第3話 みじめな気持ち
その日の夜。
私は、お風呂に浸かりながら、今までの人生を振り返ってみた。
大して努力もしないで、そこそこテストでいい点を取っていた学生時代。
妹や弟にも、尊敬されていい気になっていた。
高校も県の進学校に運良く合格して、大学も東京の、そこそこ有名なところへ、行かせてもらえた。
そして就職氷河期の最中に、今の会社へ社員で就職でいて、たまたま自分の好きな分野の部署に回されて、そこにいた高田部長に可愛がられて、思えば、私の人生は運が良かっただけ。
自分で汗水垂らして、手に入れたものなどあっただろうか。
別れた佳樹の事だってそうだ。
大して好きでもないのに、付き合っていた若い頃。
本当に好きだと感じて、付き合っていたのは彼だけだった。
それがあんなふうに、別れるような事になるなんて。
「今までのツケが、回ってきたのかな。」
お風呂の中は反響するだけに、返って頭の中にも響く。
私は無意識に、お湯の中へと頭を沈めて行った。
一ヶ月後。
私の周りは、コソコソと何かを噂し始めた。
「ちょっと、何?言いたいことがあるんなら言いなさい。」
だが周りの部下は、誤魔化すように笑うだけで、なかなか言わない。
私は、松下君を見た。
恐怖に怯える松下君。
「松下君は、私の味方よね。」
こういう時だけ、優しげな顔を見せる私。
「あ、あの…」
「怒らないから、言ってごらん。」
私の言葉に、ゴクンと息を飲んだ彼。
「係長。営業二課の三枝課長と、別れたって本当ですか?」
「……本当だけど、何で知ってるのよ。」
怒らないって言った手前、軽く睨む程度に抑えた。
「か、風の便りで…」
今どきそんな表現するヤツいるか!
どうせ佳樹が、ポロッと言ったのを、周りが広めたんでしょ。
あ~あ。
こういう時、女の子だと話分かるのにな。
「あれ?」
私は周りを見渡して、ある事に気づいた。
「真帆ちゃんは?」
真帆ちゃんというのは、派遣でうちの会社に来てくれている七宮真帆のことだ。
パステルカラーの洋服を着こなし、細い眉に大きな瞳、きれいな茶色に染められた長い髪の彼女。
しかも礼儀正しくて仕事もできるから、男性社員のみならず、上司からの受けがよかった。
私も真帆ちゃんだけは、特別に可愛がって世話をしていた。
他の派遣の子達が、半年から一年で離れていくのに対して、真帆ちゃんは、もう2年もこの会社で働いてくれているからね。
「あ~、七宮さんは……ちょっと休憩じゃないですかね…」
明らかに、挙動不審の松下君。
絶対ウソをつけないタイプなのよね。
「私も休憩してこようかな。」
「か、係長も???今は、行かない方が…」
そう言って、自分の口を塞いでいる松下君を見ると、かなり怪しい。
「ちょっと一杯、コーヒーでも飲んで来るだけよ。」
私は軽い足取りで、休憩室へ向かった。
私の会社の休憩室には、何席もテーブルが置いてあった。
ここでお昼にお弁当を食べる人もいれば、休憩時間にここへ来て、テレビを見る人もいた。
当然、備え付けのコーヒーメーカーがあって、そこで淹れる人もいるんだけど、私は自販機派。
入り口の近くで財布から100円玉を取り出すと、いつもの缶コーヒーを買った。
お昼のニュースが流れるテレビを見ながら、一番端の空いている席に座る。
少し大きめのポーチからコンパクトと取り出すと、中にあるミラーを覗きこんだ。
連日眠りが浅いせいか、目の下にはクマができている。
「えっ!!この間まで、クマなんてできた事なかったのに……」
年は取りたくないな。
その時だった。
私が座っている遥か後ろから、大声が聞こえてきた。
「おめでとう!おまえもついに家庭持ちか!」
誰かが結婚するんだ。
私がこんなに落ち込んでる時に!
私はコンパクトを、勢いよく閉めた。
「相手は企画部の子だって?」
企画部?
