第二楽曲 妖精のためのパヴァーヌ パート2
アルベルトが告げた行き先に、馬車は大回りをして停まった。周囲に人がいないか確認したアルベルトは
「すぐ
「わ、分かりました。ですがお嬢様はどうなさるんです」
「ちゃんと送り届ける。早く行ってくれ、見つかったら追い回される」
御者は迷った末に
アルベルトが
「入れ」
「……
「僕の
問答無用で
外見は古びていたが、内装は
「隠れ家って……寮があるのに、わざわざ借りてるの?」
「父親と記者連中から逃げるのに丁度いいんだ。そこら辺に座っててくれ」
そう言ってアルベルトは台所へと消えた。追いかけようとして、ミレアは足を止める。
(あ、バイオリン……)
近づいて、そっと手に取ってみた。いいバイオリンだ。きちんと手入れもしてある。
(今も弾いてるのかな)
どんな音を出すのだろう。想像するとそわそわしてきた。聞いてみたい。
「勝手に
「ごっごめんなさい」
「あ、ありがとう……」
バイオリンを元の場所に置き直し、両手で受け取った。目線で
「残り物だが、食べたければどうぞ」
「おいしい。これ……手作り?」
「ああ。僕が作った」
「
手元のクッキーとアルベルトを見比べる。本人は
「料理なんて簡単だろう。少なくとも卵を
敗北感を
チョコレートを混ぜたそれは苦くて、でも甘い。
「おいしい……でも
「それはよかった。明日の朝食は僕が作るから君は台所に近づかないでくれ」
「──ちょっと待って、どうして朝食の話?」
「寮に戻れるのは明日の朝だ。
十秒ほど固まった後で、ミレアは立ち上がった。
「か、帰る」
「なら朝刊の見出しはこうだ。『バイオリンの妖精、真夜中に一人で帰宅。聖夜の天使と秘密の密会!?』。で、君が
「
「……。ここにいます」
「ご理解頂けて何よりだよ。女優、
そういうものか、とは思ったがまだ実感がわかない。
(ああでも、記者って要は情報屋みたいなものだと思えば……)
「……気にしすぎる必要もない。付き合い方の問題だ」
「
アルベルトが目を
「私を捨てたくせにシェルツ
「……父親が生きているのか。でも、確か君は──」
「何?」
明るく聞き返すと、アルベルトはしばらく考えこんで、首を振った。座り直したミレアはわざとらしく話題を変える。
「定期演奏会の構成、第一部も第二部も得意な曲で助かっちゃった」
「得意……? 二部は木の上で馬に
「なんでそう、ヘタクソって言うの! 春の曲らしく楽しく弾けてたでしょ!?」
「あれは春に再会を約束した
「えっ」
知らなかった。
「どうせ
アルベルトは
様々な楽器のパートが書きこまれた
「君が能天気に弾いてたのはここだ。
「う──えっと……こ、ここから変調するの? ここの音はチェロ?」
「そう。短調の和音を混ぜて押し寄せる不安を描く。その後打楽器が入る。
「なんで
「そんなに簡単に再会したら曲が終わるだろう」
(……そんなわけないよね。自分で考えろってこと?)
もう一度
「……頭がこんがらがりそう。指揮者はどうしてこんなの読めるの?」
「勉強するからだよ。まぁ君はまずパート
「聞いたことある! 最近有名になってきた作曲家でしょ?」
「そう。一度楽譜を見てみるといい。指示が物語なんだ。『給料は上がらない』とか」
口元を
「ほんとにそんなこと書いてあるの? どんな曲なの、それ」
「労働者の
「……ねぇ、まさかそのために私に楽譜の書きこみをやらせたの?」
疑問をそのまま口にしただけだったが、アルベルトの反応は
「まさか。どうして僕がそんな親切を君に?」
「そっ──そう、よね!」
頷いたが、ミレアまで
「……あ、あの。この曲の最後、恋人に会えるの?」
「……それは指揮者や演奏者の解釈と技量
「そ、そんなの
「僕は会わせない。会いたい会いたいでお花畑なバイオリンソロなんてつぶしてやる」
先程の反応が噓のように性格の悪い答えと
「……それってフェリクス様が
「あいつは最終的に待つのやめたで
「そ、それもどうなの!?」
「だから言ってるじゃないか、解釈だって」
「なら私は会うわ、絶対に! 私、聖夜の天使に会いたいもの。ちゃんと弾ける」
張り切るミレアの顔を、アルベルトが
「……会いたくないと言われても?」
静かな問いかけに、答えが消えた。
「その答えが出せないとあの
ぽんとミレアの頭に手をのせて、アルベルトが
(……えっ違う違う。演奏の話だから)
