第二楽曲 妖精のためのパヴァーヌ パート1
「終わっ……た……終わったわ、レベッカ。待たせてごめんなさい……」
「いいよ、お
「婚約者じゃない! 婚約者という名前の
奴隷制度反対、と唸りながらミレアは先ほどまで
(どうして私が! あいつの指示を全部楽譜に書きこまなきゃならないのっ……!)
バイオリンだけならまだしも全楽器だ。
「でもそれ、いい勉強だと思うけど。それに第一楽団の練習に出入りできるのはラッキーじゃない? プラチナの人達、
「あれは同情してるっていうのよ……無理しなくてもいいんだぞって……」
「まあね。何か言いつけられてもすっぽかせばいいんだし」
「でもやらないと、指示の意味が分からないんだなって
実はその通りだったが、そうは言えずに調べているせいで余計に時間がかかっている。
「バイオリン
「ついに空想と会話し出したか。でも終わったなら、練習行こうよ」
「そうよね!」
ぱっと顔を明るくしたミレアは体を起こす。真ん中で左右
「ごめんね、練習室の予約、
「いいよ、それくらい。ミレアの音は
「何か一緒に弾く? そうだ、この間フェリクス様がコントラバスと一緒に弾いてた曲」
ぴた、とレベッカの足が止まった。二歩先に進んでから、ミレアは立ち止まる。
「……どうしたの?」
「べ、別に。なんでも、ないから……」
いつもの冷たい美少女から一転した
「……え? レベッカって、フェリクス様と何か関係がふぐっ」
「
口を手でふさがれたまま、レベッカの必死な表情に押されてこくこくと頷く。
(近づかなければ平気って……あれ、じゃあいつも遠くから見てたのって、
アルベルトに
「……何、その顔」
「え? ううん、なんでもないよ、なんでも。──フェリクス様ってかっこいいよね」
「どこがよっあんな最低男!」
「あ、知り合いなんだ」
レベッカが返事につまる。これも
「そっかあ。いつから知り合い?」
「そのにまにま笑いやめて、でないとアルベルト・フォン・バイエルンに
「犯罪者
「言い得て
げっとミレアは声に出して
「婚約者にその態度はなんとかならないのか? 今夜は君のご両親と食事会なんだが」
「そ、そっちこそ、こ、こ、婚約者にもっと
「なんだか婚約しててもしてなくても会話が変わらないね、ミレアさん」
ひょいとアルベルトの背後からフェリクスが
「これから練習?」
「あ、はい……」
「そう。
それきり、フェリクスは何も言わない。
(そういえばフェリクス様がレベッカに話しかけるの、見たことないような……)
今なんてあからさまにレベッカはフェリクスに反応して逃げ出したのに、まるでそんなものは見なかったかのように
その横でアルベルトがぼそりと
「
「ひどいじゃないか、アルベルト。親友という名前の類友なのに」
「誰が親友で類友だ。お前と違って僕は
堂々と言い切るアルベルトにミレアは考える。
「言いたい放題の王様だから確かに裏表はなさそうだけど……」
「ミレアさん、
「えっ大事なものなんてあるの?」
目を丸くして
「君は本当に
「なっ……わ、悪かったわね! あ、分かった音楽! 音楽ね!? 当たりでしょ?」
「当たりだ当たり、だからもう
「だ、だってそこは普通、婚約者の自分がくるところなのに……っ」
(そ、そうだ。噓でも私じゃないとまずいじゃない、私の馬鹿!)
