第三楽曲 天使の夜の夢 パート2
「お前、随分有名になったじゃねぇか。いやあびっくりした。シェルツ伯爵領を出て──もう
「……」
「なんだまだ怒ってるのか? 雪の降る日に、養護院の前に置いてったこと」
ぎゅっとミレアは胸の前で拳を握って、
「……帰って。あなたなんか知らない」
「でも養護院にいたから、シェルツ伯爵家に拾われたんだろ? なら捨てられてよかっただろうが。俺だってお前を手放したくて手放したわけじゃ──」
「噓つき! 新しい女の人ができて、私が
痛みがぶり返したように押し寄せる。
たった一人、置き去りにされてどれだけ心細かったか、寒かったか。
いい父親だったわけではない。それでも信じていたのだ。バイオリンを
「子供だったから
「ミレア、落ち着け」
過去に逆走していた思考が、引き戻された。
かたわらのアルベルトの瞳を見て、今という時間と場所を思い出す。
「──あなたも、どなたかさっぱりだが、関係者以外ここは立ち入り禁止だ」
「あぁ? お前聞いてなかったのか、こいつは」
「彼女の名前はミレア・シェルツ。シェルツ
父親が鼻を鳴らした。
「さすが、バイエルン公爵家の令息だ。──あァ、お前も本当は
すっと冷めたアルベルトの表情に、ミレアの怒りが再熱した。
「くだらないこと言ってないで、今すぐ帰って!」
「帰ってじゃねぇよ、ミレア。俺はお前を連れ戻しにきたんだ」
「どうせ、お金にでも困ったんでしょ。私の知ったことじゃないわ」
「お前はそこにいるべきじゃない」
胸の奥に、言葉が
「シェルツ伯爵夫妻だってそうだ。お前を死んだ
「……やめて、違う。私はちゃんと、大事に……っ」
「そりゃお前が言うこと聞いて、うまくやれたからだ。俺のそばとどう違う?」
だが父親の手は、ミレアに届かず、アルベルトにひねり上げられる。
「ってぇ、何しやがるこの──っ!」
「僕が代わりに答えてやる。──彼女は貴様のそばにいる人間じゃない。僕の
何を見ているのか分からなくなった
「はァ!? お前〝バイオリンの
アルベルトはその鼻先に顔を突き付け、
「わめきたければ好きにわめけ、貴様の作り話なんて
「……」
「彼女に二度と近づくな。消えろ」
そう
「……またくるからな、ミレア」
後ろ姿はすぐ、
「心配するな。近づけないよう、すぐ手を打つから──おい!」
「だ、
から笑いをしながら、ミレアは白く冷たい廊下に座りこむ。
「ど、どうしよう。も、もうすぐ、本番なのに」
指の
「ちゃんと僕の話を聞け。こっちを見ろ。大丈夫だと言ってるんだ、この僕が」
「で、でも、震えてたらバイオリンが……っ」
「泣くな」
ぐいっと引き寄せられ、アルベルトの
「僕が守ってやる。そう言っただろう」
背中を
(甘えすぎじゃないかな。それとも、婚約者ってそういうもの?)
分からない。でも
「泣いてばかりいると、今日のデザートをお預けにするぞ」
ぱちり、とまばたく。顔を上げると、アルベルトの意地悪な顔がすぐ近くにあった。
「君の好きな卵サンドも入れたのに」
「えっ。わ、私の?」
「食べるか?」
こくこく
「泣きやんだし、震えも止まったな。やっぱり色気より食い気か」
「もう、失礼なこと言わないで、そんなんじゃないから! アルベルトはいつもそう」
「アルベルト?」
名前を復唱されて、ミレアは首をひねった。
「何? アルベルトでしょ? 名前。──あ、まさか様付けで呼べとかそういう」
「いや。……初めてまともに名前を呼ばれたな、と思って」
「えっ」
そうだっただろうか。なんでもないことのはずなのに
(うわ、うわわ。どうしよう。別に変なことじゃないのに)
意識すると余計に顔が熱を持っていく。
「……さ、様付けで呼んだ方が、ちゃんとした婚約者らしい?」
「──アルベルトでいい。ミレア、立てるか」
手を差し出され、おずおず指先をのせる。するとそのまま手をつかまれて、引っ張り上げられた。よろけたもののちゃんと立ったミレアに、アルベルトがふわりと笑う。
「ちゃんと僕のことを見たな、いい子だ。──ほら」
バスケットを
なんだかたまらない気持ちになって、ぎゅうっと
「も、もう平気。ありがとう……バ、バイオリン取りに行かなきゃ」
「まだ
「だって、あるだけで安心するんだもの。聖夜の天使がそばにいてくれるみたいで」
ぴしっと空気が
「──なるほどね。じゃあ、これはいらないな」
「えっそんなこと言ってない! なんでそうなるの!?」
取り返そうとバスケットに手を
「聖夜の天使のバイオリンがあれば、
「そうだけど、それもいるの!」
ミレアの回答にアルベルトは目を
歌劇場のてっぺんにある時計台で食事をしようと
その
「──よし!」
高めの位置で
そしてバイオリンケースを開く。事前に手入れを済ませていた天使のバイオリンを抱きしめて、いつものように
(聞いていてね。聖夜の天使)
慣れた手つきでバイオリンと弓を持ち直し、控え室を出る。そこで壁に背を預けて待っているアルベルトと目が合った。
「余計な一言は言わなくていいから」
「……余計なって、たとえば?」
「似合わないとか、もう少しなんとかならないのかとか」
「バイオリンを
「えっ」
真顔で答えられて、頰が一気に赤くなった。目を泳がせると、こちらの様子をうかがっている視線がいくつかあって、ますます居たたまれない。
(ひ、人目があるから、
ちょっと期待をこめて、目線だけを上げてみる。そこに
「舞台
「それはどうもありがとう!」
あくまで優しい声を出すアルベルトから顔をそらして
(ほんっと性格悪い! 絶対ご
逆に言えば、失敗は転落を招く。人間、落ちるのはあっという間だ。
「──じゃあ、僕はここまでだ」
舞台袖の手前でアルベルトが足を止める。少し
「客席で見ててやる。ヘマしないかどうか」
「し、しないわよ! っていうか本番前に
言い返しながら、どこかほっとしている自分に気づいた。この意地の悪い男なら、ミレアがどんなヘマをしても客席でにやにや見ていそうだ。いつもと変わらずに。
でもちょっとすねてしまうのは、ワガママではないだろう。
「こんな時くらい、ちゃんと
「綺麗だって言われただけでうろたえるくせに?」
「あ、あれはからかうから──っ」
「ミレア! さがしたよ、こんなギリギリになってもこないから」
お人形のように綺麗に
「ごめんね、さがさせちゃって。緊張をほぐそうと思って」
「……そう、なんだ?」
ぎこちなく目をそらされて、様子がおかしいことに気づく。
「まさか何か、あった? 私に関することで……」
「……記事が……でも気にしなくていいから。回収始まってるらしいし」
「ミレアさん。これ」
記事を差し出されて初めて、レベッカの
「わざわざ見せなくてもいいでしょ」
「
思いも寄らない方向の話に
「──開場前にばらまいたのか。
「ミレアさんがいた養護院まで調べに行って、色々聞いて回ったらしい。──シェルツ
「だから聖夜の天使とミレアがその窃盗団の一員だって言うのか? あれは持ち主が世間に
「わ、私っ……盗んでなんかない、聖夜の天使だって
理解が追いつかない中で、やっとそれだけ
今まで聖夜の天使の存在を作り話だと疑われたことは何度もある。それでもミレアの持っているバイオリンのおかげで、存在を全面的に否定されはしなかった。
(でも、それで泥棒
言いがかりにも
「分かってるよ、ミレア。こんなの気にしなくていいから」
「でも、この記事は話題の
フェリクスに
そこには先程聞いた内容が悪意を持って
(……〝聖夜の天使〟を、こんな風に……!)
「私……っ新聞社の人と話してくる! やめてって」
「余計面白がられるだけだ、やめておけ」
「でも! 聖夜の天使は、絶対に悪いことなんかしてないのにっ……!」
「──お前の父親の
小さく耳打ちされて、身が
アルベルトがさらに何か付け加えようとして、不自然に息を
「──何を騒いでいる、アルベルト」
記事から目を上げた。会話をしたのはほんの数回、だが耳の良さには自信がある。
上から下までどこにも
ランドルフ・フォン・バイエルン
宮廷楽団の理事だ。顔を知っている者も多く、ざわめきと共に道があく。ランドルフは舞台袖の
「……バイエルン公爵。王都にお
話しかけたフェリクスを
無視されたフェリクスは笑顔のまま、少し後ろに下がる。その流れでレベッカの
「
「……あぁ、お帰りは当分先だと思ってたので、驚いてしまって。それで? ご
「きたくてきたわけではない。──お前の婚約について、話がある」
「シェルツ伯爵
初めてランドルフがミレアを見た。
(……この人は私が養女だって知ってるから、当然と言えば当然だけど……でも、〝バイオリンの
「お
それもやはり無視して、ランドルフはアルベルトに顔を向けた。
「──
「!」
父親だ。息を吞んだミレアと鋭く目を向けたアルベルトに、ランドルフは
「色々考え直すつもりだ。意味は分かるな、アルベルト」
「……」
「あっれーランドルフ君、きてたんだー」
ひときわ明るい声が投げかけられた。
「いやー相変わらず不景気な顔してるね。僕と同世代とは思えないよ」
「……」
「んで?
歯に
「宮廷楽団の役に立たない演奏家はいらん。それだけの話だ」
「──父上。話を
今までの皮肉っぽい口調を改めて、アルベルトが申し出た。ランドルフが初めて、
「ではこい」
「──聞いてはいたけど、ほんっとバイエルン公爵って性格悪いのね」
「……この世界で生き残りたければ、そういうことを言うもんじゃないよ」
低いフェリクスの制止に、レベッカは何かを言いかけてやめた。
ミレアは、アルベルトのいなくなったかたわらの寒さに心細くなってうつむく。
(どう……しよう。私の父親の話だよね、きっと……)
シェルツ伯爵家でしたように、まさかバイエルン公爵家もかぎ回っているのか。
切り捨てられるかもしれない、と冷静に考える自分がいた。ミレアは皮をはげばただの
アルベルトはどう答えるだろう。公爵家の
(……だ、だめだめ、弱気になっちゃ。〝バイオリンの妖精〟らしくうまくやれば)
──それは、俺のそばとどう違う?
耳の底に
開演前を知らせる音が鳴り、ふとミレアは自分の手が
(な、なんで。さっき、止まったのに)
「じゃあ、僕は客席から見てるからね。……
そう言い置いて
やがて客席の
「じゃあ、信じてるよみんな。──どんな
その通りだ。ミレアの精神状態など、観客には関係ない。
震える手を一度きつく握り
(
「あれって
その最前列から、
──見た? 聖夜の天使が作り話って記事。
──おかしいと思ってたのよ、最高級品のバイオリンを子供に
煽り屋か、という
耳をふさげばいい。でもできない。ここは舞台の上だ。
音合わせを終え、座席に座る。ガーナーが
最前列から立ち見まで人が並んでいた。そのすべてがミレアを品定めしているようで、
だが見つけたのは、ぽつんとあいた空席だった。
その
養父達ではなく、自分の本当の父親を。
立ち見で、
引きずり戻される。助けて、ここにきてと
あの聖夜に、ミレアを生まれ変わらせてくれたように。天使の音が、悪意に
「
ならどうして自分はここにいる。
ガーナーの指揮棒が振り下ろされる。羽がもがれる音が、した。
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