第一楽曲 嘘つきのエチュード パート2
ドイツェン王国の国民は音楽を好むが、
「き、昨日の今日でこれ……
「はいはい何回も聞いたよ、理由は」
「だってお父さまが! だまされて! い、いい人だって……
「公爵家の
「上流階級はこれだから!」
新聞に
見事な好青年に化けたアルベルトに、話を聞いた養父は見合いを断ると言ってくれた。そこまではいい。
さらにアルベルトは養母にも
その足でアルベルトは放心しているミレアを宮廷楽団へと連れ帰り、待ち構えていたバイエルン公爵家の使用人達にミレアとの婚約を公言した。
そして数時間後にはこの話題が宮廷楽団中を
(こんな
この展開にどう
まさか、本気でミレアと婚約するつもりなどないだろう。
「第一楽団って今日、
「そうだけど、第一楽団の練習って関係者以外立ち入り禁止だよ?」
「とにかく行ってくるわ。もし追い返そうとしたら婚約が
「そうなるとミレアもまた困るんじゃないの?」
冷静なレベッカの意見は聞かなかったことにして、意気ごんで部屋を出る。
寮から歌劇場まで一本道だが、
それもこれも全部アルベルトのせいだ。
遠く
アルベルトはすぐ見つかった。指揮台の上にのせた
(……練習終わるまでここで待ってようかな)
(第一楽団の定期演奏会は、団員でもチケットがとれないし。なんの曲かな。この間と一緒なら私も今練習してるけど、最後の方が違う感じがして、曲想もよく分かんないし)
舞台袖の暗幕に体を
「
「ミレアちゃあぁぁぁぁん」
背後から暗幕ごと
「ミレアちゃんだけはアルベルトになびかないって思ってたのに、婚約って何。僕悲しい!」
「は、はな、放してくださいマエストロ! どっから出てきたんですか!?」
「そりゃいつも追いかけ回してくれるミレアちゃんが僕に目もくれず行っちゃったら、追いかけるでしょ」
「追いかけなくていいです! 今はそれどころじゃ──」
ばたばた暴れていたミレアは、始まるはずの音楽がちっとも鳴り出さないことに気づく。
「──何をしてるんだ?」
「な、何ってその──マエストロ放してください、いい加減!」
「ええーミレアちゃん抱き
ガーナーの
うずくまるガーナーから慌ててミレアは
「
「練習の
「どうされたんです、マエストロ。第一楽団に顔を出されるなんて、
「あの
思いがけない注視を全員から浴びたミレアは、しどろもどろになってしまう。
「す、すみません。練習の邪魔をするつもりはなかったんですけど……」
「──あれがバイエルン指揮者の婚約者……苦労してるだろうな……」
「今も見ろよ、縮こまって。いつも
「第二楽団のバイオリニストだっけ? 新人か。うわー
「婚約者の演奏にまでキレて
てっきり
ぱちぱちまばたきを
「……いい度胸だ、全員」
「やべっ聞こえた、
「いつもみたいに指揮棒折って引かれて婚約
「聞こえるようにわざと言ってるだろう! 全員、今日は完璧に
「客席、移動しようかミレアちゃん」
ガーナーに
最前列、真ん中の特等席だ。アルベルトは指揮台に立ち、フェリクスも首席奏者の席に腰掛ける。どきどきした。落ち着いた様子で深く腰掛けたガーナーが、
「さて
「──最初から、最後まで通す。
アルベルトが指揮棒を持ち、ふうっと一息だけ
糸をぴんと張ったような静かな
音の
小鳥のさえずりを鳴らすフルート、風を
(え、え。これって、こんな曲だった?)
