第三楽曲 天使の夜の夢 パート3

 まばらな拍手を背に舞台袖に引きげたたん、ガーナーがおおめ息をついた。

 真っ先に、ミレアはびくりと震える。震える口を、なんとか動かした。

「あの」

「言い訳はいいよ。結果がすべてだ」

 ばっさりと切り捨てる言葉が、今までで一番、ざんこくひびく。

「音は外す、テンポはズレる、素人しろうとでもやらないぼんミスの連続。最後はほとんどいてるフリで終わり。ミレアちゃん。それで君、ほんとにプロのつもり?」

「……すみませ……」

「その弾くフリっていう英断のおかげで、最後はなんとかまとまったけど。記者達が目をかがやかせて出てったよ。〝バイオリンの妖精〟はヤラセ、実力でそれを証明しちゃったね」

 顔が上げられないミレアに、ガーナーは冷ややかに告げる。

「第二部は三十分のきゆうけいの後だ。それまでに立て直せなければ、君は終わりだよ」

 反論できなかった。それくらいひどいしゆうたいを、ミレアはたいでさらした。一人だけならともかく、きよしようマエストロ・ガーナーと第二楽団を巻きこんで。こんな失態を世間もきゆうてい楽団の上層部──バイエルンこうしやくも、のがすとは思えない。

 ガーナーはそのまま背を向け、ちんつうおもちの第二楽団の面々がミレアを追いしていく。

 かたたたいてくれる人もいた。だれもミレアをなぐさめない代わりに、責めもしない。

 それが一番、痛い。

「ミレア。とにかくどっか座って、あったかいものでも飲もう?」

「レベッカ。……ごめんなさい」

「謝らなくていいよ。手、震えてる。……本番前に、何かあったの?」

 レベッカからの詮索はめずらしい。答えようとしてミレアはつまる。

 自分はこうやって心配してくれる友達にすら、本当の自分のことを話せないのだ。

「言いたくないなら言わなくていいから。何かあったかいもの、持ってくるね」

 待ってて、と言われてミレアは一人、取り残される。

 ひとりぼっちだ。ひっとのどが鳴った。子供のようにうずくまって、そのまま泣く。

「助けて、聖夜の天使……っ」

 バイオリンがこたえてくれない。たくさんの雑音が邪魔をして、天使の音に届かない。

「……いないなんて言わないで、消えないで。私は、聖夜の天使がいないと、バイオリンが弾けないのに……!」

 こつり、とくつおとがした。はっとミレアはなみだれた顔を上げて、おびえる。

「……アルベルト……」

 第一部の間、客席に姿を見せなかったアルベルトが、立っていた。だがそれだけだ。すぐに視線をそらして踵を返してしまった。

 何を言われるか怖くて身構えたくせに、ずきりと胸が痛んだ。その痛みをめるような仕草で、バイオリンをきしめる。

 聖夜の天使は、どこにいるのだろう。このおよんで、そんなことを考えた。

 だって聖夜の天使がいてくれれば、ミレアは誰にも捨てられずにすむのだから。






 悪筆なのでといううそを告げると、歌劇場の前で花屋を営む老ふうは笑ってメッセージカードの代筆を引き受けてくれた。

「名前はいらないのかい?」

「直接渡しますから。──ああ、そうだこの小さな羽のかざり。カードにり付けてもらってもいいですか?」

「ああ、いいよ。しかし第一部が終わったところで買いにくるなんて珍しいね」

 深くかぶったぼうの奥のみで答えをし、銀貨と引きえに予約していたの花束を持つ。大輪の紅薔薇はひときわ、愛をうたうように強くかおった。

 そのかおりにまぎれて、毒々しいちようしようが混じる。

「期待はずれどころじゃなかったな〝バイオリンのようせい〟。ひどすぎる」

「最後の方、弾いてなかったって前列のやつが言ってたぜ」

「あのバイオリン。盗品だってうわさが流れてるのよ。消えたパガーニのバイオリンって」

どろぼうほうっておくなんて。どうなってるのかしら、宮廷楽団」

 話に夢中で、誰にも姿をとがめられないのは幸いだった。記者連中も、休憩時間の間にミレアとせつしよくしようとしているのか、楽屋の方に回っているらしい。

 会場前のいしだたみの広場では、子供達がはしゃぎまわっている。かたわらをけていった少女に、声をかけた。

「君。この花束を、あそこの入り口に立ってる人に渡してくれないか」

「え?」

「今すぐ届けたら、天使が現れるんだよ。ほら、カードに羽がついてるだろう?」

 いたずらっぽく告げると、好奇心の強い子供達はそれだけで目を輝かせて、我先にと会場前の警備員に花束を持って行ってくれる。子供らしい押しの強さで今すぐ持っていってと叫んでいる姿が見えた。

 押された警備員が花束を持って消えたのを見届けて、きびすを返した。もどってきた子供達が首をかしげる。あれ、さっきのお兄ちゃんは? そう言っている子供もいたが、広場のふんすいが上がり、興味はすぐそちらに移ってしまう。

 関係者出入り口に辿たどり着いてやっと、帽子をいだ。だん持ち歩かないステッキもしんらしく見せるためのぶくろも、全部一緒にくずかごに放りこんで、それでおしまい。簡単だった。

 ──あのむすめはもう用済みだ。フェリクス・ルターほどの天才ならともかく。

 この舞台の失敗を経験にすることはできた。それだけの時間が彼女に許されていれば。

 ──お前もたいがいにしろ。音楽を続けることは許さん。そもそも、バイオリニストの女などきやつだ。あの女と今すぐえんを切るか公爵家に戻るか、選べ。

 やめてたまるか。やめさせてたまるか。そのためには。

 ──私は、聖夜の天使がいないと、バイオリンが弾けないのに。

 才能は花だ。育てず、あつかいをちがえれば簡単にれる。持てはやされ、世間に放りこまれてあっという間についえた才能をしようの横で何度も見てきた。彼女をそうしたくはなかった。

 彼女を聖夜の天使にぞんさせたまま開花させるのは危険だ。だから急がず大事に育てて、最後にかせるつもりだった。聖夜の天使がいなくても、彼女の力で立てるように。

 ──けれど。

「すればいいんだろう、天才に」

 聖夜の天使さえいれば、彼女は天才になれる。

 薔薇の花束は、アルベルト・フォン・バイエルンが考えたごほうだ。色気づいたことに不得手な彼女が薔薇の花束をおくられたら、どんな顔をしただろうと未練がましく思う。

 だがそれはもう屑籠に放りこんだ、もしもの話だった。






 痛みに慣れるように、感情はしていくらしい。ふるえなくなった代わりに、今度は全身が重かった。それがでんせんしたように、たいそでには暗い空気がただよっている。

 幕が上がる五分前、最後に姿を現したガーナーは、団員達の顔を見るなり言った。

「あ、こりゃだ」

「マエストロ……」

「いやー僕はプロだからどんな舞台にでも立つけどさ。そういう意味でげないのは認めるけどさ。いっそ逃げてくれれば堂々と代演させられたのにって、ちょっと今思った」

「エロジジイのくせにずけずけ言いすぎ。だからの方が人気出るのよ」

「何か言ったレベッカちゃーん?」

「あの、すみません。ミレア・シェルツ様はこちらにいらっしゃいますか」

 ぼんやりしていたせいで、反応がおくれる。顔を上げた時には、警備員が目の前にいた。

「子供達に持って行けとうるさく言われまして。今すぐ、絶対に届けるようにと」

「薔薇の花束ぁ? 誰から? まさかなんか変なもん入ってたりしないよね」

 横から入ってきたガーナーに警備員が首をる。

「差出人は不明ですが、間違いなくつうの花束です。メッセージカードもありますし」

 花束を受け取ったミレアは、うながされるまま大輪の薔薇の花弁に差しこまれたメッセージカードを取った。小さな羽が貼り付けられたカードには、達筆な文字が並んでいる。

 一度読んだ。二度読んで名前がないことに気づき、三度目を見て、警備員にめ寄る。

「これを持ってきた人、どこですか!?」

「で、ですから子供が、誰かからたのまれたと」

「それって誰!?」

「そ、そこまでは私も聞いてませんが……」

「なになにー? なにこれ。『僕がいた曲を、今から弾く君へ。僕を覚えていてくれて、ありがとう。だいじよう。僕はここにいる』? ──名前もないしあやしくない?」

 勝手にのぞきこんだガーナーが首を傾げている。

 他人の口からカードの内容を聞いて、ミレアの目がうるむ。夢じゃない。

「聖夜の天使がきてる……!」

 感きわまって、花束に顔をした。薔薇の花弁が笑うようにれる。

 何を疑っていたのと、首を傾げるように。

「……あれって作り話じゃないの?」

ちがいます! います! このメッセージがそのしよう! 今から弾く二曲目は、聖夜の天使が私に弾いてくれた曲なんです!」

 だれにも言ったことはない。ミレアと聖夜の天使にしか分からない本当のことだ。

 聖夜の天使はミレアを見つけてくれた。今、この会場にきている。噓でももうそうでもなく。

(……何がそんなにこわかったんだろう、私)

 ──大丈夫。僕はここにいる。

 薔薇をぎゅっと抱きしめて、顔を上げる。早くたいに行きたい。弾きたい。

 あの先に、聖夜の天使がいてくれる。

「よしっいきますマエストロ!」

「……いや、いきなり元気になられてもさ。さっきどれだけ失態演じたか分かってる?」

「大丈夫です、だって聖夜の天使がいるもの!」

 満面の笑みで振り向いたミレアに、団員の面々がそれぞれみような顔をした。それすらとんちやくせず、薔薇の花束を置いて、深呼吸をした。しゃんと背筋をばして、舞台を見つめる。

