第二楽曲 妖精のためのパヴァーヌ パート2

 アルベルトが告げた行き先に、馬車は大回りをして停まった。周囲に人がいないか確認したアルベルトはばやく降りて、ミレアに手を貸しながら御者に告げる。

「すぐもどって新聞社にこうするようシェルツ伯爵に言ってくれ。僕の父は王都にいないが、僕が働きかけて公爵家と宮廷楽団からも抗議を出す」

「わ、分かりました。ですがお嬢様はどうなさるんです」

「ちゃんと送り届ける。早く行ってくれ、見つかったら追い回される」

 御者は迷った末にうなずいた。馬車が走り出すとすぐにアルベルトはミレアの手を引いて、通りの曲がり角に立っている建物の階段を上った。縦に長い、れん造りの古びた建物だ。

 アルベルトがかぎを取り出して、とびらを開ける。

「入れ」

「……だれの家?」

「僕のかくだ、いいから早く入れ」

 問答無用でげんかんほうりこまれた。よろけるように入ったミレアは周りを見回す。

 外見は古びていたが、内装はれいだった。玄関と続きの広間はけになっており、右手に二階へ上がる階段が、奥には小さいが綺麗にみがかれた台所キツチンが見える。その前にあるしよくたく用のテーブルには清潔そうなクロスがかかっていた。

「隠れ家って……寮があるのに、わざわざ借りてるの?」

「父親と記者連中から逃げるのに丁度いいんだ。そこら辺に座っててくれ」

 そう言ってアルベルトは台所へと消えた。追いかけようとして、ミレアは足を止める。

(あ、バイオリン……)

 まどぎわの机にがくと一緒に置いてある。アルベルトのものだろうか。

 近づいて、そっと手に取ってみた。いいバイオリンだ。きちんと手入れもしてある。

(今も弾いてるのかな)

 どんな音を出すのだろう。想像するとそわそわしてきた。聞いてみたい。

「勝手にさわるのはやめてもらえないか」

「ごっごめんなさい」

 あわててり向くと、マグカップを突き出された。ほどよく温められたホットミルクだ。

「あ、ありがとう……」

 バイオリンを元の場所に置き直し、両手で受け取った。目線でうながされ、食卓と同じ木材で作られているに腰かける。食卓にはいつの間にかスコーンやクッキーが入った編みかごと、びんめされたいちごのジャムが置かれていた。

「残り物だが、食べたければどうぞ」

 すでに夕食は済ませていたが、花形にくりぬかれたクッキーに興味をかれて一枚取る。さくっとしたアーモンドクッキーはぼくだがやさしい味がして、少し気が抜けた。

「おいしい。これ……手作り?」

「ああ。僕が作った」

うそ!?」

 手元のクッキーとアルベルトを見比べる。本人はすずしい顔でスコーンに苺ジャムをつけた。

「料理なんて簡単だろう。少なくとも卵をばくはつさせるよりは」

 敗北感をみしめながらミレアはクッキーの残りを食べて、ホットミルクも飲んだ。

 チョコレートを混ぜたそれは苦くて、でも甘い。

「おいしい……でもくやしい……!」

「それはよかった。明日の朝食は僕が作るから君は台所に近づかないでくれ」

「──ちょっと待って、どうして朝食の話?」

「寮に戻れるのは明日の朝だ。まっていけ。ベッドはゆずる」

 十秒ほど固まった後で、ミレアは立ち上がった。

「か、帰る」

「なら朝刊の見出しはこうだ。『バイオリンの妖精、真夜中に一人で帰宅。聖夜の天使と秘密の密会!?』。で、君がうわしたことになる」

 ぜんとしたミレアに、アルベルトはつまらなそうに続けた。

ほかにも記者の気分によって色々変わるが聞くか? ちなみに僕と戻るところを押さえられたらけつこんが秒読みになって、明後日あさつてには子供ができてることになるかもしれないね」

「……。ここにいます」

「ご理解頂けて何よりだよ。女優、うたひめ、ピアニストにバイオリニスト。とにかく舞台に立つ人間のしゆうぶんれんあいネタは記事にしたら売れる。宮廷楽団も例外じゃない」

 そういうものか、とは思ったがまだ実感がわかない。

(ああでも、記者って要は情報屋みたいなものだと思えば……)

 とうとつに苦いものがこみ上げ、くちびるを嚙んでしまった。それを見たアルベルトがコーヒーを飲む手を止めて、付け足す。

「……気にしすぎる必要もない。付き合い方の問題だ」

ちがうの。……私の本当の父親が、記者の真似まねごとみたいな仕事をしてたから」

 アルベルトが目をみはる。何を思っているのかさとられたくなくて、ぺらぺらと口が動いた。

「私を捨てたくせにシェルツはくしやく家を調べ回って、領地から追放されたの。それを思えば記者達のあのしつこさも分かるなと思って」

「……父親が生きているのか。でも、確か君は──」

「何?」

 明るく聞き返すと、アルベルトはしばらく考えこんで、首を振った。座り直したミレアはわざとらしく話題を変える。

「定期演奏会の構成、第一部も第二部も得意な曲で助かっちゃった」

「得意……? 二部は木の上で馬にられてた曲だろう? コンマスにあんなヘタクソに弾くようオケをまとめられたら、僕なら絶望する」

「なんでそう、ヘタクソって言うの! 春の曲らしく楽しく弾けてたでしょ!?」

「あれは春に再会を約束したこいびとおもう曲だ」

「えっ」

 知らなかった。鹿にした顔でアルベルトが立ち上がる。

「どうせそうも見たことないんだろう」

 アルベルトはかべぎわにあるほんだなから持ってきた総譜をテーブルの上に広げた。

 様々な楽器のパートが書きこまれたおんれつに、目をまたたく。

「君が能天気に弾いてたのはここだ。独奏ソロで恋人を待つ女性の心情部分をえがく。オケはその背景として、こう入っていく。読めるか?」

「う──えっと……こ、ここから変調するの? ここの音はチェロ?」

「そう。短調の和音を混ぜて押し寄せる不安を描く。その後打楽器が入る。あらしがくるんだ。再会を約束した人を遠ざける嵐」

「なんでじやしにくるの!? 再会させてあげればいいのに」

「そんなに簡単に再会したら曲が終わるだろう」

 なつとくしかけて首をひねった。それで正しいかいしやくなのだろうか。

(……そんなわけないよね。自分で考えろってこと?)

 もう一度めんにらむ。総譜は複雑で、一目で音楽をかんできない。

「……頭がこんがらがりそう。指揮者はどうしてこんなの読めるの?」

「勉強するからだよ。まぁ君はまずパートだ。そうだな、エリー・サティを知ってるか?」

「聞いたことある! 最近有名になってきた作曲家でしょ?」

「そう。一度楽譜を見てみるといい。指示が物語なんだ。『給料は上がらない』とか」

 口元をゆるめるアルベルトにつられ、ミレアも笑った。

「ほんとにそんなこと書いてあるの? どんな曲なの、それ」

「労働者のなげきの曲。あの指示は一部には不評だが、君には合いそうだな。楽譜を物語として読めたら演奏できるタイプだろうし──そのためには知識がいるんだ、つまり勉強しろ」

「……ねぇ、まさかそのために私に楽譜の書きこみをやらせたの?」

 疑問をそのまま口にしただけだったが、アルベルトの反応はけんちよだった。赤らんだ顔をすようにミレアからも総譜からも目をそらして、小さな答えを返す。

「まさか。どうして僕がそんな親切を君に?」

「そっ──そう、よね!」

 頷いたが、ミレアまでずかしくなってしまって、そのままうつむく。そうすると、待ち人を遠ざける嵐の音符が目に入った。話を変えようと、総譜を指で示す。

「……あ、あの。この曲の最後、恋人に会えるの?」

「……それは指揮者や演奏者の解釈と技量だいだ。再会できないのがいつぱん的な解釈だけど」

「そ、そんなの可哀かわいそうじゃない! あなたは、再会させてあげる?」

「僕は会わせない。会いたい会いたいでお花畑なバイオリンソロなんてつぶしてやる」

 先程の反応が噓のように性格の悪い答えとみが返ってきて、ぜんとした。

「……それってフェリクス様がいてもそうなっちゃうの?」

「あいつは最終的に待つのやめたでめてくるかな。オケの演奏をいなす感じで」

「そ、それもどうなの!?」

「だから言ってるじゃないか、解釈だって」

「なら私は会うわ、絶対に! 私、聖夜の天使に会いたいもの。ちゃんと弾ける」

 張り切るミレアの顔を、アルベルトがのぞきこんだ。

「……会いたくないと言われても?」

 静かな問いかけに、答えが消えた。

「その答えが出せないとあの鹿しように負けるぞ」

 ぽんとミレアの頭に手をのせて、アルベルトがはなれる。それで我に返った。

(……えっ違う違う。演奏の話だから)