指揮棒がリズムを変えると世界が変わる。幸せな少女の時代はすぎ、
一つ一つ音を積み上げて天を目指すような静かな作業。そこへ異物が
神よ、我を救い
(すごい、バイオリンが泣いてる……)
そう思えるのは、雑音を完璧に処理しているからだ。恐ろしい速度で半音ずつ駆け上がっていく
だが悲痛な
──演奏が終わったのだ、と気づいたのは、数
「うーん、相変わらず完璧な演奏……ミレアちゃん?」
「──すごい!」
飛び上がるように立ち上がり、夢中で
「すごい、すごいわ──どうしよう! すごかった!」
「すごいしか言ってないぞ、君」
「だってすごかったんだもの! 信じられない、だってあなたがかっこよく見えた!」
「は?」
アルベルトが目を丸くする。ミレアは感じ入ったように呟いた。
「
「……。君は今、僕と婚約してる自覚がないな?」
「分かった、ずっと指揮してればいいんだわ。そしたらかっこいいって思える!」
頰を引きつらせたアルベルトの背後で、まずフェリクスが
続いて第一楽団の団員が全員笑い出し、
「こ、婚約者の過労死を
「
「弾くかい?」
笑いすぎて
ぱっと顔を輝かせたミレアに、アルベルトが顔をしかめた。
「──おい、
「いいじゃないか。コツをつかむ
「い、いいんですか?」
「何かアドバイスできるかもしれないしね。僕も聞いてみたいし」
それは
(あ、この感じ)
すっと意識が
天使と出会った、あの時みたいに。
「やめろと言ってるだろ。今はこっちの練習中──」
アルベルトが
(そう、ほら、こう。この曲はこう弾いたら、素敵)
弓も指も何かにとりつかれたように動く。恐ろしいほど的確に、
何も難しくない。だって今の自分の背中には、天使からもらった羽がある。
口元に
「──できた!」
弾き終わったミレアは顔を上げ、周囲を見てきょとんとした。皆が自分を見ている。
かあっと頰が赤くなった。第一楽団の前で自分の演奏に
「あ、あの、すみませんフェリクス様。私、調子にのって……」
急いでフェリクスにバイオリンを返したところで、
アルベルトだ。
「こい」
「え? でも」
「いいから。僕に話があってきたんだろう──全員、今日は解散でいい」
引っ張られて歩き出す。ちらりと見た第一楽団の
「……
後片付けを一足早く終えたフェリクスが、ガーナーのそばまでやってきた。客席に座ったままでガーナーは
「君もそう言うということは、
「この間の定期演奏会では、技術があるだけでしたよ。あんな音が出せるなんて」
「何かスイッチがあるのかもね。自在に入るようになったら怖いなあ、君みたいに」
ちらと見上げたガーナーの言葉に、フェリクスは素知らぬ顔で話を変えた。
「上は知っていて〝バイオリンの
「まっさかぁ。そんな耳のあるのはいないよ、金と
「……ですよね」
「でも馬鹿
ガーナーの予想にフェリクスが
「アルベルトが? 確かに気にかけてたみたいですが、僕と同じで定期演奏会くらいしか聞いたことがないはずですよ。知っていたとしたら一体どこで聞いたんです?」
「うーん。僕も何かある子だとは思ってたんだよね。でもまさかあそこまで
シャツをまくりあげ、腕を見せた後でガーナーは呟く。
「指揮者として久々にそそられたよ。乗りこなしたいな、あの子」
「まったく、アルベルトもあなたも
呆れた顔で
ミレア・シェルツは天才かもしれない。対して、彼は本物の天才だ。
「
「さあ。本当かもしれませんよ、
「ええーやだ、僕ミレアちゃんに乗りたい。でもアルベルトが
「それ以前に色々言い方を改めないと、まずミレアさんに
それもそうか、とガーナーは
(さて、どうするかな。新人は選別できたし)
新人が入団してきて二ヶ月。
(定期演奏会で〝バイオリンの妖精〟は絶対使えって上からのお達しを、どうしてくれようかと思ってたけど……)
考えて、笑う。自分で自分の発想に感動した。
「でもミレアちゃんの初めては僕がもらっちゃお。早い者勝ちって
「……アルベルトが聞いたら指揮台が飛んできますよ」
そうだよね、とガーナーはうんうん
ただ納得しただけで、
連れてこられたのは、歌劇場の控え室だった。アルベルトが使っているのだろう。机の上には
「まったく、この考えなしのじゃじゃ馬……!」
「な、何よ。確かに練習の
「おかげで僕は明日からあのろくでなし師匠のおもちゃだ!」
意味不明な
(そ、そんなに悪いことした?)
