第50話 忘れ物
いつもいつも忘れてるな。いい加減情けなくなる。何で気付けないのか、気づこうとすることすら忘れてしまう。当然だけど自分の名前や家の帰り道は忘れない。と言うよりむしろ引っ越しした時にちょっと知らない道に行ってもちゃんと自分のアパートにたどり着ける(まあこれはちゃんと冷静に地図の看板とか番地とか見てるからだけど)。
でもそう言うと本気じゃないから忘れると言われる。確かに自分の命に係わる、と言うと大げさだけど、不利益になることは忘れない。でも仕事で覚えていないといけないのに忘れて大恥をかいてトラウマになることも多いのに、何で覚え無きゃいけないことは覚えられないんだろう。
そういえば昔のバイトの人が俺のことを掲示板だかか裏垢だかで俺の実名を出して俺のポンコツぶりをばらして嗤っていたらしい。それを知ったときは俺は自分の名前を忘れてスルーできるならってちょっと冗談で思った。
ある日俺は外出していたとき、何か忘れているという恐怖のような感情にいきなり襲われた。何だ、さすがにコンビニと郵便局行くだけだぞ、財布だけあればいいんだから何も忘れてないだろ。郵便局も140円切手買うだけだからお金があればいいだけだし。
それからどうしても気になってしまって一旦家に帰った。しかし家のたどり着いたとたん、不安は一気に消えてしまった。何だ、俺痴呆症とかになるのか? いや、今日は何かを忘れたわけじゃない、忘れるのが恐怖なだけだから大丈夫だろう。でも何でいきなり。
その日以来俺はたびたびその発作に襲われた。実際に些細な忘れ物をしていて助かったときもあるし、無意味な心配だったときもあった。そうしているうちに何か月か経って、俺は一応精神科とか神経科に行って診察してもらった。
結果は全くの健康だった。まあ忘れ物に関しては障害ではないけど、そういう適応上の問題は多少あるらしいが、治療するほどの者じゃないのではないかと言われたけど。
また何か月か経つと、俺は全く忘れ物や記憶違いをしない人間になっていた。むしろ他人の度忘れを指摘できる人間になったくらいだ。
そうなると他人の抜けたところが気になって仕方なくなった。注意したい、でも前の自分を知っている人ばかりだから、その時のことを言われると嫌だし、まず低スぺだった俺にいきなり指摘されたら立つ瀬がない人だっているだろう。
俺はその後、取る必要のないノートに言われたことを書くようになっていた。ノートなんていらない位記憶力は健在なのにだ。なぜなら、他人に指摘するには、俺がノートを見て指摘すると若干角が取れた感じになって都合がよいのだ。
相手も、ああ、ノート取っててくれてたんだな、ごめんごめん忘れてたよ、といい具合に落としどころ、逃げ道を作れた。
しかしある日、なぜかノートを取ることを忘れて指摘してしまった。相手は起こり、険悪になった。確かに忘れ物はしなくなったけど、ノートに取るという余計なことは本来意味のない、覚えておく必要のない行動だったので忘れてしまったのだ。
ノートにとる行為は習慣になってなかった。これは反省しないといけない、とその日はその相手に余計なことを言ったことを詫びて家に帰った。
しかし家に帰ると、何をすればいいのか体が動かなかった。あれ? 確か家に帰ったら冷蔵庫にある食べ物をレンチンして、ああ、あと風呂も沸かして、、、。
いや、おかしい、俺、習慣化していたものが抜けてしまっていた。そういえば昨日夕食食べてないし、風呂も入ってない。おとといも「Aさん、昼食も食べずに熱心ですね」って言われた。習慣にしてたことが抜け落ちてるんだ。
俺は怖くなってその冴えている記憶をたどってここ数日の、記憶レベルではない、日常のルーティンで何か抜けていた所を思い出していた。
するとここ一か月で何かしらの習慣が抜け落ちることがあったことが思い出された。確かに、妙にお腹がすいたり、臭くないですか? と言われたり、おかしいことがすぐに思い浮かんだ。
これはやばいと、やっていた日常のルーティンのようなものをノートにつけた。その日からは休憩時間や家にいる時は必ずノートを見るようにした。それもノートを見る習慣にしないように、今日は何時何分にノートを見る、という付帯の記憶をつけるようにして。
あれから数週間、俺は元の人間に戻った。「お前飯だけは忘れないな」って言われたけど幸せだった。確変期間が終わったと思われて、「ノート取っとけ」って言われるけど、「ノートを取ることを忘れました」で乗り切る。
俺はそういう人間なんだ。と思えば、それはそれで切り抜けられる気がした。
数年後、俺はそれまでの貯金と相続で人生を上がりにした。今は何をしても楽しい、だって名作を何度見ても忘れてるんだもん。こんな楽しい人生ないわ。毎日大好きなお菓子を食べながら15時に同じ映画を見て、22時から同じゲームを何周もするんだ。こんな習慣やめられないわ。
その数日後この男が、古いおかしの袋に囲まれて衰弱死しているところを発見された。彼の遺品からノートが発見されて、そこには大量に消した文字の中に唯一、「食事用の食べ物の買い出し」と書かれていた。
PCには彼の日記があり、「お菓子をもっと食べるために食事を抜くことにした。ノートに習慣を打ち消す効果があるなら書いてみよう」としたためられていた。
多分食事の分だけでなくお菓子も買いに行けなかったのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます