死後物語 BLUE その4

  4


「ところでエージロウ」

「いや次男になっちゃってるし。まあおれひとりっ子だけど」

「さっそく仕事でござるよ」


 ヴェルディヴェールは机の上に置かれていた紙を永一郎に投げた。受け取る。写真だ。女がひとり、写っている。


「どうでござる」

「どうって言われてもな」

「ほう。エージロウは胸の大きい女は嫌いでござるか」

「どうってそんなことについて聞いとったんかいっ」


 それ以外のなにがあるのだ、というヴェルディヴェールの顔だった。ちくしょう。永一郎は写真を投げ返す。たしかに、胸はでかい女だった。


「なんなんだよ、この写真」

「この女を捜してきてほしいのでござって。この町のどこかにいるとは思うのだが」

「お、おれが捜しにいくのか? その……おれ、まだこの町にきて数十分だけど」

「ヴァルハラにきてからの時間と仕事に関係があるのでござるか?」

「う――」


 たしかに、新人だから、なんて言い訳は、仕事では通用しない。ましてや、迷子になりそうだから嫌だ、なんて言えるはずもなかった。


 永一郎はもう一度写真を取り、眺める。


 若い女だ。外見的な年は二十代半ばくらい。黒髪、ロング。写真では黒のハイネックセーターを着ていて、たしかに時空の歪みかと思うくらい胸がぼんと張り出している。


「名前は?」

「アナトミア。うちの事務員でござる」

「じ、事務員? 事務員が行方不明なのか」

「うむ。どれくらい前でござるかなー、昼飯を食いに出ていってから二年くらい帰ってこないのでござる。ま、たぶんヴァルハラのどこかにはいると思うから、適当に捜してきてくれでござるでござって」

「そう言われてもなあ……この町って、広いんだろ」

「端から端まで歩けば六、七年はかかるでござるかなー」

「広っ! そのなかからひとりの人間を探し出すのか……」

「無理でござるか?」

「う、で、できるよ。やってみる。やらせてくれ」

「うむうむ、がんばってくるのだぞ、エーゴロウよ」

「五男になっちゃったし……」


 ヴェルディヴェールは満面の笑みで手を振っている。なにがそんなに楽しいのだろう。それに、こっちは永一郎という簡単な名前を間違えられているのに、こっちはヴェルディヴェールなるむずかしい名前を間違えないというのも不公平な気がしてならない。


 しかしともかく、このアナトミアという事務員を捜しにいくしかないようだった。


 ヴァルハラ内とはいえ、一応事務所のなかは時空間として安定しているような気がする。しかし一度扉を出れば、その先になにが広がっているかはまったく予想できない。


 永一郎は扉のノブに手をかけた。がちゃりと開く。その向こうは、一応、入ってきたときと同じ雑居ビルの昇降口だった。永一郎はちらりと事務所内を振り返る。


「ちなみに、だけど……このアナトミアってひと、鳥になったり人間になったり、しないよな?」

「アナトミアはわりとふつうの人間でござる。鳥にも獣にもなれないと思うが」

「そうか、じゃあ、いいや……捜しに行ってくるよ」

「行ってくるがよいー」


 ふつうの人間、か。でも、わりと、だもんな。ヴェルディヴェールが言う「わりと」がどこまで信用できるかという問題かもしれない。


 事務所を出る。階段を、とりあえず下へ。事務所の窓から見た景色的にそれほど高い場所ではなさそうだったが、下りても下りても出口が見えてこず、同じ螺旋階段をぐるぐる回っているような気がして立ち止まってみると、「火の鳥探偵社」という表札がかかった扉が見えた。