可愛くない、馬鹿──というアルベルトの言葉は的確だ。
熱い頰に両手を当てて、ミレアはアルベルトに向き直る。
「そ、そうよね、私よね! ……か、可愛くないこと言って、ごめんなさい……」
小さく
「だから、もう黙ってろと──フェリクス、いい加減笑うな!」
「い、いや……ミレアさん、今のは可愛いから
「余計なことも言うな!」
「おいあっちの
ばっとミレアは顔を上げた。廊下の向こうが
「いきなりの
「でもマエストロ・ガーナーが指揮とるって」
通り過ぎ様の情報に、意識があっという間に持っていかれる。
(マエストロが
何か心境の変化があったのか。だがその疑問を
「コンマスは、ミレア・シェルツだって!」
「やっぱり〝バイオリンの
何度かまばたきした後からじわじわと、興奮が押し寄せてくる。
マエストロ・ガーナーが指揮をするなら、集客も注目もこの間の定期演奏会と
(いい演奏をして名前が
「ど、どうしようっ……ま、まずは
「外の一番大きな掲示板に
「そ、そうなんですね。とにかくいってきます、私!」
「──あの死に
低い呟きに、
「うぬぼれるなよ。〝バイオリンの妖精〟だから選ばれたんだ。それ以上だと
「わ、分かってるわよ。実力じゃないって言いたいんでしょ、でも」
「分かってない。──いいか、君はまだ天才にならなくていい」
どういう意味だろう。きょとんとしたミレアに、アルベルトは背中を向けた。
「今夜の食事会。
「……う、うん」
後ろ
「じゃあミレアはあのマエストロ・ガーナーの指揮でバイオリンを
シェルツ
横長のソファにアルベルトと少し
「そうなの! しかもコンマスに選ばれちゃった」
「来週の定期演奏会なら私達も見に行けるわよね、あなた」
「もちろん。ミレアの晴れ舞台だ、見に行かないと」
「あっ、でも無理しちゃだめよ、お母さま」
「大丈夫よ。今はお医者様からも動いた方がいいって言われてるもの。でも今からチケットってとれるのかしら?」
「大丈夫ですよ。演奏者は
アルベルトがごく自然に話に加わる。ダニエルが頷いた。
「なら安心だ。でもミレアはこっちにあんまり顔を出せないのかな?」
「
「いいんだ。私達はミレアの演奏がとても好きだからね。頑張るんだよ」
優しい
「もちろん! 成功させて、聖夜の天使に会うんだもの!」
ダニエル達の
こほん、とまずダニエルが
「あー……その、アルベルト君。気を悪くしないでもらえないか。ミレアは……」
「大丈夫ですよ。恩人だと
カップをソーサーに置いて、アルベルトが
「もちろん、他の男性に会いたいと熱心に主張されていい気はしませんが、ここで
それを聞いて、
(そ、そうか。婚約者には、
アルベルトはミレアにバイオリンをやめろと言わないし、
(あれ、ひょっとして私すごく助かってる!? なのにちゃんとできてなくない!?)
そもそもダニエル達が婚約を信じたのも、ひとえにアルベルトのみの功績だ。
自分は放心していただけで、なんの役にも立っていない。
「──ミレアはいい人を見つけたわね」
「そ、そうなの!」
功を
「指揮してる時だけはかっこいいし、いい人なの! とにかくいい人だから!」
何故かダニエル達は再度固まった後で、気まずそうに目をそらした。あれっと思ったところに、アルベルトの
「……ミレア。ご両親の前だから」
キャサリンがおほほとわざとらしい声を上げた後、場を取りなすようにケーキを持ってくると立ち上がった。ダニエルもそれを手伝うためについていく。
