第19話 期待

有給も明日が最終日という日の夜。


私は携帯で、上司である高田部長に電話をかけた。



『はい。』


久し振りに聞く部長の声。


「お疲れ様です、部長。あの……小形です。」


『お疲れ。』


携帯だから、わざわざ名前を名乗るほどでもなかったのだが、なんと切り出せばよかったのか、分からなかった。



「実は、部長にご相談したいことがありまして……」


『何?』


ぶっきらぼうな言い方に、今までとは違うとは感じた。


だってそうだ。


私、退職願出してきたんだもんね。


でもここで切り出さないと、未来は開けない。



「あの……私が出した退職届を、なかった事にして頂けないでしょうか……」


部長は、うんともすんとも言わない。


「もう一度、一からやり直したいんです。」


少し震えた声で言う私。


虫のいい話だと分かっていても、どうしても言わずにはいられなかった。



『今、東京か?』


「いえ…まだ実家です。」


『いつ、こっちへ戻る?』


「明日……帰ろうと思っています。」


『帰ったら、連絡して。それじゃ。』


「はい。」


私が返事をすると、電話は切れた。



「部長って人の話聞いてるんだか、聞いてないんだかよく分かんない人……」


それでも人が話す前に、電話を切る弥生よりはマシか。


そう思いながら、私は電話を切った。


次の日。


私は朝から、大きな荷物を抱えて、二階から降りてきた。


「もう行くのか?」


父が、お茶を飲みながら言った。


「うん。帰ったら、いろいろやることがあるし。」


私の意識は既に、自分の部屋へと飛んでいた。



しばらくいなかったから、まずは窓を開けて、空気を入れ替えなきゃ。


ほこりも貯まっているから、軽く掃除をして。


あっ、郵便物とかも貯まってるだろうな。


冷蔵庫の物も、ヤバイ……


ん?待てよ。


東京を発つ時は、もうここには住まないかもと思っていたから、冷蔵庫の物は、ほとんど処分してきたんだっけ。


「という事は、当分の食料買っておかなきゃ……」


私は、顔を押さえながら呟いた。


「え?食べるものがない?」


母はそういう単語だけは、他の人よりも聞こえる。


「ちゃんと買ってるの?」


「ご心配なく。ちゃんとあります。」


ありますって言ってるのに、母は何やら台所を、ごそごそと荒らしている。


「こんな物しかないけど、持って行きなさい。」


紙袋の中には、漬物、うどんやそばの乾めん、お菓子なんかも入っていた。


「ありがとう、お母さん。」


受け取ったのは、物じゃなくて、母の愛情のような気がした。


「身体に気を付けて、頑張りなさいよ。」


そして母は、にっこりと笑ってくれた。



「じゃあ、姉ちゃん。またな。」


克己が仕事へ行く時間だ。


これで克己とも、しばしの別れになる。


「今年の夏休みは、ちゃんと帰って来いよ。」


克己が、寂しさを押し隠しているのが分かる。


「その前に、あんたの結婚式で帰ってくると思うけど。」


「あ、そうか。」


途端に機嫌がよくなる克己。


「その時はお土産、よろしく!」


克己はそれだけを言うと勢いよく、玄関を開けて出て行った。



「はあ?お土産?」


結婚式に来るのに、土産?