 扉を開けてみる。奥の席でヴェルディヴェールが首をかしげていた。


「もう見つけてきたでござるか?」

「い、いや……ちなみに、このビルって、どうやって外に出るの?」

「はーそんなことも知らぬでござるか、エーチロウは!」


 まったくこれだからなあ、とヴェルディヴェールは肩をすくめる。くそう。


「上へ行くのでござる。下にはなにもないのでござって」

「了解。行ってきます」


 そんなもん、わかるかっての。ふつう下から出られると思うだろ。なんだよ下にはなにもないって。へんてこ都市め。


 そもそもござるってなんだよ。サムライか。チャイナ服のくせに。


 階段を上へいく。すぐ別の扉があった。入る。慌てて戻る。扉の向こうは空中だった。もしかしたら目には見えない足場があるのかもしれなかったが、試しに一歩踏み出してみる気にはなれなかった。もう一階分上がると、別の扉があり、慎重に開ける。


 どこか懐かしいような、日本の昭和を思わせるような町並みが広がっていた。今度は安心して出て、ちゃんと後ろを振り返る。ウェルの助言は胸に刻んでおかなければならない――ちゃんとどこからきたのか覚えておけば、迷子にならずに帰れる。永一郎が出てきたのは、古ぼけたブティックのような自動ドアだった。探偵社はどこにもなかったが、扉の向こうが空中というよりはまだ理解しやすい。


 道を歩いていく。車道の車は左側通行。車の形もすこし古めの車が多かったが、そうした車たちがつけているエンブレムは見たことがないメーカーや車種のものだった。


 国道のように広い道だった。左右にはちょっとした店が並んでいる。道行くひとびとの姿も、いまのところはふつうだった。スーツを着た男や、子どもの手を引く母親。永一郎はポケットからアナトミアの写真を引っ張り出し、それと通行人を見比べながらゆっくりと歩く。


 光の色が赤みがかっている。時間はわからないが、朝焼けよりは夕焼けだろう。この世界にも夜があるのだろうか、とぼんやり歩いていると、前方で町の風景が一変していることに気づいた。


 それまですこし古めのビルが建ち並んでいたのが、二、三十メートル前方から急に大都会の真新しいビルに変わっている。


 変わったのは町並みだけではない。道をゆく車も、ある地点から急に形が変化し、丸みを帯びた流線型になって、一気に加速すると宙へ飛び上がった。空を見ると無数の車が空を飛び交っていて、まるで夕暮れで活動を開始したコウモリのように見える。


 歩道を歩いている人間も、ある一線を越えると、急に未来的な、身体にぴたりと密着したボディスーツのような服装に変化している。そこに見えない境界線があり、その手前と向こうとでは時代背景が二、三百年はちがうらしかった。


 永一郎もその見えない境界線を越える。自分の身体を見下ろすと、服も変化し、まわりと同じようなボディスーツ的服装になっていた。慣れていないと、ちょっと恥ずかしい。ポケットはなく、代わりに服の袖に黒い染みのようなものがついていた。押すと、二十センチほどの仮想ディスプレイが起動、そこに電子化されたアナトミアの写真が表示される。


「なるほど……いろいろ変化はしても、本質的なところは変化しないってことか」


 言い換えれば、表層はいくらでも変化していく、ということだ。


 そこを歩いている人間は変わらないが、着ている服装は世界に引っ張られる。持っているものも。紙の写真が電子データになり、また別のところでは絵にでもなるのかもしれない。どうしてそういう変化が起こるのかはわからないが、変化の法則がわかれば、ちゃんと現実を把握できるだろう。


 永一郎は空を見上げた。雨が降りはじめている。夕焼けが消え、夜になっていた。星は見えない。雨も冷たくはなかったが、きっとアナトミアも雨のなかをぼんやり歩いたりはしないだろうと、自動ドアが開いたビルのなかに飛び込む。


 飛び込んだつもりだったが、そこは南国の浜辺だった。それに合わせ、当然永一郎も水着、海水パンツ一枚になっていて、まわりには同じように水着のひとびとが浜辺に寝そべってくつろいでいたり、波打ち側で遊んでいたりする。手に持った写真を見てみれば、水着美女のピンナップ。なるほど、こうなるわけか、と永一郎はその水着美女の写真をじっと見下ろしつつ、身体で真夏の強い日差しを感じる。


「お兄さん、アイスでもどう?」と麦わら帽子のおやじ。「彼女と待ち合わせかい?」

「仕事中なんだ。このひと、見なかった?」

「ははあ、なかなかの美女だな。いや、知らんなあ。見かけてたとしたら忘れるはずはないんだが」


 同じ男としてその気持ちはわかると思いつつ、永一郎はその場を離れる。


 見たところ、浜辺にアナトミアらしい女性はいなかった。これはなかなか大変な仕事になりそうだと砂浜に座り込む。日差しの強さも、海の匂いも、本物としか思えない。実際、偽物ではないのだ。ヴァルハラに偽物はない。すべては本物で、ただ本物が複雑怪奇に入り組んでいるだけなのだろう。


 浜辺近くで悲鳴が上がった。立ち上がってみると、海が丸く持ち上がっている。それが表面張力を越えたようにどっと流れ出し、津波のように浜辺をさらって、そのあとから巨大なタコの怪獣が現れた。


 浜辺でくつろいでいた人間たちが逃げ惑う。永一郎も逃げようとするが、アイス売りのおやじに腕を引っ張られた。


「お兄さん、こいつで倒すんだ!」

「倒すって、そんな水鉄砲でなにができるんだよ!」

「大丈夫、こいつは使いようによっちゃ武器になるのさ。さあ、早く!」

「お願い、助けて!」


 水着美女が永一郎の身体にひしとしがみついてくる。永一郎は、こうなりゃどうにでもなれだ、と渡された水鉄砲の銃口を巨大なタコに向けた。軽いプラ製。照準がぶれる心配はない。なにしろ的もでかい。


 引き金を引く。


 水が放射されるのかと思ったが、ちがった。


 地面をふるわせるようなとてつもない轟音が鳴り響き、明らかに銃口とは釣り合いが取れないRPG弾の弾頭のようなものがタコ怪獣に向かって飛んでいく。


 命中。タコは爆散する。浜辺から拍手。永一郎が照れくさい顔で片手を上げてそれに応えていると、後ろから「泥棒!」という声が響いた。


「食い逃げだ!」


 振り返る。さっきのアイス売りのおやじだった。だれかを指さしている。指さしているだれかは一目散に逃げていった。永一郎はうっとりと身体にしがみついている水着美女を引きはがし、その後ろ姿を追った。


 黒いワンピースの水着。長い黒髪。顔は見えなかったが、間違いない。


「アナトミア、待ってくれ!」


 その女は浜辺から道を挟んですぐにあるファストフード店に飛び込んだ。永一郎も追う。中身は本当のファストフード店。女は身軽な様子でカウンターを飛び越え、店のなかを横切る。永一郎も同じことをした。


「泥棒!」店員が叫ぶ。「女が商品を取って逃げていくぞ!」


 よくあの状況でハンバーガーを盗んでいけるものだと思いつつ、その背中に追いつく。手を伸ばせば届きそうだという距離になったが、女は裏口から外へ飛び出した。その外は、もう南国の砂浜ではない。真冬のビル街だ。格好も変わっている。女は黒いファーつきのコート。手にハンバーガーを持っているのは変わりなかったから、見失いはしなかった。


「アナトミア、待ってくれよ! きみを捕まえようとしてるわけじゃないんだ、おれは火の鳥探偵社の新人でヴェルディヴェールが――うわっ」


 身体ごと吹き飛ばされたそうな強風と吹雪。目を開けていられず、風が止んだときには、もう女の姿はどこにもなかった。あたりは雪をまとい、凍りついた無人の町だ。


「くそ、ヴェルディヴェールの名前が短けりゃ言いきれたのに!」


 いまごろ事務所でくしゃみをしているであろうあの鳥女め、今度会ったら呼びやすいあだ名をつけてやる、と思いつつ永一郎もくしゃみをした。南国から急にこの吹雪はつらい。南国に戻るか、でなければ別の場所へ移動するか、だ。


 アナトミアは見失ったが、しかしだいたいの特徴はわかった。食い逃げをするくらい食い意地が張っている、ということは。あとは、逃げ足はだいたい人並みだ、ということも。鳥になって飛んで逃げるということもないし、突然姿を消すということもない。捕まえさえすれば、話も聞いてくれるだろう。たぶん。まずはアナトミアを見つけなければならない。


「どこ行ったんだ、いったい……まあでも、暑いとこから寒いとこにきたのは向こうも同じだ。すぐ別の場所へ移ろうとするはずだから、適当に捜してみるか」


 近くのビルに近づく。一階エントランスの扉は自動ドアのはずだったが、凍りついていて開かなかった。かといってこのまま吹雪の町を歩き続けるのはつらく、すこし考えた末、ビルとビルのすき間の、大人がようやく通れるくらいの狭い路地へ入り込んだ。


 勘は当たった。路地を歩いているうちに寒くなくなる。しかしコートはそのままで、おかしいな、場に馴染んだ格好になるはずなのにな、と思いながら路地を歩き続けていると、突然、カット、と大きな声が響いた。


 路地を出る。強い照明の光。真正面からその光を浴び、一瞬目が眩む。


「このシーンはOK。次のシーンの準備ができるまで待ち時間になります」

「待ち時間入りまーす」


 照明の光に目が慣れると、どうやらここは映画かドラマのセットのなからしかった。いくつかのカメラがこちらを向いていて、その奥では大勢のスタッフが動いている。振り返ると、歩いてきた路地はただのセットで、三メートルほど先で壁になっていた。


「お疲れさまです」と衣装係らしい若い女。「コート、お預かりします」

「あ、ああ、どうも」


 コートを脱ぎ、渡す。すかさず別の人間がドリンクを持ってくる。ごくりと一口。悪い気分ではない。そうか、と永一郎は気づく。この世界、ヴァルハラは、まさしく映画のようなものなのだ。


 様々な場面、世界があり、そこにいろんな役者がいる。役者は人間だが、世界のなかではそれなりの役割を与えられている場合がある。その役割になじむか、無視するかは自由なのだろう。この状況で言うなら衣装係やカメラマンも、だれかに命じられてそうしているわけではなく、自分でその役を選んでやっているにすぎない。


