。おれが知らないことを知るためにおれの記憶を辿っても、たぶん無駄だ」

「おぬしの記憶を辿るのではないでござる、エーゴロウ。実際に、見にいくのでござるよ」

「見にいくって、だから、なにを、どこへ?」

「生前のおぬしと眞未とやらが会っていたときへ、見にいくのでござる。そうすれば、すくなくともおぬしの娘かどうかはわかるでござる」

「生前って、そんなの、できるわけないだろ。おれたちは死んでるんだぞ。そう簡単に生き返れたら苦労しないっての」

「あらあら、できるのよ、この子なら」


 事務机に座っていたアナトミアが振り返り、言った。


「なにしろこの子は不死鳥――決して死ぬことなく現世と死後を行き来できる存在なんですもの」

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