第二楽曲 妖精のためのパヴァーヌ パート1

 がくへの最後の書きこみを終えて、ばたりとミレアはりようの机にした。

「終わっ……た……終わったわ、レベッカ。待たせてごめんなさい……」

「いいよ、おつかれ様。婚約者は大変だね」

「婚約者じゃない! 婚約者という名前のれいよ、どう考えたって!」

 奴隷制度反対、と唸りながらミレアは先ほどまでかくとうしていた楽譜を見る。もちろん自分のではない。第一楽団が演奏する曲の楽譜だ。

(どうして私が! あいつの指示を全部楽譜に書きこまなきゃならないのっ……!)

 バイオリンだけならまだしも全楽器だ。いやがらせとしか思えない。

「でもそれ、いい勉強だと思うけど。それに第一楽団の練習に出入りできるのはラッキーじゃない? プラチナの人達、ろうですれちがうとミレアにあめとかくれるじゃない」

「あれは同情してるっていうのよ……無理しなくてもいいんだぞって……」

「まあね。何か言いつけられてもすっぽかせばいいんだし」

「でもやらないと、指示の意味が分からないんだなってあわれむし!」

 実はその通りだったが、そうは言えずに調べているせいで余計に時間がかかっている。

「バイオリンく時間けずってまで、楽譜と教本とにらめっこ……じっと本を読むとか苦手なのに……あぁっもうあいつの声が聞こえる! じゃじゃ馬で悪かったわね!」

「ついに空想と会話し出したか。でも終わったなら、練習行こうよ」

「そうよね!」

 ぱっと顔を明るくしたミレアは体を起こす。真ん中で左右たいしようになっている相部屋の向こうで、レベッカはもうコントラバスのケースを持って準備していた。

 あわててミレアも自分のバイオリンを用意し、二人で寮の部屋を出る。

「ごめんね、練習室の予約、いつしよにとってもらっちゃって」

「いいよ、それくらい。ミレアの音はじやにならないし」

「何か一緒に弾く? そうだ、この間フェリクス様がコントラバスと一緒に弾いてた曲」

 ぴた、とレベッカの足が止まった。二歩先に進んでから、ミレアは立ち止まる。

「……どうしたの?」

「べ、別に。なんでも、ないから……」

 しりすぼみに否定しながら、目を横にそむけられた。そのほおがひかれたように赤い。

 いつもの冷たい美少女から一転したういういしい乙女おとめの姿に、首をひねる。

「……え? レベッカって、フェリクス様と何か関係がふぐっ」

せんさくしないで、今のは不意打ちだっただけで近づかなければ平気だから! 私だって余計な詮索しないでしょ、ミレアに!」

 口を手でふさがれたまま、レベッカの必死な表情に押されてこくこくと頷く。

(近づかなければ平気って……あれ、じゃあいつも遠くから見てたのって、ずかしくて近づけなかったからとか?)

 アルベルトにからまれている時フェリクスも一緒にいることが多かったが、レベッカは決して近寄ろうとしなかった。ただ冷めているだけだと思っていたのだが、まさか。

「……何、その顔」

「え? ううん、なんでもないよ、なんでも。──フェリクス様ってかっこいいよね」

「どこがよっあんな最低男!」

「あ、知り合いなんだ」

 レベッカが返事につまる。これもめずらしい。

「そっかあ。いつから知り合い?」

「そのにまにま笑いやめて、でないとアルベルト・フォン・バイエルンにがらを引きわたす!」

「犯罪者あつかいはひどくない!?」

「言い得てみようじゃないか。暴れないよう首輪でもつけてやりたいね、その方が楽だ」

 げっとミレアは声に出してうめいた。その声を聞いたアルベルトがあきれる。

「婚約者にその態度はなんとかならないのか? 今夜は君のご両親と食事会なんだが」

「そ、そっちこそ、こ、こ、婚約者にもっとやさしくできないの!?」

「なんだか婚約しててもしてなくても会話が変わらないね、ミレアさん」

 ひょいとアルベルトの背後からフェリクスがとつぜん顔を出す。それを見たレベッカが、毛を逆立てたねこのようにこうちよくした後、目にもとまらぬ速さでげ出した。

 ぼうぜんとするミレアに、フェリクスはにこにこと話しかける。

「これから練習?」

「あ、はい……」

「そう。がんって」

 それきり、フェリクスは何も言わない。

(そういえばフェリクス様がレベッカに話しかけるの、見たことないような……)