 永一郎は用意されていた椅子に腰を下ろした。すぐにスタッフ役の人間が寄ってくる。


「どうします、ケータリング、いま食べられます?」

「ケータリング? それって、どこにあるんだ?」

「向こうの廊下に用意してありますけど――」


 すぐに廊下へ向かう。思ったとおりだった。黒いファーつきのコートを着た女が、ケータリングの前でどれを食べようか悩むようにうろちょろしている。


「アナトミア!」


 アナトミアははっと顔を上げて、永一郎を見た。写真で見たとおりの女の顔だ。逃げ出そうとする前に、その手を掴む。


「今度は逃げないでくれよ。別に捕まえにきたわけじゃないんだから、まったく」

「あらあら……わたしを追いかけてきたんじゃなかったの?」


 アナトミアはおっとりとまばたきをして永一郎を見る。その目は眠たげで、まばたきの途中にも眠ってしまうのではないかと思うくらいだった。


「いや、追いかけてはきたんだけど、別に食い逃げ犯を追いかけたわけじゃなくて。火の鳥探偵社のヴェルディヴェールから頼まれてるんだ。事務所に戻ってこいって」

「あらあら? さっき事務所を出たばかりなのに、ベルちゃんったら、もう寂しくなったのかしら?」

「さっきって、ヴェルディヴェールは昼休みに出てからもう二年帰ってきてないとか言ってたぞ。まあ、そりゃあ、ここでは時間なんてあんまり意味はないんだろうけど」

「あらあら……もうそんなに経ってたの? おいしいものを食べ歩いてたら、つい時間のことを忘れちゃってたわ」

「食べ歩いてたっていうか、さっきの様子を見るかぎり食い逃げ――」

「あらあらこっちにもおいしそうなものが」


 ケータリングとしてケースのなかに様々なものが並べられている。アナトミアはケースの蓋を開け、唐揚げをつまんでぱくり。おいしいらしいのは表情で伝わる。で、当然、


「ちょっと、あなた、勝手に食べてもらっちゃ困るんですけど――」

「あらあら大変。逃げるわよ、お兄さん」

「え、逃げるって、うおっ」


 怪力で手を引っ張られる。そのまま角を曲がり、扉のひとつへ。撮影スタジオを離れ、西洋風の町並みに出る。街灯に煙る煉瓦造りの町。霧が深く立ちこめていて、そこから軽快な足音と車輪の音を立てながら馬車が現れては過ぎ去っていく。十八、九世紀のロンドンという雰囲気。アナトミアは黒いドレスを身にまとい、麗しき夫人として歩いていく。半ば強制的に腕を組まされている永一郎も黒のタキシード。


「アナトミア、事務所に帰らないとまずいって。ヴェルディヴェールが捜してるし」


 永一郎は横目で黒いドレスの胸元を見る。ううむ、すごい。スイカ並。


「そうねえ、そろそろ帰ったほうがいいかしら――そういえば、あなた、どなた?」

「絹田永一郎。今日……いや、日付はよくわからないけど、火の鳥探偵社で探偵をやることになった。だから、同僚になるのかな」

「あらあら、まあまあ」とアナトミアはぼんやり永一郎を見て、「なんだか活きがいいお兄さんだと思ったら、同僚さんだったの」

「い、活きがいい?」

「あらあら、変な意味じゃないのよ? 活きがいいっていうのはね、つまり死んで間もない、ヴァルハラへきて間もないってことで――はっ」


 ぴたりとアナトミアが立ち止まる。永一郎もつんのめるようにして止まった。


 前方から三人組の男が歩いてくる。アナトミアは踵を返そうとしたが、永一郎と腕を組んでいるせいで遅れた。


 男のひとりがあっと声を上げる。残りのふたりもそれでアナトミアに気づき、次の瞬間にはこちらへ走りながら捕まえろと叫んでいる。


「まだこんなところをうろついてたのか、食い逃げめ!」

「この界隈では十件も被害が出てるんだ、捕まえて時間を払わせろ!」

「あらあら、いけないわ、逃げないと」

「アナトミア、あんたどんだけ食い逃げしてるんだよ!」

「だっていちいち払ってたらきりがないんだもの――あらあら、まあまあ」


 振り返ると、後ろからも別の男たちが迫っていた。


 万事休す。さすがに逃げ場はなさそうだった。前後から男たちがじりじりと距離を詰めてくる。アナトミアは困ったように黒い手袋をはめた手を頬に当て、首をかしげた。


「どうしましょう。困ったわねえ」

「おとなしく金を――時間を払えばいいんじゃないの? それとも、払えないくらい食べたとか?」

「まあ、お店にあったものはだいたい食べ尽くしたけれど……」

「そんなに食って逃げたんかい……」

「はあ、しょうがないわねえ」

「そうだよ、諦めたほうがいい。死後の世界でもなんでも、悪いことはしないほうが――」

「力づくで追い払うしかないみたいだわ」

「あ、アナトミア? 力づくって、なにするつもり……」


 アナトミアはきゅっと抱いていた永一郎の腕を放した。


 両腕を広げ、目を閉じる。その髪が、頭の先から変色していく。黒から鮮やかな銀色へ。まるで奇跡のように黒髪から銀髪へ変わる。毛先まで銀色になると、今度は黒いドレスだった。上から下へ、色が塗り替えられる――色だけではない、ドレスの形も変わっていた。


 大きく胸元が開いているのは同じだが、さっきまではストレートのスカートだったのが、銀色のフレアスカートになっている。裾もロングから膝上へ。すらりとした足が現れ、黒いヒールが銀のヒールに変わった。


「……アナトミア?」


 アナトミアがうっすらと目を開ける。そしてヒールを、その場でかつんと鳴らした。


 その瞬間、アナトミアを中心として放射状に世界が変質した。


 霧に煙るロンドンふうの景色が、アナトミアの足下から現代の都会へ塗り替えられていく。地面の煉瓦はアスファルトに、家々はコンクリートのビルに。文字どおり、絵を塗り替えるように風景が変わり、アナトミアがもう一度足踏みするとコンクリートのビル群も消えた。


