第4話 自暴自棄

次の日。

私は退職届を持って、高田部長の元へとやってきた。

部長は差し出された封筒に、触れることすらしなかった。


「後悔はないのか?」

ただ静かにそう言った。

「はい。」

私の返事も、一言だけだった。

「もちろん、引き継ぎはきちんとして辞めますので。」

「どのくらいで引き継げる?」

「一ヶ月……いえ、三週間あれば引き継げます。」

私の言葉に部長は、”うん”と聞こえるか聞こえないかぐらいに、小さく頷いた。

「あの、部長?」

はっきりしない部長に、ちょっと不安に思う。

「受理して……頂けるんですよ、ね。」

部長はしばらく私を見ると、にこっと笑って口を開いた。

「そういえば、この間の有給の話、考えたか?」

「えっ?」


こんな時に有給の話?

会社を辞めるって言ってるんだから関係ないでしょ。

それなのに部長は、呑気に笑顔を見せている。


「一応は……」

本当は、全く考えていないけれど。

「そうか!じゃあ早速、明日から行って来い!」

「明日から?」

「引き継ぎは、それからにしよう。」

自分の面倒を見てくれた上司からそう言われると、こっちとしては反論もできない。

「はあ……」

仕方なく出海は、返事をした。

「これは、帰ってくるまで預かっておくな。」

部長は私の退職届に、ようやく手を伸ばすと、中身を見ることなく、引きだしの中に入れてしまった。


オフィスを出て、私はしばらく廊下をウロウロしていた。

「部長、本当に分かってくれたのかしら。」

時々曖昧な態度を取る部長。

そんな時は決まって、決断しかねている時。

部長は、私の退職届を受理するかどうか、迷っているって事。


でも、まあいい。

可愛がってくれた部長には悪いけれど、自分の気持ちは決まっている。

私はいつの間にか、休憩室に向かおうとしていた。

その途中にある給湯室から、数人の女の子の声が聞こえてくる。


「そうか、真帆。結婚するんだ。」

「ああ、子供できちゃったから。」

私は足を止めた。

今、一番会いたくない相手だ。

「なんたって、相手は三枝課長だもんね。課長、モテるんだよ~」

「ふふふっ、知ってる。」


知ってるって。

真帆ちゃんがそんな事知ってるのよ。

私は3年付き合ったけれど、そんなの全く知らなかったぞ。


「仕事どうするの?真帆。」

「仕事?ああ、結婚しちゃったら、そんなの関係ないよ。」

私は耳を疑った。

「私、結婚しても働くなんて嫌だな。家でのんびり、子供と遊んでるよ。」

「はははっ。確かにそうだよね。女は結婚すれば、働く必要なんてないよね。」

「そうそう!」


彼女の言う事は否定しない。

その子の人生は、その子のものだ。

家にいて、家庭を守るのも立派な生き方だ。

だけど、彼女は……


「小形係長……」

真帆ちゃんと一緒にいた子が、後ろを向いて私に気づいた。

私は、真帆ちゃんを見た。

真帆ちゃんも、私を見つめている。


「あっ、じゃあ私はこれで。」

一緒にいた子は、私に頭を下げると、その場を去ってしまった。

二人きりになるなんて、これじゃあ無視できないじゃん。

「……結婚するんだってね、真帆ちゃん。」

こう言う時は、先に話しかけておく。

「はい。」

「相手は三枝君だって?おめでとう。」

気を使って、佳樹とは言えなかった。

「ありがとうございます。」

お礼を言った真帆ちゃんの表情に、笑みはなかった。

「あっ……じゃあ、私も行くね。」

こういう時は、さっさと離れるのが一番。


「待って下さい!!」

真帆ちゃんが、私を呼び止める。

「よく平気で”おめでとう”なんて言えますね。」

いつもの明るくて、甲高い声じゃない。

「それぐらい、誰だって言うでしょう。」

「私はあなたから、三枝さんを奪ったんですよ。」

だから彼女には、会いたくなかった。

会えばこういう話になるのを、知っていたから。


「そういうふうに言うのやめようよ、真帆ちゃん。」

「え?」

「どっちみち、私と三枝君はダメになってたんだから、真帆ちゃんのせいじゃないよ。」

私は無意識に、そう自分に言い聞かせていたのかもしれない。

「それに、そんなこと言ったら、三枝君だって可哀想だよ。彼、真帆ちゃんに、随分癒されてるって言ってたよ。」


ちょっと違う言葉だったかも……

「彼の事、支えてあげてね。真帆ちゃんなら、いい奥さんになれるよ。」

私はそう言って、話を終わりにしようとした。

だけどそれが余計に、真帆ちゃんを刺激してしまったようだ。


「いい奥さん?」

「……仕事辞めるんでしょう?結婚したら、働く必要がないからね。」

この時私は、一向に自分を解放してくれない真帆ちゃんに、イラだっていたのかもしれない。

「でも残念だな。私、真帆ちゃんはこの仕事、好きなんだと思ってたよ。」


自分でも嫌な女だなと思う。

でも一度、言い始めると止まらない。

「真帆ちゃんも案外、つまらない女の子だったんだね。」

ハッとして、我に返った時には遅かった。


目の前にいる真帆ちゃんの目には、涙が溜まっていた。

「私の……何が分かるんですか?」

「ご、ごめん。ちょっと、言い過ぎたかも……」

「キャリアウーマンのあなたに、私の気持ちなんて分かるわけないでしょう!!」

「ちょっと待ってよ。キャリアウーマン?私が?」

「自分がどれだけ恵まれた環境にいるか、分からないんですね。」


売り言葉に買い言葉。

あれだけ可愛いと思っていた真帆ちゃんも、今だけは憎たらしい。


「私、来月でこの会社終わりなんです。」

真帆ちゃんは、手を強く握った。

「…なぜ?結婚式だってまだなのに…」

「お腹に、子供がいるからですよ。」

「だって、二ヶ月だよ?」

「何かあっても、派遣会社は責任取れないから、妊娠したって分かった途端、契約は打ち切られるんです!」

真帆ちゃんの気持ちが、痛いほど伝わってきた。

「係長が言った通り、私ここの仕事好きですよ。」

「真帆ちゃん……」

「でも、派遣辞めてこの会社に就職したら、契約違反になるからできないし、このままでいても派遣のままだし……だったら、さっさと諦めて、結婚するしかないじゃないですか!」


将来が見えない。

だけどそれは、派遣も社員も一緒なわけで。


「真帆ちゃん、私もそうだよ。」

「えっ?」

「私はただ……ずっと同じ会社にいただけ。」

何を言っても今の真帆ちゃんには、ウソにしか聞こえないかもしれない。

だけどそれは、私の本音だった。

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