その時、私はある事を思い出した。


「あっ!部長にお土産買わなきゃ!」


途中にある、新幹線の駅で買うか。


そんな事を考えていると、克己と入れ替えに、一香が車でやって来た。



「やっほー、お姉ちゃん。遊びに来たよ~」


「一香……」


「どうせ暇でしょ?隣町のデバートにでも行ってみない?」


「行ってみないって言われてもね。」


私は、頭をポリポリと掻く。


そう言えば一香には、今日帰るって言ってなかったっけ。


すると一香は、私の後ろにある、大きな荷物に気づいた。


「何、その荷物。」


「ああ!…実はさ、今日、東京に帰るんだ。」


一香の目が、満丸くなっている。


「克己の結婚式には、また帰ってくるからさ。」


見ると一香の方が、小刻みに震えている。


「もう~お姉ちゃんは、いっつも自分勝手なんだから!!」


「へ?」


「東京まで、何で帰ろうと思ってたの!!」


「何って、新幹線で……」


「駅までは!!」


「適当に、バスで……」


「私が駅まで送るよ!!」


怒りながら、玄関を勢いよく開ける一香。


「ああ……ありがとう。」


訳も分からず、両親に挨拶し、大きな荷物を持った。


「ほら!!早く!!」


一香は、自分の軽自動車のドアを開ける。


「ごめんね、一香。」


「全くだよ!!」


どうしてそんなに不機嫌なのか、自分の妹なのに分からない。


だがその原因は、次の瞬間に分かった。



「お姉ちゃん、今年の夏も会えるよね。」


克己と同じような事を言っている。


「今度会うのが、二年後とか三年後とか、そんなのもう嫌だからね。」


そう言って一香は、車を発進させた。



寂しかったんだね。


一香も、克己も。


今年の夏は言う通り、帰って来よう


そう思う、私だった。


新幹線で東京に戻り、自分の部屋に戻ったのは、その日の夕方だった。


カラカラと窓を開けると、携帯に着信があった。


「はい。」


『小形、まだ東京に着かないのか?』


通話の相手は、意外な相手だった。


「部長?い、今、着きました!」


『今~?』


「本当ですって!」


『ふう~ん…』



疑っている。


部長が疑っている。


『まあ、いい。今から出て来れるか?』


「今から?」


唐突な申し出に、一旦固まる。


『近くの店で待ってる。』


「近くの店って…」


そこでブツッと、電話は切れた。


「だから、人の話聞いてよ!!」


私は電話を切り、小さなバッグを持つと、帰ってきたばかりの部屋を出た。


マンションから出て右側を向くと、一階にある居酒屋が見えた。


「そう言えば、ここのお店……一度部長と一緒に来たことが……」


その時も確か、落ち込んでいた私を、部長は励ましてくれた。


私はもしかしてと思いながら、その店のドアを開けた。



「いらっしゃいませ。」


お店の人が立っているカウンターを抜けて、一番奥の座敷の部屋を見た。


「ここだ、ここ!」


高田部長が、手を挙げて待っていた。


私は黙って、座敷へと近づいた。


「部長…」


「いいから、まず座りなさい。」


「はい。」


返事をすると、私は靴を脱いで上がった。


「おまえも飲むだろう?」


部長はそう言うと、店員にコップを持ってくるように頼んだ。


「部長。飲む前にお話、いいですか?」


部長はコップを受け取ると、自分の側に置いた。


「ああ、いいよ。」


「昨日のお話ですが、」


「会社に戻って来たいっていう話か?」


「はい。都合のいい話だと思っています。でも、どうしても、あの会社に戻りたいんです。」


部長は『ふぅ~ん。』と言いながら、タバコに火を着けた。


「どうしてまた、うちの会社に戻りたいって、そう思ったんだ?」


私は俯きながら、今までの事を思い出した。


「正直、なぜかは分かりません。愛着があるのか、それとも、他の会社が考えられないのか……」


部長は灰が落ちるのも気付かずに、話を聞いてくれている。


「でも、やっぱり私、今の仕事が好きなんだと思います。」


私が顔を上げると、部長は優しそうに微笑んでくれた。


「な~んだ。俺がいるからじゃないのか。」


部長は目を細めながら、大笑いをした。


「えっ!!はははっ…それも、無きにしも非ず…」


「大体、有給の半分って言ったのに、全部使い切りやがって。」


「すみません…」


「おかげでこっちは、おまえの分まで仕事させられた。」


「本当に、すみません。」


私が謝ると、部長は、おもむろに上着の内ポケットから、白い封筒を出した。



「それ…」


「おまえの退職届だ。」


部長はタバコをくわえると、それを半分に破いた。


「こんな物、二度と俺の前に出すなよ。」


怒っているように見えて、心の奥では、頑張れと励ましてくれているようだった。



「はい!!」


部長は私の前にコップを置くと、ビールを注いでくれた。


「部長は、私が戻って来ると、分かってらっしゃったんですか?」


「半々だな。」


瓶を置くと、今度は乾杯する為に、コップを持った。


「だがな。もし、小形が戻らないと言えば、首に縄を付けてでも連れ戻してやろうと思っていた。」


「えっ!!」


私は驚いて、ビールを溢しそうになった。


「分かるだろう?出来の悪い部下ほど、可愛くて自分の手で育てたくなるんだよ。」


そう言って乾杯した部長の眼には、私への期待が見え隠れしていた。

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