うちの部署じゃん。
他人事とは思えない話に、私の耳は更にそっちへ向く。
「8歳も年下なんだろ?いいよな~、羨ましい!!」
羨ましいのはいいけれど、うちの部署にそんな若い子で、結婚するような子いたかな。
「そう言えば、奥さん。名前はなんて言うんですか?」
「やだあ、まだ奥さんじゃないですよ。」
私は、その声に体が固まった。
「真帆と言います。よろしくお願いします。」
真帆ちゃん?
って、えっ?
真帆ちゃんが結婚するの?
だって彼女、まだ24だよ?
一人だけ取り残された気分の私を置きざりにして、おめでたい会話はどんどん弾む。
「真帆ちゃん。お腹の子、何か月なの?」
「もうすぐで2ヵ月です。」
しかも妊娠まで!?。
「まさか俺も、付き合ってすぐできるとは思っていなかったよ。」
私は飲みかけのコーヒーを、テーブルの上に溢してしまった。
血の気が引いている私に追い打ちをかけたのは、次に聞こえてくる声だった
この声は、
この声は、忘れもしない。
「またまた~。こんなかわいい子だったから、頑張っちゃったんじゃないの~?三枝課長!!」
「よせよ、真帆の前で。」
間違いない。
この声は佳樹だ。
彼と真帆ちゃんが結婚するんだ。
私は慌てて、テーブルにこぼしたコーヒーをティッシュで拭き、休憩室を出ようと、大きく口を開けたポーチを、そのまま持った。
そして次の瞬間、ポーチは大きな音を立てて床に落ち、中身はバラバラに散ってしまった。
恥ずかしい。
顔を真っ赤にしながら、床にばらまかれた小物を拾い集める。
私のその姿は、遥か遠くにいる佳樹と真帆ちゃんの目にも止まったらしい。
「出海?…」
遠くから、佳樹の声が聞こえた。
そして……
「小形係長?もしかして今の話聞いて……」
真帆ちゃんの声も。
「真帆、ここで待ってて。」
佳樹のそんな言葉が聞こえてきて、こっちへ来る音がする。
会いたくない。
私は急いで、残りの小物を拾うとした。
最後の一つ、口紅を拾おうと手を伸ばすと、別な手がそれを拾いあげた。
「大丈夫か?出海。」
一ヶ月ぶりに聞く佳樹の声。
だけど私は、返事をすることなく、佳樹に拾ってもらった口紅を奪い取る。
「ごめん、黙ってるつもりはなかったんだ。ちゃんと、会って話そうと思ってたんだけど。」
ここ数日の、佳樹からの着信。
”会って話したいことがある”という留守電。
無視していたのは、私の方だ。
「どうして、真帆ちゃんが妊娠2か月なの?」
声を振り絞って出た言葉が、それだった。
「私たち、別れてまだ1ヵ月しか経っていないのに、どうして2ヵ月なのよ。」
答えは知っている。
私と別れる前から、佳樹と真帆ちゃんはそういう関係だったのだ。
「ごめん……出海。」
そうつぶやいた彼。
「別れた原因は、彼女でしょ?」
佳樹は、首を横に振った。
「違うよ。別れたのはあくまで、俺達の問題だよ。」
「それでも、別れようって決めたのは、彼女がいたからでしょ?」
「俺達が付き合ったのは、出海と別れてからだって。」
「じゃあ、真帆ちゃんのお腹の子は、佳樹の子供じゃないって言うの?」
佳樹は、首を横に振った。
「出海と別れる前に、1度だけ彼女とそういう事があって……たぶんその時にできたんだと思う。」
佳樹は俯きながら、静かに答えた。
「すまないと思ってる。でも俺達が別れた理由は、彼女と無関係なんだ。信じてくれ。」
「今更言い訳はよしてよ。」
私は立ち上がった。
「出海……」
「真帆ちゃんと結婚するんでしょ?」
佳樹も立ち上がった。
「…ああ。」
1度の過ちだって、何だっていい。
3年付き合った私とは、決められなかった結婚を、佳樹は付き合って1か月の真帆ちゃんと決めたのだ。
「それが全てだよ。」
そう言って私は、ポーチを持って休憩室を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます