第二話
翌日、学校は弓道部の話題でもちきりかと思いきや、教室に入った私の耳に入ってくるのは昨日のドラマかアイドルの話題ばかりだった。
とはいえ、
「何ってなに?」
「とぼけないでよ。昨日、弓道部に入部届出しに行ったんじゃないの?」
「行ったけど」
「だったら暴力事件のこと、知ってるでしょ」
「暴力事件……だったんだ、あれ」
「だったんだ、って。何も見てないの?」
「なんか口から血を出してたひとがいて、取り押さえられてるひとがいたなあ」
「完全に見てるじゃん!」
「見てないよ」
私が見たのは、
「それよりさ、萌々子。モーニングコール早いって。七時は無理だって、
「もう! せっかく起こしてあげてるのになにそれっ」
萌々子は
走り去った顧問の後を見知らぬ部員と
顧問が
どうして殴ったのか、その理由を誰も言わなかった。知らなかったのかもしれない。確実に理由を知っている鏑木先輩は口を
入部届は結局出せず
「堀川さん」
そろそろ教室に戻ろうと思っていると、担任の松本先生が教材片手に駆け寄ってきた。今日は一時間目の授業の前にホームルームがあることを、今になって思い出す。
「おはよう。よかった、今日は早いんだね」
「……おはようございます」
いつもギリギリか
「
「残念?」
「うん。事件があったことは知ってる?」
「じゃあ二週間後に再開するんですね」
なんだ、思ったより短いじゃん。最悪の予想では
「ちょっと待って、堀川さん。まさか入部するつもりなの?」
「だって部活
「いや、そうだけど。なにも弓道部じゃなくてもいいんじゃないかな。他にも部活はいっぱいあるよ」
「たとえば?」
「合唱部なんてどう? 僕が
「あ、じゃあいいです」
「なんで!?」
松本先生大好きな萌々子でさえ合唱部は
弓道部が活動停止してからちょうど一週間が経過した。萌々子はサッカー部のマネージャー業に精を出し、私は臨時の帰宅部を
「チャンせんせ~」
「それやめろ。俺の名前は
弓道部顧問の安達先生は、職員室に入ってきた私を見るや、それはそれは
「はい、入部届」
「断る」
「まあまあそう言わずに」
「だから
「活動停止が解けても、部員が集まらないんだよ」
「鏑木先輩も?」
「その鏑木が原因だからな。戻ってきたくないと言っている部員もいる」
「え、じゃあ私と先輩の二人だけってことですね。私と先輩があらぬ関係だと疑われたらどうしよう」
「お前なあ……」
チャン先生は
「そもそもなんで鏑木先輩ってハブられてるんですか?」
先週起きた暴力事件について萌々子がどこぞから入手してきた情報によると、部内は鏑木先輩VSその他の部員で
「先輩が殴った原因って分かったんですか」
「さあな」
「チャン先生、顧問でしょ? 部活の内部事情知らないってヤバイっすよ」
「チャンじゃないし、顧問といっても名ばかりだよ」
「でしょうね。そのお腹じゃ」
「腹は関係ないだろ」
机と椅子の間に
「堀川さん、どうしたの?」
入部届を押し合いへし合いしていると、頭上から松本先生の声が降ってきた。同じ職員室に机があるからいても問題ないんだけど、今は会いたくなかった。なぜなら、
「合唱部の件、考えてくれたかな?」
これだ。部活への
「うちの合唱部は歌うだけじゃないんだよ。最近はミュージカルもやってるんだ。堀川さんもきっと楽しめると思うんだけどなあ」
歌うだけじゃなくて演技もしないといけないのかよ。私の中の合唱部に入りたい気持ちがゼロからマイナスへと下降した。
「私、弓道部に入るって決めてるんで。ね、チャン先生」
「でも弓道部は活動再開できないって聞いたよ。ですよね、安達先生」
「チャン先生、
「安達先生でしょ? なんなの、チャンって」
「親しみをこめてあだ名で呼んでるんです。松本先生」
暗に担任教師には親しみを感じてないとアピールしてみたが、残念なことに通じてはいなかった。
「弓道部もいいけど、合唱部も考えてみてね。先生思うんだけど、堀川さんには元気が足りない気がするんだ。合唱部なら毎日声を出すから自然と力が
目を
「合唱部は今、部員が五十人くらいいるんだけど、学年の
グワーって鳴いてる。ということはハシボソか。お父さんのせいで私もすっかりカラスの見分けがつくようになってしまった。だからといって何かの役に立つってことはまったくもってないんだけど。
「だから考えておいてね。じゃあ堀川さん、安達先生、僕はこれで」
一方的に熱弁を
「チャン先生」
「堀川」
示し合わせたわけでもないのにがっちりと組み合うふたつの手。固い
「あのひと、あれで人気あるんですよ。信じられませんよねー」
「俺と同い年らしいからな。周りがやたらと比べてくるのに腹が立つ」
「チャン先生のほうが
「だからチャンじゃないって。いや、なんかチャンもいい気がしてきた」
「よ! チャン・アダチ!」
「俺もよくは知らないんだが、鏑木と部長の
チャン先生が入れてくれたお茶に口をつけ、ついでにお
「
「逆に部長はゆるいと」
「楽しくやりたいって本人は言ってるんだが、それに鏑木が入部当初から
厳しい指導と
「鏑木先輩はなんて言ってるんですか?」
「なにも言わん。殴ったのは悪かったと言ったきり、だんまりだ」
「ストイックそうですもんね。言い訳はしない、みたいな」
「鏑木を知ってるのか?」
「事件の前日、見学に行ったんです」
その前にゴミ捨て場で会ったことは言おうかどうか迷って、結局は
「かなり
まあゴミ捨て場で会ったときはおっかねえなと思ったけども。
「だが理由があったとしても殴るのはいただけん。本人もそれをよく分かってる。弓道部が再開しても、鏑木の性格なら
弓道部の活動停止と同時に、鏑木先輩も停学になった。停学二週間という
「じゃあなんで先生は入部届を受け取ってくれないんですか? 鏑木先輩がいなくても弓道部は存続するんでしょ?」
「いや、どうかな」
「前言ってたじゃないですか。鏑木先輩がいる限り
「だったんだが、……まあ元々熱心な部員は少なかったし、今年の入部希望も今のところお前だけだし。正直、
「部長の平井ってひとは?」
「三年だから、この際受験に専念したいと言い出した。他の部活に入りなおす部員もちらほら出始めてなあ」
「なるほど。空中分解しかけていると」
「だからな、堀川。入部はやめとけ。入部する部活自体がなくなっちまうんだから」
私の
「でも私、このままじゃ入る部活がありません」
「俺に
「先生が頑張ってくれたら弓道部も再開できると思うんですけど」
「前から思ってたんだが、どうしてそんなに弓道部に入りたいんだ?」
先生の入れてくれたお茶に手を伸ばす。熱々だったカップは温度が下がって飲み
「別にどうしても入りたいってわけじゃないんです。でもなんていうか、入るならここだなーって思って」
私は
だというのにどこの部活も楽しいよとか青春しようとか、キラキラしいことこの上ない。特に松本先生。あのひとは自分が楽しいと思ったら他人も楽しいと思い込むタイプだ。僕はハッピー!
「楽しいかどうかは私が決めるって話ですよ」
「お前、
「だってそう思いません? バイトの求人もそうですよ。アットホームな職場ですってあれ絶対
アットホームなのになんで大量に人員を
「でも鏑木先輩、部活が楽しいって言わなかったんです。それで決めました。この部活に入ろうって」
「究極にひねくれた理由だな」
先生がお菓子の最後の一個を取ろうとしていたので、取られる前に私が取った。ムシャムシャ
「てなわけで部活がなくなると非常に困るんです。楽しくない弓道部が必要なんです」
「だったら鏑木君に戻ってきてもらいましょう」
目の前に座るチャン先生が
「
立ち上がったチャン先生が、相手に見えないところでしっしと手を振った。これは出てけというサインか。まだ話は終わっていないんだけど。
「今日の講習はキャンセルしたはずですが」
「ええ。でも来ちゃいました」
「来ちゃいましたって、」
日置先生なる人物に、私はまるで見覚えがなかった。少なくともここ職員室では一度も見たことがない。古文か日本史を教えてそうだと勝手な判断を下していると、おじいさんは私を見下ろして
「実は鏑木君から
「先輩から?」
「ええ」
「堀川、お前はもう帰れ」
「先輩はなんて言ってたんですか?」
「うちの道場を
「道場って、日置先生は道場持ってるんですか? 何者? うちの先生じゃないんですか?」
「ほーりーかーわー」
下校時間だと今度こそ職員室を追い出されてしまった。
弓道部再開、いや弓道部
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