 その横顔を見て、ガーナーが目を細めた。

「まさか聖夜の天使がスイッチ? ならどうしてこの間、鹿弟子の指揮で……あ」

 第二部の合図をしらせる音が鳴る。ふわりとミレアは足をみ出した。天使に会うために。

 さきほどより非難のこもった視線が、ひそひそと何かささやき合う声が聞こえる。

 ──とうひん。ヤラセ。全部作り話。

 どうでもいい、と思った。それよりも大切なものがある。それさえかなでれば、すべて雑音だ。

 ガーナーが指揮台に上がり、せいじやくが広がる。せいひつな空気に目を閉じた。

(聞いててね。聖夜の天使)

 ガーナーの指揮を合図に、ミレアは微笑ほほえんで弓を引く。迷いなく、まっすぐに。

 さあ、天から音を降らせよう。

 聖夜にせきを起こしたバイオリンの音を、あなたに届けるために。



 景色が変わった。客席を飲みこんだしきさいあふれる音色に、アルベルトは目を細める。

 フェリクスが息をむ横で、ひじけにほおづえを突いた。

 妖精が奏でる、春の調べ。小鳥のさえずりのように心地ここちよく、さめのようにやさしくまくを震わせ、うるおす。

 せんえがくような音のつぶに、悪意でそうぞうしかった会場が洗われていく。

 おどろいたのは観客達だけではないはずだ。特に指揮台でせいぎよしなければならないあの鹿しようは、内心おおあわてだろう。だがそれをじんも感じさせず立て直し、第二楽団の方を彼女に合わせている。さすが、ても焼いても食えない自分の師匠だ。

 やがて彼女の独奏が始まる。本人は自分が何をしているか、自覚していないだろう。

 を構築する幼少時に養護院にいた彼女はろくな音楽教育を受けていないはずだ。それ以前は父親から習っていたらしいことは聞いたが、よほどその教えとあいしようがよかったのか、彼女はこうだけならフェリクスの上をいく。ただその技巧も独創的で、ほかの技術とうまくみ合わず、結果としていわゆる『上手うまいだけで心に残らない演奏』になる。

 でも今は違う。おそろしい技巧もつたない経験も、たった一つの願いのためだけにしようしていく。



 ──会いたい。



 会いたい、会いたい、会いたい。会いにきて、どうか。あらしがきても、いなずまが大地を引きいても。私は待っている。ここにいるから、あなたに会う日だけを夢見て。

 オーケストラがあらがおうとも、ただそれだけをかかえて、彼女はまっすぐに飛ぶ。

 ──まだ天才にならなくてもいいと言ったのは自分なのに。

「……これはひょっとして、聖夜の天使に向けて弾いてるのかな?」

 光の音が降る中で、フェリクスが小さく感想を落とす。

「こんなに想われてるのに、会わない男は馬鹿だね」

 フェリクスの感想を体現したように、オーケストラも音色を変えていく。かれないはずがないのだ。こんないちな音をささげられて。

「……ああ、そうだな」

 どこかで聞いた音に惹かれて声をかけた。名前を聞いて驚いた。自分の存在を売名に使われてけいかいし、疑った。会いたいとまっすぐ願われてまどった。れいすぎる彼女の思い出に今の自分が見合わない気がした。なのに気づかれないことにいらった。

 今の自分を見て欲しいなんて、らしくないことまで願った。

 だが、〝聖夜の天使〟の正体がアルベルト・フォン・バイエルンだなんて、現実では笑い話にもならない。世間はやらせを疑い、今以上に彼女はいろ眼鏡めがねで見られる。しかもせつとうわくつきだ。こうしやく家のしゆうぶんになるような事態を、あの父親は決して許さない。結果、切り捨てられるのはあとりの自分ではなく、彼女だ。

(君を〝バイオリンのようせい〟にしたのは、僕だ。──僕の責任だ)

 あの一途なおもいにこたえることと、彼女を世界に通じるバイオリニストにすること。聖夜の天使であることと、指揮者を続けること。

 いつもいつも自分のてんびんは、音楽にかたむく。

「どうやら僕は、馬鹿だったらしい」

 聖夜の天使は現れない。自分の夢をかなえるために。

 そして君を、世界一のバイオリニストにするために。

 つぶやきはかんせいと立ち上がった観客達のはくしゆにかき消えて、誰の耳にも届かなかった。










続きは本編でお楽しみください。


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ドイツェン宮廷楽団譜 嘘つき婚約コンチェルト/永瀬さらさ 角川ビーンズ文庫 @beans

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