 今なんてあからさまにレベッカはフェリクスに反応して逃げ出したのに、まるでそんなものは見なかったかのようにっている。つう、一言くらい何かあるんじゃないだろうかと思ってフェリクスを見上げると、にっこりとしたいつものみが返ってきた。

 その横でアルベルトがぼそりとつぶやく。

可哀かわいそうだな、あの子は……お前みたいな腹黒に目をつけられて」

「ひどいじゃないか、アルベルト。親友という名前の類友なのに」

「誰が親友で類友だ。お前と違って僕はうそかくし事もたくらみもない、善良な人間だ」

 堂々と言い切るアルベルトにミレアは考える。

「言いたい放題の王様だから確かに裏表はなさそうだけど……」

「ミレアさん、だまされちゃだよ。こいつは僕より噓つきで、隠し事も企みも上手だ。特に大事なものに関しては」

「えっ大事なものなんてあるの?」

 目を丸くしてたずねたミレアに、アルベルトが冷静に返した。

「君は本当に可愛かわいくないな」

「なっ……わ、悪かったわね! あ、分かった音楽! 音楽ね!? 当たりでしょ?」

「当たりだ当たり、だからもうだまっててくれ。こんやく者が鹿だと恥ずかしいのは僕だ。それとフェリクス、お前は笑いすぎだ」

「だ、だってそこは普通、婚約者の自分がくるところなのに……っ」

 かたふるわせたフェリクスの呟きに、かあっと頰が赤くなった。

(そ、そうだ。噓でも私じゃないとまずいじゃない、私の馬鹿!)

 可愛くない、馬鹿──というアルベルトの言葉は的確だ。

 熱い頰に両手を当てて、ミレアはアルベルトに向き直る。

「そ、そうよね、私よね! ……か、可愛くないこと言って、ごめんなさい……」

 小さくなおに謝ると、みようちんもくの後にアルベルトがふいと顔を横にそむけた。

「だから、もう黙ってろと──フェリクス、いい加減笑うな!」

「い、いや……ミレアさん、今のは可愛いからだいじよう。アルベルトは照れてるだけだよ、こう見えてこいつ、不意打ちに弱いんだよね」

「余計なことも言うな!」

「おいあっちのけいばんだってよ! 第二楽団の次の定期演奏会のメンバー発表!」

 ばっとミレアは顔を上げた。廊下の向こうがさわがしくなり、ばたばたと足音がひびく。

「いきなりのへんこうだな、あと十日くらいだろ!?」

「でもマエストロ・ガーナーが指揮とるって」

 通り過ぎ様の情報に、意識があっという間に持っていかれる。

(マエストロがたいに立つの!? どうしていきなり)

 何か心境の変化があったのか。だがその疑問をき飛ばす声が届いた。

「コンマスは、ミレア・シェルツだって!」

「やっぱり〝バイオリンのようせい〟かよ。ほかは!?」

 何度かまばたきした後からじわじわと、興奮が押し寄せてくる。

 マエストロ・ガーナーが指揮をするなら、集客も注目もこの間の定期演奏会とだんちがいになるだろう。記者も集まるだろうし、号外ではなくきちんとした記事が新聞になる。国内はもちろん、他国にも評判が広がる可能性は高い。

(いい演奏をして名前がれば──聖夜の天使が気づいてくれるかも!)