聖夜の天使の話じゃない。そう言い聞かせて、アルベルトの姿を目で追う。アルベルトは空になったコーヒーカップや皿を片付け始めていた。
そういえば今日、ここに泊まるのだ。
落ち着かなくなった。何かしなければ、と思って
「わ、私も手伝う」
「いい。全部わられる」
「失礼ね! そこまで不器用じゃない──」
言ったそばから空のマグカップを
「ご、ごめんなさい。片付けるから──」
「
動きを止めたミレアの手を破片から遠ざけるようにしてアルベルトが取る。
「指に切り傷でも作ったらどうするんだ。バイオリニストだって自覚があるのか君は」
「で、でも……片付けるくらい。私がわっちゃったんだし」
「
ほっとした声にミレアは目を上げる。心配が演技ではないと分かる顔がそこにあった。
同じことが出会った日にもあった。でも今のアルベルトは
心臓が
「くだらないことで
かすれた声で
「? なんだ、まさか熱でもあるのか」
「な、ななな、なんでもないっ! じゃ、じゃあ……っわ、私、もうっ今日は
「あ、ああ……って危ない、言ったそばから暴れるんじゃない、このじゃじゃ馬!」
「い、いい、
すっ転びかけたミレアに手を伸ばしたアルベルトが、びしっと音を立てて固まった。
真っ赤になった顔を
(い、今の自意識
本当のミレアを大事にしてくれる人なんて、もう聖夜の天使以外いないと思っていた。
でも、だからって。
(うるさい、心臓。鳴らないで)
自分は音楽を
練習場所に指定された広めの防音室で、
「マグカップ買いに? いいよ、付き合う」
「あ、ありがとう。
「ひょっとしてプレゼント? ならミレアが選んだ方がよくない?」
「べ、
レベッカの視線が
同室のレベッカは当然、ミレアが昨夜帰ってこなかったことを知っている。事情は『記者に囲まれそうになって大変
それにはふぅん、といつもの
「ちゃんと自分で選んで、二個おそろいのを買えば?」
「!? なんでそうなるの!?」
「だって
素知らぬ顔で言うのは、フェリクスの件でからかおうとした仕返しだろうか。第二楽団の演奏者達もぼつぼつ集まってきているので、婚約は
「それに色々お世話になったんでしょ。お礼はちゃんと自分でした方がいいよ」
とどめにもっともな正論を突き付けられ、もはや言い返すことができず、すごすごと自分の席へ
(そりゃ! 記者達にはつかまらずに済んだし、朝ご飯も作ってもらったし……)
ミレアの目を覚まさせたのは、フレンチトーストの焼ける
卵と牛乳をたっぷり
婚約者って
「……ちょっと待って。ひょっとして私、
「はいはーい注目ー。お
「今日新聞見たら、
総勢四十名ほどの演奏者がそれぞれの楽器を持って指揮台のガーナーに笑い返す。
その親しみのある対応に、ほとんどがベテランであることに気づいた。発表時は自分の名前を
「しかも、
「えっ!?」
びっくりして声を上げてしまったミレアにガーナーはにっこり笑い返す。
「大丈夫だよミレアちゃん。きっとね、アルベルトなんかより僕の方がいいから。ミレアちゃんは僕のものって宣戦布告しといた。いやーアルベルトはどんな反応するかな、楽しみ」
「は!? な、なんで自分でわざわざ
「おかげでチケット
ミレアの非難を無視してガーナーが指揮棒を持つ。慣れているのか、ざっとほとんどの演奏者が構えた。わたわたしているのはミレア達新人だけだ。
「練習だからね。新人のフォロー、ちゃんとするように」
そう言って一呼吸置いた後、ガーナーが指揮棒を
どんときたのはまず重低音。腹の底にくるような音がびりびり空気を
(お──押されちゃ駄目、第一バイオリンの出だし、すぐにくる!)
不安で楽譜を確認したせいで、指揮棒から目を離した。そのせいで、ミレアの音だけが
「はいミレアちゃん遅れた! そこチェロの新人、音が雑!」
次々と入る
(何これ、
ガーナーに手綱を取られた第一バイオリンが乱れがちなミレアをカバーしてくれるおかげで、曲は成り立っている。だが、ミレアの音なんて必要ないように感じる。こう弾きたいと願っても、問答無用で押さえこまれる。そんな感じだ。
(でもここから私のソロ!)
思い出すのはアルベルトが教えてくれたことだ。これは春に再会を約束した待ち人を
スラーは
独奏が終わる。ちらりと指揮を見ると、ガーナーと目が合った。
音もなく、笑った
──それじゃがっかりだよ、バイオリンの
ぞっとしたその
会いたいという願いは風にかき消える。
──だってそれだけの価値がお前にあるの?