 代わりに現れたのは、原生林だ。


 見たこともない太い幹をした植物が生い茂った原生林が広がり、アナトミアとその周囲だけが広場のように背の低い草が生えている。


 アナトミアの食い逃げ分を取り立てにきた男たちも、その変化に声も出せずあたりを見回していた。永一郎も同じだ。アナトミアがなにかしているらしいということはわかったが、なにをしているのか、なにをするつもりなのかがわからない。


 ぎゃああっ、と人間の悲鳴のような声が響いた。本能的に恐れを感じるような叫び声で、あたりがさっと暗くなる。


「な、なんだ――うおおっ!?」


 空を見ると、翼を持った巨大な恐竜が数頭、上空を舞っていた。


 鳥と恐竜の狭間のような、羽毛は持っているが、明らかに鳥ではない巨大生物は、動きこそゆっくりしていたが、安心感はどこにもなかった。実際、そのうちの一頭が急降下したと思うと、


「あ」


 男のひとりをぱくりと口に咥え、再び舞い上がる。


 一瞬、沈黙があった。


 その一瞬の沈黙で状況を理解した男たちは悲鳴を上げながら逃げ出した。それを上空から巨大生物が追いかけ、追いつき、ぱくりと食べ、どこかへ飛んでいく。その一部始終を目撃した永一郎は背筋に寒気を感じながらアナトミアを見た。


 頭から爪先まで銀色に変わったアナトミアは、ふう、とゆっくり息をつき、はじめて永一郎に見られていたのを意識したように両手で頬を隠す。


「あらあら、そんなにじっくり見られると恥ずかしいわ」

「い、いや……いやいやいや! 恥ずかしいとか言ってる場合じゃないし! さ、さっきのひとたち、た、食べられましたけど!?」

「だってえ」とアナトミアは身体をくねらせ、「しつこいんだもん」

「しつこかったら恐竜に食われるの!? 怖っ! 死後の世界怖っ!」


 ぎゃああっ、とどこかで恐竜が鳴く。ひいい、と永一郎はあたりを見回した。いまにも原生林から巨大な恐竜が現れそうな気がする。


「あらあら、大丈夫よー」


 アナトミアは怯えている永一郎の頭をよしよし。


「さっきのひとたちも、あなたも、どうせみんな死んでるんだし」

「怖っ! やっぱり怖っ! お、おれも食われるのか、恐竜に?」

「大丈夫よ、あなたはなにも悪いことはしてないもの。食べられたりしないわよ」

「そ、そっか、よかった……」


 いやさっきの男たちだって悪いことはしてなかった、むしろ悪いことをしてたのは食い逃げしたアナトミアでは、と思ったが、口には出さなかった。この世界でアナトミアの機嫌を損ねて生き残れる自信はない。


「さて、用事も済んだし、帰りましょうか」


 アナトミアは再びヒールをかつんと鳴らした。


 先ほどの逆再生を見るように、世界がアナトミアの足下に向かって収縮していく。原生林が消え、ビルが現れ、地面がアスファルトになり、最後にはアナトミアのドレスと服が元の黒に戻って、ふたりは現代のビル街によく似た場所に立っていた。もちろん、例の男たちの姿はどこにもなかったが、どこに行ったのかと聞く勇気は、永一郎にはなかった。


 まあ、あの男たちだって最初から死んでいるのだ。いまさら恐竜に食われて消滅するということもないだろう。反対に、意識がありながら恐竜に食われていく、というのもぞっとする想像ではあったが。


 アナトミアが歩き出す。永一郎はそれについていった。いまさら火の鳥探偵社への帰り道はわからない。いくつも世界を越えすぎて、どこが入り口でどこが出口なのか、もうさっぱりだ。


「帰り道、わかるの?」

「いいえ、さっぱり」

「わからんのかいっ――じゃ、じゃあ、どうやって帰るんだよ? 言っとくけど、おれだって帰り道はわからないよ。ヴァルハラにはきたばっかりだし、もうここがどこなのかもわからないし」