「ど、どうしようっ……ま、まずはかくにん。確認しないと。掲示板ってどこのかな」

「外の一番大きな掲示板にり出してると思うよ。マエストロは目立つの好きだから」

「そ、そうなんですね。とにかくいってきます、私!」

「──あの死にぞこないのクソジジイ、よくも」

 低い呟きに、み出した足を止める。アルベルトがけんのんな目で、どくいた。

「うぬぼれるなよ。〝バイオリンの妖精〟だから選ばれたんだ。それ以上だとかんちがいするな」

「わ、分かってるわよ。実力じゃないって言いたいんでしょ、でも」

「分かってない。──いいか、君はまだ天才にならなくていい」

 どういう意味だろう。きょとんとしたミレアに、アルベルトは背中を向けた。

「今夜の食事会。おくれるなよ」

「……う、うん」

 まどっていると、フェリクスが目線で行くよう、優しくうながしてくれる。

 後ろがみを引かれつつ、ミレアは掲示板に向けて走った。





「じゃあミレアはあのマエストロ・ガーナーの指揮でバイオリンをくのね。すごいわ」

 シェルツはくしやくていの応接間で食後の紅茶を自ら用意した養母──キャサリン・シェルツ伯爵夫人がうれしそうに微笑ほほえむ。その横にいる養父ダニエル・シェルツ伯爵もほこらしげだ。

 横長のソファにアルベルトと少しきよを置いて座ったミレアは、うなずいた。

「そうなの! しかもコンマスに選ばれちゃった」

「来週の定期演奏会なら私達も見に行けるわよね、あなた」

「もちろん。ミレアの晴れ舞台だ、見に行かないと」

「あっ、でも無理しちゃだめよ、お母さま」

「大丈夫よ。今はお医者様からも動いた方がいいって言われてるもの。でも今からチケットってとれるのかしら?」

「大丈夫ですよ。演奏者はゆうずうがきくので、席は用意できるはずです」

 アルベルトがごく自然に話に加わる。ダニエルが頷いた。

「なら安心だ。でもミレアはこっちにあんまり顔を出せないのかな?」

明日あしたから練習が始まっちゃうから……ごめんなさい。せつかく、近くにいるのに」

「いいんだ。私達はミレアの演奏がとても好きだからね。頑張るんだよ」

 優しいはげましを受けて、大きく頷く。

「もちろん! 成功させて、聖夜の天使に会うんだもの!」

 ダニエル達のやわらかい笑顔がそのまま固まった。きょとんとしたミレアの横で、存在を主張するようにアルベルトが紅茶をすする音が聞こえる。

 こほん、とまずダニエルがせきばらいをした。

「あー……その、アルベルト君。気を悪くしないでもらえないか。ミレアは……」

「大丈夫ですよ。恩人だとうかがってます」

 カップをソーサーに置いて、アルベルトがおだやかに微笑み返した。

「もちろん、他の男性に会いたいと熱心に主張されていい気はしませんが、ここでおこるようなうつわの小さな男になりたくないですから」

 それを聞いて、何故なぜダニエル達が固まったのかやっと理解できた。

(そ、そうか。婚約者には、おもしろくない話題だよね……)

 アルベルトはミレアにバイオリンをやめろと言わないし、しゆうぶんねんして聖夜の天使さがしをじやしたりもしない。養親達の前ではきちんと好青年として振る舞ってくれるから、その点も安心だ。あのままお見合いしていたらこうはならなかった。そこまで考えて、がくぜんとした。

(あれ、ひょっとして私すごく助かってる!? なのにちゃんとできてなくない!?)

 そもそもダニエル達が婚約を信じたのも、ひとえにアルベルトのみの功績だ。

 自分は放心していただけで、なんの役にも立っていない。

「──ミレアはいい人を見つけたわね」

「そ、そうなの!」

 功をあせったミレアは大急ぎでこうていして、横のアルベルトにきついた。横っ腹にとつげきされたアルベルトがうめいて体勢をくずすがかまわず、養父達にきっぱりと宣言する。

「指揮してる時だけはかっこいいし、いい人なの! とにかくいい人だから!」

 何故かダニエル達は再度固まった後で、気まずそうに目をそらした。あれっと思ったところに、アルベルトのめ息が聞こえる。

「……ミレア。ご両親の前だから」

 はなれろ、と冷ややかな目で示されて、おずおずそれに従う。

 キャサリンがおほほとわざとらしい声を上げた後、場を取りなすようにケーキを持ってくると立ち上がった。ダニエルもそれを手伝うためについていく。

 二人きりになった応接間に、アルベルトの低いとうが響いた。

「本当に馬鹿だな、君は。不自然すぎる。しかも指揮してる時だけはって、悪かったな」

「えっ、すごくほめたつもりなんだけど……何が駄目だった?」

「何もかも。いいからつうにしててくれ、僕がなんとかする。できあい系で押してやるから」

「……でもそれじゃ、助けられっぱなしじゃない? 私だって役に立ちたい……」

 アルベルトが無言で見返してきた。何よとつぶやくと、むにっといきなりほおをつねられる。

「なっ何!?」

いろこいうとい子供のくせに、生意気言うからだ」

「子供あつかいしないで! 私、もう十六歳なんだから」

「ふぅん、子供扱いしなくていい、ね。覚えておくよ」

 笑いながらアルベルトは両手でむにむにミレアの頰をはさんで遊んでくる。

「もう、やめてったら!」

「──ミレア、手伝ってちょうだい」

 柔らかい声で呼ばれ、り向く。見ると、やたら嬉しそうな顔をしたキャサリンと、みように気まずそうな顔をしたダニエルがもどってきていた。

 アルベルトが無言で手を放し、ミレアは急いでキャサリンを手伝う。ダニエルが声を上げた。

「いやぁ、まだまだ子供だと思ってたミレアがなあ、こんやくか」

「あなた、声がひっくり返ってますよ」

 キャサリンのてきにダニエルは無言で新しい紅茶をすする。ケーキの皿を全員にはいぜんし終えたミレアは、首をかしげながら無言のアルベルトの横に座り直した。

「でも本当に、おてんだったミレアが婚約なんて……小さいころは聖夜の天使に会えるかもって空を飛ぼうとしたのが、なつかしくなっちゃうわ」

「そうだ、また高い所に登ってバイオリンを弾いたりしてないだろうね、ミレア」

 視線をさまよわせていたら、アルベルトがしらっと答えた。


「初めて会った時、おじようさんは木に登ってバイオリンを弾いていましたよ」

「な、なんでバラすの!? いいでしょそんなこと言わなくて!」

「木から落ちてきたのを助けた僕には、ご両親に進言する権利があると思う」

「だからなんで余計なこと言うの!」

 ミレア、と呼びかける養父達にぎくりとした。

「落ちたって……でもしたらどうするんだっていつも言ってるだろう」

「で、でも怪我はしてないから……」

「それはアルベルトさんが助けてくださったからでしょう? 本当にすみません」

 キャサリンに謝罪されたアルベルトは、穏やかに首を横に振った。

「いえ、怪我がなくて幸いでした。ただ、彼女のことですからやめる気配がなくて」

「ミレア……」

「だ、だって」

「──ですから、落ちてきたら受け止められるように見てますよ、僕が」

 さすがににぶいミレアでも分かった。今のは殺し文句だ。

(実はかなんかじゃないの、この人……!)

 なんだかどきどきしてきたのはそのせいだ。ほうとたんそくし、キャサリンが呟く。

「アルベルトさんのことを聞いた時はびっくりしたけど……安心したわ」

「キャ、キャサリン。さっきまでアルベルト君のこと、こうしやく令息だからって簡単には許さないって言ってたじゃないか。ミレアを幸せにできる男じゃないとだって」

「だってあれだけ聖夜の天使に会いたいって言っていたミレアがとつぜん婚約なんて、明らかにあやしいでしょう? だまされてるか私達に心配かけまいとうそをついてるんじゃないかと思って」

 ぎくっとミレアは体をふるわせたが、横のアルベルトはすずしい顔で応じた。

「当然のご心配だと思います。ミレアさんは王都にきて二ヶ月程度ですし」

「でも、あなたなら安心してミレアを任せられます」

「こ、今度はいきなりアルベルト君をしんらいしすぎじゃないのかなぁ、キャサリン」

「だってミレアを見ている目がとってもやさしいもの」

 アルベルトのあい笑いがいつしゆん消えた気がした。

 いつくしみのしようを絶やさないまま、キャサリンがり返す。

「私達の大事なむすめです。よろしくお願いします。ね、あなた」

「えっ!? い、いや……で、でももう少し、時間をかけるべきじゃないかなぁ」

「家族が増えるっててきね」

 少し目立つようになった腹部をなでて、キャサリンが優しく微笑む。

「この子もミレアに似て、バイオリンが上手だったら素敵だわ」

 ──似るわけがない。ミレアとは血のつながりも何もないのに。

 反射的にそう考えてしまい、返事をしそこねた。ダニエルも一瞬だけ不安そうにミレアに目を向ける。そこへおだやかにアルベルトが応じた。

「それにはまずバイオリンを好きにならないと。ただ僕は指揮者ですが、父は楽器も歌も音楽系ぜんぱんが苦手ですよ。きゆうてい楽団の運営は上手うまいですけどね」

 話運びのうまさに内心で感心した。ダニエルも目を細めてほっとしたように笑う。

「僕も祖父が演奏家だったらしいけど、てんでその才能は引きがなかったなぁ」

「あら? でも確か、バイエルン公爵夫人は有名なバイオリニスト──」

 そこまで言いかけて、はっとキャサリンは口をつぐんだ。

 びっくりしたミレアは、アルベルトにたずねてしまう。

「……あなたのお母さま、バイオリニストなの?」

「ミレア、よしなさい」

「いいですよ、気になさらないでください。もう顔も覚えてません。向こうだって覚えてないでしょう。こんしたのだって十年も前の話ですし」

 たんたんとした答えから感情はいつさい読めない。ただ、思い出す。

 ──知らないのか?

(……そういえば私、この人のこと、何も知らない。共犯者なのに)

 血のつながりについての秘密も、知らずかかえていた不安も話してしまった。

 だから、何もかも共有した気になっていたけれど、現実はちがう。

「それに僕には今、ミレアさんがいますから」

 穏やかなめくくりの言葉は、家族などいないと言っているように聞こえた。





 ダニエル達はまるよう言ってくれたが、ミレアは明日の練習を理由に断った。しかしダニエルが必死でアルベルトといつしよの帰宅を引き止めキャサリンとめたため、シェルツはくしやくていを出たのはおそい時間になってしまった。

 絶対にミレアを宮廷楽団のりように送り届けるように、というダニエルの厳命をうけて馬車が走り出す。アルベルトと向かい合わせに座って、まだ心配そうにこちらを見ているダニエルに小さな出窓から手を振った。

「お父さまったら何を心配してるのかしら。そんなことあるわけないのに、ねえ」

 出窓のカーテンをしめ、アルベルトに向き直る。たんこおるようなまなしを向けられた。

「朝までいじめいてやりたくなるな」

「な、なんでそうなるの」

「さあね。──いいご両親じゃないか。うちのとはおおちがいだ」

 言い捨てたアルベルトに、ミレアははっとする。

 居住まいを正して、かといって言葉を選ぶなんて器用なことはできずに、直球で尋ねた。

「……その……あなたの、お母さまの話なんだけど」

「その内いやでも耳に入ってくる。それかていぞくなゴシップ紙でも買えばいい」

「そ、それは駄目! 私はちゃんとあなたから聞きたいの、最初に」

 アルベルトがめんどうそうな顔で足を組み直した。

「……聞いても楽しくない話だと思うけど?」

「楽しいから聞くんじゃないの、必要だから聞いてるの! き、共犯者として知らないことが多いのは困るわ」

 そこら辺のしゆうぶんを楽しむ連中と一緒にされたくない。

 にらむと、アルベルトはふいと横を向いて、口を開いた。

「──母親の名前は、アリーゼ。きゆうせいはハインシュタッド」

 アリーゼ・ハインシュタッド。ミレアはおどろきのままつぶやいた。

げんえきの、世界的バイオリニストじゃない……!」

「バイオリニストには公爵夫人のかたきがじやだと、出て行った。自由ほんぽうで離婚前からそもそも家にいなかったけどね。離婚が成立してみな、ほっとしたそうだ」

「……それだけ?」

 そう尋ねたのは、横顔がさびしそうに見えたからだ。間をおいて、アルベルトが続ける。

「……バイオリンを続けるために、何人もパトロン代わりの愛人を作ってたらしい。うちの父親もその一人で、僕はたくらんされたんじゃないかってもっぱらのうわさだ」

「あ、あなたがバイエルン公爵の実の息子むすこじゃないってこと!?」

 ぎようてんしたミレアに、アルベルトは皮肉っぽく笑った。

「そう。バイエルン公爵家の醜聞、公然の秘密ってやつだ」

「……あの……確かなの?」

「僕が知るわけないだろう」

 もっともな返しに言葉を選び直す。

「……あなたは、どっちだったらいいと思ってるの?」

 アルベルトは何も答えなかった。その代わりに、口元をゆがめた。

「……子供のころ、バイオリンをいてた。母親を真似まねて」

「えっバイオリン弾けるの」

「ああ。でもいやがさしてた。母親ゆずりの才能だ神童だとめられればバイエルン公爵家子息としての素行を不安がられ、コンクールで優勝すれば公爵家のこう。母親は家によりつかず、周囲は裏で僕の本当の父親さがしをやっておもしろがる。父親は当然、いい顔をしない。だれも僕の演奏なんか聞いちゃいなかった」

 ──誰も、僕の音なんか聞いてない。

 不意におくの底からまつのようにはじけた言葉に、ミレアはまばたいた。

(なんか……どこかで、聞いたような)

「バイオリンがきらいだったわけじゃない。でもしがらみが多すぎた。あの鹿しように会ったのはその頃だ。音楽を嫌いになる前に、バイオリンをやめろと言われた。音楽っていうのは、自分の指揮する演奏だとか言われて、演奏会を聞きに行ったんだ」

「マエストロ・ガーナーの? ど、どうだったの」

ほうみたいだった」

 その一言と、かすかにかんだアルベルトの表情だけで、どんなにらしい演奏だったのか伝わった。

 まさしく魔法だったのだろう。よどんだ少年の心を動かし、違う道を示す、音楽の魔法。

「それで……指揮者を目指すことにした?」

「まあ、そんなところだ。ただしこれにもオチがある」

 言葉をいったん切り、アルベルトは笑った。

 見ている方が痛々しくなるような、そんなみを。

「僕の本当の父親の最有力候補は、指揮者だったそうだ。これじゃあもう、色々なつとくするしかないだろう?」

「──そ、そういう考え方はよくないわ!」

 馬車の中で立ち上がったミレアに、アルベルトがまゆをひそめた。

「危ないから座れ」

「わ、私の不器用なところはお父さま譲りなの。お母さまはい物もおを焼くのも上手だけど、私は卵をばくはつさせたこともあるし」

「……どうやったらそんなことになるんだ?」

「どうやってでもいいでしょ! でもおてんなのはお母さまに似たのよ、お母さまも子供の頃は外で遊ぶのが大好きで、木に登ったりしたって。お父さまは読書とかの方が好きだから」

「伯爵れいじようとしてめいてきなところばかり似たな」

「ほら、その人を小馬鹿にした顔! バイエルンこうしやくにそっくりじゃない!」

 アルベルトがミレアを真正面から見上げた。

 余計なはじをさらしたことに顔が赤くなったが、目をそらさず続ける。

「心配しなくても、いやなところがそっくりな親子よ! えらそうだし、むかつくところも」

「……」

「に、似ていないところをさがしたらあって当たり前よ、血がつながってても違う人間なんだから。ちゃんと似てるところをさがさなきゃ」

 それが、シェルツ伯爵家に実のむすめとして引き取られたミレアの信条だ。

 たまにれる馬車の中で両足をん張って立つ姿を、アルベルトがじっと見つめてくる。急に落ち着かなくなって、横を向いた。

「だ……だって、あなた、バイエルン公爵と親子でいたいんじゃないの?」

「──どうしてそう思う?」

「……本当の親子じゃなくていいと思ってるなら、あなたはげるんじゃなく家とえんを切るでしょ。そうしたら音楽が続けられるんだもの。なのにまだ公爵家の息子でいるのはそういうことなんだと……思って……違うかもしれないけどっ──」

 ぐいとうでを引っ張られて、気づいたらきしめられていた。

(え、え、え)

 アルベルトのひざの上に横抱きにされる形になっている。一気にほおった。

「な、なにっ……」

「……ついうっかり手が出た」

「うっかり!? うっかりってなに」

「ミレア」

 額にいきがかかる位置で名前を呼ばれて、くすぐったさに身をすくめた。

「ありがとう」

 その言葉の甘さに、耳まで真っ赤になるのが分かった。ぎゅうっと目をつぶる。

(あ、ありがとうって、言われた)

 思いがけずうれしかった。でも心臓が飛び出そうで、じっとしていることしかできない。アルベルトの顔を見る勇気だって出ない。

「……君は、おとなしくしてると可愛かわいいな」

「!?」

 かっと目を見開く。同時に逃げ出そうと、やみくもに手足を動かした。

「こら、暴れるな。危ないのが分からないのか?」

「だ、だって変なこと言うから! 別に可愛くなくていいの、私には聖夜の天使がいるし!」

 どうようさとられまいととにかく理由をつけると、いきなりぱっと手を放された。支えをなくしたミレアは簡単にから落っこちてしまう。

「ふぅん、そうか」

 両足を組み直してほおづえいたアルベルトが、ミレアを冷たくななめ下に見下ろした。

「聖夜の天使ね」

「な……何よ」

「別に」

 それきり顔をそむけられ、ひとまず向かいの席に座り直す。

(……おこった? あ、こんやく者のフリしてるのにっていう?)

 養父達にはうつわの小さな男にはうんぬん言っていたが、聖夜の天使に入れこんでいる姿を見せれば婚約がそうだと疑われやすくなる。あのミレアを責めるような視線はそういう意味だ──と思うのだが、確かめるべきかいなか。

 気まずいちんもくの末、口を開いてみた。

「あの──きゃっ」

 がたんと大きく馬車が揺れ、まった。アルベルトが馬車の内側からぎよしや席につながる小窓を開き、御者にかくにんする。

「どうした」

「そ、それが、きゆうてい楽団の前に人が大勢……こちらに向かってきていて」

「シェルツ伯爵家のもんしようだ! バイオリンのようせいがいるんじゃないか!?」

「アルベルト・フォン・バイエルンはいつしよか」

 遠くから聞こえた声に、アルベルトが舌打ちした。

「記者連中か。かいして今から言う住所に向かってくれ」

「で、ですが宮廷楽団の寮までお送りするようにと、だん様が」

「ぐずぐずしてると囲まれる。大事なおじようさんをハイエナ共のエサにする方が問題だ」

 御者の判断は速かった。少々乱雑に方向てんかんした馬車が再走する。ミレアは顔を見せないよう注意しながら、出窓から外の様子を見た。

 数人の記者らしき格好をした人間がまだ馬車を追いかけようとしている。その後ろにも、大勢のひとかげが見えた。

「ど、どうしてあんなにたくさん記者がきてるの?」

「あの馬鹿師匠のせいだ」

ひさりにマエストロが指揮をするから? だからってなんでこんなおおさわぎに」

 まどうミレアに、アルベルトがまっすぐ目を向けた。

きよしようの二年振りのたい、コンマスはそのの婚約者で〝バイオリンの妖精〟。てい対決でもなんでもあおりたい放題だ。今、君が転んだだけでもやつらはネタにする」

「そ、それはいくらなんでも」

「自覚しろ。売り出されるっていうのはこういうことだ」

 返事ができなかった。ミレアは座椅子にすとんとこしを下ろす。

(私は、ただ、聖夜の天使に会いたかっただけで……バイオリンをきたかっただけで……)

 思いもよらない何かに飲まれかけている。まだ遠くで、誰かが何かをさけんでいた。




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