うち捨てられた子供が親を見上げる気持ちで、ミレアはガーナーを見た。
曲が終わったのに、指先が震えている。背中が冷や
「いやーもー、てんっで
ははは、と笑うのは
お前は本当に音楽の神に愛されているのか。
その答えを目の前に置かれたみたいに。
「でもミレアちゃん、困るよ。僕は楽譜どおりに上手に弾くだけの演奏なんて求めてない」
「──あ……す、すみません……」
「他の新人もね。もう今年の新人は君達しか残ってないんだからしっかりしてよ」
「え?」
「あれ、知らない? 本日付で退団してもらったんだよ。君達以外、全員」
明るく言われたことに、最初は理解が
(……退団した? まだ二ヶ月で、私達以外が全員……?)
クビを切ったのだ。ここにいる十人程度をのぞいて、
「ど、どうして、いきなりそんな予告もなく!」
「だっていらないものはいらないよ、何年たってもどれだけ努力しても。あれ、もっと喜ぶかと思ったのに。君たちは選ばれし演奏家だ! だからそうあり続けてね」
そこにあるのは、当たり前に結果だけを要求する、
「まあ〝バイオリンの妖精〟がコンマスなのは上の
思わず横を見ると、苦笑い気味に目礼された。
そういえば、第一バイオリンはコンサートマスターであるミレアにつられて出だしをはずさなかった。指揮者に対して楽団員の代表となるコンサートマスターの合図や弓づかいは、オーケストラの演奏全体に反映される。つまり、ミレアは最初から無視されていた。
みんな、この人を見て演奏したのだ。
(バイオリンの妖精)
背負いたくて背負ったものではない。けれど、立て続けにコンサートマスターに選ばれ、定期演奏会に出演するミレアに、周囲はそんな言い訳を許さない。ミレアが
「でもねえ、僕は君がどう化けるか期待してる」
(もし、その期待に
さっきの演奏はお世辞にも
一度考え出すと止まらなかった。
自分が立っている場所が、ぐらぐら
「まあ駄目ならつぶれればいいよ。そういう世界だから、ここは」
「わ、私……は」
「
不気味な
演奏会まであと一週間。ミレアは
その日の練習が終わったのは、とっぷり日が暮れてからだった。
昼食をとる間もなく続いた練習にもかかわらず、晴れやかな顔で先輩団員は片付けを終え、帰っていく。ガーナーも
「
ぽんとミレアの
必然的に練習部屋には、ミレアやレベッカを
「……仲いいんだな、第二楽団て」
何を思い出したのか、ぐすっと
(分かってる……今日の演奏はひどかった)
一人で弾くのとは勝手が
けれど、一番怖かったのは音の暴力だ。
無視されるだけならまだいい。ミレアの音楽をつぶしにかかるあの圧迫感。お前の音など必要ないと世界からはじき出し、よってたかって
気を
悪くなっていないだろうか。そんなことを考えて、バスケットを開ける。
「それ、アルベルト・フォン・バイエルンにもらったやつ?」
ミレアと同じく片付けを終えたレベッカが
それを聞いて、ばらばらだった周囲が集まってきた。
「アルベルト・フォン・バイエルンって第一楽団の──ああ、
「っていうかすごい量だな、こんなに食べるのか? デザートまであるぞ」
「でも食べたらご
誰かの一言に、
ぎょっとしてミレアはバスケットを
「ちょ、ちょっと待って。これは私ので」
「いや、でもいっこくらい!」
「何か不思議な力に目覚めるとかあるかもしんねーじゃん!」
「ないから! ただのサンドイッチで──あれ」
バスケットのすみに二つ折りのカードがつっこまれている。皆もミレアが取り出したものに気づいて静かになった。レベッカが
「これが愛のメッセージとかだったら私、暴れるかも」
「そ、そんなわけないでしょ!」
否定しつつも、
『まずはできることをやれ。ヘタクソなんだから、
(なんっ)
ここでそうくるか。意地の悪い笑みが脳内に
『
「やったメシにありつけるぞ!」
「すげえ……俺ら置いてったマエストロ達とは
「……うーん……それも
高い所は危ないから、落ちないように、まずはできることから。
まだ天才ではない、君でいい。
そう聞こえてしまった。でも、ヘタクソとかサルとか、言い方がひどい。
「……何よ、全部食べてやるんだから!」
「ちょっと待てこっちにもよこせ、昼飯食べてないんだから!」
次々手が
みんなおなかがすいているのだ。思いきり大きく口を開けて、
しっかり
おいしいともまずいとも声が上がらない。実際、ミレアは味が分からなかった。多分、みんなそうだ。横で食べているレベッカの
食べているのは
「……どうすればいいかな」
誰かが呟いた。
このままでは終わらない。大事なのは今、できること。それも、一週間以内に。
(私はまだ天才じゃない。天才に、ならなくていい)
オーケストラをいなしてしまうような、フェリクス・ルターのように
「──決めた。私、自分をコンマスだなんて思わない」
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