 聖夜の天使の話じゃない。そう言い聞かせて、アルベルトの姿を目で追う。アルベルトは空になったコーヒーカップや皿を片付け始めていた。

 そういえば今日、ここに泊まるのだ。

 落ち着かなくなった。何かしなければ、と思ってこしかす。

「わ、私も手伝う」

「いい。全部わられる」

「失礼ね! そこまで不器用じゃない──」

 言ったそばから空のマグカップをたおした。音を立ててマグカップがゆかくだけ散る。あわててへんに手をばした。

「ご、ごめんなさい。片付けるから──」

さわるな!」

 動きを止めたミレアの手を破片から遠ざけるようにしてアルベルトが取る。

「指に切り傷でも作ったらどうするんだ。バイオリニストだって自覚があるのか君は」

「で、でも……片付けるくらい。私がわっちゃったんだし」

だ、僕が片付ける。……切ってないな」

 ほっとした声にミレアは目を上げる。心配が演技ではないと分かる顔がそこにあった。

 同じことが出会った日にもあった。でも今のアルベルトはまゆを下げおこったような困ったような顔で、宝物をあつかうみたいにやさしく大事に、その指をでる。

 心臓がねた。この人はいつから、こんな風にミレアを見るようになったのだろう。

「くだらないことでをするな。大事な指だろう」

 かすれた声でこんがんされて、一気に頭のてっぺんまでで上がった。

「? なんだ、まさか熱でもあるのか」

「な、ななな、なんでもないっ! じゃ、じゃあ……っわ、私、もうっ今日はるから! しんしつって二階!?」

「あ、ああ……って危ない、言ったそばから暴れるんじゃない、このじゃじゃ馬!」

「い、いい、だいじよう! だっ……大事そうに触らないで! かんちがいするから!」

 すっ転びかけたミレアに手を伸ばしたアルベルトが、びしっと音を立てて固まった。

 真っ赤になった顔をかくし、げるようにして二階の寝室にけこむ。あかりもつけず、とびらを背に預けてずるずるしゃがんだ。

(い、今の自意識じようだったよね。絶対笑ってる──でも、慣れてないんだもん)

 本当のミレアを大事にしてくれる人なんて、もう聖夜の天使以外いないと思っていた。

 でも、だからって。

(うるさい、心臓。鳴らないで)

 自分は音楽をかなでる側で、奏でられる側ではないのだから。





 練習場所に指定された広めの防音室で、がく台を組み立てながらレベッカは聞き返した。

「マグカップ買いに? いいよ、付き合う」

「あ、ありがとう。いつしよに選んでくれると助かる」

「ひょっとしてプレゼント? ならミレアが選んだ方がよくない?」

「べ、べんしようだから! それに私、男の人が使うデザインとか、分からないし……」

 レベッカの視線がさる。ミレアはさっと顔をななめにそらした。

 同室のレベッカは当然、ミレアが昨夜帰ってこなかったことを知っている。事情は『記者に囲まれそうになって大変かんだったが、アルベルトの隠れ家にまった』と説明した。

 それにはふぅん、といつものあいづちを返してくれたのだけれど。

「ちゃんと自分で選んで、二個おそろいのを買えば?」

「!? なんでそうなるの!?」

「だってこんやく者の家に置くんでしょ。借りてないで置いちゃった方が効率いいじゃない」

 素知らぬ顔で言うのは、フェリクスの件でからかおうとした仕返しだろうか。第二楽団の演奏者達もぼつぼつ集まってきているので、婚約はうそともさけべない。

「それに色々お世話になったんでしょ。お礼はちゃんと自分でした方がいいよ」

 とどめにもっともな正論を突き付けられ、もはや言い返すことができず、すごすごと自分の席へもどり、準備を始めた。

(そりゃ! 記者達にはつかまらずに済んだし、朝ご飯も作ってもらったし……)

 ミレアの目を覚まさせたのは、フレンチトーストの焼けるにおいだった。顔をちゃんと見られるか心配しながら一階におりると、台所に立っているアルベルトを見つけた。あいさつをするとアルベルトはっ気なく、むしろ顔をそむけられた気もするが、しよくたくにはサラダ、ミルク、そしてできあがったばかりのフレンチトーストにクリームまでつけて並べてくれた。

 卵と牛乳をたっぷりみこませ、バターでこんがり焼いた上にはちみつとクリームをかけたフレンチトーストは絶品で、それをほおった時点できんちようさんした。おいしいとはしゃぐと、いつもの調子に戻ったアルベルトは昼食用のサンドイッチを作ってバスケットにめてくれた。デザートも入っているらしく、開けてのお楽しみと言われてかなり楽しみにしている。

 婚約者ってらしいとちょっぴり思ってしまった。一緒にわたされた楽譜の書きこみもきちんと終わらせて持ってくれば、またおを作ってやると言われており──はっとした。

「……ちょっと待って。ひょっとして私、けで何か誤魔化されてない……?」

「はいはーい注目ー。おひさりですマエストロ・ガーナーでぇーす」

 しんけんに考えこんだミレアの耳にガーナーのおちゃらけた挨拶が飛びこむ。

「今日新聞見たら、かんおけから出てきたみたいな扱いされてたよ。ちょっと定期演奏会サボっただけで、ひどいよねえ」

 総勢四十名ほどの演奏者がそれぞれの楽器を持って指揮台のガーナーに笑い返す。

 その親しみのある対応に、ほとんどがベテランであることに気づいた。発表時は自分の名前をかくにんしただけで気に留めなかったが、ミレアと同じ新人は十人もいない。

「しかも、の婚約者を横取りしようとしてることになってんの。年の差すごくない?」

「えっ!?」

 びっくりして声を上げてしまったミレアにガーナーはにっこり笑い返す。

「大丈夫だよミレアちゃん。きっとね、アルベルトなんかより僕の方がいいから。ミレアちゃんは僕のものって宣戦布告しといた。いやーアルベルトはどんな反応するかな、楽しみ」

「は!? な、なんで自分でわざわざあおってるんですか!?」

「おかげでチケットそく完売、こうえんの定期会員も増えてだいせいきよう。さーそういうわけで、いっぺん通してみよう。一週間しかないし、メインの二曲目からいこうか」

 ミレアの非難を無視してガーナーが指揮棒を持つ。慣れているのか、ざっとほとんどの演奏者が構えた。わたわたしているのはミレア達新人だけだ。

「練習だからね。新人のフォロー、ちゃんとするように」

 そう言って一呼吸置いた後、ガーナーが指揮棒をり上げる。

 どんときたのはまず重低音。腹の底にくるような音がびりびり空気をふるわせて、そのはくりよくに飲まれそうになる。

(お──押されちゃ駄目、第一バイオリンの出だし、すぐにくる!)

 不安で楽譜を確認したせいで、指揮棒から目を離した。そのせいで、ミレアの音だけがいつしゆんおくれる。ほかの第一バイオリンがぴっちりそろっているだけに、やけに目立って聞こえて顔が赤らんだ。たんにガーナーの声が飛ぶ。

「はいミレアちゃん遅れた! そこチェロの新人、音が雑!」

 次々と入るてきと、音のうずと、づなを引く指揮にほんろうされて目が回る。

(何これ、きにくいっ……!)

 ガーナーに手綱を取られた第一バイオリンが乱れがちなミレアをカバーしてくれるおかげで、曲は成り立っている。だが、ミレアの音なんて必要ないように感じる。こう弾きたいと願っても、問答無用で押さえこまれる。そんな感じだ。

(でもここから私のソロ!)

 あつぱくかんから解放されたミレアは指を動かし、弓を引いた。

 思い出すのはアルベルトが教えてくれたことだ。これは春に再会を約束した待ち人をおもう物語だ。会いたいと願う。ミレアが聖夜の天使にそう願うように。

 スラーはていねいに、何より情感たっぷりに音をひびかせることを意識した。得意の速弾きは使わない。これは会いたい人に会いたいと願う曲だから、こうせるところではない。

 独奏が終わる。ちらりと指揮を見ると、ガーナーと目が合った。

 音もなく、笑ったくちびるだけが動く。

 ──それじゃがっかりだよ、バイオリンのようせい

 ぞっとしたそのしゆんかんに、あらしおそいかかってきた。

 会いたいという願いは風にかき消える。つたない願いを音のかべがはじき飛ばす。会えないよと告げられる。嵐の向こうが晴れない。一筋の光だって、ミレアの音は連れてこない。

 ──だってそれだけの価値がお前にあるの?

 うち捨てられた子供が親を見上げる気持ちで、ミレアはガーナーを見た。

 曲が終わったのに、指先が震えている。背中が冷やあせでしめって、気持ち悪かった。

「いやーもー、てんっでだね。初回だからしょうがないかなー?」

 ははは、と笑うのはせんぱい達ばかりだ。新人達は全員、真っ青な顔でうなれている。

 お前は本当に音楽の神に愛されているのか。

 その答えを目の前に置かれたみたいに。

「でもミレアちゃん、困るよ。僕は楽譜どおりに上手に弾くだけの演奏なんて求めてない」

「──あ……す、すみません……」

「他の新人もね。もう今年の新人は君達しか残ってないんだからしっかりしてよ」

「え?」

「あれ、知らない? 本日付で退団してもらったんだよ。君達以外、全員」

 明るく言われたことに、最初は理解がおよばなかった。

(……退団した? まだ二ヶ月で、私達以外が全員……?)

 クビを切ったのだ。ここにいる十人程度をのぞいて、すべて。どうようで思わず立ち上がる。

「ど、どうして、いきなりそんな予告もなく!」

「だっていらないものはいらないよ、何年たってもどれだけ努力しても。あれ、もっと喜ぶかと思ったのに。君たちは選ばれし演奏家だ! だからそうあり続けてね」

 そこにあるのは、当たり前に結果だけを要求する、きよしようの姿だった。

「まあ〝バイオリンの妖精〟がコンマスなのは上のようせいだから、そこは僕も期待なんてしてないけどね? でもしっかりしてよ、君の横の子、君のせいでコンマスはずされたんだから」

 思わず横を見ると、苦笑い気味に目礼された。

 そういえば、第一バイオリンはコンサートマスターであるミレアにつられて出だしをはずさなかった。指揮者に対して楽団員の代表となるコンサートマスターの合図や弓づかいは、オーケストラの演奏全体に反映される。つまり、ミレアは最初から無視されていた。

 みんな、この人を見て演奏したのだ。

 ぶるいがきた。いやを言われたり、敵意を向けられるよりもこわい。

(バイオリンの妖精)

 背負いたくて背負ったものではない。けれど、立て続けにコンサートマスターに選ばれ、定期演奏会に出演するミレアに、周囲はそんな言い訳を許さない。ミレアがめてしまったその席に座れなかった人間が必ずいるのだから──そのことにおそまきながら気づく。

「でもねえ、僕は君がどう化けるか期待してる」

 うれしい言葉のはずなのに、こみ上げたのはきようれつな不安だった。

(もし、その期待にこたえられなかったら?)

 さっきの演奏はお世辞にもきゆうてい楽団の演奏とは言えない、拙いものだった。この間の定期演奏会は、新人という名目があったからまだ許された。そもそも客員指揮者はバイオリンの妖精と呼ばれるミレアをやたらめてくれて、自由に弾かせてくれた。だからミレアは上手うまく弾けた──違う、ミレアだけが上手に弾けるようあの指揮者は合わせてくれたのだ。

 一度考え出すと止まらなかった。

 自分が立っている場所が、ぐらぐられている気がする。

「まあ駄目ならつぶれればいいよ。そういう世界だから、ここは」

「わ、私……は」

がんってね、バイオリンの妖精。その名前にじない天才的な演奏をたのむよ」

 不気味などうがおで、ガーナーは笑う。

 演奏会まであと一週間。ミレアはかわいたのどを鳴らし、震える手をこぶしに変えた。



 その日の練習が終わったのは、とっぷり日が暮れてからだった。

 昼食をとる間もなく続いた練習にもかかわらず、晴れやかな顔で先輩団員は片付けを終え、帰っていく。ガーナーもさそって今から飲みに行こうかなどという話がれ聞こえた。

明日あしたは頑張って〝バイオリンの妖精〟。でないと最高級品のバイオリンが泣くよ」

 ぽんとミレアのかたたたき、元コンサートマスターの先輩団員が練習部屋を出て行く。

 必然的に練習部屋には、ミレアやレベッカをふくむ新人団員のみが取り残された。みな、青ざめた顔でのろのろと片付けをしているせいだ。

「……仲いいんだな、第二楽団て」

 だれかのつぶやきは、ミレア達自身が『自分は第二楽団ではない』と思っているしようだった。

 何を思い出したのか、ぐすっとはなをすする音が聞こえた。それにつられてしまいそうでミレアはぐっと唇をみしめる。

(分かってる……今日の演奏はひどかった)

 一人で弾くのとは勝手がちがうと分かっていたはずなのに、打ちのめされた。てんで足りない、うぬれだったと痛感した。先輩達と自分の技量の差はそんなにないと思うのに──それともこれはまだ差が認識できていないだけなのだろうか。

 けれど、一番怖かったのは音の暴力だ。

 無視されるだけならまだいい。ミレアの音楽をつぶしにかかるあの圧迫感。お前の音など必要ないと世界からはじき出し、よってたかってちようしようするようなあの音の渦。

 気をくとゆるるいせんしつして片付けを終え、忘れ物がないか見回して置きっ放しのバスケットに気づいた。食べそこねた昼食だ。

 悪くなっていないだろうか。そんなことを考えて、バスケットを開ける。

「それ、アルベルト・フォン・バイエルンにもらったやつ?」

 ミレアと同じく片付けを終えたレベッカがのぞきにやってくる。

 それを聞いて、ばらばらだった周囲が集まってきた。

「アルベルト・フォン・バイエルンって第一楽団の──ああ、こんやく者だっけ」

「っていうかすごい量だな、こんなに食べるのか? デザートまであるぞ」

「でも食べたらごやくありそうだよな。天才指揮者だし、プラチナだし……」

 誰かの一言に、いつせいにみんなの注目がバスケットの中に向いた。

 ぎょっとしてミレアはバスケットをかかえてかくす。

「ちょ、ちょっと待って。これは私ので」

「いや、でもいっこくらい!」

「何か不思議な力に目覚めるとかあるかもしんねーじゃん!」

「ないから! ただのサンドイッチで──あれ」

 バスケットのすみに二つ折りのカードがつっこまれている。皆もミレアが取り出したものに気づいて静かになった。レベッカがつかれた目で呟く。

「これが愛のメッセージとかだったら私、暴れるかも」

「そ、そんなわけないでしょ!」

 否定しつつも、きんちようしてカードを開く。れいな字だった。

『まずはできることをやれ。ヘタクソなんだから、いまさら落ちこむな』

(なんっ)

 ここでそうくるか。意地の悪い笑みが脳内にかんでくちびるがわななく。続きはまだあった。

鹿しようちようはつにのって高い所に登らないこと。でなきゃ今度からサルって呼ぶ。

 ついしん。バスケットの中身は新人全員と分けるように。最初の仲間だ、仲良くしておけ』

 かんせいが上がった。

「やったメシにありつけるぞ!」

「すげえ……俺ら置いてったマエストロ達とはだんちがいのづかい……!」

「……うーん……それもしてたって感じがするんだけど。……ミレア?」

 高い所は危ないから、落ちないように、まずはできることから。

 まだ天才ではない、君でいい。

 そう聞こえてしまった。でも、ヘタクソとかサルとか、言い方がひどい。

「……何よ、全部食べてやるんだから!」

「ちょっと待てこっちにもよこせ、昼飯食べてないんだから!」

 次々手がびて、バスケットの中身を取っていってしまう。こうなると早い者勝ちだ。ミレアはあわてて一つ手に取った。なんだかんだ、レベッカも手にしている。

 みんなおなかがすいているのだ。思いきり大きく口を開けて、ほおった。

 しっかりしやくした後で、ついになみだがこぼれ出た。

 おいしいともまずいとも声が上がらない。実際、ミレアは味が分からなかった。多分、みんなそうだ。横で食べているレベッカのひとみにも、まなじりに涙がにじんでいる。楽しみにしていたデザートも砂みたいな味しかしない。

 食べているのはきようくやしさだ。ちっともおいしくないそれを何度もんで、飲みこむ。飲みこまなければ、始まらない。

「……どうすればいいかな」

 誰かが呟いた。たずねるのではなく、自分で考えるために。

 このままでは終わらない。大事なのは今、できること。それも、一週間以内に。

(私はまだ天才じゃない。天才に、ならなくていい)

 オーケストラをいなしてしまうような、フェリクス・ルターのようにかなくていい。

「──決めた。私、自分をコンマスだなんて思わない」





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