「あらあら、大丈夫よ、帰り道なんて作ればいいんだから」

「作る?」

「さっきと同じ方法でね」


 アナトミアは近くのビルに近づいた。自動ドアが開く。その向こうは連続したビルの内部のように見えたが、アナトミアは見えない壁に触れるように手を伸ばした。


 銀色の粒子がアナトミアの手のひらからこぼれ落ちる。粒子は地面に積み重なり、すぐにちょっとした銀色の砂の山が出来上がった。アナトミアがそれをすくい上げ、ぱっと宙に撒く。ビルの内装が変質する。内装だけではなく、空間そのものが塗り替えられていく。空気が湿り、薄暗くなり、気づけば永一郎は火の鳥探偵社と書かれた扉の前に立っていた。


 雑居ビルの昇降口。風通しが悪く、薄暗いそこに、なんの手順もなく、唐突に立っている。アナトミアは平然と火の鳥探偵社の扉を開けた。


「ただいまあ」

「お、帰ってきたか」


 奥の机には、鳥ではなく、チャイナ服の人間が座っている。ヴェルディヴェール。永一郎が事務所を出てからまださほど時間は経っていないようだった。


「なかなかいい働きでござるな、エーチロウ――どうした、そんなにふしぎそうな顔をして? それがしの顔にタコスでもついておるのか?」

「なんでそんなめんどくさいもんが顔についてるんだよ――いや、なんていうか、短いあいだだったけどヴァルハラを満喫した気がしてさ。やっぱり、この町はわけがわからない」

「そうか? 慣れれば住みやすいでござるが」

「慣れないうちは移動するだけでも大変だ。なにか法則があるのかと思えば、突然原始林になったり、ビル街になったり」

「ああ、それはアナトミアがやったのでござろう。アナトミアは少々特殊でござるゆえに」

「少々特殊?」


 アナトミアは自分の話をされているのも気づいていないような顔であくび。


「うむ。アナトミアは吸血鬼でござるゆえゆえ」

「きゅ、吸血鬼?」

「正確には元吸血鬼でござるが。なにしろ死んでいるわけであって」


 永一郎は思わずアナトミアを見る。黒い髪に黒い服。大きく開いている胸元から見える肌は青白い。吸血鬼だと言われれば、たしかにそんなふうにも見えてくる。


「ねえ、ベル」


 アナトミアは事務所の隅に置いてある電話に視線をやりつつ、言った。


「出前、頼んでもいいかしら? お腹減っちゃって」

「まあまあアナトミア、ちょっと待つでござる」

「きゅ、吸血鬼……ってことは血を吸うのか……いや待てよ、ふつうに食い逃げしてたしな。いやいやちょっと待て、そもそも死んでるのになんで腹が減るんだ? ウェルは飯を食う必要はないって言ってたけど――」

「エーチロウも落ち着け。まったく、おぬしらは落ち着きがないでござるなあ。客人に笑われてしまうでござるよ」

「客人?」


 その一言で、永一郎ははじめて奥の事務机に座っている人影に気づいた。


 あまりにも存在感がなく――というよりはヴェルディヴェールやアナトミアに存在感がありすぎて目に入っていなかったが、たしかに、そこにひとりの人間が座っていた。


 後ろ姿で、女だとわかる。黒髪のショートカット。着ている服は、大きな襟がついた紺色のセーラー服。セーラー服を着ているということはまだ若いのだろう。コスプレという可能性もあるが、不死鳥に吸血鬼というだけでお腹がいっぱいなのに、ここにセーラー服のコスプレが入ったらもはや意味不明だ。魑魅魍魎、といってもいい。

 自分の話題になって、ようやくその人影は振り返った。


 幸い、本当に若い、セーラー服がよく似合う少女だった。


 しかしもう永一郎にそんなことを考えている余裕はない。振り返った顔を見た瞬間、呼吸が止まりそうになる。


 ――眞未。


 そこにいたのは、ここにいるはずがない女、大貫眞未だった。

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