アルベルトの
「──あ、の……」
「……いや、悪い。八つ当たりだ。
「え?」
「すぐ分かる。……それで? 何か僕に話があってきたんだろう」
その間にアルベルトは
(──ど、どうして私が
「こ……っ婚約の! ことなんだけど! どういう
「助けてやったのにその言い草か」
「だっておかしいじゃない、あなた……その、私が
「どうしてそうなるんだ」
「えっだって……い、色々
「……。まあ、色々疑ってはいた。どこまで君の話が本当で、何が
見直されたらしいが少しも
「だからお
「私の
「そんな時間がなかった。結果的になんとかなったじゃないか、どこに問題が?」
「ありまくりよ! いつかばれるに決まってるじゃない、だってあなたと私が婚約よ!? フリでも無理! 絶対無理! あり得ない!」
全身で否定すると、アルベルトが目の前に立っていた。ただならぬ気配に目線を上げると、とても整った笑顔が返ってくる──その
「ずいぶんな言い方だな。そこまで女性に嫌われたのは初めてだ、
「だっ……だって、その。みんなを
やや視線を横にそらしつつ言うと、アルベルトがさらに一歩
(こっ怖い! 怒らせた!? でもこの人だって私じゃ
分からなくて
「騙すのはよくない、ね。そんなこと言えた義理か? 〝バイオリンの妖精〟」
「……な、何? いつも
「君、ずいぶん
「!!」
真正面からアルベルトを
その反応が答えになってしまうと気づいても、後の祭りだ。
「養護院出身、
アルベルトの言葉はまさにその通りだった。
養護院育ちの少女が、聖夜に天使からバイオリンを
化けの皮がはがれてはいけない。『
「……ど、どこから聞いたの?」
「むしろどうしてばれないと思った? 養女ならどこかに記録が残る。調べればすぐに」
「
「……どういうことだ?」
「全部話したら、
「そうだな。今のところ、言いふらす予定もないが」
予定があろうとなかろうと知られてしまっているのだ。ミレアは腹をくくった。
「本当のシェルツ伯爵令嬢は、
可愛い一人娘の遺体を、養母は
それから数年後、娘と同じ名前の少女の話が耳に入ってくる。それが養護院で聖夜の天使からもらったバイオリンを
「新聞にもあったでしょ。会うなり『私のミレア』って言われたわ。──お
「……要は身代わりか。死んだ娘の」
「そんな風に言わないで。二人とも、すごく私のことを大事にしてくれたわ。本当の娘みたいに──ううん、本当の娘としてちゃんと育ててくれた」
本物の令嬢が事故に巻きこまれた時、わずか三歳だったのも幸いした。引き取られた時八歳だったミレアは、顔の
真相を知っている数少ない人間も、伯爵夫人が元気になるならと喜んでミレアを受け入れ、本当の令嬢として
「名前も
「……それじゃ君が養女だと知ってる人間はわずかで、記録も簡単には出てこない、か」
こくりとミレアは頷いた。
ミレアが養女だと知っている人物は、ミレアの経歴をわざわざ
──後は父親。生きているか死んでいるのかも分からない、ミレアを捨ててどこかへ消えた、血のつながった本当の父親だ。
「だからあなたがどこから聞いたのか不思議なのよ。バイエルン公爵?」
「……まあ、そんなところだ。今のところ
その回答に、ほんの少しだけ力が
「人を守るための噓を使って〝バイオリンの
その皮肉は、アルベルトの父親へ向けられたものだろう。
だがミレアもそれに
「……お願い、黙ってて。私、
「バイオリンしかないの。帰る場所だって本当はどこにもない。本当の私を見てくれる人だって、聖夜の天使くらいしか……それも、どこにいるか分からないし」
ぽん、と頭の上に手を置かれた。そのまま子供にするように、
「分かってる。だから共犯者に選んだ」
「……共犯者?」
「──僕には夢があるんだ。自分の理想の楽団を作りたい」
まっすぐに返ってきた答えに、
「ま、まさかプラチナ演奏者を引き抜いていくつもりなの? そんなことしたら」
「分かってる、パガーニのように
子供っぽい言葉で
(でも、この人が作る楽団……)
今の宮廷楽団をこえる、
そこに自分は入れるだろうか。考えるだけでどきどきした。そんな危ない秘密をミレアに打ち明けてくれたことにも。
「それにはまだ、宮廷楽団で下地を作る必要がある。時間が必要なんだ。──だから騙してもらうぞ、君の養父達も僕の父親も。君は〝バイオリンの妖精〟だし、僕達の関係は必ず売りになる。世間も味方につく」
「……う、売りになるって……」
「いいか。生き残りたければ、
それはずっともやもやしたまま
でも考えることに不向きなミレアは、どうすればいいのかなんて、分からなかった。自分が生きる道を
「だが君が僕の共犯者になるなら、守ってやる」
「え」
「
不敵に笑う姿にうろたえてから、顔が赤くなった。
(守る? ──他の誰でもなくて、私が共犯者?)
選ばれたのは、バイオリンの妖精でもシェルツ伯爵令嬢でもない。ただバイオリンを弾きたいだけの自分──それは、聖夜の天使が見つけてくれたミレアだ。
「で、でも……私、男の人とお付き合いとかしたことがないし……」
「想定済みだ。僕の言う通りにすればいい。まずそこの
ぱちり、とミレアは
「あと昼食がまだだ、準備してこい。そのついでに図書室で資料を取ってきてもらおうか」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってそれって婚約者がすることなの!? 下僕扱いじゃない!」
「バラされたくないだろう?」
にっこりと笑われて、ミレアは固まった。
(こ、この男ッ……結局
「
「あ、あなただって、さっき内緒だって!」
「指揮者が自分の楽団を持ちたいと思うのは
「で、でも婚約が
「困るだろうな。でも君は、養女の件を世間に公表されたら終わる、色んな意味で」
失うものの大きさが違いすぎる。ううとミレアは
「お望みなら本気で
「絶対にお断りよ!」
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