二人きりになった応接間に、アルベルトの低い
「本当に馬鹿だな、君は。不自然すぎる。しかも指揮してる時だけはって、悪かったな」
「えっ、すごくほめたつもりなんだけど……何が駄目だった?」
「何もかも。いいから
「……でもそれじゃ、助けられっぱなしじゃない? 私だって役に立ちたい……」
アルベルトが無言で見返してきた。何よと
「なっ何!?」
「
「子供
「ふぅん、子供扱いしなくていい、ね。覚えておくよ」
笑いながらアルベルトは両手でむにむにミレアの頰を
「もう、やめてったら!」
「──ミレア、手伝ってちょうだい」
柔らかい声で呼ばれ、
アルベルトが無言で手を放し、ミレアは急いでキャサリンを手伝う。ダニエルが声を上げた。
「いやぁ、まだまだ子供だと思ってたミレアがなあ、
「あなた、声がひっくり返ってますよ」
キャサリンの
「でも本当に、お
「そうだ、また高い所に登ってバイオリンを弾いたりしてないだろうね、ミレア」
視線をさまよわせていたら、アルベルトがしらっと答えた。
「初めて会った時、お
「な、なんでバラすの!? いいでしょそんなこと言わなくて!」
「木から落ちてきたのを助けた僕には、ご両親に進言する権利があると思う」
「だからなんで余計なこと言うの!」
ミレア、と呼びかける養父達にぎくりとした。
「落ちたって……
「で、でも怪我はしてないから……」
「それはアルベルトさんが助けてくださったからでしょう? 本当にすみません」
キャサリンに謝罪されたアルベルトは、穏やかに首を横に振った。
「いえ、怪我がなくて幸いでした。ただ、彼女のことですからやめる気配がなくて」
「ミレア……」
「だ、だって」
「──ですから、落ちてきたら受け止められるように見てますよ、僕が」
さすがに
(実は
なんだかどきどきしてきたのはそのせいだ。ほうと
「アルベルトさんのことを聞いた時はびっくりしたけど……安心したわ」
「キャ、キャサリン。さっきまでアルベルト君のこと、
「だってあれだけ聖夜の天使に会いたいって言っていたミレアが
ぎくっとミレアは体を
「当然のご心配だと思います。ミレアさんは王都にきて二ヶ月程度ですし」
「でも、あなたなら安心してミレアを任せられます」
「こ、今度はいきなりアルベルト君を
「だってミレアを見ている目がとっても
アルベルトの
「私達の大事な
「えっ!? い、いや……で、でももう少し、時間をかけるべきじゃないかなぁ」
「家族が増えるって
少し目立つようになった腹部をなでて、キャサリンが優しく微笑む。
「この子もミレアに似て、バイオリンが上手だったら素敵だわ」
──似るわけがない。ミレアとは血のつながりも何もないのに。
反射的にそう考えてしまい、返事をし
「それにはまずバイオリンを好きにならないと。ただ僕は指揮者ですが、父は楽器も歌も音楽系
話運びのうまさに内心で感心した。ダニエルも目を細めてほっとしたように笑う。
「僕も祖父が演奏家だったらしいけど、てんでその才能は引き
「あら? でも確か、バイエルン公爵夫人は有名なバイオリニスト──」
そこまで言いかけて、はっとキャサリンは口を
びっくりしたミレアは、アルベルトに
「……あなたのお母さま、バイオリニストなの?」
「ミレア、よしなさい」
「いいですよ、気になさらないでください。もう顔も覚えてません。向こうだって覚えてないでしょう。
──知らないのか?
(……そういえば私、この人のこと、何も知らない。共犯者なのに)
血のつながりについての秘密も、知らず
だから、何もかも共有した気になっていたけれど、現実は
「それに僕には今、ミレアさんがいますから」
穏やかな
ダニエル達は
絶対にミレアを宮廷楽団の
「お父さまったら何を心配してるのかしら。そんなことあるわけないのに、ねえ」
出窓のカーテンをしめ、アルベルトに向き直る。
「朝までいじめ
「な、なんでそうなるの」
「さあね。──いいご両親じゃないか。うちのとは
言い捨てたアルベルトに、ミレアははっとする。
居住まいを正して、かといって言葉を選ぶなんて器用なことはできずに、直球で尋ねた。
「……その……あなたの、お母さまの話なんだけど」
「その内
「そ、それは駄目! 私はちゃんとあなたから聞きたいの、最初に」
アルベルトが
「……聞いても楽しくない話だと思うけど?」
「楽しいから聞くんじゃないの、必要だから聞いてるの! き、共犯者として知らないことが多いのは困るわ」
そこら辺の
「──母親の名前は、アリーゼ。
アリーゼ・ハインシュタッド。ミレアは
「
「バイオリニストには公爵夫人の
「……それだけ?」
そう尋ねたのは、横顔が
「……バイオリンを続けるために、何人もパトロン代わりの愛人を作ってたらしい。うちの父親もその一人で、僕は
「あ、あなたがバイエルン公爵の実の
「そう。バイエルン公爵家の醜聞、公然の秘密ってやつだ」
「……あの……確かなの?」
「僕が知るわけないだろう」
もっともな返しに言葉を選び直す。
「……あなたは、どっちだったらいいと思ってるの?」
アルベルトは何も答えなかった。その代わりに、口元を
「……子供の
「えっバイオリン弾けるの」
「ああ。でも
──誰も、僕の音なんか聞いてない。
不意に
(なんか……どこかで、聞いたような)
「バイオリンが
「マエストロ・ガーナーの? ど、どうだったの」
「
その一言と、かすかに
まさしく魔法だったのだろう。
「それで……指揮者を目指すことにした?」
「まあ、そんなところだ。ただしこれにもオチがある」
言葉をいったん切り、アルベルトは笑った。
見ている方が痛々しくなるような、そんな
「僕の本当の父親の最有力候補は、指揮者だったそうだ。これじゃあもう、色々
「──そ、そういう考え方はよくないわ!」
馬車の中で立ち上がったミレアに、アルベルトが
「危ないから座れ」
「わ、私の不器用なところはお父さま譲りなの。お母さまは
「……どうやったらそんなことになるんだ?」
「どうやってでもいいでしょ! でもお
「伯爵
「ほら、その人を小馬鹿にした顔! バイエルン
アルベルトがミレアを真正面から見上げた。
余計な
「心配しなくても、
「……」
「に、似ていないところをさがしたらあって当たり前よ、血がつながってても違う人間なんだから。ちゃんと似てるところをさがさなきゃ」
それが、シェルツ伯爵家に実の
たまに
「だ……だって、あなた、バイエルン公爵と親子でいたいんじゃないの?」
「──どうしてそう思う?」
「……本当の親子じゃなくていいと思ってるなら、あなたは
ぐいと
(え、え、え)
アルベルトの
「な、なにっ……」
「……ついうっかり手が出た」
「うっかり!? うっかりってなに」
「ミレア」
額に
「ありがとう」
その言葉の甘さに、耳まで真っ赤になるのが分かった。ぎゅうっと目をつぶる。
(あ、ありがとうって、言われた)
思いがけず
「……君は、おとなしくしてると
「!?」
かっと目を見開く。同時に逃げ出そうと、やみくもに手足を動かした。
「こら、暴れるな。危ないのが分からないのか?」
「だ、だって変なこと言うから! 別に可愛くなくていいの、私には聖夜の天使がいるし!」
「ふぅん、そうか」
両足を組み直して
「聖夜の天使ね」
「な……何よ」
「別に」
それきり顔をそむけられ、ひとまず向かいの席に座り直す。
(……
養父達には
気まずい
「あの──きゃっ」
がたんと大きく馬車が揺れ、
「どうした」
「そ、それが、
「シェルツ伯爵家の
「アルベルト・フォン・バイエルンは
遠くから聞こえた声に、アルベルトが舌打ちした。
「記者連中か。
「で、ですが宮廷楽団の寮までお送りするようにと、
「ぐずぐずしてると囲まれる。大事なお
御者の判断は速かった。少々乱雑に方向
数人の記者らしき格好をした人間がまだ馬車を追いかけようとしている。その後ろにも、大勢の
「ど、どうしてあんなにたくさん記者がきてるの?」
「あの馬鹿師匠のせいだ」
「
「
「そ、それはいくらなんでも」
「自覚しろ。売り出されるっていうのはこういうことだ」
返事ができなかった。ミレアは座椅子にすとんと
(私は、ただ、聖夜の天使に会いたかっただけで……バイオリンを
思いもよらない何かに飲まれかけている。まだ遠くで、誰かが何かを
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